「山が好きなんですよ」そして・・・。

もう6年になる。
12月23日。富士山での登山中、滑落されて亡くなってしまったあの方のことを思い出す。クリスマスイブの前日、世間が年末モードに沸き立つ休日だった。

亡くなる10日ほど前に、新潟県の上越初のライブを行った。そのときお会いしたばかりだった。ケータリング料理などいろいろお世話になった。
その前には、新潟市のディナーショーにも来てくださった。
印象に残る会話は「CDに入っているベートーベンのテンペスト、ご自身が弾いておられるのですか?私、あの曲大好きなんですよ」という言葉だったり、
会場内に、新潟の山々が映る動画を流した際に、「私、山が好きなんですよ。」と、嬉しそうに語られていたその姿を、今もくっきりと覚えている。

その言葉を聞いた10日後に、まさか富士山に・・とは。
耳も目もニュースも疑った。

人の死は本当に突然にやってくる。
今もこの日が来ると思い出す。

「今日だったな」朝から気になっており、午後の少し手が空きそうな時間帯に、その方が経営されていた会社で働く社員さんに電話をかけてみた。
久しぶりの声、元気そうに電話に出られた。一気になつかしさがこみ上げる。
「ご無沙汰しています。お元気ですか?今日・・ですよね」
「よく覚えていてくださいました~」
懐かしさいっぱいに少しお話をする。
電話を切った後、その方から亡くなる直前にいただいた1枚のはがきのことを
思い出した。
「長崎のお菓子、みんなで美味しくいただきます。これからも、上越を宜しくお願いいたします。」

そう、その方は自身の会社のことだけでなく、地域の発展のために生きた人だった。そんな素晴らしい人が・・であった。

その後、富士山といえば、その方を思い出す。新幹線で通るたびに、浮かんでくる。

そして、今年もいつものように、クリスマスイブがやってきた。
いろんな思い、いろんな苦難を乗り越え、そして笑顔で生きる。
遺志を受け継ぎ、思いをつなぎ、生きていく。

あっと言う間の6年。そして聖なる思いで、クリスマスを。

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コロナを乗り越えての本番にエール。

知人の脚本家が主宰する劇団からのメールが届く。

この1年半は、オンライン公演の案内だった。
最初はそれにもびっくりして、そんなことできるのかな?とも
心配していたが、朗読劇を中心に、小さなスタジオを
フル活用し、見事に作品を配信し続けた。
その合間には、ミニドラマを提案させてもらい、
コロナ禍に撮影し、編集、配信。そんな共作の経験から1年が
経ち、彼女はそれからも地道にひたすら自作の発表をし続けた。
そのひたむきな活動ぶりには、本当に感心していた。

そして、このたび、2年ぶりの劇場公演となったという案内。
なんだか、わがことのようにうれしい。
案内の内容の一部をここに記す。

【B.LET’S第19回公演】

「ひまわり海に咲いた」 作 ・演出 滝本祥生

■出演 

大田康太郎(B.LET’S) 石松千明 石本径代(ECHOES)如月皐 佐藤友佳子 

吉田雅人(ユニークポイント)渡辺啓太(MONO)

■日程 12月22日~26日 14時の部 19時の部(日によって異なる)

■料金 観劇 3700円  当日 4000円 〈日時指定・自由席〉
    オンライン配信 2500円
(12/31までオンライン配信予定)

■【観劇チケットのご予約】

https://www.quartet-online.net/ticket/himawariuminisaita

https://blets.stores.jp/items/61ad7f507d278d3b6b4df506

■会場:studio ZAP!  

