NOマスク、素顔発見、話も弾む。

コロナ禍でもっとも役立ったコミュニケーションツールのひとつが
ZOOMをはじめとした、オンラインミーティングサービスだろう。
コロナがなければ、こんなにネット上でのコミュニケーションは
進化しなかったであろうし、使うこともなかっただろう。
もちろん、実際に会って話すことが一番だ。

この1年ほど、社長以下経営陣、管理職の皆さんとやりとりしている
会社がある。コロナ禍で知り合ったため、マスク顔が普通になっている。
だから、何度お会いしても、その人の顔全体がわからない。
本当はどんな顔?というのは、目もとを見ているだけでは、
やはりわからないのだ。
でも、マスクをしなければ、会議も面談もできないから、
ずっと顔を想像しながら会話を重ね、親しくなっていく、
この不思議な感覚。

このたびの8名との面談。コロナ対策で、今回は対面できず、
オンラインでの個別面談となった。しかもお互いに1人部屋での
実施という状況になった。
ということは、マスクを外しても大丈夫だ。これは!チャンスだ。
「今日は、マスク外して話しませんか?」
と声をかけると、そうだな。という具合に皆さん、マスクを外される。
ふ~っという感じで少しリラックス。初めてみる顔全体が現れる。

何度もお会いしているのに、顔全体を見たのは初めてだ。
「へえ、こういう顔だったんだ」
「なんだか、憎めない人相だな。」
「やさしそうな感じだな」と
うれしくなる。やはり、隠すというのは不自然、
見えているのがいい。

自然に口を開いて、お話しになる。
口が見えないマスクから声が出るより、ずっと自然だ。
こまかな表情もよく見える。コミュニケーションが密になる。

わずか30分づつの面談が終わり、
「ありがとうございました。」
と挨拶。そのまま部屋を出ないように、
「あ、マスク忘れずにしていってくださいね。」と告げると、
そうだそうだと、マスクを再び装着して、戦闘態勢に戻って
職場に戻られる。
オンラインのおかげで、マスクなしのコミュニケーションが
できたのは、ちょっと皮肉なこと。

早くもうマスクが要らない状況になってほしい。
顔が見えるということは、安心・信頼につながるのだ。
NOマスクは、豊かなコミュニケーションにつながる。
当たり前のことに改めて気づく。
ただ、やはり会食コミュニケーションは、もうしばらく後の
お楽しみとする。



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子供たちにとっての次世代。

最近の海外のニュースから、ある調査によると、フランスの子供たちには、地球環境のために、子供を産まない方が良いと考える子が増えているとのこと。
そうか~。実は私も10代の頃から、同じようなことを思い、そして今日にいたっているが、今どきの小学生たちが(日本ではないが)、そんな意識でいるということに、思わず「!!」と思ってしまった。

一方、最近、親しいある方に「前から聞こうと思っていたけど、なんで結婚してないの?その理由は?」と尋ねられた。
そのとき、思わず「サルトルとヴォーボウァ―ルみたいな関係を目指しているんで」と言いかけたが、わかりづらいかもと思い、別の表現をした。また簡単にこらえられない部分もあり、十分な説明をすることができなかった。
思えば、ずっとマイノリティの道を進んできたが、もしかしたら無意識に、このままでは人類にとって、明るい未来は来ないかも?と思いながら、生きてきたのかもしれない。
子どもを産むなら結婚は必要な契約だろう。でも、子供を産まない選択ならば
その契約は特にいらないのではないか。
子供に輝ける将来を約束できない・・地球は今後悪化する・・。
また、生きること自体が環境に負荷をかける。人間が長寿を目指すこと自体
反エコ・・。などなど、そんなことを思って生きてきた。

子ども(子孫)を残さない代わりに、歌を遺す、作品を遺す、メッセージを遺す、自分にできる何かを遺す。そっちの方がいい。
と、そんな風に考えてきた。
であるが、これはマイノリティ中のマイノリティ。それでよいと思っていた。
皆がそんな考えになったら、決して社会は繁栄しないとも思っていたから。

