次は遺言ですか?

相続とは、誰かの「子」である限り、多くの人が無縁では
生きられない宿命的なことだということが、だんだんわかってきた。
親が元気なうちは、言葉だけの「相続」、よその世界での話。自分には関係ない、と思っていたが、これが、親の旅立ちとともに現実の課題として、自分にのしかかってきた。

ところで、この「相続」という言葉は、もともと仏教用語だったという説もあるようだ。
先祖の思い、存在を受け継ぐ。というのが本来の意味のようで、
単に財産を承継するとか、分け合うというのとは違うようだ。

とすると、相続とは、大変に重い仕事ということになる。

正直、私にとって、今、人生の荷物が増えた感じがしている。
持ちたくない荷物を誰かが持ち、なんとかしなければ。
今、この荷物を捨てるわけにはいかない。
少し、先を見ながら、ベストな方法を選び、実施していかねばならない。

と、そんなことを考えていくと、次は自分の人生のしまい方となる。
相続のことで、司法書士の方と話していると、
相続の次は、遺言ですね。
という会話になる。

自分の遺言の話である。

そんな年齢ではないのに・・・と思いつつも、今のうちがよいのだとも
思えてくる。
命が終わるまで、何かしらの役割や荷物を持ち続けて 
命を燃やしていくのだろう。
周囲に迷惑をかけずに旅立つためには、必要なこと。
相続されるときの段取りを自分でしていく、そして終わる。

人生は、なかなか落ち着くことができないもののようだ。


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マッチングで、魅力度アップ!

昨日と同じ花が登場。
ちょっとしたワンショットでも、何と組み合わせるか、何を背景にするか
で、まったく別モノになるという一例。
毎日、ほんのちょっとした遊び心で、心豊かに、幸せになれたりするものだ。

昨日書いた、旧友が贈ってくれた紫のブーケ。
何と組み合わせするといいか?昨日はリストの楽譜の表紙をもってきた。
優しく上品な感じがした。
では、ちょっと雰囲気を変えてこれはどうだ?
去年のベートーベン生誕250年のときのフライヤーの表紙。
お馴染みのベートーベンの肖像画をもってくる。

花の贈り主に、この画像を見せると、「自分で贈っておいていうのもなんだけど、ベートーベンによく、似合うね。」
そう、激しい感じ、強い印象のベートーベンと大振りの紫のブーケはよく
似合う。いいマッチングができた。

と、ほんの1~2のおあそびタイム。
こんなことだけで、1日が楽しくなってくる。
何を組み合わせるか?
一杯の珈琲や紅茶を飲むときも同じだ。
どんなお菓子と組み合わせる?
小さなことで楽しめることこそが、本当の贅沢なのかもしれない。
コミュニケーションはマッチングと深くかかわっている。
誰と誰を組み合わせると?こんなことも大切だ。

心おだやかに、やさしく、豊かに。
いい1日を、今日も!
首都圏の方は、足元、くれぐれもお気をつけて・・・。

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ブーケに導かれる新しき年。

年賀状やおめでとうと言うあいさつのない新年という、このなんとも慣れない、寂しすぎる味気ない1年のはじまり。思うことが多々募る年明けである。
こんな経験は人生で初。正直長い数日だった。
間違って年賀状を出しましたと言われると、ホッとしたり、嬉しくなるほどに・・・喪中の正月はなんとも・・・である。
何度も経験したくないと、正直思う貴重な年明けだ。

そんなところ、旧友が久しぶりの再会に、特製のブーケを持参してくれた。
紫が好きだった母のためか、私のことを思ってか・・・。
「はい、これ。よかったら飾ってね。」本当に、うれしくてたまらない。
実は、その前に、お墓に寄ったら 2日前まで元気だった2本のチューリップが
ぺこんとおじぎしていて、その花を取り去りながら、花の命の短さを感じていたところ。
そこへ、またこの新しい花に出会えて、自分が生き返った気持ちにもなった。