東京都新宿区市谷台町4-2大鷹ビルB1F (都営新宿線 曙橋駅より徒歩3分)   https://studio-zap.jimdofree.com/

詳細 https://www.blets.net/

本当は劇場に駆けつけたいが、今回は難しいため、
まずは会場へ花を送る。
コロナを乗り越えて、よくがんばられたと思う。
劇団の主宰である作家そして、一緒に公演してきた役者さんたちも
お揃いで、ああ、みんながんばってるな~と胸がいっぱいになる。
本番前の稽古の真剣な様子を思い出し、懐かしく、そして背筋も
伸びる。

お客様も久しぶりの劇場公演を楽しみに、おいでくださることだろう。
久しぶりに劇場の緊張を味わいたいが、今回はオンラインで観賞
させてもらうとしよう。
コロナ前であれば、現地に行かなければ何も体験することが
できなかったのに、
このハイブリッドだけは、コロナが与えたギフトと言える。

初日はどうだっただろうか。
演劇は長丁場だ。千秋楽まで、元気にがんばって!
と、仲間に心からエールを送る。

と、書いていたら、ご本人から花の写メールが届いた。
なんだかこっちも、うれしくなり、テンションが上がる。

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カウントダウンの緊張感を楽しみながら・・・

今年もあと10日。毎年のことながら、師走という言葉が示す通り、いや示す以上に先生だけでなく、みんなが走る、バタバタとし続ける12月。

この1年を送り、新たな年を迎える準備で各界とも忙しい。
年末年始の休暇があるため、そのために忙しい。
毎年のことながら、なんだかこのカウントダウンには、わくわく感がある。
まずは、クリスマスに向けて、そしてそのあとは仕事納めに向けて・・・。
町に出ても、企業を見ても、普段と違う動き。
コロナも昨年の今よりは落ち着いて、活気がある今年の年末。
そう、活気があることは、とてもいい。

とにかく悔いのないように、やり残したことがないように、
今年やれることはやり終えておく。
それが、気持ちよく新年を迎えるコツかもしれない。

やはり暮らしにはメリハリが大切だ。
年末年始。これは世界共通の大きなイベントだ。

できれば、この節目をバタバタだけで終わらせず、
しっかり今年を振り返っておきたい。
静かに2021年をみつめ、そしてお世話になった方々へ感謝を伝え、
今年を結びたい。

これまでと違う年越しになるから余計に、
そんなことを思う。
バタバタのなかの静寂。
今年はどんな年だったか?をみつめなおしたい。
そして、いい年だった・・・と、
感謝をもって、一年をしっかり結びたい。


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幸せの20分コミュニケーションリレー

今度は全員一緒ではなく、一対一でコミュニケーションをとろう。
障がいをもつ皆さんと何度かの集団研修を終え、個人面談を計画した。
十名以上いるけれど、出来れば1日でやりたい。
ということで、まずは、1名20分づつの12名様対応。
20分で何が話せる?とも思われるかもしれないが、
目的が明確であれば。20分でもちゃんと話せるものだ。

次の人が部屋の前で待って、交代するときに
タッチを行い、まさに、選手交代。
「お待たせしました~。こちらへどうぞ~」
わずか20分の面談でも、しっかり話しができ、いいキャッチボールができる。
それぞれ、これまで見えなかった、普段と違う一面も見えてきたし、
集中して真剣に向き合うことで、その人自身がよく見えてきた。
これまでコミュニケーションを重ねたことで、成長されている人も
いて、その確認もでき、本当にうれしい時間となった。
言葉が達者でなくても、目を見てゆっくり繰り返したり、伝わるまで言い方を
変えてみる。こっちが真剣であると、相手も真剣になってくれる。
離れない磁石のようになっているのが不思議だ。
わずか20分でもメモをとり、人の話を聞き洩らさないように集中してくれたり。
態度を褒めていると、嬉しそうに笑ってくれる人も。
すっかり仲間意識が高まる、とてもいい信頼づくりの機会となった。
20分×12名。
障害があろうが、なかろうがみんなそれぞれ一生懸命生きているかが
大切であることも学んだ。

愛おしい仲間たち。いい年をお迎えください。
今年いただいた素敵なプレゼント。それは、彼ら彼女たちと出会いである。

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ちょっとほろにがのクリスマスキャロル。

これは、まさに2年前のクリスマス前のドイツのボン。クリスマスマーケットの様子。今年のマイカレンダー12月用に選んだ1枚だ。
移動遊園地が設置され、人々はホットワインでカラダをあたため、笑顔で語らっていた。懐かしく思い出すと、胸が震える。ああ、あの頃は良かった。
今年もコロナの影響で、盛大な開催は難しくなっているだろう。