でも、今、おフランスの若い人たちには、次代を考えると、子供はいらない
産まないという考えも増えつつある・・という事態は、さすがフランス、若い人たちも先を見ているな~と思う反面、若い人たちが今後の地球のゆくえを憂慮しているということに心が痛む。
自分たちにとって、将来はない。と思うことに等しい気がするからだ・・・。
希望をもてない人生とは、いいことではない。

SDGsへの取り組みは、地球規模でみんなが意識し、行動するという点では素晴らしいが、子供たちの危機感は、大人が考える以上であると考えた方がよいと思う。かっこいいこと、ではなく、本当に自分の人生、自らの人生の描き方に大きく直結してくるのだ。
子供を産まない・・という選択が、今度、さらに増えるのでは・・・と予想している。大人として、社会的責任を今一度意識して、まさに「自分たちが遺せること」を考え、実践していかねばと思う。
まずはできることから・・・・。

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ペットコミュニケーションで家庭円満?

「『かわいい』の一目ぼれは要りません」といった、ペットを見た目だけで
安易に購入したり、飼うことへの警鐘を鳴らす、公共ポスターを見かけるたびに、
ペットが捨てられ、動物たちがかわいそうなことになっている現状を想い、
本当にそのとおり・・・と、
そのポスターに登場する悲しそうなペットの目から目を離すことができなかった。
そんな折、妹の家族がこのたび、犬を飼い始めたと聞き、ビックリ!
しかも、ペットショップで結構いい値段でお買い求めになったようで・・・。
「へ?犬、飼った?買った?へ?そんな高いの?」
よく飼ったと、よく買ったの両方の意味で、驚いた。
どうやら、子どもたちの強い要望で、社会人になった子どもたちが
自分たちのお金で、自分たちでペットショップを何軒も回って、
探してきたそうだ。
4軒回って、最後の店にあった犬を買ってきたという。
プードル種で名前は「くうちゃん」。
慣れない環境で、家のなかで吠えたり、
家族にかみついたり、もちろん糞も・・・。
そのうち、散歩も毎日か連れていくことになるのだろう。
「わんこは、その後、どう?」
と尋ねると、妹は手を見せて、
「こんなにかまれてるわ。」
と笑いながら、応える。
「でも、ロボット買うよりも、ウンチしても命がある方がいいよね」
と言う。そりゃ、そうだ。
この家族は、普段からおとなしい、会話少な目めのよう。
「わんこのおかげで、家族の会話が増えたよ」
そうか~。なんだか、巷でよく聞く中年夫婦のようだ。
そうか、ペットはかわいい。はもちろんであるが、皆で育てる、
皆でかわいがることによって、家族が一人増えることで、
新たなコミュニケーションがはじまるのだ。


「いのちを預かるということは、病気も死も含めて、だから
大変だけど、がんばってね」
と声をかける。
両親の世話から解放されたこともあってか、新しいステージに
向かう妹。癒しの存在が誕生して、良かった。

しかし、動物を〇十万で売買する。これが当たり前の世の中になって
いることには改めてビックリだ。
自分は今のところ、買う(飼う)予定はなし。
人間という動物同士のコミュニケーションを満喫するとしよう。

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あったかハートと小さなぶつぶつ交換

お会いするときに、ちょっとしたプチギフトをさしあげたい人がいる。
さしあげたい時がある。
日頃の感謝であったり、エールであったり、またはお返しであったり、
もしくはコミュニケーションのきっかけづくりであったり・・・。
決して、豪華でお金をかけたものや、いかにもお土産というものでなく、それよりも「あなたのことを思っているよ」と言う気持ちが伝えるものの方が良い。

出張に行くとき、どこかの企業にお邪魔するとき・・・こちらも
それなりに、何かしら用意する。それを喜んでくれる、その気持ちを感じてくれる人がいたら、とてもうれしい。

