知れば、変わる。

ナベツネという言葉は、これまであまりいい響きに感じなかった。
なんとなく、メディアや球団を自分の意のままに操ってきた、
ワンマン経営者というイメージ。独裁者ときいたこともあったような。
実際にお会いしたことがないため、メディアで報じられる内容によって
人はその人の像を描く。
だから、メディアの力は大きい。

もともと、報じる側の新聞記者であったナベツネさんは、いつしか
報じられる側にもなり、世間を騒がせた。
あまり詳しくはないが、野球の世界ではとくに物議をもたらした人
と報じられている。

今、95歳だそうだ。
このたび、NHKから独立された、大越健介キャスターがNHK在職時に
インタビューされた渡辺さんの番組を観て、心から感心し、そして
その人間像がわかり、これまでとイメージが一新した。
ジャーナリストらしきリアリスト。
そんな言い方をしている人がいたが、現実に真摯に向き合い、
世の中をどうしてよくしていくのか?と考え、全力で立ち向かう。

粗削りな言葉で誤解されることも多かったが、真の平和主義者で
戦争を二度と起こしてはならない。
そのためには相手が誰であろうが、行動を起こし、言葉を発した。

また、政治記者の経験から、昭和の政治家たちからの教訓を
平成の世に
いかに生かすかということについて、一肌脱いだ。

95歳の命から振り絞られる言葉は、あまりに重くてこのインタビューを
聞き逃しがないか何度も再生して確認した。
「言葉は切り取って表現されてしまうから」
この言葉はまさにそのとおりだと思った。
メディアは言葉を都合のいいように、切り取る。それを世間は受け取る。
まさに今のご時世も同じだ。また、渡辺さんもその道を歩んでこられた。

渡辺さんは、哲学者だったと知って、思わず共感を抱いた。
とくにドイツ哲学のご専門。常に現実と理念の世界を両方見据えながら
生きておられたようだ。カントの実践理性批判がバイブルだそう。
生涯、熱心な勉強家と知り、これも印象が変わった。

そして何より、一番印象的だったのは、愛妻家でおられたということ。
認知症になった奥様を献身的に介護され、2017年、見送られたとのこと。
きっと、今もお寂しいことだろうと察する一方、それでも命を振り絞って
自らの一生を現役で過ごされている。
その生きざまは、どう見ても尊敬に値する。

思わず、会いたくなる。
そんな人・・という印象に代わった。

リアリスト。この言葉が響く。
私の場合、生きる世界は小さく、知的レベルは低層であるが、
そうありたいと思う。

現実をみつめ、理念に近づける。
自分ができる方法で。
心から平和を目指す人の生きざまの、素晴らしきお手本。

どうぞ、お元気にお元気に・・・。
かなり小さくなられたお姿ではあるが、ひとりの人間として
信念に満ちた人生の先輩として、心から敬意を表したい。

知れば、変わる。
人間とは、知らないで決めつけることが多い。
自分もまだまだ。
よく知る、正しく知るということは、
自分にとって、社会にとってとても重要だ。

一辺倒にならないように。





カテゴリー: Essay (Word) | 知れば、変わる。 はコメントを受け付けていません

今こそ、世界に目を向け、平和を想う。

オリンピックは平和の祭典。というならば、この機会にこそ、今、世界は平和かということに目を向けたい。

今、心にささっているのは、
まず、香港のこと。
あんなに自由で開放的で、知的で。アジアのなかのコスモポリタンであった香港。
九龍島から香港島へわたるスターフェリー、あるいは、マカオに向かうジェットフォイルに揺れながら、世界への扉を感じた、あの香港。
その町は、今は自由を奪われ、モノ言えぬ国になっている。
これは、平和と言えるだろうか。
香港以外にも、心配が尽きぬ国や町がある。
彼らから見たら、平和の祭典は、どのように映るのだろう。

