ある要件で、急きょ写真が必要になった。できれば正面ではなく、話をしている
ところが良いという。探したが、ライブのときのトーク風景では、帽子をかぶっていたり、ちょっと雰囲気が違うそうで、求められた写真が手もとにない。
では・・・と思いついたのが、地元のアマチュアカメラマンの顔。
この方には、地元でのライブで撮影をお願いしたこともあるが、なかなかの腕前だ。忙しい方ではあるが、ダメもとで連絡したら、「いいですよ!」と二つ返事で応じてくださった。
「インタビュー風景なら、モノクロの方がいいですよね」
とカメラレンズの都合でか、そう尋ねられた。そして、私がモノクロが好きだと
いうこともわかっておられる。
「そうですね。モノクロの方がいいですね。使うのも多分モノクロの紙面なので」。
そして、職場の仲間に部屋を借りたり、インタビューの相手役をつとめて
いただき、世間話をしている間に、撮影をしていただいた。
実はこのコロナ禍では、アップの写真はちょっとためらいがある。
マスクをずっとしているので、顔が緩む、引き締まっていないのではないか・・
という懸念。もちろん毎日、それなりのケアはしているが・・である。
それでも、そんなことは気にせず、普段どおりに話をし、その様子を撮って
いただいた。
十数分の間に、何十回のワンショットが切り取られた。
写真はその一枚だ。
モデルは変えられないし、合成もしないので、それなりに・・であるが
写真としてはとても良い。
やっぱりモノクロは、カラーよりも美しい。シンプルでありながら
表情が伝わることを、改めて実感した。
今後、自分の広報活動で使えそうな、素敵な素材が増えた。
今度は、次回のライブでも撮影してくださるとのこと。
腕ももちろん、そして心からの応援がシャッターに込められて、
嬉しい、素敵な1枚になる。
母がお世話になった方が、今このように私がお世話になっている。
ご縁は世代を越えて。そしてモノクロは難を隠す。
モノクロは難を隠す?
365日過ぎて、主客の対話。
本日3月26日。母の旅立ちから1年。
今も鮮明に、入院先からの連絡後の一連の出来事を思い出し、あの時
のドキドキが蘇ってくる。しっかりしなきゃ、ちゃんとしなきゃと
自分に何度も何度も言い聞かせながら、
病院へと向かったあの時を思い出す。名古屋~岐阜間の電車時間を
あんなに長いと思ったことはなかった。
もう二度と味わいたくない時間・・。
一方、ああ、もう1年か。と俯瞰してみつめる自分がいる。
いつの間にかこの状態に慣れ、寂しいと感じつつも、それでも
それなりに生きてきている自分のことを、褒めたい気持ちにもなる。
悲しい、寂しいと言い続ければ、一生その感情はそのまま続く。
一方、人生とはそういうものだと、慣れてしまえば、
教えられることはたくさんある。
また、母の教えてくれたことを客観的になぞることもできる。
時間とともに、主観より客観が増して、悲しみが自分の中で
小さくなり、人生をみつめられるようになる。
哀しみを乗り越えて・・・というよりも、自分の中に
その感情も含めた、自分の人生、そして存在を
見つめ直すという感じか。
今回いただいた花は、1年前の葬儀のときと同じ紫と白ベース。
お気遣い、本当にありがたく、この花を見つめながら1年を振り返る。
あの時のことを思い出しながら、
それでも・・・強く生きている自分をみつめる。
自分の中に哀しみとともに、普遍なる母の存在を抱き、
改めて、感謝の気持ちが湧いてくる。
1年早い。と言う方もいるが、私にとっては結構長い1年であった
ような気もする。
