久しぶりの新潟出張。なんといい天気だ。トンネルを越えると、雪国・・のあの風景が、この季節はこんな感じだ。
たんぼの緑が、実に美しい。たんぼは、全国各地にあるのだけれど、どうして新潟の田園風景は、とりわけ美しいと思えるのだろう。広大さもあるのだろう。
ここでとれたお米をいただく機会が多いから、そこで農作業をしている人たちの顔が浮かぶから・・・。そんなことがよみがえり、この季節の仕事の大変さも頭をよぎり、余計にこの緑が心に沁みてくる。
たんぼの緑と、大きな空の対比。新幹線の車窓から思わずスマホをかざした。
夏の新潟行は、車窓を眺めるのがいい。画面や本を見ていては、もったいない。
電車移動の醍醐味はこれだ。「あと、何回新潟出張できるんだろう」といつも思いながら乗ってきたこの電車。今日も再び、訪れることができる。田んぼの景色は私にとってのうれしいおもてなしだ。
私はこの季節と冬の新潟の風景をいつも比較して楽しむ。
この豊かな自然の中で、生き続けてきた新潟の人たちの心の豊かさ。そのことも感じる。
今は日本一といわれるほどの暑さに耐え、そして厳冬、大雪の冬に向けて・・・。
季節ごとの仕事をしながら、自然と共生する人々・・・。
美しい田園風景の向こうには新緑色の山々・・・。手前を白いトラックが走る。そして飛行機雲・・。人の働きを感じる1枚。まさに、風景は情景となる。
この約10分後、新幹線を降りた。暑さで思わず現実に引き戻された。
でも、そのなか笑顔で出迎えてくれた仕事仲間の歓迎ぶりに暑さも吹き飛ぶ。
美しいけれど、戦いの夏。今日もまたはじまる。
「それにしても、暑いね~」この言葉を何度も言いながら、新潟の夏を愛でるとしよう。
愛しい夏の情景に癒されて。
生でも、人工でも。
母の墓参りは、日課とまではいかないが、週に何度か足を運び、
「暑くなってきたわ~」とか、勝手に母に話しかけている。
そのとき、必ず花を持って行く。
当初は生花を持って行ったが、とくにこの暑さではまたたくまに枯れてしまい、
頻繁に行けない身としては、枯れた花が飾ってあるのは、どうも
良くない。と思うようになった。
周囲のお墓を見ても、枯れた花だけが残っている風景を見ると
なんともさびれた感じがして、気持ちも陰鬱になる。
さらに、何年か前に、新潟の企業さんで、そこに着眼して、商品開発している
ケースがあったことも思い出す。お墓のお花は、生がいいけど、無理な場合は・・。
そんなことで、あれこれ探して、
生花に見える、超リアルにつくってある造花をみつけ、
それを選んでもっていくことにした。
いかにも造花ではなく、カタチも色もその存在感自体が、生花に
近いのだ。
生花じゃなくても、花と言うカタチならば、なんでも歓迎だった母。
こんな思い出がある。
実家の玄関。下駄箱の上に飾ってあった造花の枝と花が、たまたま
玄関の戸を開閉したときに、挟まれていた。
それを見て、母が
「あ、花が、戸に挟まっている。取って。花が痛い、痛いと言っているから」
と、そんなことを言ったので、びっくりして、思わず、戸を締め直し、花を救出したこと。母は安堵した顔をしていた。そのときの様子が今も新しい。
造花でも、痛いと思うんだ。
造花も生きている。母の感覚で言うとそういうことだ。
生でも造花でも、もちろんプリザーブドでも、すべて花である。
花はすべて命がある。
母にとっては、そういうことだったのだろう。
もちろん生花が可能なときは、それを持参するが、とくに頻繁にいけない
お墓には、造花できれいに飾る。
遠くからみて元気が出る。誰のお墓かわかるぐらいに・・・。
昨日は、ひまわりとラベンダーを指してきた。
この暑い中、お墓に来られる皆さんが元気になれば…と思っている。
造花とは、まさにこういうときにも役に立つ。
母に捧げる花探しは、いつの間にか、最近の楽しみにもなってきている。
もうひとりの自分を生きる愉しみをもつ。
コロナの影響もあり、ステイホームの休日を過ごすなか、楽しみのひとつは映画や読書・・。と言う人も多いのではないだろうか?