ブーケ・・・。アレジメントと違って、自由度がある。
また、花束はステージをイメージし、また拍手の場面も浮かんできて、高揚した気持ちになる。
とあれこれ想像を膨らますだけでも、幸せな気持ちになれる存在だ。

いつの頃からか、花とは最高のコミュニケーションツールであると
実感するようになった。
寂しいときも、悲しいときも、うれしいときも、楽しいときも・・・。
喜怒哀楽をすべて包んでくれる存在。
とくに、親が旅立ってから、花は友達のような存在になっている。

音楽の学友からのギフトだから、ちょっと楽譜と一緒に・・・。
ありがたい新年。
あらゆることを乗り越えて、感謝を忘れず、
さしくしなやかに生き抜いていこう。

と自分に約束する夜明け前。

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最後のサプライズ

ありのままの自分のまま生きる。と言う人がほとんどだろう。
でも、中には、
なりたい自分、あるべき自分になるために、
名前を変えたり、シェイプアップを図ったり、もっといけば整形手術をしたり、
年齢を実際とは違うことにしたり、あるいは・・・。
世の中には、いろんな変身があるようだ。
私の場合は、ニックネームがあったり、イメージカラーを決めていたり、ま、その程度であり、整形をするなどは、今のところ、選択肢はないが、
いつまでも、若々しくなければ、この仕事はできないと思っている。
そう見えるための努力は、続けていこうと思っている。もちろん自然体でできる範囲であり、何か特別な薬を服用してまで若く見せようとは思っていないが。

でも、職業によっては、見た目を変えたり、年齢の印象を変えたり…は大切
かもしれない。また、自分がもっと年を重ねたら、何か必要だと思うのかも
しれない。

あるべき自分、なりたい自分になるには、それなりの努力と覚悟と、投資が
必要である。

それも含め、思いっきり生きる。そして、人生が終わったあと、
「実はそうやったんだ~」
と最後のサプライズを与えることもありかもしれない。
最近、そんな人に会って、いろいろ考えさせられた。

やるなら、覚悟をもって、変身する。
秘密のある人生は、悪くない。
その代わり、最後までその役を貫くこと。
そうしないとカッコ悪く、人生も締らない。
これになりたい、これをやろう!と決めた人の生き方は
ときに周囲の想像を超え、独創的である。


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冬のチューリップ

正月前に、チューリップを買った。赤と薄紫を3本づつ。
2色1セットにして、お墓と、実家と、自宅に分けた。
チューリップには、さまざまな思い出がある。
とくに冬のチューリップ。雪の日のチューリップ。

もう何年も前のこと、都内でライブをした日に、
お客様にバレンタインのサプライズとして、
新潟からチューリップを取り寄せた。
そのときに限って、大雪になり、電車が止まって何名かのお客様が
来られなくなったが、新潟の皆さんのご協力で、
チューリップの花束はちゃんと会場に届いた。
雪の中にかれんに咲くチューリップは、春を告げる元気の花だと
その花を1本づつお客様にプレゼントして、大変喜んでいただいた。

チューリップ生産の日本一は新潟。そこで毎年開催される花イベントで
トークショーライブに出演したことがあった。
花の歌も歌った。花に囲まれて、楽しい演奏ができた。
花が大好きな母は、
友人と一緒に、岐阜から新潟まで見学にやってきた。
いい新潟旅行だったと喜ばれた。

亡くなる半年前、自宅で過ごした母と私をつないだのは、一輪の花。
ときにバラの花、そして時にチューリップの花。
花瓶にそれがあることで、会話がやさしくなった。
「新潟へ行ったな。花ももらったな」
共通の話題も続いた。
花と音楽は、母とのかけがえのないコミュニケーションツールだったと、
今改めて思う。

だから、今も、墓に実家にと花をせっせと運ぶ。
咲いた、咲いた。
冬に咲くチューリップは、どんな寒くても、厳しくても
必ず春が来るよ。と
明るさと元気を与えてくれる。

さあ、今年の春に向け、どんな花を咲かせようか?