そうそう、今日はベートーベンが旅立った日でもある。
偉大なる二人に感謝の日である。
母のことを忘れる日はない。これからもずっと・・・。
改めて感謝を込めて。
忘れちゃいけない0番線。
京都駅の中を急ぎ足で歩いていた。
改札を出るため、構内を歩き、階段を上がったり、下がったり・・・、
すると、普段は視界に入らない、懐かしい表示に出くわした。
写真にある、0番線のサインだ。
普段は利用者が多く、混雑しているから見えなかったのかもしれないが、
このときは、0の文字が「おい、ここ ここ」と
私を呼んだぐらい、しっかりくっきり迫ってきた。
ここは、実は先日投稿した、
今は亡き元上司たちが、23年前に集まって夜行列車に乗る
私を見送ってくれた場所。まさにここ、あの0番線ホームだ。
そうそう、と思い出した。
通常の列車はほとんど止まらず、寝台特急など特別な車両が出入りする
ホームのはず。だから、ここには行列はなし。あまり人目に触れないエリア。
ここから改札越しに京都タワーがそびえる。今は伊勢丹の駅ビル・・。
あの頃と全く景観は変わった・・。
全国の他の駅に0番線があるかどうか?はわからないが、
京都駅のこのホームは
私が独立の道に進んだまさにスタート地点、原点なのだ。
思わず懐かしくて、この文字をゆっくり見上げた。
そうだ、何か新しいことにチャレンジしたかったら、ここから乗ればいい。
そんな気持ちも沸いてきた。
今、ある意味、私は改めて0番線に立っている。
どっちへ向かうか?何をするか?
あの34歳の私の気持ちを思い起こしたら、なんだかワクワクしてきた。
わたしの0番線。
いくつになっても、時々、見上げるとしよう。
ターミナルという存在は、常に私に刺激を与えてくれる。
だから、好きだ。
だんだん近づいているね。
妹とは両親の介護を通じ、よく話をするようになった。
数年前までの家族全員が元気であった時代より、ぐんと距離が縮まった。
私が東京に暮らしていたときは、遠い存在だったと思う。
そして、海外に行くときには、この間何かあったらどうするんだろう?
思えば、NYのテロのときや、東北の地震のとき・・・妹は元気に飛び回る
姉のことを心配し続けていたのだと思う。
そんな時代も無事終えて、今は比較的近い距離で行き来している。
親の世話を手分けしてやっていたこの2年ほどの間、
「親が亡くなったら、まあその後自分たちもいつ亡くなってもいいね。」
という会話を何度もしてきた。
それぐらい、親を無事に送るということは、大きな仕事であったし、
それまでは何があっても・・とお互い張りつめていたのだとも思う。
そして、
「もうコロナで世界も終わりだから、親はいいときにいったね。しかも
コロナにかからず、ちゃんと思ったとおりの葬式もしてもらえて幸せな
人生だね。」
とも言っていた。
そう、これ以上生きていても、本当に大変だったのかもと改めて思うと
選ばれた時期の旅立ちだったのかも・・。
あれから1年を迎えようとしているが、この1年間、世界はさらに悲しい
方向に進んでいる。
「こんな戦争になってしまって、ある日突然、世界が終わるかもしれないね。」
最近はこんなやりとりもする。
最後については、私が妹より先に終わり、そのあとに妹が続く・・だと
理想であるが、最近は「ま、最後はみんな一緒かな。とにかくだんだん
近づいているね」
という一見、物騒なやりとりもしている。
わりと真面目に、そして冷静にだ。
そう、いつ果てるかわからない。
最近思えてならない。
天災か人災か、ウイルスか・・・。
単体ではなく、複合的な作用で、ある日突然、終わることもあるかも。