テレビ番組で放映されたものを録画しておく、あるいは最近では専用のチャンネルも養父にあり、例のAmazonでは会員向けにかなり豊富なコンテンツを提供してくれる。ここの利用者が多いのは、このサービスの存在も大きく寄与しているのではと思うほどに、おかげで自宅で気軽に映画を楽しめるようになった。
新作も良いけれど、むしろ学生のときに読んだ小説、あるいは文学の講義に登場した映画作品など、今、改めて試聴したいものは数限りなくある。
20代のときに触れたものが、今観たらどう感じるか?は重要だ。
たまたま、フィッツジェラルドの「華麗なるギャッツビー」のタイトルをみつけ、学生時代の講義での話題を思い出し、映画を観始める。
100年前の世界恐慌前のバブルなNYを描いた作品。ストーリーはここでは触れないが、学生の頃に、この主人公の成り上がり的な生き様に興味を抱いたことや、アメリカンドリームの果て、現代社会の病みについて思いを巡らせたことなどを思い出す。
100年前はインターネットもなかった。電話のみ。そのやりとりが今となってはとても新鮮だ。電話を待つ。固定電話時代のコミュニケーションが懐かしい。
豊かで、華やかな時代が描かれている。
映画は、いつでも世界・時間旅行ができる。
スクリーン(今はモニターか)を見ているだけで、その世界に行った気分に、その時代を生きた気分に、そう、もうひとりの自分になったような気持ちになれる。本当に素晴らしい芸術だ。
表現の技術も日進月歩であるが、私にとっては、先進技術よりも20世紀後半の映画ぐらいがちょうどいい。その時代を楽しみたいのだ。
小学生の頃、夜9時以降の番組は見せてもらえなかったことも今は懐かしい。
淀川長治さん、水野春郎さん、萩昌弘さん、小森和子さん、おすぎとピーコさん・・・。映画全盛時代、素晴らしい伝え手がいた。
こういった方々たちが、日本人を西洋文化に導いてくれたといえる。
老後の楽しみ・・。といっては早すぎるかもしれないが、
映画をいっぱい観て、ピアノを弾いて、歌を歌って、好きな画集を見て、本を読んで・・・。夢が広がる。すべてインドアでできることだ。
そのなかでも、映画はもっとも贅沢な文化活動かもしれない。
しかも、夏は、映画を楽しむのに最適だ。
それにしても、デカプリオが演じたギャッツビーは最高であった。
次は原作を読み返すとしよう。
映画でもうひとつの人生にふれ、考える。まさに、これは宝の時間だ。
見直せる時期は幸せ。
生きている時間。限りがある。
よく人生を春夏秋冬に例える人もいるが、人生の場合は、冬から春とはならない。一度きりの四季ということになる。
冬とは、人生の最終章。
今の私は何の季節を生きているのだろう。残暑ぐらいだろうか?実りの秋というにはまだそこまで至っていないような・・・。
いずれにせよ、まだまだいろんなことが見直せる、改善できる。ありがたいこと。
一方、父のことを思う。
カラダの自由が効かなくなり、気力も低下し、自分から何かをするということが
もう難しい段階にきている。
昔のことを振り返り、懐かしんだりしているだろうか?父の胸中はわからない。
どんな風に冬の時間を過ごしているのだろう。
何かを見直すということは、すでに難しい。
気力体力が満ちていてこそ、見直し、やり直しができる。
悔いのない人生のために、できるときに自分の来た道を振り返り、
見直しながら、進むべき道に向かっていこう。
見直せることがあるのは、まさに生きているということ。
幸せなことだ。
有意義な人生にするために、見直しを繰り返し、微調整しながらゴールに向かう。
8月が始まった。
父がこの夏を乗り切ってくれることを、祈りつつ、自分が今できることを
やり続けよう。
「伝えるって難しいね。」
日々、さまざまな経営者、組織で働く皆さんと、それぞれに交流させていただいている。
そんななかで、コミュニケーションの難しさが、話題になることが多い。
どうすれば、相手がその気になり、理解して、動いてくれるか。
厳しい時代こそ、一丸となって動くことが求められるが、それぞれ違う人生を生きるもの同士が、ベクトルを合わせて、長い仕事時間をともに進むには、
お互いの信頼関係が何より重要だ。
組織のリーダーは、身をもってその思いをその従業員たちに知らせることで
信頼を得ることが必要であるが、その示し方も難しい。
言葉の力と、動かす力。
これは、コミュニケーション力の積み重ねによって磨かれる。
形だけで聴く人は多い。
心から何かを得ようとして傾聴してくれる人を増やしていかねばならない。
これも、日ごろからの積み重ね。
どんな役割、肩書であっても、同じ組織を支える一員同士。
あなたがいるから今がある。
あなたのおかげで、今日がある。
と、お互いに心からそう思えれば、伝えることも難しくはない。
といいつつ、日々、コミュニケーションの難しさに直面することは多い。
でも、伝わると嬉しい、響き合うと嬉しいから、
今日もそれを目指して、ひまわりスマイルでがんばろう!
