できることを、まず、する。

ワクチン2回目を接種した。ファイザー製。最近の報道によると、デルタ株への
効果は、従来と比べると低いそうだ。それだけ、デルタ株の感染力が強いということだ。
ウイルスとワクチンの熾烈な戦いが続いている。
ワクチンの接種について、アメリカでは、政治や宗教によって受け入れ方が
異なることで、国の分断がこんなところにも。その、その結果、再び感染が広がっているという。健康にまで、政治宗教が介入するとは、いささか厄介だ。
個人の心情が、他者に影響をもたらしてしまう。感染症は複雑だ。

何を信じる、誰を信じるかによって、人の行動は変わるため、リーダーシップは重要だ。
日本でも然り。非常事態宣言を受け入れるかどうかは、リーダーシップにかかっている。
ワクチンに話を戻す。

私にとっては、接種しないと施設の父にも会えず、今後出張にも影響するため、
迷わず接種。リスクは何にもつきものだ。

ワクチン接種後、その接種済のシールを受け取りながら 担当の人に
「これがあれば、海外に行けるということはないですよね」
「そうですね。これはあくまでも、2回接種したというものであり、
 そこまでは使えないと思います」
「じゃあ、そういう証明書はどこに行けばもらえるのでしょう?
どこできいたらいいでしょうか?」
「いやー、わからないです。まだ政治が何もいってきていないので」
想ったとおりの答えで、まだこの先の道筋は見えていない。

それでも、
でも、接種しないと次に進めない。
感染しても、重篤にならないなら、まだいいと思わねば、進めない。

期待しすぎず、でも、少しでも効果が見込めるならば、選択しない手はない。
おかげさまで、副反応は、今のところ、ほとんどない。
迷いながらも、できることをする。
道は開ける、光のある方へ進んでいる。とそのことを信じるのみ。

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やさしい顔を学ぶ。

何百年も同じ顔で、その時代時代の人々を励まし、慰め、見守る。
そんなことができるすごい存在。仏像や、マリア像など、信仰の対象
物は、表情が大切だ。
世の中には、無数の仏さんがあるけれど、私が一番好きなのは、
ふるさと岐阜 正方寺にある、この大仏さん。かご大仏とも言われて
おり、製法にも特徴があるようだ。
そして、大きさでも、知る人ぞ知る、日本三大物のひとつ。
と聞くと、驚かれる方も多いが、
そう、奈良や鎌倉に負けないお宝が岐阜にはある。

1812年の完成ということであるから、出来上がってすでに200年以上が経過。
お寺さんはこの大仏はもとより、この仏さんがいらっしゃる大仏殿の維持
管理にも力を注いでおられる。火事や自然災害、経年劣化からお宝を守るのは
大変な仕事だ。

以前この大仏さんのことを、地元の新聞のコラムに書いたと
坊守さんに告げたら、たいそう喜んでくださって、
「うちの大仏さんのファンでいてくださるんですか!!記事にしてくださったんですか!ありがとうございます~。」
と、ちょっと興奮気味に話してくださったのが印象的であった。

そうファンなんだ。その表現がこの大仏さんとの関係にはふさわしい。
檀家さんですか?よりも、ファンがいい。

それはともかく、この大仏さんの表情は本当に愛らしい。
思わず、話しかけたくなるのだ。
奈良や鎌倉の大仏さんには、そういう気持ちがおきなかった。
この岐阜大仏さんは、人間味があり、笑っておられるような、
耳のサイズのバランスがユーモアにつながっているだろうか。

今回久しぶりに足を踏み入れ、
「お元気でしたか」
と声をかける。

大仏さんから、表情を学ぶ。
話しかけたくなる人になる。
この人なら、聞いてくれそう。
そんな優しさを醸し出すように。

普段、つい、考え事をしていると眉間にしわが寄るけれど、
時々、いい顔を見て、いい顔を学びたい。

歴史を越えて、いい顔は変わらない。

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ふるさとは遠きにありても、近くにありても。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの」
とあまりに有名な室生犀星の詩があるが、
最近の私の心情としては、これに対して
「ふるさとは近くにありて感じるもの そして愛しく抱くもの」
と、そんな表現をしてみようかと思う。