そして、ドイツ。
先週、史上類ない大洪水となり、多くの被害が出ているようだ。
メルケル首相が現地に飛び、早急な支援を地元住民に約束していた様子を
報道で知る。
「コロナで店の売り上げを奪われ、今回の大雨で店が流されてしまった。
わが人生、もう何も残っていない」
とインタビューに応えていた、洋品店の主人の悲痛な声が心にささる。

これに限らない。
コロナに感染して、家族と別れ別れになり、会えないまま亡くなる人も
毎日いる。
それどころじゃなく、いかに生きるか。で困っている人がいる。
そちらに目をもっと向ける。

平和とは、平和とは、平らに和むこと。
公平かつ、みなが笑顔で生きられる状態。と解釈する。

自分たちの使命を果たさんばかりに無理をする。
それは平和にはつながらない。

いろんな国の、いろんな情勢に目を向けて、自らが今すべきことを
する。
もちろん選手の競技が、メダルがその国に勇気をもたらすこともある
かもしれない。
でも、それは今でなくても、明日でも来年でも二年後でもいいこと。

今、世界で泣いている人がいること
をついつい、想ってしまう。

みんなが笑顔で、元気に生きられる世界について思い描く。
今そのために、自分ができることを、小さなことでいいから、
ひとつひとつ・・・。
そんな夏にしようと思う。

カテゴリー: Essay (Word) | 今こそ、世界に目を向け、平和を想う。 はコメントを受け付けていません

ピンチはギフト。

この1年半余り、コロナ感染は、世界中に衝撃を与え続けている。
こんなにも、日々の暮らしが、仕事が、社会が、コミュニケ―ションが変わると
思わなかった。
自由に活動できない反面、ネット社会で人々は交わることを覚え、伝えることの容易さと、伝わることのむつかしさも学んだ。
当たり前のように必要と思っていた「移動」「会食」が、なくても大丈夫ということになり、これまでの「消費が美徳」の幻想から、経済活動は一体何か?と思うようになった。外に出ない分、家族との絆が深まった人もいれば、閉塞感のなか、関係が壊れ、孤独になる人も増えた。
人が動かない分、売れなくなった。人が使わない分、自然が回復した。
人間には限界がある。コロナには勝てない。ということを学び、これまでの驕りを反省する機会となった。

・・・と、書きだしたらキリがないけれど、コロナは、21世紀を生き始めた私たちに多くの問いかけを与えた。
そして、当たり前が当たり前ではないこと。に気づかされ、当たり前であったことに感謝の念を抱くようになった。
だから、コロナは少なくとも、私にとっては意味がある。

そして、このオリンピック。
なぜ?今、なぜ、無理やりに?誰のため?何のため?
疑問符だらけで、何一つ納得することがないまま、おそらくそう思われる方々が多いなか、それでも強行されるイベント。
お金と時間の無駄遣い。権力の乱用。感染拡大をさらに引き起こす狂気の祭典。
こちらも言い出したらキリがない。

しかし、もう一怒一憂せず、
俯瞰してみることにする。
決して、その中には入らない。そこでの感動はノーサンキューという気持ち。
少し離れてみつめたい。

終わったとき、何が残るだろう。

今そのことをイメージしようと思う。
この経験が、人類史上、例のない。意味のある教訓になるだろう。
残念ながら、日本にとっては、全然喜ばしいことではない。

コロナは神さまのギフト。今回のオリンピックも同じだ。
人間よ、考えよ。
ピンチとは、人間に与えられた贈り物。
と考えることにする。
だから、意味はある。と思うことにする。