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賑わいへの安心と笑顔。

お正月。今年は、昨年の静けさとうって変わって、賑やかだ。
初詣に出向く人も、昨年の倍以上という記録もあるようだ。
また、帰省する人の数も一昨年前に近づいている。
新幹線や高速道路は、そろそろ今日あたりが、
Uターンのピークだろうか。

笑顔で再会、そして再び・・という家族も多いことだろう。
無事に久しぶりに再会でき、お互いの元気を確認
できたことは幸せなこと。
1年のはじまりに、この行事は欠かせないだろう。

そして、賑わいがあることへの安心。
人がいるべきところに人がいることへの安心。
お客さんも、店の人もうれしそうな初売り。
いっぱい紙袋を持って・・という姿もちらほら。
我慢を重ねたこの1年、2年の疲れが、
行動の再会とともに、回復しつつある。

生きる上で、「安心」という以上の幸せはない。
街を行く人々の笑顔を見て、
こういうことが幸せなんだ・・・。

そんなことを感じる
1年のはじまり。
賑わいは続いた方がいい。
経済的にも。
でも、再び足を止めなくて良いように
少しセーブしながら、七割の気持ちで、楽しむのが良いかも。

賑わいと笑顔。
平和で無事であること。このことで、小さな幸せは生まれることを
忘れずに。

もう今年が、3日目になってしまった。




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元旦から、ありがとう。

年末年始、ゴールデンウィーク、お盆、シルバーウィーク・・。
数々の連休があれど、多くの人が休暇をとっているときに、働いている人。
とくにサービス業の方が多いかもしれないが、交通関係、そして医療関係も
ノンストップだ。
人が休むときに、お仕事されている人のこと。
休む側でいるときは、あまり意識しないかもしれないが、家族や自分がその立場になると、休みといえば、働く人の方に目がいく。
そういえば、自分も高校生の頃は、こういった連休のときは、せっせとバイトに
行っていた。地元のステーキハウスで家族団らんでの外食される方のサービスをしていた、忙しい店で働いていたあのひとときが、懐かしい。あつあつの鉄板を何枚ももって運んでいたなあ・・・。

駅のキオスク。今はコンビニになっているところが多いが。
元旦は、普段の通勤客や学生ではなく、帰省客など、レジに多くの人が並ぶ。
自分の番になって「元旦から、お疲れ様です」と、思わず、
声をかけてしまった。
知らない人であるけれど、つい、そんな気持ちになった。
元旦から営業をしているハンバーガー店に行っても、つい、いつもより
大きな声で「ありがとう!」を何度も言った。

人々が楽しく休めるように、移動できるように、買い物できるように、お食事できるように・・・そのために働いている人たちに、改めて感謝したい。

一方、休みだからと、おせちをいただいたり、普段と違う食事を楽しませて
いただくのが、当たり前のようになっているが、決して当たり前ではないことを
感じながら、しっかりとこの1日1日を過ごしていきたいと思う元旦。

いろんな人のおかげで・・・新年を過ごさせていただいている。
そして、かけがえのない家族団らんを楽しく過ごしていただきたい。
そんな静かなお正月。大切な1日、すべて良き思い出に。

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2022年カレンダーができました

皆さま

新しい年がスタートしました。
心新たに、愛にあふれる、元気な1年にしたいと思います。
どうぞ、本年もよろしくおねがいいたします。

2022年のオリジナルカレンダーができました。
コロナ禍でしばらく、海外での新たな経験、撮影ができていませんので、
国内をはじめ、また過去の作品から、今年はザビエルとマーサ?の
つながりの地を中心にセレクトしています。

岐阜、長崎、山口、マカオ、パリ・・・。
小さな世界での世界旅行を楽しんでいただければ、幸いです。

ご希望の方には、ご一報いただければさしあげます。
但し、限定のご用意となっておりますので、品切れの場合はお赦しください。
みなさまにおかれまして、2022年が素敵な1年になりますように。