この写真は、最近の、ふるさと岐阜の長良川の朝と夜の様子だ。
朝は朝焼けのころ、夜は鵜飼いの「総がらみ」というクライマックスの前の様子を遠くから見ていたものだ。

かの信長は城の上からこの町を見下ろし、天下布武に思いを巡らせたかもしれないが、私は岐阜城を見上げるこの長良川に、ふるさと岐阜への誇りを感じる。

ここから見る岐阜が大好きで、ここがふるさとであることを、誇りに思うのだ。

岐阜を出る若き日もよくここにきて、考え事をしたり、河原で歌ったり、スケボーしている少年と話したり、旅立ちを夢見たり。ここに来ると普段と違う、自由と解放感を感じることができた。

そして、岐阜を出たあとも、この場所が一番好きで、何度も何度もここに、会いに来た。
京都に行っても、東京に住んでも、ふるさとは岐阜である。と思わせてくれるのはこの景色だ。新潟の万代橋を渡りながら、いつもこの風景を思い出していた。

今、改めて朝と夜、この場所からふるさとを見る。
幸いなのは、もしかしたら、時代は違えど、
信長が同じ場所で夢を見た時期があったかもと
想像を働かせることができることだ。

生きる限り、どこにいこうとも、ふるさとは永遠である。
そして、勇気と夢を与えてくれる存在。

今、ふるさとに帰る人が多いこの時期。
それぞれが、それぞれのふるさとに思いを巡らす時期。
生きる上で、大切にしたいひとときであると思う。

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やっぱりリアル、やっぱり話そう。

コミュニケーション・クリエイターともう四半世紀近く、名乗っているけれど、
コミュニケーションの難しさは、今も、毎日のように感じ、試行錯誤を続けている。いろんな人と会い、交流しながら、物事を進めていく上で、そのことは永久の課題なのだろうと最近思う。
今日はうまく伝わったとしても、明日、違う相手、違う内容で必ずしも、うまく
いかないこともある。
親しいからと言って、常に伝わるということもない。
親しき相手こそ、違う存在であるということを、そのたびごとに意識しなければならない。
そして。コミュニケーションには、便利なツールがたくさんあるけれど、
それを使うが故に、その手法に慣れてしまい、相手の置かれた状況など
考えられずに直進してしまい、柱に激突ということもある。

できれば、できる限りリアルがいい。
できれば、直接話した方がいい。

ちょっと気になったら、電話に切り替える。
ちょっと気になったら、会いに行く。

しまった!と思ったらすぐにあやまる。
わからなかったら。よくきく。

結局、コミュニケーションは相手ありき。
少なくとも、相手に不安や不快、不信の3Fを抱かせては
いけない。

日頃から反面教師が云々といっているけれど、自分自身が
そうなっていることもある。
とにかく、

コミュニケーションは大切だ。
お互いを信頼で、絆で結べるいい関係になるように
きれいな花を一緒に咲かせるように、
せっせと、水やりをしたい。

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涙がたまって、思い出になる。

お盆の週を迎えた。
各地でさまざまな行事が行われる。とはいっても、コロナ禍で、いろんなことが
ソーシャルディスタンス、三密を避けて・・・。
本当は長崎の精霊流しも、京都の五山の送り火も、駆けつけたいが、今年は
お預け。何より今回は、母の初盆となる。
といっても、大したことはできないが、毎日一緒にいるような感覚で過ごすようにしているので、猛暑の今日、赦してくれるだろう。

毎日一緒にいるような感覚で・・。
と言っても、やはりまだ慣れない感じは残っているし、
ある日突然、「あれ?いないんだ・・・」と、果てしない不安というか
哀しみがわいてくることがあり、涙があふれそうになることもある。
でも、もうその回数は減っている。
気持ちが薄らいだわけではない。人様によると、日にち薬だともいわれる。
その気持ちに慣れてくるということもあるのだろう。