朝カツ、朝連、朝は宝!
早朝ミーティングをよく行っている。
たとえば、京都に始発で出かけ、駅のカフェで、出社前の社長さんと
モーニングミーティング。いつの間にか、お互いにその時間を「朝カツ」と呼んでいる。口にするだけでも、元気が出そうな言葉だ。
「モーニング付けますか?」とお店のスタッフが言ってくれるが、
頼んだことはない。コーヒー一杯で、時には飲むのも忘れて、
限られた時間でてきぱきと話をする。限られた時間なので、予め頭の整理をしてくるところから、朝カツは始まる。
そのため、1時間でもかなり濃密な打ち合わせができる。
話すことで、頭を改めて整理して、出かけていかれる背中を見送りながら、
「今日もがんばって!」とエールを送る。
そして、最近は朝連も時々、実行。
親の用事などで実家に早朝に行くときに、たとえ15分でも20分でもピアノを
弾くことにする。
弾きながらわかったが、朝のピアノは、朝の珈琲に似ているところがある。
指先を動かすこと、心をこめることで、頭がシャキッ、心がすっきりしてくるのだ。
思い出せば、子供の頃、学校へ行く前にもピアノの練習をしてから行っていた。
すごいな。そんなことしていたんだ。と思い出し、やる気が湧いてくる。
朝練。これも本当に有効だ。
今の季節はとくに気温がまだ上昇しない朝が最高だ。
朝は宝。朝はいのちのはじまり。
今日も始発で。長い1日を元気に出発!
暑い朝は、とくに朝を大切にしたい。
太陽の花を届ける朝
夏は高齢者にとってキツイ季節となる。
脱水症状になってしまうのだ。
嚥下の力が衰えることで、水分補給を自分でできなくなる・・。
体力が低下すると、さらに悪循環になる・・・。
昨年の夏までは、そんなことを心配することもなく、元気な両親がいた。
コロナの四季を越えて、1年経たない間に、母がいなくなり、
ひとり残った父。
ほとんど外出できずの温室暮らしの、家族とも会うことがない暮らしのなか、
昨年のようなパワーがなくなってしまった。
脱水症状。
あんなにジュースをせっせと届けていたのに・・・飲めないなんて・・。
今、主治医の先生や施設の皆さんにお世話になり、いろんな方法で水分がとれないか試てもらっている。
お願いだから、飲んで!お願いだから、食べて!
看護士さんと電話で話した、尊厳死のこと。
父のことで、そんな話題をしなければならなくなったとは・・・。
いかんいかん、夏を乗り越えてもらいます。
父に元気に復活してほしい。絶対に夏を乗り切ってほしい。
せめて、せめてとひまわりの大きい1輪を買ってきた。
これを届ける。心の差し入れだ。
花も水を飲んで生きている。
お父さんもひまわりのように元気に1
そんな思いが伝わってほしい。
一緒に、夏を絶対乗り切る!
ひまわりって、よく見ると人間の顔みたいで、
個性豊かだ。
この一輪が、私たちの代わりに、父を今日から見守ってくれるように。
太陽の花。ひまわりに願いを託す朝。
今こそ、情報を見極める力。
ワクチンを接種するか、しないか。
世界中で、この意見は大きく二分されているようだ。私の周囲でも然り。
このウイルスの広がり方、不確実性から、リスクを考えて、接種しない
という選択をする人がいる。
そして、なんとアメリカでは支持する政党により、ワクチンへの賛否も真っ二つのようだ。
何かの行動を起こすとき、自分にとって信頼できる人が言ったことを信じる。
不安な時代、自分では判断できないからこそ、そのように選択をする人が多いのだと思う。正直、驚くが・・・。
また、SNSがなければ、多種多様な情報が氾濫することなく、もっとシンプルな結果になっていたかもしれない。
ワクチンを接種したくない人同士のなかでは、日々さまざまな情報が飛び交っているようだ。「〇〇という週刊誌に記事があったよ」・・といった共有もされる。へ?それを読んで、信じるの?と思うものも含まれる。
もちろん、自分が信じられる情報を選べばよい。
しかし、情報といってもいろいろある。二次情報、三次情報は確実とはいえない。
企業にも広報活動をする上で常々お伝えしているが、取材もしないで
あるいはある方向に引き寄せるために記事、客観性、学術的なデータを持たない情報は優先すべきではない。と常々思っている。
本当に知りたかったら、専門家の情報を自分でとりにいく。
