この人は。と思う人とは、しっかり向き合い話したいと思う。
回数は多くなくていい。そういう機会を1回はもっておきたいと
思う。
近年は、めっきり回数は減ったけれど、会食もときに必要だ。
食事でもしながら、仕事や人生について語り合う。
ちょっとした出会いからでも、一生の付き合いに発展することも
ある。
今回の出会いも、ふとしたことから仕事に発展し、それだけでは
惜しい感じがして、会食となった人がいる。
「これ、おいしいですね。」
まず料理の話題から、共感。
そしていただきながら、言葉が続く。
生い立ちから、人生観まで・・・。
仕事でしか見えなかったその人の横顔、素顔が見えてくる。
そして、人には話せないようなことまで話してもらえると、距離感が
ぐっと縮まった感じ、そして信頼が増す。
パソコンだけ見てのやりとりだけではわからないことが多い。
やはり向き合って、しっかり語り合いたい。
「昨日はありがとうございました。マーサさんの言葉がとても
響きました。これからも宜しくお願いいたします!」
とのメッセージをもらい、こちらも安堵する。
食事というのは、食を通じたコミュニケーションタイムだ。
心の解放の時間だ。
人数が多いと難しいけれど、できる限り、相手を知るいい機会に
したい。
同じ釜の飯・・という話を子どものころからきいていたが、
食事は、まさに「人を良くする」「人との関係を良くする」
コミュニケーションチャンスなのかもしれない。
年末に向けて。
笑顔で心を合わせる時間になるように。
心あわせる会食。
キセキは起きる。
サッカーで世界中が盛り上がっている。
とくに日本のチームが強豪ドイツに勝ったことで、
国内でもサッカー熱が高まっているようだ。
熱狂的なサッカーファンでなくても、このような勝利は
嬉しいもの。元気になれる!という人も多いだろう。
フェアに戦い、勝つ。
それまでの実績での予想を覆しての勝利は、スポーツならではの
楽しみかもしれない。
勝利の女神も、存在するのかもしれない。
私はリアルタイムで視聴していなかったし、断片的な情報しか
得ていないけれど、この結果をきいて、これをきっかけに日本が
明るい方向へ向かっていくといいなと素直に思った。
コロナもあって。政治不信もあって、諦めモードになりそうな
空気のなか、それを打ち破るグッドニュース。
この勢いで、次も勝ってほしいと多くの人が、期待している
ことだと思う。
サッカーは、貧しい国でさかんであったとされるスポーツだ。
ボールひとつで遊べる、誰もが戦える。
今はかなりおしゃれなスポーツになっているけれど、
アルゼンチンやブラジルでの熱狂など、
みんなが楽しめる、大衆的なスポーツだ。
奇跡は起こる。
このスポーツを通じて、世界中の人がそんなことを思い、
自分の人生に重ねているのだと思う。
がんばれば、奇跡は起こる。
がんばらなければ、奇跡は起きない。
勝利の女神が見守ってくれる1日となりますように。
終わらない今日はない。
毎日毎日、いろんな課題に向き合う。
いつまでこんな日が続くのだろうと思うこともある。
嫌なときもある、気が進まないときもある。人間だもの。
でも、どんなことも一生懸命やっていたら、必ずいい結果で
終えることができると、信じている。
もうひとがんばり、もうひと山、ゴールは近い。
と自分で自分を鼓舞して、背中を押して・・。
とにかくどんなことでも、必ず終わるのだ。
人間は勝手な存在だ。
つらいことが終わることを望む一方、
いつまでもこの健康な日々が
終わらないようにと願っている。この矛盾。人間だから。
いずれにせよ、永遠はない。
いいことも、悪いことも必ず終わる。
まさしく諸行無常である。
だから、どうせならばなんでも良き方向に受け止めるとしよう。
つらくてもしんどくても、終わらない仕事はない。
終わらない人生もない。
あっと言う間のことだから、どんなにつらくても
いのちまでとられない。の精神で進むとしよう。
終わらない今日はない。
だから、大切に思う存分生きるとしよう。
シソ味噌のキクちゃん、永遠に。
喪中はがきが届く季節になってしまった。
昨年を思い出すと、当時、自分が出したハガキを受け取られた方の