と考えている方が良さそうだ。
だから、楽観的に、そして無責任には未来を語りづらい今日。
でも、ゆうべのゼレンスキー大統領が日本に向けて行った
演説の映像を見ていると、
まさに、本当のあの演説の直後に何が起きるかわからない、
自らの生死もわからないそんなリスクフルななかで
それでもパフォーマンスも含め、冷静にメッセージを発し
明日を信じて、頑張りぬこうと思っている人の存在を思うと、
最後の瞬間まで、夢は未来は描くべきものだ。そう信じるからこそ
本当に道が開けるのだと、想えてくる。
昨日は静かな力を感じた。それもパフォーマンスなのだろう。
素晴らしい。
終わりは近づいていると思う。
はじまりがあれば終わりはあるのだから、当然だ。
それが、たまたま私たちが生きている時代に・・なのかも。
ということだけだ。
終わりを覚悟すれば なんでもできる。
そう信じて、前に進みたい。
終わりが大切。本当に、それに尽きる。
やれる人が、出来る人が前に進む。
まだ自分たちは、何でもできる。
今日は最後かも!と思って、全力で1日を駆け抜け、
そして楽しみたい。
感謝のコンサートは献花付きで
母の1周忌にふさわしい、私らしいイベントを。
母が、長い間お世話になっていた地域の皆様に、感謝の気持ちを伝えたく、
「春のありがとうコンサート」を提案。すると即決定。
そして、まんぼう解除もあって、予定どおり開催することができた。
それでも人数は厳選して、20名ほど。以前開催したときの半分ほどか。
でも、コロナ禍にもかかわらず、皆さん、雨のなか集まってくださった。
私は、集合されてすぐコンサート開始のつもりでいたが、なんとまあ、
献花のご用意をしてくださっており、皆さんから母(父)の写真に向かって
かわいらしい紫とピンクのミニブーケを、ひとりひとり献じてくださった。
思ってもいない光景であり、演奏前に思わずうるっときたが、参加された皆さん全員同じ気持ちだったかもしれない。
気持ちを切り替え、演奏開始。
コンサートはその花を横に、オリジナル曲を中心に、母、父との思い出を
語りながら、1時間ほど。
ピアノがない会場であるため、キーボードを持ち込み、マイクもなし。
でも、まったく問題なく、よく響いた。なんだか声が良く出ている。
途中では、「人生は観覧車のように」に続き、観覧車は平和の象徴と言う話を
して、ロシアとウクライナの戦いが早く終わるようにと、ロシア民謡「ともしび」とウクライナで撮影された名画「ひまわり」を演奏。皆さんと平和を祈った。
最後は地元のために作った、「みのり愛」を全員で歌ってフィナーレ。
みなさん、とても楽しんで最後まで聴いてくださった。
記念の集合写真というセレモニーも終えて解散。
帰り際にみなさんひとりひとり声をかけてくださった。
「体に気を付けて活躍してね!」「また呼んでね」「お母さん、喜んでみえるわ」・・・。普段のライブ通りの雰囲気で、楽しく終われて安堵。
いただいたブーケを、その後お墓に届ける。
「ちゃんと、やったよ。聞いとったかな?」
いつもどおり、話しかける。
母も父も、とても喜んでいるように思え、心が熱く、軽くなった。
良かった良かった。
1年前の葬儀のときから決めていたことが、ひとつ実現できた。
親孝行は、子供が生きている間、生涯していけば良いことだ。
そう思えば、悲しみも薄らぐ。
さて、次は・・・。
皆さま、本当にお世話になりました。
これからも、歌とともに
両親を思い出してやっていただきますように・・・。
感謝ウィークはじまる。
26日で、母の旅立ちから1年。