最近思うこと。
涙は確かにだんだん出なくなる。
泣かなくなるのだ。
泣きたいときは、涙が心の海に流れていって、
たまってたまって「思い出」になるのだ。
最初は、思い出すから泣いていたのに、
今度は、素敵な思い出に昇華していくのだ。
そう、時間ごとにそうなっていくのだ。
考えようによっては、素敵なことだ。
新たな永遠の存在になっていくのだ。

母との思い出は・・・。
無数にある。
毎日その思い出とともに、生きることになる。

一緒に在る。ということで、悲しみを越えて生きる。
初盆。
ほおづきを買った。涙のカタチに似ているような・・。

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長崎の鐘が心に鳴り響く朝。

写真は夏前の長崎市内の様子。新幹線の工事が着々と進んでいる。
どんどん未来に向け、発展していくかのように見える。
長崎が、どんどん近くなる。嬉しいような・・・なんともいえない気持ちもある。

76年前の今日、この町の原爆が投下された・・・。
見事に復興し、港町としての落ち着きを取り戻しているといいながら、
その傷跡は今だ消えるはずもなく、ただ、その犠牲になった人々やその子孫は
今も静かに祈りを捧げる。

「長崎の鐘」と言う曲が好きだ。原爆で最愛の妻を亡くした医師、永井隆氏の深い祈りが伝わる。
そして鐘の音は、平和の象徴。原爆で浦上教会の鐘が焼けおちたが、その存在は今も残っており、形を残し、平和の大切さを訴えている。
この上なく悲しいけれど、力強さを感じる名曲であると思う。
今朝はこのメロディを胸に、そして長崎の空を想う。

どんなことがあっても、人は争ってはいけない。平和の意味を心から考えねばならない。
悲しみの歴史を越えて、やさしく、たおやかに生きつづけている長崎の人々の笑顔が浮かぶ。
この現実が風化しないように、しっかり伝えていかねばならないと思う。

祈りを込めて、長崎の鐘を心で鳴らそう。

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狂騒から、協奏、そして真なる共創へ。

コロナの祭典。コロナ感染者数と、メダルの数の報道。なんだか本当におかしな現実。なぜ、今、同時進行しなければならないのか、私には今も、まったく意味不明。
お祭りときけば、わくわくじっとしていられない人たちの行動から、
またコロナの祭典が盛り上がる。こっちは記録更新してはいけないのに。

大阪の緊急事態宣言で遊べない、外食できない人たちが近場の滋賀県に出入りして、外食のお店は満員、行列。その結果からか、滋賀県でも急激に感染者が増えたと、地元の人から聞く。
祭りときけば、もういいか、もう開放、我慢したから自由にさせてくれ~。
今、日本中がまさに狂騒の夏となっている。

もういいかげんに。

コロナに感染しなくても、コロナ禍の環境故に寿命が縮まる高齢者がいる。
自分の両親も少なからず、その対象だ。
感染者数、メダルの数。こういった目先のことばかりに目をやらず、どうしたら
世の中が鎮まるのかについて、きちんと導くリーダーやマスコミはこの国には
不在のようだ。

落ち着いた日々に戻りたい。
特別な人の金メダルよりも、子供たちの運動会や、公平にみんなが楽しく
日常をおくることができる、そんな社会がいいのに。

こわれている。
オリンピックより平和を祈る静かな8月6日がよかった。
こわれている。
狂騒曲ではなく、静かな協奏曲が流れる日々、そして言葉ではなく本当の共創社会を今、改めて求める。
早く、終わってほしい。

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自分が映るのは・・・

鏡はよく見る。誰でもそうだと思う。1日に何回も見ている。
最近はZOOMで、モニターに映った自分を見ることがある。
ああ、こうやって見えているのか~。

さらに、それが記録され、ネット上に公開される・・・。
そんな事例は多いはず。

今回、オンラインミーティングで話している延長で PR動画をということになり、そのまま録画し、編集されたものを確認。
自分の顔と、視聴者に向かって話している表情を見る。
人にはいつも言っているが、自分は・・・となると話は別だ。
皺は仕方がない。口元が歪んでいる。声は、まあいいか。