気持ちがよくわかる。
今回受け取った1枚のはがきに、あってほしくない名前が記載されていた。
100歳まで現役で絶対にがんばると言われていた、新潟の元気印の
おばあさま キクちゃん。キクエさん。
息子さん、お嫁さんと一緒になって、息子さんの定年後、家族で自営業を
開始。キクチャンが長年つくってこられた「シソ味噌」を商品化して、
販売するという事業だ。
ほんとうにおいしい、こだわりのシソ味噌。まさに、おふくろの味。
おにぎりに絶品だ。
創業後、商談会にも出してみたいというご相談から、その商品を知ったのが
きっかけ。
「変わらぬ新潟おふくろの味を作り続けて四十余年」とキャッチフレーズを
考えた、この「キクちゃんのシソ味噌」。このコピーを大変気に入って
いただき、商品パッケージや様々なツールにも活用いただいた。
もう数年経ったはずであるから、作り続けて半世紀になっているはず。
「私は元気ですよ。100歳まで現役で仕事しますよ!」
お会いしたのは、80代後半だったと記憶する。ニコニコお元気いっぱい。
お会いすると、自分の親のことを思い出したものだ。
あれから数年、コロナの影響もあったかもしれない・・・。
キクチャン。笑顔の素敵な、本当にバイタリティのある素敵な方であった。
このシソ味噌は、都内の人気おにぎり屋さんはじめ、知る人知るお店でも
利用されている。
キクチャン。ほんとうはもう一度お会いしたかった。
家族みんなで、母の味「キクちゃんのシソ味噌」を商品化できて、本当に
良かった。素晴らしい親孝行。
これからも、キクちゃんのシソ味噌、美味しくいただき続けたい。
今日もこれを使って、心を込めておにぎりを作らせてもらうことにする。
キクチャンという存在は、このシソ味噌を通じて、これからも懐かしき
親しみ深い愛する存在、良き思い出として、決して消えることはないと
信じている。敬意と感謝を込めて・・・。
ふるさと納税もいいけど、ふるさと孝行
両親が旅立って、1年以上が経過した。
人間、不思議なもので、それでもなんとか生きていけているということに
気づいた。
ある人にそう言ったら、
「そりゃ、人類の歴史、みんなそうしてきたからね」
と言われ、確かにそうだ。親が死んだからといって、子供がショックで
生きられない。そんなことでは歴史は続かない。
なんやかんやあっても、みんな先代のいろんなこと、もの、思いを受け継ぎながら
生きるものだ。
寂しさが消えるのではないが、寂しさが普通になる。寂しさを飲み込んだように
自分のなかに存在しながら、新たな自分になっていくのだろう。
そんな日々であるが、最近、親がお世話になってきた人々に関わる
ことが日課というか、ミッションになってきている。
たとえば、親とよく飲みに行っていたという方が、その店に一緒に
行きたいと言われる。その店でお酒を飲むのではなく、ランチをいただ
くだけであるが、その方はずっと、父や母と過ごした時間について懐かしがって
いろんな場面について話してくださり、「今日は思い出せて楽しかった。ありがとう」
と満足して帰られる。当時のことが蘇ってうれしかったとのこと。
ある方には、演奏会をリクエストされ、その方が通うデイサービスの施設に向かい
そこで演奏をさせていただく。
すると、親の話題がたくさん出て、皆さん、母のことや、一緒に旅した日々のことを
楽しそうに思い出しておられる。いきいきされて話される様子が印象的だ。
自分がそこにいることで、楽しい思い出の時間になるようだ。
「またやって。次はいつかな?」
ふるさとの皆さんが、とても楽しみにしてくださる。
そんなことで、私にとっては、今はふるさと納税もいいけれど、ふるさと活動が
せねばならないこと。
それをすることで、父母のことが改めて思い出せ、皆さん喜ばれる。
思い出すことは寂しいけれど、それを表現することも必要。
ふるさと・・縁がきれないように。
なぜか、80歳以上のお友達が増えていく。喜んでおつきあいさせて
いただこう。ふるさと孝行。自分の心もあたたかくなる。ありがたい。
恐ろしき分断を乗り越える力。
エジプトでCOP27が開催。会期延長して議論され、どうやらやっと
途上国を支援する基金が開設されるようだ。