日本では、クリスマスで町が賑わい、盛り上がっている。
駅前にある、クリスマスツリーには多くの人が集まり、記念撮影を楽しそうに
行う人、人。
テレビではクリスマスケーキ、チキンのコマーシャル。
何があっても、クリスマス!は幸せな1年の結びのイベントなのだ。
そして、数々のクリスマスキャロルが流れ、その盛り上がりに花を添えている。

昨年までであれば、このクリスマスソングたちは、聴けばそのまま鼻歌になった
のであるが、今年はなぜか、そうならない。
この音楽を聴くと、ちょっとほろ苦い感じなのだ。
なぜか、いつものように、わくわく!とはならない。
いろんなこの1年の体験がつながっているのかもしれない。
むしろ、手をあわせたくなる心境になってしまう。

小学生の頃に子供会でもらった小さなバタークリームのクリスマスケーキ。
サンタのブーツに入っていたお菓子の詰め合わせ。
そんな子供の頃のクリスマスを思い出すのだ。
懐かしく、ほろにがい。
この苦さは、なんともいえない。
ちょっと静かに過ごしたいクリスマスかもしれない。

世界が無事に安全にいい1年を締めくくることができるように。
少し厳かな気持ちで、年末に向かうことにしたい。

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落ち積もる枯葉に学ぶ。

冬は枯葉が積もる季節。履いても履いても落ちてくる。
なんだか、高齢化社会みたいだな・・と思いながら、
箒でいろんな色の枯葉を集める今日この頃。

さて、そんな枯葉を見ながら、思うこと。
いつか、自分も枯葉のようになっていくのかな。
まだまだそんな日は来ないと思いつつ・・・。

意欲が萎えると、枯葉のごとく、命も枯れる。
自分にはそんな日はないと思いたいが、
きっとそんな日が来る。

自分は、いつまで、意欲をもって生きられるか?
できる限り、いのちある限り、そうでありたい。
両親の最期を見守り、改めてそう思う。

できれば意欲があるまま、生を終えたい。
だから、
出来る限り意欲が枯れないように、
生きる限り、毎日いろんな刺激を注入し、
人々とのキャッチボールを続けながら、
常に小さな夢を希望をもって、それに向かって進みたい。
そして、
できれば、誰かの役に立ち続けたい。
世間が、自分を必要としてくれる日を、一日も長く
生きていきたい。
何をもって? ここは毎日考え続けているところ。

自分は誰かの役に立っている、
誰かが自分を求めてくれている
という状態が続けば、生きる意欲は枯れない。

もういいかな。もう年だし。と思ったとたん、
自分が枯れていく。
もういいかな。と社会生活から後ずさりしたとたん、
生きる力を失いそうだ。

今は生きる限り、発信者でありたいと思う。
TAKEする人ではなく、GIVEする人でありたい。

いつまでも、ああなりたい、こうなりたい。と
妄想も含め、生きる希望をもって、意欲をもって
生き続けたい。

枯葉になるのは、最後の最後の瞬間でいい。
もちろん、桜が散るごとく生を終える・・・が一番いいけれど。



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生は瞬間、死は永遠か。

今年は、わが人生のなかで、もっともお墓通いをした1年だといえる。
昨年までは、ほとんどといっていいほどに、疎遠であった。
身近な人の旅立ちがあって、自らの行動がいやおうなしに変わる。
不思議なことだと思う。

墓の前で、お参りするというよりも、父に母に話しかけている
ときの方が多い。
「仲良くやっとる?喧嘩しとる?いいね。あんたらは・・」
と、まあ普通に話しかけ、
「ま、もう行くわ。また来るね。元気で」
もう見えない相手に、「元気で」と言うのもおかしな話。
実家では、写真に向かって、そんな風に話しかけている。
「あんたたちは、幸せやね~。」
「やれることはやるので、それでいいよね。」