あっと言う間というのか、なんといっていいかわからないが、
ここのところ、1年前の今日は・・と、日ごとの変化を追いかけ、
ひとり胸がどきどきしている。
昨日は、母が最期に入院していた病院の前を通ったら、胸がつまった。
そんななか、本日22日は、母がお世話になった地元の皆さんに
限定で集まっていただきミニコンサートを行う。
といっても会場にキーボードを持ち込み、マイクもなく行う。
写真とメッセージが入ったミニギフトを人数分入れ、用意した。
まるで、母の生前前に、彼女がしていた準備作業のように。今度は自分が
袋詰めをする。
この1年間、母(と父)を思い出し、心を寄せてくださったみなさんに感謝を
お伝えすることが第一番だ。
あとは、思い出し、懐かしんでいただく。
きっと、母は喜んでいると思う。よくやってくれた。と思ってくれたらいい。
母からも、私からも、本当にありがとうございました。
そんな朝、父がまだ生きているような夢を見た。不思議な目覚めであった。
とにかく、元気に感謝ウィーク。はすでにはじまっている。
みなさん、本当にありがとうございます。
終わりは、次のはじまりに。
先日の新潟日報の記事を見て、何年もお会いしていない、
連絡をとっていなかった方々より、メールをいただく。
あるいは、こちらからも新潟でお世話になった方や、
この長きにわたる仕事のご縁をいただいた方にお礼の
連絡を入れると、懐かしいメールが届く。
皆さん、ご無沙汰している間の変化、近況を教えて
いただき、いずれも関わった日々、一緒に仕事をした
時代のことを懐かしく振り返っておられ、感謝の言葉を
添えていただいている。
そして現住所を教えてほしいといってくださる。
しばし、止まっていた関係が動き出した。
一方、これで新潟に来ないのか?
もう会えない?もういろいろ相談できない?
と心配される方も続き、安心していただくための
メッセージを返す。
「安心しました。これからもずっと宜しくお願いいたします」
と安堵いただくと、こちらも安堵する。
形が変わっても、変わらない関係を続ける決意も固まる。
そして、この間に出た仲間たちとの関係を新たに育む
活動を考え、実行しようと思い立つ。
この17年の軌跡は、ここで終わることはないし、
それで終わってしまうような取り組みではない。
ここからはじまる、はじめる。
早速、師匠と慕ってくれたありがたい方にコンタクトし、
今後のことについて、作戦会議を呼び掛ける。
ずっと永遠に続くことはない。
限りある命のなかで、節目ごとに成長をしたり、
変化を楽しんでいきたい。
だから、なんでも終わりははじまり。
終わらなければ、始まらないこともあり、
止まらなければ、気づかないこともある。
わが新潟の観覧車は、再び新たに回り始めるだろう。
続けることへの心配よりも、
一度終わって、始める時の方がわくわくする。
このグラン・ルー23年の中には、何度か
大きなそんな節目があったと懐かしく思い出す。
「なんといっても、愛の元気人ですからね!」
この役割は、まだまだ有効のようだ。
人生は観覧車のように・・・を、また実感。
春に出会う、母にまた出会う。
岐阜の柳ケ瀬という、往年の繁華街、今はちょっと寂しいけれど、
それでもがんばっている商店街に出向き、最近仲良くなった
82歳の妙子さんがいる食料品店に立ち寄る。
すると店先になんと、とれたてのつくしがパックに入って売っていた。
「はかま」が付いたままのもの1パック150円、すでに「はかま」がとってあり
あとは料理するだけのものが400円。安すぎ!
