エチケットもジャパンプライドで。

ネット社会の影響か、ひとりで画面に向かって過ごす時間が増えていることの弊害か、最近では、カフェやファーストフードや電車の中で、電話に出る人が増えている。少なくとも、最近自分が行く場所ではそんな光景をよく目に耳にする。
年配の方なら、まあ、お年寄りなので、仕方ないか~と思うことも多かったが、最近では若い人が、平気でそんな行動、会話をしているので、驚き、がっかりする。
先日も、20代ぐらいの男性がファーストフード店内で、WEB会議をしていて、さすがに驚いた。なぜこんな公的な場所で、そんな行為ができるのだろう。
以前、電車の中で化粧をする若い女性を見て、これも驚いたが、これはまだ
こちらが視界から外れれば、まあ、見えなくなる。
でも、通話の大きな声が店内に響くと・・・。

お店も、電車も、公的空間だ。
しっかり企業側も、お客に注意喚起をしなければならない。というのも
情けない話だ。接客業で、お客様に注意をするのは、なかなかむつかしい。
ハードルが高い。対応力がないと、トラブルになることもある。

もうかなり昔の話。携帯が海外で少しづつ普及し始めた頃。上海や香港の地下鉄内で、大きな声で携帯で話す人達を見て、マナーがないな。日本は、本当に
いい国だと。と思った四半世紀前。

ネット社会の普及は、公私をボーダレスにしている。
これは、人の迷惑を考えない、と言う悲しい現実でもある。

ジャパンプライド。ある企業が掲げている言葉であるが、
日本人のコミュニケ―ション意識、エチケット面もジャパンプライドを
保ってほしい。

若い人は、今、どこで教育を受けているのだろう?
ふと気になる。
相手によっては、近所のおばちゃん風でつい口を出したくなる昨今。
ふと、母がそんなことを嘆いたことを、思い出した。

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ピュアな心に触れる時間を。

障がいをもつ人たちとの交流、学びの機会を重ねている。
いろんなキャッチボールを試みて、その時々の反応でこちらも
多くの気づきを得ている。
YOU TUBEに公開している自分の演奏風景を、皆さんに見て
もらう時間があった。自分の今年を振り返り、両親の話をして、
ふるさと、親のことを想って作った曲(「みず・つち・ひと」
と、「ひと・文様」の動画を流した。

その間、うつむいて聴いている人や、じっと観て見入っている人や、
手もとに配付した歌詞を読みながら、静かに聴いている人、
足で拍子をとっている人・・・と、さまざまな反応。
演奏が終わると、大きな拍手をくれる方、じっとしている方。
これもさまざまだ。この「さまざまな様子」も勉強になる。
歌声を褒めてくれたり、じんときたとか、いろんな言葉を
投げかけていただいた。もちろん黙っている人もいる。
中には、すでに母親を亡くしている方が、演奏を聴いて
そのことを思い出したらしく、泣き出した方もおられた。
いずれも純粋な反応だ。

障がいがあっても、親の大切さや、ふるさとへの思いは、
皆変わらずだと思う。
障がいがあっても、苦労があっても、悲しみがあっても、
自分のルーツ(ふるさと・親)のことを想って元気に
生きることの大切さを伝えたかった。

その思いは、どうやらそれぞれに
受けとめていただけたようだ。

インクルーシブについて、昨日も書いたが、
お互いの違いを認めながら、一緒に助け合って生きる。
人としての根っこは共通だから。

障がいをもつ人たちとの時間を、もっともつようにしたい。
障がいに限らず、多種多様な人との関わりをもっと増やしたい。
利害ばかりを気にする、利益のみを追いかける、経済優先だけの
狭い世界ではなく、人としての問いかけを常にできる世界に身を置いて、
自分がすべきことを考え、行動したい。

ピュアな心にふれる。
このことは、とても重要だ。
きれいな心のまま、現代社会で生きることは
とても、難しいのだけれど・・。
流されず、自分らしく生きていくためにも、
これらの出会いや、貴重な経験を大切にしたい。