原稿なし、いきなり収録、アドリブで良かったかな。
とにかく自己点検をすると、大変厳しくなる。
映るのは難しい。

改めて、撮られる仕事、見られる仕事をしている人は凄いと思う。
ライブではそんなことは感じないが、記録となると、緊張するものだ。

自分が映る、、は慣れることがない。


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健康とコミュニケーション。

普段、コミュニケーションの大切さをお伝えするときには、多くは発信する側の立場の話が多い。プレゼンの話にせよ、発表にせよ、とにかく自分が伝えたいことを、どうしたら伝わるか・・。という話が多い。
一方、それを見る、聞くといった受け手の姿勢も大切で、コミュニケーションとはまさに、この両者がうまく交わることで、より良い関係を育むことができる。
コミュニケーションが好きな人は、話すことが好きな人、いろんなことに興味がある人。そして、その楽しいコミュニケーションを続けるには、健康が前提であることに最近、気づかされることが多い。

とても快活で、元気いっぱいで、周囲を喜ばせることが大好きな、そんな知人がいる。
話すときもはっきりした声で、聴きとりやすい。
その方と久しぶりにお会いした。
すると、どうやら聴覚が最近不調のようで、人の話す声が聴こえなくなったという。
話すのが好きなのに、相手の反応が聴こえないというのは、とても困る。
会話がつながらない、キャッチボールができないので、コミュニケーションの良さを知っているだけに、不便を感じ、だんだん話すのが嫌になるとのこと。
聞こえないということは、本当に苦痛だと・・。
「今は、補聴器もいいのが出ているみたいですから、トライしてはどうですか?メガネと思えば大丈夫ですよ」とおすすめする。今回は、密になってはいけないと思いつつ、ついつい、その方の耳元まで近寄って言葉をかけたり、最後は筆談もした。
「そうですね。聞こえた方がいいですしね」
そう言いながら、別れる瞬間まで明るく、元気に会話しながら、手を振った。

年を重ねると、いろんなことが起きる。原因はいろいろあれど、とにかく
昨日まで当たり前だったことが、そうではないと気づかされることが多くなる。
私も、他人ごとではないと思う。

聴覚。そこでベートーベンを思い出す。
聞こえない世界で、また治療方法も確立されていないその時代、本当に不便で不快で、不安な日々を送りながら、そのつらさを作曲に向けたのかもしれない。
聞こえない世界。見えない世界。言えない世界。
これらの障害は自分の世界を閉ざしてしまう。
コミュニケーションが難しくなると孤独になる。
どんなにストレスを抱えていただろう、そんななかで、数々の名作を生み続けたベートーベンに頭が下がる。さぞかし、つらかった。そんなもんじゃなかったのだろう・・。
五体満足であることを当たり前と思わず、健康であることに感謝して、より一層の努力をせねば・・と思えてくる。

生きているうちは、元気にコミュニケーションしたい。
だから、必要に応じて、いろんなサポートを活用すればよい。

そうそう、あんなに抵抗があった老眼鏡。今は普通に持ち歩いているではないか。
背に腹は代えられない。

今、聞こえる今、しっかりその喜びを感じておこう。
当たり前の世界は、永遠ではない。

コミュニケーションなしでは生きられない。
改めて自覚し、今日も笑顔でハッピーコミュニケーションを!

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とことん、寄り添い業。

自分の仕事は大きく分類すればサービス業。コミュニケーションを通じて、
世の中を元気に、明るく、活気満ちたものにする仕事。
相手のオーダー、指示を待っているのではなく、自分から感じ、気づき、
働きかける。
相手の立場に立って、今求められることを察知して、ときには影、ときには日向となり、動く。
言い換えたら、おせっかい業と思うこともある。
こうしたらもっと良くなる。と思うことを伝えることも多い。
もちろん、相手に喜ばれなければ、それは意味も価値もない。
素直に聞き入れ、気づき、感じ、行動が変わる。そうすることでお互いがよくなる。そんな関係づくりがいい。
毎日、いろんな会社の社長さんに出会い、交わる。
毎日、いろんな会社で働く人々に出会い、交わる。
どちらにも、寄り添える存在でありたい。

さて、この仕事の終わりはいつだろう?
まだ、いける。まだ、行こう。
伴走する仕事、天職だと思っている。


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