思わず、子供の頃を思い出し、考える間もなく、
「はかま」をとっていない方を2パック購入する。
「これ、二つも買っていいかなあ」
「いいよいいよ。買って買って。
でも、はかま、ついとるよ。はかま取るの、めんどうくさいよ、大丈夫?」
妙子さんが心配してくれる。
「うん。いい。はかま、自分でとるわ。懐かしいなあ。
子どものころ、よく取りに行ったよ。堤防の土手とかに生えていたなあ」
「そうやそうや、よく昔は取りにいったねえ。なーつかしいね―」
妙子さんと母はほぼ同い年。だから、母と話しているみたいだ。
とてもうれしくなって持ち帰る。
そして、夜遅くなってから、ちょっと緊張しながら
久しぶりにつくしのはかま取りをする。
なかなか根気がいる。無雁から実はあまり上手にできなかった。
はかまをとっているところから、切れてしまう。でも、まあいい。
この間ずっと、母と一緒にやったはかま取りのこと、母がつくってくれたつくし料理の味・・・を思い出していた。そういえば、私が大人になって
時々帰省したときに、つくしの煮たものが冷蔵庫に入っていると、
うれしくてすぐ飛びついたこともあったなあ~。
これぞ、おふくろの味であった。
つくし。春の訪れ。つくし、母とまた会えるひととき。
今日は味付けをして、また 母に会う。あの味と一緒にはならないと
思うけれど・・・。
情報との付き合い方、今一度。
この一週間は、新潟の皆さんに自分のことをお伝えするのに、マスコミ(新聞)
の力を借り、一方、お世話になった皆様には直接メッセージをお伝えする
という方法をとり、さらに個別のやりとりをした。ということで、マスコミとミニコミの併用により、長年お会いできていない人にも伝えることについて、自分なりに考えて実行してみた。これは予想どおりの反応があり、ありがたかった。
誰にどう伝えたいかによって、手法は異なり、工夫次第で効果もある。
昨今、その発信については、首をかしげることも多い。
情報の垂れ流しによる氾濫。
そして、フェイクニュースの増大。
何が真実なのか、虚偽なのか。
意識していても、だまされそうになる。
情報の入手は、よっぽど注意しなければならない、危険な時代だ。
今世界で一番の有名人のひとり、ウクライナのリーダーのフェイクニュースも
話題になっている。そういうことを考える輩も、世の中にはいるんだ。
いてもおかしくないんだ。目的により、情報はいかようにも操作できる。
簡単に検索できることは、本当は良いことじゃない。
と常々心の奥で思っているが、新たな発見があった。
昨日、留学生に講義をする機会があり、彼らが講義中ずっと、スマホを
使って、翻訳機(辞書)替わりにネットを使っている姿を見て、
この使い方には、納得した。こういう検索は有効だと。
スマホ片手に、言葉の不自由なしに勉強がはかどり、コミュニケーションも
進む。このような検索なら意味があり、こちらも助かる。
きっと賢明な学生さんは、さまざまな情報に接しながら、
何が真実かどうかも、きっと理解しているだろうと期待も高まる。
とくに海外から来て、コロナ禍に異国で生活している身であれば
情報との向き合い方も真剣だと察する。
私たちは、情報とどう接するか。
これからの時代を生きる人にとっては、見識やセンスが問われる。
そして、
やたら情報の洪水のなかに、浸っていては溺れてしまう。
情報との付き合い方は、生き方に直結してくる。
ときには、スマホから目を離し、ちゃんとした書物と向き合ったり、
良質な人と会い、議論をするなどそんな情報入手も重要だ。
昔は、人々はそうやって生きてきた。
週末は、あえてアナログの時間に身を置くというのも、良いことだと思う。
情報にふりまわされ、自分で考えることができない人間にならないように
日々、気を付けたい。
こういうときこそ、哲学的な心得があるといい。
なんのために生きるか。自分の人生をどうしたいのか?
根本を考えるクセをつけると、おのずと情報との向き合い方も変わる、
のではないかと思う。
とにかく、世界中の人が手のひらの世界に埋没しないように。
電車車内の乗客が常にほとんど、スマホを見て下を向いている光景を
みるたびに、そう思っている。
新聞の反響、改めて・・・。そして感謝。
この17年間続いたひとつの仕事の節目を、どうやって
新潟県の人々に知ってもらったらよいだろう・・。
できたら、広報人らしい方法で・・。
そうだ、地元紙に投稿しよう!