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インクルーシブなおつきあい。

ダイバーシティーと同じく、最近よく耳にする言葉。
マスコミでも良く使われているように感じる。

ダイバーシティとは多様性。ダイバーシティな社会といえば、多様性を
認め、共生する社会ということ。

一方、インクルーシブとは、さらにそれを包み込むイメージで、
包括的という意味。わかりやすくいえば、
みんな一緒に!ということだ。

いろんな個性、違いがあるけれど、それを認めて
みんな一緒に進もう、一緒に行こう。という意味。

今まさに、インクルーシブなおつきあいがはじまっている。
障害のある人、ない人が一緒に語り、交流する時間。
閉鎖的で隔離的な世界とは違い、違いを認め、一緒に
やろう!という気持ちがある関係は、本当にあたたかい。

一生懸命話そうとしてくれる人、思わず泣いてしまう人、
コミュニケーションをとるにせよ、カンタンに進まないことも
あるが、一生懸命話す人には、一生懸命聞く。ということだ。
わからないからといっていい加減な気持ちでいては、心が近づけない。
障がいを持つ人が、決して特別ではない。
本当に、そのことを実感する今日この頃。

インクルーシブなおつきあいからは、本当に学ぶことが多い。
それぞれを大切に思う気持ちを、忘れずに
ぜひ新しい世界を一緒に創ってみたい。
最近の小さな夢のひとつは、これだ。

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じんわりスクラップ。

実家での小さな発見は、まだまだ続く。
昨日は、こんなものをみつけた。
冷蔵の上部端にマグネットクリップで留めてあった新聞の切り抜き。
この冷蔵庫、10年以上馴染があるし、この2~3年も何回も何回も
開閉しているのに、そこはなぜか、視界に入らなかった。

だが昨日、冷蔵庫を開閉するとき、突然、視界に入ってきた。
「?何をとめているんだろう?」
よく見ると、岐阜新聞で行っているミニコンサートの告知記事だ。
クリップは旅行先で求めてきた記念の品だと思われる。

3月で終わっているということは、2019年時点のものと思われる。
父が脳梗塞になる前のものだろう。
2か月に一度のこの小さな告知記事を、しっかり切り抜いて、
こうやって冷蔵庫の端っこにまとめて留めていた。
何のため?楽しみの記録か?思い出の保存か?
コンサートの前日に記事をみつけて、
「載っとる、載っとる」と切り抜いて、
冷蔵庫の端にとめてある前の記事に上に挟む。

と、まあ、こんな流れだっただろう。

いろんなことを想像するが、新聞好きの父、またコンサート命の
母にとっては、この記事の切り抜きから、イベントは始まっていた
のだろう。楽しい習慣になっていたのだろう。

こんなことも楽しみに、日々の暮らしのアクセントに
していたのかと思うと、
元気な頃が蘇ってくる。

こんな小さな発見から、心がじんわり・・・。
冷蔵庫がある限り、いや、それ以上、この記録はこのままに。

そのコンサートは、もちろん続ける。次は11月29日。
このスクラップを胸に・・・。

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墓に見合う人生か。

この半年、わが人生で経験なかったほど、お墓に行く回数が増えた。
とは言っても、とくに宗教心があるからではない。
単に、親のことについて、今できることはしておこうと思うから、
花をもって足を運ぶ。気になるので、毎週通う。
父の施設と、母が眠るお墓と、実家と・・・。花を3つに分けてそれぞれに
飾ったり、少しでも気持ちが途切れないように・・そんな気持ちで
お墓には足を運ぶようになった、この半年余り。
でも、手を合わせているのではなく、
墓石に水をかけながら、花を交換しながら、
「敏子さん、あんたは、幸せだよね。本当に・・・」
と、生前話していたように、母に向かって普通に言葉を交わす。
「もうすぐ、お父さんここに来るわ、待っとりゃー(待っててね)。」
「じゃ、もう行くで(行くわ)。また来るわ」
という感じだ。会いに来ている感じ。
間もなく、父もここに来るので、母も寂しくなくなるだろう。

さて、親の墓について、当面はこれで良いと思っている。
でも、実際、自分たちが年老いていけば、こんな風には通えず、
また、きっと考え方や捉え方も変わってくるから、
こんな風にはならないかもしれない。
亡くなって何十年も経てば、お参りする人もいなくなり、
荒れ果てて・・・そんな例も多数ある。