真実、本質を見極めるためのツール。こうあってはならないという
教訓のギフト。

今日から、そう思うことにする。

メダルの数の多さよりも、感染者の減少を心から祈りたい。




カテゴリー: Essay (Word) | ピンチはギフト。 はコメントを受け付けていません

U30、B9、S10000で。

高温の中、オリンピック競技する人も、取材する人も、審判する人も
本当に気の毒だ。
もともと猛暑のオリンピックをどうする。という話があって、マラソンは
北海道で・・ということになったという経緯を改めて思い出す。
酷暑対策といっている間に、季節は移り、今度はコロナ感染で、暑さのことはあまり騒がれなくなったが、いつの間にかオリンピックを開催すると勝手に決まってから、急に気温が上昇した。
コロナだけが敵ではなく、もともと酷暑が、近年の日本の夏の天敵。
おそらく、この季節に、来日されて面食らっている各国の選手、プレス関係者も多いことだろう。

だから、今やらない方がいい。いろんな意味で・・。
そんな思いが募るが、もう始まっている・・・。

ま、それはおいておいて、自分は、いかにこの夏を乗り切るか。
ずっと冷房の効いた部屋にいるのは、不健康。
できる限り、カラダを動かさねば。
去年は、早朝からてくてくと朝の町をウォーキングウォッチングした。
5時台、6時台から歩き始める。7時台には戻るという流れ。
この夏はどうするか?朝のひと仕事を終えてから、動いてみるか?
そこで、決めたのがU30、B9、S10000。
30度になる前に、朝9時までに、10000歩を歩く。
それを継続する。
ちょっとやってみたが、1時間で達成は難しく、90分は見ていかねば。
毎日違う道を通ることにする。
いろんな知らない町の側面を見て歩く。だから90分以上かかる。

オリンピック期間も含め、このルールで夏をトライしてみよう。
もちろん、無理せず、楽しみながら。

視聴率に貢献せず、違う夏を創造したい。



カテゴリー: Essay (Word) | U30、B9、S10000で。 はコメントを受け付けていません

カオスの国と言われ・・

なぜ、こんなことになっているのだろう?
まったく別の星で、平和という名のもとに、危険なイベントが無理やり
開催されようとしているかのように思えてならない、実感の湧かない東京オリンピック。
この危険な状態でやるべきか、やらないべきか。の議論もなく、ただ、首謀者たちが決めていたスケジュールに向かってカウントダウンしているだけだ。

今、海外のマスコミ関係者がそれぞれに、日本に到着してからの滞在の状況をサポートしている。不思議なことが無数にあるようで、また窮屈極まりない環境のなかで取材を続けている。そして毎日、関係者内でも、感染者が増えている。
選手たちは、競技は、メダルは一体どうなるのか?メダルの価値は?
急に出場できなくなる選手が増えることで、どんなオペレーションの弊害があるかなど、十分に検討されてきているだろうか?バブルはすでに破れ、なんでもアフリカのとある選手は脱出した?その人は、何のために日本に来たのだろう。
開会式の音楽も急きょとりやめ。華々しいはずだった開会式がどうなってしまう?
とにかく、場当たりの連続でここまでやってきた結果。さらに、これからどんな恥をかくことにつながるのだろう・・・。
周囲の人が言う。「しらけているよね~」この世界的なイベントに対しての印象だ。まったくそのとおり。

海外のメディアの人たちは、今、日本のことをカオスの国と呼んでいる。
まさに、こういう状態を、そう呼ぶのだと、納得、嬉しくないが共感する。
この、カオスの次は何がくるんだ・・・。崩壊か?転落か?大混乱か?
とてもじゃないが、そんななかで、無心になって応援はする気はおきない。
それ以前の状態だ。
別の星の、狂気の沙汰イベント。
コマーシャルを放映しないと決めた、企業は良識ある。それがいい。
理解されないイベントに、参加することで自らのイメージダウンになる。
当然だ。

理解されないことをやる虚しさ。
何がうれしくて、そんな行動をするのだろう。

乗り越えるという意味がまったく違う解釈となり、準備が進む。
冷静にこの事態を見守り、世界の中の日本の置かれた状況をみつめ、
自分がすべきことについて、ブレずに考えたい。