昨日はたまたま、小さな紫の箱に入った京都名店の洋菓子を持参いただいた方がいた。「これ、紫のパッケージだったので・・・」そのお店の紹介とともに、「紫色イコール今尾さん」ということで、思い出して買ってきてくださったという話題に、思わずにんまり。気にかけてもらっていることが、とてもうれしい。
「それは、それは・・・」荷物にならないことも考えていただいているところも
にくい。
その後出会ったある人は、懐かしいチョコレートの一口サイズのものが入った袋詰めを「はい、これ~!」とあいさつ代わりにくれた。
「これ、自分で袋詰めしたの?」「そうでーす!」へえ、大の大人、しかも50歳にもなろうかというお兄さんが、チョコを袋詰めとは・・・。かわいいラッピングだ。今日は、これをあげようかな。と用意してくれたのだろう。彼は、いつもチョコをチョコッと渡してくれる。そこから、世間のバレンタイン、チョコレート談義がはじまる。なぜか、彼はそういう内容の時もメモをとる。営業は、こういうところも大事だな~と、と感心しながら楽しく会話。そして本題へ入る。

などなど、嬉しく楽しいひととき。
相手を大切に思うあたたかい気持ち。そして、ぶつぶつ交換はとてもいい。
モノの交換だけでなく、ぶつぶつと会話を交わすのだ。

どんなに寒くても、忙しくても、あたたかくなれる、ゆとりをもてる。
そんなひとときは、自分次第でいかようにも可能になる。

さあ、今日はどんな交換ができるだろう。もちろんモノがなくてもいい。
ブツブツいえる楽しい話題があれば。

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2022年流バレンタインのすすめ

正月気分が抜けると同時に、今年もバレンタイン商戦がはじまった。
先週、近所のデパートに出かけたら、ショコラの祭典初日。
びっくり大行列だ。バレンタインは来月なのに、この混雑ぶりは?
と驚き、すぐ引き返してきました。
密にならないバレンタインがいい・・。

と、そこで、今年のバレンタインのおすすめ・・。

私にとっては、コロナ共生時代でのパフォーマンスの挑戦。
終わらないパンデミックにも負けず、夢を追いかけ続ける仲間たち、
劇団ビーレッツの朗読劇公演に
急きょ、ピアノ演奏で出演することになった。
不思議な、かつありがたいタイミング・・・。
これが昨年だったら、ご迷惑をかけたかもしれないから、
本当に神様はいるもんだ。

「中ノ島ライト」、「真夏の雪」に続き、そして1年前には、
you tube用にミニドラマ「東京携帯式ヘルメット物語」も
提案、共演。
演劇、朗読劇、オンライン限定ドラマなど、常に新しいスタイルを
求めてきた。
役者さんの演技や空間演出に加え、生演奏がもたらす効果を
理解して、私のオリジナル曲や演奏を活用してもらっている。
ありがたい限り。
そんなこんなで、お互いに「新たな挑戦」を続けている。
一緒に作品づくりをしている・・という感覚だ。

さて、今回はハイブリッド公演。
下北沢のホールでの対面公演。
そして、
全国、世界のどこからでも、
ネットで楽しんでいただけるオンライン公演。
両方楽しむことももちろんできる。
コロナがなかったら、
このハイブリッド方式は実現できなかった
だろう。
観賞の方法が選べるとは、嬉しい限り。

と、急きょ決まった企画で、私自身、まだ??な状態ではあり、
脚本もまだ進行中。まだ音楽のことが語れる段階ではなく、
練習も最小限で臨むことになることも、毎度のこと
であるが、なんともいえないこの緊張感は、やっぱり新鮮だ。
また、久しぶりの東京公演ということで、懐かしさもあり、コロナ前の
共演のこともあれこれと思い出す・・・。
劇団の皆さまと歩調を合わせ、良い作品づくりにつとめたい。
好きなことをやり続けている脚本家や、役者さんたち・・の生きざまに
触れることができるのも、私にとっては、貴重な学びだ。

ということで、今年のバレンタインにおすすめしたい。

以下は、作品の詳細情報。(劇団配信の案内文より)