一方、何十年経っても、百年以上経っても、
きれいに守られて、朽ちることなく
絶えず訪れる人がいる・・そんなお墓がある。

以前、何度か通ったベートーベンのお母様マリアさんの
お墓は本当に、印象的であった。
ベートーベンをこの世に生んだ偉大なお母さまゆえ、
亡くなってから200年以上経っても、地元の人が
世界からの来訪者が絶えず、きれいにしてある。
人々はこのマリアさんに感謝の祈りを捧げる。私も同じ。
また、ブエノスアイレスのピアソラのお墓に行ったときも
感動した。あの墓地には今は、マラドーナも眠っているだろう。
世代を越えて、時代を越えて、足を運び、祈る人が絶えない墓。

と、こんなお墓は意味がある。
ということは・・・。
偉業を成し遂げれば、後世尋ね、祈ってくれる人もいれば
お墓は意味がある場所となる。
でも、時間とともに忘れられていく人で終わるならば、
何もなくてもいいような気がする。

今のところ、私はお墓無用派。
お骨を好きだったいくつかの川へ撒いてほしい・・と
思う。そして川から海へ・・。
と、その方が自分に合っている。
墓をもつ、残すならば、
墓に見合う人生であるように、まずはしっかり
生きておくべきだろう。
墓じまいをする人も増えていると聞く。
墓の意味が、これからどんどん変わっていくと
思う。
とにかく、後の人に迷惑をかけず、負担もかけず。

ああ、訪ねてみたい、あの人に会いたいなと
亡くなってもそう思われる人であるように。
墓の有無よりも、人の心に深く刻める存在に
なりたい。できれば・・・。
墓地を歩くことで、いろんなことが浮かんでくる。
見方によっては、人生の終着点としての墓。
ではあるが、やはりそこに向かうまでが、一番重要。
墓だけ立派でも意味がない。

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カレンダーと新たな記念日。

新潟の野花を描いたきれいなカレンダーが届く。
毎年この時期になると、その花のごとく、そっと届く、
ありがたい季節の贈り物である。

今年の分は、年初から実家の母の部屋に掲示して、きれいな野花の絵を
みつめる母に、「これは、Tさんが送ってくれたよ。覚えとる?」と
話していたが、3月にその部屋の住人は不在となり・・。
その部屋にある、もうひとつの書き込み式の大きなカレンダーは、
母の介護生活の日課などを記すために使っていたが、3月で
その役割を終えたが、今なおページをめくらずに、そのまま飾ってある。
そう、時が止まったまま。

一方、野花のカレンダーは、4月以降も毎月めくりながら、使用。
各月のお花のイラスト部分は、切り取ることができるため、
この絵に文字を書き込んで、父への絵手紙として毎月、施設に届けていた。

10月に父も母も不在となってからも、この野花のカレンダーは静かに
実家の壁に咲いていた。

そこで、届いた2022年バージョン。

「来年から、ふたつの新しい記念日が増えますね」・・・。
とお手紙に添えられており、心がじんとなる。

そうか、今年のはじめまでは、家族には誕生日しかなかったのに、
命日という記念日がふたつも増えてしまったのか。

誕生日と命日。
大切な人を送るということは、記念日が増えるということだ。
こんなこと、生まれてから考えたこともなかった。

愛らしい野花が描かれたこのカレンダー。
やっぱり、実家の母が最期まで、そして今は二人が住む
実家の部屋に飾ろうと思う。

もうすぐ2021年が終わる。という実感がわいてきた。
今日も大切に生きよう。
今日も、世界中の、誰かの記念日だ。

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仕事があってよかった。

ご無沙汰している人から、突然メールが入る。
近況を知りたくブログを読んでいたら、ビックリして
連絡したという方。
親のことを心配されての連絡だ。
気にかけていただいて、本当にありがたい。
短い期間に両親が続いて亡くなることは、どんなに
悲しいことか・・・と、心から心配してくださっている。

気が付けば、まだ父の旅立ちから1か月も経っていないのに
もうずっと昔のことのように感じることがある。
悲しみや寂しさを寄せ付けないように、ただひたすらに
忙しく走っているせいかもしれない。