今はそうする。自分が行ける間は、そうするだろう。
でも、いつか自分もいなくなる。
そのとき、墓や実家をどうするかの答えは、すでに頭の中にある。

ふと、見えなくなった両親の存在について考える。
すると、いろんな思いが広がってくる。
死んでも生き続ける。
誰かの記憶にある限り、その人の生きた証は消えない。と思う。
日本史、世界史、人類史を見る限り、そこに登場する人はすべて
もう生きていない。すでにいない、
ではあるが、知ることでその存在が蘇る。
生きた時間は限られた短い時間であったとしても、ずっと語り継がれたり、
学びの対象として、存在し続ける。
亡くなっても、後世の人々にその人生が確認され、生き返る。

生きる時間は短いが、その間に何を残すか?により。、
その存在は死から永遠のものとなる。
今、墓に行くのは、父母に会いに行くため。
亡くなっても自分のなかではすでに永遠。
こちらが忘れない限り、永遠に自分のそばにいてくれると信じている。

生きている時間を大切に生きることで、
作品やメッセージや子供などを残すことで、
それを通じて、
亡くなっても、永遠の存在になることができるのだろう。

生は瞬間。死は永遠。
これまで考えたことがなかった世界が見え始めている。

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楽聖誕生への感謝の朝。

今朝、テレビのチャンネルをBSに切り替えたところウィーンの街並みが映り、偶然、あの方の銅像の写真が飛び込んできた。
「あれ?そういえば・・」
そうだその銅像は、ベートーベン。
あれ、そういえばと思ったのは、確か昨日か、今日が誕生日では?
早速調べるとやはり12月16日。時差を考えたら(ドイツとの時差は8時間)
まさに今は12月16日。ベートーベンの誕生日に間に合った。ということになる。

ベートーベンが「忘れるんじゃないよ」と私の前に、現れたのだろう。
1770年12月16日にドイツのボンにて生誕。上の写真がまさに、ベートーベンが生まれた屋根裏部屋だ。(もっとも当時のままではないが)
コロナ禍で昨年の250年祭が影響を受けたことも記憶に新しい。
そして、下の写真は、その屋根裏でベートーベンを生んでくれた母親 マリアさんの墓地。こちら、生家から徒歩20分ぐらいの場所にある。

毎年、年末になると第九の演奏をよく聴いた。また小学・中学時代は大人に混じって合唱にも参加した。あまりに壮大で、歌いながら涙があふれ、演奏が終わると満足感と、生きる喜びに満たされる命のシンフォニー。
ベートーベンの耳が悪化しているなか、作曲された驚きの作品だ。
なぜ、聴こえないのにあんな素晴らしい曲が書けたのだろう。
歌やピアノだけの曲ならば、まだしも、オーケストラと合唱が調和する壮大な
スケールの交響曲である。不思議で仕方ない。

かつて、元京大総長をつとめられた平澤興さんが、若き失意の日々、救われたのはベートーベンの夢だったという。
自分には能力がない、と落ち込んでいるところ、枕元にベートーベンが現れたという。
彼は耳が聞こえなくてもあんなに立派な曲を残している。それにひきかえ、自分は五体満足ではないか。もっとやらねばならない!と決意し、そこから猛勉強し、自身の道を切り開いたという話は有名だ。

そう、今でこそ、パラリンピックや障がい者との共生などと言っているが、
200年以上前に、不自由があっても、限界まで努力し、後世に素晴らしい作品を残した偉大な人がいるということを、忘れずにいたい。

ベートーベンの存在。
私にとっては、初恋の人と言うほどに、本当に大切な存在だ。
小学校の頃、図書館から何度も何度も伝記を借りて、若き日のベートーベンの肖像画に胸をこがした日々を思い出す。

ベートーベンに感謝、そして偉大なる存在を世に送ってくれたマリアさんに感謝。
さあ、今日という大切な1日。自分も全力で、自分ができることを全うしよう!