と思い立ち、新潟日報の朝刊でおなじみの投稿
ページに原稿を書いて、メールで担当窓口に送った。
おかげさまで、この二十年、広報のことは自分でも学びながら
新聞のことは、どこにどうすればどうなるかは自分なりに少し把握
し、皆さんにお伝えし続けてきた。
今回は自分が実行する番だ。自らが発信すること。
但し、新商品の話でもないし、私個人のことであるから
ニュースリリースでもないということで、今回は、投稿コーナー
「窓」へ。もちろん載る保証はない。
載せるかどうかは、メディアが決めること。
以下は、送った原稿。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17年間、出会った県内企業さんに、感謝とエールを送る春
名古屋市 今尾昌子
平成17年から17年続いた新潟での取り組みが、
この3月で卒業となる。 それは、新潟県の中小企業
の広報支援を行う仕事。通称「NICO」の名前で知ら
れている公益財団法人にいがた産業創造機構の広報ア
ドバイザーという役割。
「新潟県人は、モノづくりは長けているけれど、伝え
下手だから何とかしたい。東京や外にもっと発信したい、
力を貸してほしい」と、当時のNICOメンバーや新潟
の仲間から、ご縁をいただいたのがきっかけであった。
それから、春夏秋冬、数えきれないほど新潟に通うことに。
その間、下越が北で上越が南にあることや、新潟県は
南北にとても長い県であることを知り、そして雪と共
生しながら蓄積してこられた人々の忍耐強さを学んだ。
決して派手ではないが、真面目でじんわり温かい人が
多く、私を強く引き寄せた。
この17年間、さまざまな機会で業界業種を越え、と
にかく対話を重ねた。新潟県人以上と言われるほどに
新潟製品を愛用、いつしかわが家の冷蔵庫には、常に新
潟のものが保存されている。
新潟日報で応援する企業さんの記事をみつけたときは
本当にうれしくて、ともに 喜んだ日々がとても懐かしい。
これからももちろん、生涯新潟応援団であり続けたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、3月17日付の朝刊に掲載された。投稿したのは
先週土曜の夕方、そして日曜一度、担当記者から確認連絡が入った。
これはいけるかな?さあ、今日かな明日かな・・・。
今週は毎日ちょっとドキドキしていた・・・。
昨日の朝7時すぎから、「新潟日報見ました」とまず県内の
企業さんからの第一報。
ご親切に写メで撮った記事のコピーも添付されている。
この方はいつも関連記事をこうやって送ってくれる人だ。
ありがたい限り。よっしゃ!載った。とガッツポーズ。
これで皆さんに一斉にお知らせができる。
おかげで夜になるまで、連絡が絶えなかった。
久しぶりのお電話、メールが次から次へと・:・・。
そして、皆さん感謝の言葉を寄せてくださった。
惜しんでくださった。新潟から離れてしまうと思う方もおられた。
(実はそうではない)
多くの方が、これからに期待を寄せてくださった。
うれしかったのは、私とのかかわりで、自社や自分の成長について
語ってくださったり、私とのいろんな思い出話。
どんなときに私がどんな反応を下かも覚えておられたり、
私との関わりで会社の今日があるというお声や、
気が重かった広報が楽しくなったといってくださる方も・・。
県の職員から、企業さんから、新聞社の方から・・とにかく
いろんな方が連絡をくださった。
新潟愛を感じたといって下さる方も多かった・・・。
こんなときもあんなときもお世話になった・・・と皆さん
心からの言葉を寄せてくださった。
本当にありがたいことだ。それに尽きる。
久しぶりに自分のことが新聞に載った。
しかも今回は自分から仕掛けた。
広報の仕事を新潟でしてきたのだから、自分から広報しないと。
それにしても、まだまだ新聞を読まれる人が多いのだ。
とくに新潟は新聞の存在感が多いのかも?
とにかく、一区切り。いいメッセージをお届けできた。
さて、今朝はもう次のアクションを思いついてワクワクしている。
終わりは始まり。人生はその繰り返しだ。
いかに楽しくするかは、自分次第だと思っている。
新潟は、私の心のふるさとのひとつ。と確信している。
※原稿の内容は、掲載時には分量の下限で一部カット
されていますが、掲載内容は変わりません。