B.LET’Sのリーディングドラマ⑤

四人の作家による四つの物語

「スーパーむつみ堂のバレンタインストーリー~最後の2月14日~」

■脚本/演出 滝本祥生  ■脚本提供 石原理恵子・中澤香織・藤井香織 

■【ストーリー】

老舗大型スーパー「むつみ堂」がこの町にできて46年。スーパーと共に育ち、暮らしてきた地元民には思い出がいっぱい詰まった場所だった。しかし、愛され続けた大型スーパーも時代の波に翻弄され、2022年2月いっぱいの閉店が決まる。

そこで迎えた最後のバレンタインデー、2/14に起こる4つの奇跡。閉店する老舗スーパーを舞台に、ラジオドラマを手掛ける4人の女流作家が、手練れの俳優たちと作りあげる言葉の世界。朗読劇で送る4つの短編ストーリーをお楽しみください。

■出演 大田康太郎(B.LET’S)・如月皐・市橋恵(青年座)・他 ピアノ Mahsa(マーサ)今尾昌子

■日程 2月11日(金・祝)~13日(日) 各13:00/17:00 (全6回公演)

■料金 前売3000円 当日3500円 配信2000円 ※2022/1/16(日)前売り開始

■【観劇チケットのご予約】カルテットオンライン

https://www.quartet-online.net/ticket/valentine

■【配信チケットのご予約】 

https://blets.stores.jp/items/61e0074dacbcb041ff75ee3f

■会場 
下北沢Half Moon Hall(ハーフムーンホール)
東京都世田谷区北沢4-10-4

■チケット取り扱い・問合せ  B.LET’S 090-1907-8034 

blets1234567@gmail.com  

企画・製作・主催 B.LET‘S  
助成 アートにエールを!東京プロジェクト(ステージ型)第3回

コロナとなかなかお別れできないが、共生しながら、
こんなバレンタインを楽しんでいただけたら・・・。

さあ、今週もあっちもこっちも、どうなることやらの1週間。
笑顔で全力投球!愛を込めて。

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極めたければ1に練習、2に練習・・・

このオミクロン旋風のなか、冬季オリンピックが近づいてきたようだ。
実感はないし、本当にやるの?と言う感じ。
また、半年前に開催された東京オリンピックは、
何年も前の、過去のできごと。
終わってしまえば、あの騒動は、何だった?という感じ。

政(まつりごと)としての大会は、まったく興味がないが、
選手の本番に向かうその真剣さや、情熱から学ぶことは多い。
金メダルを目指し、技を完ぺきにしようと思えば、
1に練習、2に練習、3も4も5も6もすべてひたすら練習だと思う。
先日引退を発表した内村選手だってそうだ。
勝つためにどれだけの練習を重ねたことだろう。

練習。大人になって、ビジネスの世界で、「練習」という響きは新鮮だ。
ビジネスの場面に、それはあまりないかもしれない。
もちろん勉強したり、研修したり、努力は必須であるが、
本番の前にずっと練習ということはあまりない。そんなゆとりもない。

今、「練習」をがんばらねば!と思う自分がいる。
それはピアノの練習だ。幼いころ、1日数時間、そして弾けないところは何十回もさらって覚えた、あの執着はなんだったのだろうと思う。
岐阜を離れたきっかけから、練習をしなくなった。
練習をやめた分、力が、みるみる落ちた。
今、このブランクが悔しいと思っている。

もちろん、音楽を離れたことで別の世界が広がり、得た出会いは宝
であるので、このこと自体に悔いはない。
ただ、練習を途中で止めたことは反省。
今、ぎりぎり気づいて良かった。
だから、これからでも「練習」をしなければ!。
時間がとりづらい毎日であるが、やり方はいろいろある。