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真の意味の、新しき年。

新しい年が来た。
昨日からつながる1日のはじまりではあるが、社会生活を送る上での
ひとつの節目、区切りとしての1年のはじまり。
365日を数え直す、はじめの日だ。

暦が変わること。何かをはじめるには、けじめとなり、チャンスでもある。

今年は、新年のあいさつをする家族が減ったという点で、これまでにない
ちょっと慣れない変な年明け。
「おめでとう」と言えない、言われない。これは人生初の経験。

いろんなことを思うが、とにかく、与えられた人生をまっとうするということ。
親より先に逝くという順番を間違えること、誤ることはなかったのは、本当に
幸いだった。親たちはきっと安心して、旅立っただろう。

親を見送ることができた今、この新年は自分にとって、本当の自立のはじまり
だと考える。
真の意味で、自分にとって新しき年になった。

さて、この新しき年に何をするか。
ある意味自由になった、ある意味、老いもそのうち迫ってくるという危機感も
抱く。
などなど、いろんな現実を踏まえ、
自分らしく、どこまでもどことん、自分らしく生きること。
そして、出会う、全ての人に感謝をしながら、そして、社会に少しでもいい影響を与えること。人の役に立つこと。

これをさらに意識して、前に進みたい。

両親の姿は見えなくても、自分の中にいる。あるいは包まれている。見守られている。
と、そんな意識をもって、悲しみを力に変え、
この世の中で、今しばらく、強くしなやかに生きていこう。

2022年は真の自立の年にする。

まだまだコミュニケーションクリエイター業も道半ばですが、どうぞ本年も
宜しくお願いいたします。

皆さまにとって、幸多き1年となりますよう、心よりお祈りしております。

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2021年最終日の想い。

2021年が、いよいよ今日で終わる。
今年は、わが人生のなかで、いつもと違った大晦日だ。

周囲では、今年のニュースとか、今年亡くなった方・・・など
この1年を振り返っているが、何を見ていても、自分にとっての
一番のニュースは親のことになる。
その時その時は、とにかく必死に駆け抜けてきたが、
改めて考えると、さまざまな思いが募る。

この1年、どんな道のりだったのか、両親それぞれとの日々、
送った日のこと、その後のことなどなど・・・。
1日たりとも、親のことを考えない日はなかった365日。
こんな1年は、これまでになかった。
仕事もがんばったけれど、親にはじまり、親に暮れた1年。
まあ、なんとかよくやったかな。

それは、すべて今年のこと。
そして、その今年も、今日で終わる。
今、その今年が終わっていくのが、何とも言えない気持ちである。
出来れば、終わらずにいてほしい。という気持ちもある。

今年は、まだ両親と一緒に生きた時間がある。
年が変わると、一緒に過ごした時間が過去のこととして、
遠くにいってしまいそうな気がする。

2021年は、今日で終わる。
でも、父母が最後までがんばった2021年のことを、忘れない。
ずっと忘れない。
そういう意味で、私と妹にとって、この2021年は永遠の1年になる。
感謝をもって、静かにフィナーレだ。

コロナの前に、出向いた2年前の12月3日に撮影したパリの観覧車。
冬空のもとも、その存在感を示し、人々に勇気を与え、静かに
回っていた。

悲喜こもごも。いろんな感情を乗せて、2021年が終わる。
改めて、支え、応援して下さった皆さんに感謝を込めて。
そして、妹に感謝を込めて。
そして、ピアノと妹を与えてくれた両親に感謝を込めて。

人生は観覧車のように、また来たる年も、回り始めるだろう。
まずまず、がんばった。まずまず、乗り切った。
寂しさと安堵が入り混じる1日。
皆さま、今年一年大変お世話になりました。
どなたさまにも、愛に満ちた、やさしい年が訪れますように。
良い年をお迎えください。

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