また、まったく違う立場の情報もインプットしながら、幅広く情報を見聞して、より納得いく選択をする。
もちろん、誰を信頼すべきかは、人それぞれなので、人に押し付けることはしない。
自分にとって正しい、自分にとってより納得できる情報。を求めていく姿勢こそが重要だと思う。
人のうわさほど、無責任なものはない。
間接情報ではなく、自分で情報を見極める力。
情報を受け取る側の力で、世の中が変わっていく。
SNS時代はひとりひとりが責任重大なのだ。ということを、改めて心得ておきたい。
ワクチンは、自分のためだめでなく、社会にとっても、コロナを終息させるために協力すべきことだともいえる。
早く日常を取り戻すために、リスクなき道はない。
今こそ、清貧を学ぶ。
一時、「清貧」という名がつく本が流行った時代があった。おそらく時代がその反対の流れになっており、その教訓として、この本がよく読まれたのだろう。
大量生産、大量広告、大量消費・・・は、まさにその対極にあった。
そして、今もまた、清貧について意識することが、大変重要な時期にある。
経済優先という面だけでなく、情報についても同様だ。
情報が氾濫し、何事も、むさぼるような生活は、清貧の世界とは異なる。
今、モノも情報もあふれ、正しい判断がつきづらい時代になってきていることに
気づく必要がある。
また、自分中心の生き方、モノの考え方も見直すべき時期でもある。
自分のこだわりを捨て、与えられたもの、すでにあるものや周囲の人を大切にしながら、そして謙虚に、感謝をもって生きる。
自分が取るに足らない存在である、貧しき存在であるということを知ることから
清貧の精神ははじまるようだ。
現代のオリンピックの過剰消費、無駄なことは、まったくこの清貧に反する。
儲け主義ではなく、利己主義ではなく、同じ世界で生きる人たちが、その子孫たちが末永く明日を見られるように、自分を律し、わきまえて、生きていくことが
大切だ。
モノが豊かでも、心が貧しい人は、本当に気の毒だ。
モノがなくても、心が豊かな人。そうありたい。
そろそろ、私もそちらの方へ向かっていかねば・・。
貧しいという言葉・・。よく見ると、貝を分ける書いてあることに気づく。
そう、皆で分ければいい。シェアする気持ち、行動のことだ。
貧しいとは、本来そういうことなのだ。
清貧から教えられることは、とても多く、また深い。
「感動」について、改めて問う時間。
感動。心が動くこと。生きていく上で、私たちが、心豊かに生きるためには、
大変重要なことだ。
感動というと、多大なお金を使って、仕込みをして・・という場合もあるが、
お金をかける感動というのは、ある意味、感動されて当たり前であり、ビジネス的であり、意図され、つくられたもの。一過性である。
自分が考える、本来の感動とは、押し付けられたり、これでもかと、示されるものではなく、じんわりと心に響いたり、目に入ることで、心がきれいになるような・・そんな自分と世界との交わりである。
今回のオリンピック。多大なお金をかけて、建物を創ったり、いろいろクリエイティブらしきことをやって、そして開会式も・・。とにかくお金がかかっている。このお金があったら、貧しい国に、人に送ってほしいと思ってしまう。
見た目の立派さは、どうでもよく、素朴でシンプルが良い。
お金をかけなくても、普通に競い合うだけで、アスリートは力を発揮できるだろう。華美であることよりも、安心安全であること。時期も含め、そちらが最優先だ。選手たちが、何の不安もなく、のびのびとその力を発揮されるところで、人々は感動するはず。
もちろんこの環境下でも、感動は生まれている。兄弟で金メダルをとった選手たちのように。純粋に力を発揮する人には、理屈抜きで美しいと思える。
(今回は、感染大丈夫かなと心配してしまう自分もいるが・・)
話を戻す。
お金がかかった豪華な世界に感動するのは、もう卒業。
それよりも、日常の中に、小さな感動をみつけよう。
野に咲く花、小さな親切、きれいな歌、やさしいピアノ、美味しい一杯の珈琲、
暑いのに一生懸命生きている小さな生物たち・・・。
純粋さのなかに、小さな感動をみつけ、それをエネルギーに生きていこう。
一生懸命、まっすぐ生きる人を見て、そのさまを見て、人は一番感じる。
それがいっぱい感じられれば、心豊かに、優しくなれるだろう。
この2週間は、感動について、考える、貴重な時間かもしれない。