仕事があって本当に良かった。
それがなければ、どんな風に日々を過ごしていることだろう。
仕事があることで、自分の気持ちがそちらに向く。
涙を流したり、ぼーっとしたりすることができないことが
とてもいい。
もちろん、何かの合間にふと、思い出すことはある。
が、今、自分が向かうもの、今、がんばらなければならないことが
あることで力が湧いてくる。
そして、それを応援してもらっている・・そんな気持ちになることができる。

仕事とは、自分が元気に生きるために、ありがたい存在だ。
もちろん、生きること自体が、仕事であるのだけれど・・・。




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with コロナのおもてなし。

東京の飲食店に活気が戻り始めた。
といっても、まだまだ本調子とまではいかないが、
それでも、お店で働く皆さんの表情は明るく
「本当にようやくです。やっとです!おかげさまで!」
と、元気な声が聞こえるようになってきた。

コロナ禍のなか、外食業界は、本当に耐え忍ぶしかなく、
残念ながら、生き残ることができなかったお店も多い。
そんななか、外食がダメなら、弁当でテイクアウトで、
と工夫を重ね、少しでも売り上げがカバーできることを
頑張り続けてきた店もある。

都内の馴染の店もそのひとつ。
この1年半の苦労の末、弁当がひとつの武器になり、コロナがおさまった今も、
弁当への注力は欠かさず、これをきっかけに来店促進につなげる。
弁当がきっかけでお店のこと、その美味しさを知ってもらう
ことにつながる。
弁当は、外食にとって、新規客獲得のフックになる。

そして、コロナが落ち着いた今は、もともとの本業である
来店客へのおもてなしをしっかりやって、そこで勝負しなければ
ならない。大人数の会食は推奨できないが、少人数での
静かな会食。これをいかに推奨し、需要を掘り起こしていくか。

その店に、立ち寄った。
コロナ禍においては、テイクアウトやランチのみの
利用であったが、久しぶりのディナータイムの利用。

昼と違って、夜はお店をじっくり見る。空気を感じる。
ランチタイムは時間が限られていたり、ビジネスの合間
でもあり、そんなに改めて空間を感じることはない。
夕方こそ、ゆっくりその店をまるごと味わうのだ。
レストランとは料理だけでなく、
サービス、空間含めまるごと味わう・・そういう業態だ。

ソーシャルディスタンスを考慮したゆったり空間、
安心して着席をし、
説明を受けながら、季節のメニューをまず眺める。
外食の楽しみは、メニューを見て選ぶところにある。
追加オーダーをできる楽しさもある。

料理の説明は、ポイントだ。。
自粛モードのときは、あまり説明もできなかった。
料理を運ぶだけでは味気ないが、そんなことを求められる
時期もあった。会話を控えた接客の工夫も必要であった。


だが今は、
料理の説明をスマートにしながら、お客様の心に留める。
そして、気になることがあれば、お客の方から質問をする。
ここが大切だ。
聞き流されるのではなく、しっかりきいてもらえて、
質問されるのが、理想のコミュニケーション。
それが、お客様との関係づくりに役立つ。

さらに、料理の提供。
美味しい料理をお出しすることは当たり前であるが、
その提供の仕方。とくに今では、取り分けをきちんとお店で
行い、お客様に手間をかけず、安心して召し上がっていただける
工夫を重ねること。

この「ひと手間かける」ことの徹底が大切だ。

コロナがなければ、このひと手間かける・・・がないがしろに
なっていたかもしれない。
勢いの中で、多くの客、注文をこなすことに追われていたのかも
しれない。

コロナは大切なものを、大切にする。
当たり前のことを、徹底する。
ことを教えてくれたと思う。

そして、
外食はもう不要じゃないか。と思ったお客様に対して、
「やっぱり違う」、「来てよかった!」「また来たい!」と
思ってもらえることが、リピート利用につながる。