無理やりの、力づくのカウントダウン。
心から拍手・・とならないところが複雑だ。
どうにか、プラス発想で、マクロ視点でこの現象をとらえ、
プラスに活かしていきたい。
学べることは無数にあるはず。

カオスの次に来るもの、来るべきもの・・について考えよう。

カテゴリー: Essay (Word) | カオスの国と言われ・・ はコメントを受け付けていません

リアルに生きたい。行きたい。

コロナのおかげで、海外渡航が難しくなったこの一年半。
初めてNYに行った25歳のときの興奮、パリの裏路地を歩きながら、
シャンソンを口ずさみ、大観覧車を見て、人生のコンセプトについて考えた日々。ああ、地球の反対側に来てしまったと思いながら、バンドネオンの音色に感動し、同じピアニストを目指すなら、タンゴのピアニストがいいのではと思ったブエノスアイレスでの日々・・・。一方、台湾や香港といったアジアの町の活気も蘇り、すぐ近くなのに、仲間に会いに行けなない。元気にしているだろうか?と思いが募る日々・・・。
自分の人生の半分は、外での刺激があって成り立っていたところもある。
仕入れといえば、「外」との接点と交流。そこから、新しい発想を得て、行動に活かしてきた。自分と異なる背景をもつ人々との出会いこそが、世界で生きることだと実感してきたが、そんなわくわくは、すでに昔のことになりつつある・・。
動くことができない今、写真、映画、音楽などを通じて、あのときの感動を
忘れないように努力している。
まもなく9月11日が来れば、あの日から20年。
何もなければ、すっとNYに出向いているのに、このままでは、今年もNYには
行けないままだ・・。

毎日一生懸命生きて、すべきことをするけれど、しているつもりではあるけれど、いつ死んでも悔いはないと思ってはいるけれど、

やはり、やはりNYにも、パリにも、ボンにも、ブエノスアイレスにも、リスボンにももう一度行きたいし、
まだ訪ねていないザビエル、ショパンのふるさとに足を踏み入れたい。
このままでは、死にたくない。
ここだけは明白だ。

私に感動を与えてくれている人達とのつながりを、直に感じたいのだ。

オンラインのなかで暮らしていると、よりリアルな世界に身を置きたくなる。
自らの五感で感じ取りたい。
そのために、ワクチンはやむなしか・・。

今は、さまざまな過去の映画やドキュメンタリーのなかで、自分の想像をかきたてている。こういった素材が豊富にあることには、心から感謝である。

でも、
リアルがいいに決まっている。
リアルに生きたい、リアルに行きたい。
リアルに触れたい。リアルな感動を得たい。
今、我慢を重ねてきた
世界の人たちがうずうずしている。

とすると、無観客のオリンピックって???

1日も早く、愛しい町に足を再び、踏み入れたい。
そのときの感動を想像しながら、その日を楽しみに
今日を大切に生きよう。



カテゴリー: Essay (Word) | リアルに生きたい。行きたい。 はコメントを受け付けていません

タフな黒子が企業を支える。

企業の社長さんとのやりとりが多いため、社長秘書、社長室、総務の方とのやりとりも多い。
とくに中小企業の場合は、総務がかなりの業務範囲を賄っており、企業を支えていると感じることが多い。もちろん営業、製造といった直接の利益を生み出す部門で働く人も大変重要であるが、経営の意向を踏まえ、そして従業員全員のことを考え、組織自体を安定したものとして機能させる総務の働きは、重要である。

私自身が、会社員であったときも、当時の総務部長に面接から退職まで、いかにお世話になったかと今、改めて思い出すと、感謝の念がわいてくる。
直属の上司だけではなく、入社してやめるまで、本当によくしていただいた。

また、違う例であるが、
もともと宣伝や社長秘書といった仕事をされていた方が、総務部長になられたことがあり、自らの経験を活かし、社内のさまざまな業務改革に奔走されていた。
「攻める総務」こそが、企業の存続には不可欠だとの意識をもたれていたことを今もくっきりと覚えている。