とにかく、「練習」をたくさんした人が、本番に強くなるのだ。
そういう意味では、受験勉強も同じかもしれない。

限られた時間であってもいい。
夢中になること。執着すること。
大人になって忘れていた感覚を、改めて呼び戻すことで、
自分と向き合い、次の夢に向かいたい。

1に練習、2に練習・・。ほんとうに選手の毎日は凄い。
ある意味、ストイックでなければ、つとまらない。
今年は、もっと「練習」!だ。


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笑顔が増える、増える。

今、小さな自主プロジェクトを行っている。
障がいをもつ皆さんとコミュニケーションをとりながら
一緒に皆さんのテーマソングをつくり、一緒に演奏するという
ものだ。
私自身が、作詞作曲を行うため、約20名の皆さんと個人面談をしたり、
またグループでもコミュニケーションの勉強の場をもうけながら、お互い
親しくなり、どんな曲を作り、歌いたいか、どんな楽器なら参加したいか、
などの希望もヒアリングした。

みなさんと個人面談してから、すぐにメロディは浮かんだ。
信号を待っているときに、皆さんの顔を思い出すだけで、
頭のなかに流れてきた。歩きながらすぐスマホに歌声を録音し、
何度も歌っていたら、頭に刻み込まれた。
そして、ピアノでアドリブで演奏したものを録音した。

昨日、たまたま皆さんが集まる機会があったので、
まずは中間報告ということで
そのスマホに録音した伴奏に乗せながら、まだ歌詞のない曲を
歌い、リズムをとった。

さて、みなさんの反応は??

みるみる、知らぬうちに身体を動かしたり、
手拍子をしている人もいて・・・
部屋中に、笑顔があふれた。
あ、笑っている。あ、笑っている。あ、いい感じ。

歌いながらみなさんの反応を確認し、安堵した。

そして、曲が終わったらみんな大きな拍手をくれた。
「さあ、こんな曲です。これから歌詞をつけます。
そして、皆さんと一緒に演奏しますので、宜しくお願いしまーす」

というと、再び拍手。
ああ、良かった。みんなやる気だ!
帰り際に
「楽しい曲をつくっていただいて、ありがとうございます」
「曲のタイトルですけど~・・・・がいいと思います」
みなさん、声をかけてくれた。

このプロジェクトはここから、本格稼働だ。
想いが現実になるのだと・・・皆さんが何かを信じてくれた、
そんな手ごたえを感じた。
さあ、春に向けて練習スタート!

誰が何を担当してくれるか?絶対条件は全員が楽しめること。
みんなでつくる、表現する歓びを体感して、生きる力になれば・・・

と思っている。
楽しいプロジェクトは妄想からはじまる。


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運ぶ人、届ける人、伝える人に。

ある方から
「心を運んでいただき、ありがとうございます」
という言葉をいただくことがある。
とても丁寧で、感謝が伝わるステキな表現であると思う。

「心を運ぶ」とは、相手に寄り添い、その想いを届け伝える。
ということと理解しているが、
これに近い表現として「心配する」という言葉もある。
こちら、ちょっとネガティブな意味合いにも受け留められるが、
「心を配る」と理解すると、これも改めてありがたいことだと思う。

いずれにしても、自分のことを応援してくれる、見守って
くれるそういった人の存在は、迷いながら生きていく身に
とって、勇気と自信を与えてくれるもの。

たとえ、遠くにいても、どこからでも、いつでも、
心を運ぶことはできる。

今日は父の旅立ちから100日目。
悲しみも、これを節目に変わるのだとか?
その真偽はわからないが、
だんだんその現実と悲しみの感情に慣れていくのだろう。

父も、そして母も、きっと空の上から、
心を運んでくれているのだろうと思うことにする。
そんな風に思う朝。

心運び、運ばれる。
愛とコミュニケーションの原点は、ここにあるのかも
しれない。

運ぶ人、届ける人、伝える人。そんな人を改めて目指す。




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悲愴に惹かれて・・・

実は「悲愴」の二文字に、小学生のころからちょっと憧れていた。
五年生の時、合唱団であの名曲に出会ってから・・・。
ベートーベンのソナタ8番「悲愴」 の三楽章である。
ピアノ曲が合唱曲になっており、その美しいメロディに感動。
気に入って、いつもいつも、鼻歌で歌っていた。
悲愴。その意味は、深くわからず、理解せず・・にである。
単にその音色の美しさから、大人っぽい、知的な感じ・・という印象であった。