コロナ禍の大変な経験と、そこからの教訓をしっかり生かす。

ひと手間かける。ここをしっかり伝えることが
WITH コロナ時代の、おもてなし。
そう実感した、久しぶりの東京ディナー。



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当たり前だった日常が戻る喜び

東京時代に発見した、神田の居酒屋。あまたある飲食店の中でも、奇をてらうことなく、ただただ美味しいものを提供するお店として、人には教えたくない店として、お忍び利用をしていた。結果的には、いろんな人をお連れしたり、しっかり応援団になり、また社長さんとも仲良しになり、彼のふるさと山口でのザビエルコンサートのご協力もいただいたり・・と切っても切れない仲になった。
大繁盛店であったため、コロナの打撃は本当に大変であった。
それでも、弁当ややきとり、やきとんのテイクアウト専門販売も始めて、
知恵を絞り、会社全体で乗り切ってこられた。そんな1年半、時折声をかけ、私鳴りに応援してきた。

久しぶりに顔を出す。
コロナ明けと言っていいかわからないが、コロナ後、やっとの平常営業だ。
神田は平日が勝負だ。
週末ではないが、祭日前と言うこともあってか、満員。
お客さんが生ビールやチューハイを次々オーダーしている。
店員さんもてきぱき、忙しく動き回る。
「まだ、カラダがついていかないですね。」
と、うれしそうに店長が応えてくれる。休むことなく、ずっと次々注文されてくる焼き物を担当。これが子のお店の看板商品だ。
客席は、まるで、昔の居酒屋風景を映し出した映画のように、サラリーマンらしきお兄さんたちが、ジョッキ片手に語っている。久しぶりでうれしくてしょうがないという空気が店内にあふれていた。これが、居酒屋だ。
なんだか、とても微笑ましい感じがした。
前と違うのは、お店の換気と、テーブルの消毒液。

みんな、待っていたんだ。この時を。
外食は、もういいかな。
と名古屋にいると、そんな感じがしていた。
居酒屋というコミュニケーションが前提になる飲食店という業態は
もう難しいのではないかと思っていた。

でも、やっぱり、待っている人がいる。

「まだまだ前のようには戻りませんが、
常連さんに支えられて、だいぶ戻ってきました。」
社長も、普段のパワーを取り戻し。いきいきされている。

当たり前であった日常を失った時間があっただけ、
この日常がよりありがたく、幸せに感じられる。
「やっと、これで仕事できます。働けます!」
目を輝かせて女性スタッフが言ってくれた。
再会の喜びとともに、彼ら彼女らが、いきいき仕事を
していることが、本当にうれしく感じられた。

居酒屋。
待っている人がいる。
それは、コミュニケーションしたい人。
その観点からお店を観察しながら、この状況がずっと
続くようにと心から願い、カンパイ!

「また来るから、元気にがんばってね!」




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相対的より、絶対的であること

今回の選挙。あまり政治のことには触れたくないが、
学んだことがある。そのことについて少し。

他人の批判ばかりしていると、決していい印象にはならない。
批判ということは、相対的でしかなく、同じレベルでいるということ。
ときに、見苦しくもある。

批判ではなく、新たな観点で前向きな考え、戦略を打ち出し、元気が出る
メッセージを出せること。
相手がどうこうより、自分ならこうする!
これが見えることが相手に安心感を与えることができ、共感されれば
投票される。

今回、躍進した大阪生まれの政党は、
「消去法で選んでください」
とのメッセージを発信していたとのこと。
ユニークである。
国民から見れば、今は消去法というのが正しい選び方になる。

ここしかない、ここがいい!

と思っている人は多くない。
であるならば・・・。
うまい戦略だと思い、これは個性あふれる、新しい目線、そして
今の世の中に合っているとも思った。

今の世の中に合っている・・・。政治とは現実の暮らしを左右するもの
だから、世の中に合っていて、そして共感できるものでなければならない。

人の批判より、自らを語る。
私はこうです。
相手よりも、自分を示す。

相対ではなく、絶対。
やっぱりそれが正しいということを、今回も学んだ。
もちろん
全体的な結果が自分の意見とあっているかは別であるが、
まさに全体的な消去法での・・結果であろうが、
今後、躍進する新たな風の動向に注目していきたい。

相対ではなく、絶対であれ。

グラン・ルー誕生の瞬間から、心に決めていたことはこれ。
貫き続けようと思う。

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