そう、総務は待ちの仕事ではなく、自らどんどん社内に入っていき、職場がいきいきするものになるように、働きかけていかねばならない。
地味な仕事にも見えるが、社員も社長も総務なしでは、立ち行かない。

タフな黒子が会社を支える。数字をつくる人ももちろん重要であるが、
リモート含め、環境が変化し続ける現在、総務の役割が、実は改めて重要である。
経営感覚、バランス感覚がこの仕事には求められる。
今、私の周囲には、頼もしい総務マンが増えてきている。

カテゴリー: Essay (Word) | タフな黒子が企業を支える。 はコメントを受け付けていません

ハイブリッドキドキ

コロナは多くのことを私たちに教え、与えてくれている。
こんな状況においても、それでもコロナに打ち勝つとか
できそうにないことをお題目に強行突破しようとしている
世界イベントが間近に、迫っているが、コロナはそんなに甘くない。

きっとまた愚かな人間に、多くの教訓を与えてくれることになって
しまうだろう。
欲まみれの人間と、コロナの戦い。
嘆かわしく、情けなく、そして心配は尽きない夏。

そのコロナのおかげで、仕事のやり方も変わってくる。
オンラインでのコミュニケーションが増えて、同じ場所にいなくても
あたかもそばにいるかのように交流できるようになったことは、
間違いなくコロナのおかげだ。
いつでも、どこででも、会いたい人と連絡ができる。
一応顔を見ながら
リアルタイムでコミュニケーションできる。
仕事もできる。
本当に便利な時代。と思う。

でも、まったくのデジタルだけでは、物事は完結しないことも
わかってきた。
複数でのリアルなコミュニケーションも必要だ。
たとえば、グループワークなど。
そんな場合、
全員がオンラインで参加ということもあるが、
一部オンラインで、そこにリアルな人のコミュニケーションも絡む
というケースもある。
とくに勉強会とか、研修などにおいては、パソコンの環境やプログラムによって
ハイブリッドコミュニケーションのスタイルとなることも多い。
デジタルとアナログの関係が同時に眼前に現れる。同時に処理することが
求められる。
これは、なかなか緊張を伴うひとときだ。

オンライン同士であれば、コミュニケーションの質が同じであるが、
オンラインとリアルが同時に展開されるのは、リアル側のその空気感やその様子をどのように、オンラインで参加している相手に伝えることができるか。
どこまで臨場感をつくれるか・・・はまだまだ課題だ。
今回は、リアルな現場の様子を伝えるために、オンラインで参加する側に、
チャットを使って、その状況を細かく、そこにいない相手に現場の様子を伝え続けたが、この役割が実は大事であることを、やりながら知った。
リアルな現場の様子が見えない人に、どのようにそのリアル感を伝えるかは知恵の見せどころかもしれない。

などなど、今、様々な経験の真っ最中だ。

それをしながら、思っているのは、やっぱりリアルなコミュニケーションが良いということだ。
人間は、オンラインだけでは、オンライン中心では生きてはいけない。
今は、やはりやむなき事情で、そうしているだけだ。
リアルに感じることが一番である。
と、ハイブリッドを経験するとより一層、強く思えてくる。

とにかく、ハイブリッドコミュニケーションは、ドキドキしまくり。
はあ、今回もなんとか終わった・・・。


カテゴリー: Essay (Word) | ハイブリッドキドキ はコメントを受け付けていません

スマイル フィニッシュ

毎日、いろんなことが起きる。
思わず、眉間に縦皺が入るようなことも多い。
疑問が次々湧いて、どうしようもないこともある。

でも、1日の終わりは、笑って済ませたい。
自分を認め、褒めて、幸せな顔で終わりたい。と思う。

そのためには、一日と真剣に向かい合い、全力で駆け抜ける。
そして、1日を振り返り、自分に「お疲れさん」と声をかけ、肩の力を抜く。
そのときは、自分に向けた心のスマイル。