少し安堵している。
地球の温暖化は、先進国の責任。
温暖化のツケが途上国に回っている。
途上国の人が満足に生きることができない、生きづらくなっている。
という現実。
SDGsという言葉は、先進国では主流になりつつあり、これはこれで
いいことであるが、実際に被害を被っている国々にとってみれば
そんなキレイごとではないよ。ということだろう。
自分たちだけがよければ、自分たちの国だけがよければ。
自分だけがよければ。
どこかにこんな考え方がないかと思うことは多い。
他者と交わり、理解しながらお互いによくなるために協力していく
姿こそが求められていると思うが、先進国が成長を今尚求めつづけて
いる姿に改めて疑問を抱いてしまう・・・。
日本もそうだ。
自然を破壊してまで成長して何がある。
なんのために成長するのか?なんのために経済大国になる。
正直、わけがわからなくなってきている。
もうその価値観では、地球は成り立っていかない。
ということを途上国の皆さんが突き付けている。
それはそれとして、先進国とか途上国という分け方、区切りも違和感
がある。
人は何かと分けたがる。自分たちは違う。自分だけは・・・。
保身の極みである。
いかん。いかん。
協調、共創、共生。ほんとうにそうしていかねば。
一人一人からの意識、行動からしか始まらない。
飢餓に苦しんでいる人を助けようというポスターと
クリスマスツリーの下に湧く、賑やかな街の様子と
これから加速するであろう年末に向けての消費ラッシュ。
浮かれている場合ではない。
そんな気持ちになっているのは、私だけだろうか。
いろんな矛盾を越えて、ひとりでも多くの人が生きていてよかったと
なる社会に・・・。
分断が加速するこの世界、しっかり、みつめていかねば。と強く思う。
やっぱり紙。記録。保存。
最近、デジタル終活について、スタッフと協議しはじめている。
もしも、自分に、スタッフに何かあったとき、自分の公式サイトや
そしてこのブログをどうするか?という話だ。
考えたくはないが、とくに今夏、公式サイトをリニューアルしてから
そんなことも考えるようになっている。まだ結論までは出ていないので
今、万一があると困るが・・。
自分がいなくなったときの、あとのデジタルコミュニケーション・・・。
スタッフからひとつの投げかけをいただく。
「ブログは、貴重で、宝ですから、必ず記録保続しておいた方がいいです。
そこから出版も考えられますしね」
そう、実は以前、一度全部保存して、紙にもプリントしたことがあった。
もう数年以上前のことだ。ものすごいボリュームだった。
実際、このエッセイブログから1冊の本も誕生した。
パソコンをしない、見ない方に、1冊のエッセイ本は大変喜ばれた。
付箋を付けて何度も見返す方もおられた。
同じ内容であっても、モニターで流して読んでいくのと、
手にとって文字をしっかり掴み読むとは、また違うのだ。
ということで、ブログの記録は今、新たな課題。
クラウドのなかにある・・・というこのふわふわな感じ、
何かあったらなくなってしまうんじゃないかという不安。
なくなってもいいのかもしれないが、いやいや、今なくなっては
困る情報が世の中には多数ある。
そういう意味では、残しておく。紙に残しておく。
このことは本当に大切だ。
拡散は以前よりしないことにしてきている。
それはそれでいい。良かったと思っている。これからも同じ。
でも、意味あるものは記録しておくに限る。
もっとも、私の書いたものがその価値があるかどうかは
わからないが、生きた軌跡としては意味があるのかもしれない。
生きた証をどうするのか?
亡くなれば、それもすべて人任せになるが、遺したいものだけ
遺しておくように。それ以外は処分、消去して・・・。
「されコミ」を、今一度。
毎日、食事の回数より、コーヒーブレイクより多く、呼吸をするごとく
何らかの言葉を受発信しながら生きている。
言葉や文字を使う回数はコミュニケーションの量に匹敵する。
何かをするために誰かに何かを発し、また相手から投げられる言葉の
ボールを受け取り、返信している。
百発百中思ったとおりに受けとめられているか?