そう、、あるいはチャイコフスキーの交響曲にも
「悲愴」というタイトルがついた名曲がある。
悲しみの原野が広がってきそうな、名前にぴったりの沁みる曲だ。
この曲の背景には、名前のとおりの悲しい物語があると読んだことがある。
作品は、作曲家の人生とともにあるのだということを学んだ。

さて、その「悲愴」の意味をたどると、悲しく心が痛ましい様子とのこと。
同じ「ひそう」には「悲壮」という文字もあるが、こちらは悲しくも元気というか、
パワーもあるという前向きな要素も含まれているようだ。
普段はあまり使わない「悲愴」は、深淵なる音楽や美術に適した言葉という
印象だ。

さて、久しぶりに、小学生のとき、父に無理やり買ってもらった分厚く、
ボロボロになった楽譜を引っ張り出して、そのピアノソナタ8番「悲愴」を、
40年ぶりに全楽章を弾いてみる。
きちんと弾けないかもしれないのに、
急に、その「悲愴感」を味わいたくなったのかもしれない。
1楽章の荘厳かつ苦悩に満ちた重音、二楽章の優しさに包まれた
柔らかいメロディ。そしておなじみ三楽章は美しく、
そして永遠の悲しみに包まれ、余韻を残して終わる。
と、勝手に表現するとそんな流れ。
人生とは、生きるとはそんなに悲しいものなのか・・
と問いながら味わえる。悲愴なる世界のなかで、心が落ち着き、
すっと背筋が伸びて終わる。
私は、それでも生きる!という感じだ。

それにしても、見事なソナタ。いつ弾いても最高の作品だと思う。
今さらながら、ベートーベンのこの曲に向かう背景を改めて知りたくなる。
悲しみのなかに、静けさと落ち着きをみつけることができる不思議な力。
そう、悲しみとは、浮き沈みもしない、
安定した生きる力になっているのかも
しれない。

今になって、改めてこの曲が好きになった。
もし、「悲愴」を弾きながら、息絶えたら、なんとかっこいいことか・・・。

生きるとは、悲しみとともに、悲しみを乗り越えて・・・。
そう。この「悲愴」とはしなやかに生きるヒントを
与えてくれるのかもしれない。

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無人島へもっていくもの

たとえば、無人島に行かなければならない事態になったとして、
食べ物はその島にあるもので調達できるとして、
あと、パソコンかピアノのどちらか1個だけ持って行っていいよ、
と言われたら?
私は、今のところ、後者を選ぶだろう。

パソコンはこの社会で仕事、生活をする上で、不可欠な道具であり、
ネット環境ももちろん欠かせない。

一方、これがなければ、と思うことも時にある。
あれば便利であるが、なければ、もっと自由になれるのかも。
誰かとつながっていないことで 生きていかれない人もいるかも
しれないが、
今、突き詰めていくと、いかに孤独を楽しめるかが、幸せに人生を進む
コツだと思う。

ピアノは、孤独に生きるための最高の友。
友人は、「ピアノはひとりオーケストラだ」と言い、納得したが、
この1台で、なんでもできる。ワルツから、ソナタ、演歌から、ジャズ
・・・。どんなジャンルも可能であり、飽きることがない。
そして、演奏しながら、
タイムトリップも、世界旅行も、そして対話や、感情表現も自在。

最高のそして、精神性高い仮想世界が広がり、楽しめる。

幼き日は、このベートーベンは何を考えて、ショパンは、リストはどんな
想いでこれを作ったとか、時代背景もわからずに、ただ指を動かしていた。
今になると、知識も少し身について、
いろんな想像が膨らみ、演奏することで、心の世界が豊かになる。
そう、ピアノがあれば、幸せな時間がもてる。
つくづく、いいお宝を与えてもらったと思う。

私にとって、パソコンもピアノも不可欠な
コミュニケーションツールであるが、
孤独が募ることで、後者の存在に
改めて感謝の気持ちが生まれてくる。

内面と対話しながら、孤独と楽しく生きる。
さらに模索すべき、「これからを生きる」テーマのひとつだ。
と、こんなことを考えたりしながら、バッハを聴く。

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