どんな1日であっても、締めくくりは笑顔で。
そして、いい顔で眠る。

スマイル フィニッシュ。
そして、また新たな1日をスマイルではじめよう。

カテゴリー: Essay (Word) | スマイル フィニッシュ はコメントを受け付けていません

コロナ禍でも、元気にマルシェ。

子どもの頃、実家の近くに毎月〇日曜日に開催される「市」があり、そこに連れて行ってもらうのが楽しかった。
ある敷地に、普段は何もないところに、その日限定の市が立つ。
いろんなお店が軒を連ね、ちょっとした祭りのようであった。
そのハレの日感がたまらない感じ。

今も、世界各地にこの市は健在だ。
個人的には、フランスやドイツ、NYの公園などで開かれているマーケットは
本当に好きで、またぜひ出かけたいと思っている。
生産者が自らつくった製品を、会場にそのまま持ち込み、直接販売するのだ。
世界どこでも、このマーケットは、店の原点、売り場の基本。
マーケティングはここからはじまる。まさに売買が成立する、コミュニケーションが生まれる。自らの想いも伝え、顧客の声も聴け、新たな関係づくりができる場所。しかも常設でないところも、また魅力である。売り手にとっては高額な家賃の負担がない。買い手にとってはわくわく感。
もちろん常設店での安定感はないが。

さて、ちょっとした調べもののため、京都の手作り市を覗いてみる。もう30年以上毎月15日に開催されているイベントで、地元だけでなく近隣から女性客がやってくる。出展者も来店者も女性が多いのが特徴。
雑貨、小物から焼き菓子、パン、香辛料・・・・。
まさに手作りの品々が数多く、会場となっているお寺の構内に立ち並ぶ。
コロナの影響でこういった市も減っているため、出展者にとっては、出展する機会も減り、機会があってもお客も減って・・・なかなか厳しい状況のようであるが、それでも暑いなか、皆さん元気に積極的に接客されている。

そんななか、活気ある売り場をみつけた。さまざまな柑橘類のジャムを販売している。四国の出身で田舎から素材を送ってもらい、京都でジャムづくりをしている。町なかの売り場で見かけない、すべて手作り感満載のジャムたち。
その生産者と仲間が熱心に、通行客を呼び込み、試食をすすめ、そして販売。
見事な品ぞろえと接客だ。
「他のイベントにも出展していますか?」と聞いてみると
「いや、ここだけです。1か月に一度、この市に出てくるだけ。後の日は
 ジャムをせっせと作っています」
「他には出ないんですんか」
「出ないです。うちは、ずっとこの手作り市に30年近く出ていて、それ以外に
 出る意味はないと思っています。予約も入ってくるしね。ここでお客さんと会えるしね」
一か月に一度売る。そのために、他の日は製造に時間を費やす。
そういった商売もあるのだ。

大きな店を構えるのも、夢ある商いであるが、移動式、または限定の販売。
こういった売り方も大いにありだ。
もちろん多大な利益をもたらすとはいえないが、お客さんとの対話を楽しむ、
あるいは、まさにマーケティングリサーチとして、出てみる・・。
いろんな利用法がある。

コロナの影響で、イベントがまだまだ少ないなか、
青空の下の開催でもあるため、なんとか開催維持しているようだ。
今回、いろんな女性が自ら商品をつくり、お客さんとコミュニケーションを
している様を見て、時短や自粛を求められ続けているデパートなど大型、装置型の店舗との差を感じた。なんだか楽しそうだ。わくわく感が違う。

マーケット、マルシェ、そして市。
これは、これからも残る業態だと思う。
もちろん時代の変化とともにスタイルを変え・・・。

そういえば、今回のこの会場は、私が学生時代によく通った古本市でも
有名なお寺だ。
やっぱり、京都は市の町でもある。

カテゴリー: Essay (Word) | コロナ禍でも、元気にマルシェ。 はコメントを受け付けていません