このことは、なかなかむつかしい。
家族や親しい人同士であっても、そうはいかない。
自分と相手は違うから、そう簡単にはいかないこともある。
ましてや忙しいビジネスタイムのなかでは、スピード優先。いろんなことが
同時進行となると、言葉や文字のボールの着地まで見守ることなく、次の
ボールを投げていることも多く、そこにコミュニケーションギャップが
生まれることも少なくない。
自分自身、コミュニケーションクリエイターと言いながら、自分の受発信も
まだまだ及第点にいかないことが多い。
自分の考える言葉の意味と、相手が受け取る意味は、同じ言葉であっても
違うことがある。
立場や環境、優先順位によって受け止め方が異なることも多い。
だから、言葉ひとこと発するときには、内容ももちろん、タイミングに
いたるまで、総点検してから送り届けなければならない。
クイックレスポンスも大切であるが、丁寧に言葉を届けること、また
気持ちよく受け取ってもらえるように、日ごろから関係づくりをしていく
ことも大切だ。
コミュニケーションなんか・・と思う人も多いかもしれないが
DXの時代であろうがなかろうが、人間は一人では生きられず、みんなで
助け合って生きていかねばならない存在であるから、もっともっと
コミュニケーションを大切にしなければと思う。
便利な時代だからこそ、大切にしなければならない。
少なくとも、自分が発する言葉や文字で相手が傷ついたり、不快に思う
ことがなく、伝えたいことが自然と伝わる。そうでありたい。
そうあるための意識づけを、改めて心したい。
忙しい日々であるけれど、心なくさず、時間に追われすぎず、落ち着いて。
一見簡単そうであるが、日々の対話を軽く見てはいけない。
いつも、相手の立場になってみて、相手に寄り添いながら。
いろいろあっても、されどコミュニケーション。
苦労があっても、ちゃんと伝わったときは、幸せだ。
手抜きをしないで、しっかり向き合う人こそ、相手に心から伝わるはず。
まだまだ修行中である。
目指せ!「みんなのうた」
妄想するのは悪くない。
夢に向かって走り出すこともあれば、新しい自分に出会うこともある。
コンサートやライブで歌ったあと、何度か「みんなのうたに出たらいいのに。」
とか、「マーサさんの曲は『みんなのうた』の世界にぴったり」と言われたことがあり、
それはそれで嬉しく、そのたびに「よっしゃ!」と思ったものだ。
と、しばらくそんなことも忘れていたが、今週のコンサートで、初めて
わが演奏を聴いて下さった方が、即そんな感想をくださって、まだいけるんだ。
とうれしい勘違いをさせていただいた。
声はしっかり整えないと年齢とともに衰える。
そんな歌手たちを多く見ている。
声だけは、ピアノだけは老化してはならぬ!
だから「みんなのうた」を永遠に目指すということはとても
大切だ。
その夢の実現については、別途考えるとする。
とにかく、いくつになっても、夢を持ち、進み続けること。
「あなたのファンだからね!」
と話しかけてくださったお客様の顔も浮かぶ。
ああ、うれしい。
これからも妄想と行動を続けよう。
「愛着」ある暮らし。
人生あと20年、25年。どこまで続くかわからないし、
いつまで今のままの自分でいられるのかも、未知数。
わからないけれども、こうでありたい、こうなりたい。
と思いをもって、想像をして日々生きている。
残された人生、楽しまなくちゃ。
では、何をする?
人によってその選択肢はさまざまであるが、
たとえば、いつか運転免許を返納する日が来るならば
それまでにいろんな車の運転を楽しんでみる?
今ならそんな新しい車を買ったり、新築の家を建てたり・・
とそんなことも不可能ではない。
でも・・・という答えが出てくる。
新しいものを手に入れたり、作るということは、古いものが
処分されるということ。
処分することにも、パワーが要る。
さらに、ずっと使っているものには、「愛着」が生まれる。
古くても大切に使うと、車も家も家族と同じ、人格を持つ
存在になる。時間をかけて利用するということは、
その道具が自分の暮らしの一部になるのだ。
モノではなく、相方になる、相棒になるのだ。
最近、「愛着」という言葉を改めて大切にしたいと思う。
モノだけでなく、生き物~ペットも然り~、家族も含め、
自分の周りの身近な存在。
長年連れ添うということは、愛着が生まれる、沁みつくもの
なのだろう。
ちなみに、長年使っていたケトル。その蓋が壊れ、半年以上
だましだまし使っていたが、もう使えないという状態に
なったため、泣く泣く新しいものに交換。
古くなっても、やっぱりこれがいいと使い続けた10年余り。
この古いやかんに、今朝別れを告げた。
「長い間、ありがとうございました」。
そう、こんなやかんひとつにも、愛着があった。
朝のくらしの相棒だった・・。
と、モノだけでなく、あらゆる存在との関わりを
大切にしたいと思う。
新たな消費を促される昨今。人生の残り時間のなかで、
何を大切にすべきか。ということについて、丁寧に考えて
みたい。
愛着があるもの、存在に囲まれた日々は、それだけで
幸せなのだと思いたい。