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発想から数年。一歩一歩、育つ歓び。

写真は開店前の誰もいないときに撮影したものであるが、このアート作品が楽しめる新しい店が原宿表参道にオープンした。
障がい者アートをもっと町に!をスローガンに作品のレンタル事業をスタートするというチャレンジングな経営者に新潟で出会い、そこから数年。この活動を新潟から東京へと広げる活動をお手伝いしてきた。
とくに、SDGsに積極的に取り組む企業にこの取り組みを提案し、コラボがはじまり・・・コロナ禍を乗り越え、今回のアートギャラリー的な店舗の開店につながった。思えば長い道のりでもあり、あっという間の数年であった。

障がい者アートがもっと町に!そして障害を持つ人ももたない人も、一緒に暮らせる共生の社会を目指して、関係者が、皆同じ気持ちで取り組んできた。
私は関係者のつなぎ目、結び目。やったことのないことをやる!試行錯誤の繰り返し。そして、気が付けば、スタッフと一緒に走り続けていた。

短期間のレンタルではなく、長期にわたるまさに、店内空間の一部として存在感を見せるアート。
作家さんたち、そしてご家族はお店でこの作品をご覧になったら、この空間に立たれたら、どんなに喜ばれることだろうか。そして、創作活動が単なる趣味ではなく、社会に役立つお仕事になる・・・。なんて素敵なことだろうか。

ふとしたきっかけから、こうしたい こうなったらいい。という思いが広がり、
事業も発展し、関係もより深くなっていく。
コラボを思いつき、実現させることの歓びを改めて実感するとともに、
続けながら、お互いに育っていくことのすばらしさも感じている。
協力があってこそ、活動が生まれ、育っていく。一人の力ではなく、みんなの
力というところが、大切だ。

ぜひ、原宿を若い人たちにも、素敵な空間でのひとときを楽しんでいただきたい。
今、素敵なクリスマスプレゼントをいただいた気持ちになっている。

こちらの店舗の詳細は、https://www.mos.co.jp/company/pr_pdf/pr_211209_1.pdf

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喪中はがきコミュニケーション。

喪中はがきというのは、考え方によってはその取扱いが難しい。
訃報を知れば、知らぬふりもできず、何か気を遣わせてしまうのではとか
余計なことを考え、でも、お知らせせず、年賀状も届かないことで
ご無礼なことになるから・・・。
これまでも、お世話になった方が亡くなったと、そのご家族からハガキが届くと
何らかの返信をし、お会いしたことのない先様に、お悔やみの気持ちを届ける
ことはあった。

と、これまでは、受け取ることしかなかったこのハガキ、今年は、人生初の喪中はがきを出すことになった。

届いた直後から、いろんな反応があり、正直驚く。
お手紙が届く、メールが届く、宅急便が届く、いきなり携帯へ電話もかかって
くる。「これで、お花を供えてください」との郵便も届く。
とっさに行動された方、思わず筆をとられた方・・・。
皆さま本当にそれぞれにご心配いただき、また両親の冥福を祈ってくださる。
喪中はがきの反応のほとんどが、親と面識がない方だ。

ある方からは、ピアノの絵柄が入った紫色のかわいらしいクッキー缶が届いた。
中に入っていた手紙によると、親と私の共通の思い出はピアノだから、何かないかと探していたらそれをみつけたから・・ということだそうで、
添えられていた手紙を読んだら、思わず泣けてきた。

どれもこれも、本当にありがたいお言葉、お気持ちで、
今回の親のことに際し、いかに皆さんが優しい気持ちで、接してくださっているるかということがじんわりと沁みてくる。

喪中はがき1枚でそこから新たなコミュニケーションがはじまることもあり、
改めて、その相手の懐の深さを知るきっかけにもなる。

このように、この1週間、とても幸せな、心あたたまる
ありがたい時間を過ごさせていただいている。

「このハガキ、いい匂いしますね~。私も紫好きなんですわ~」
ちょっとしたことで、新たな関係がはじまる。

そこはかとない悲しみは、これらの優しさによって、生きる力に昇華されて
いく。



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