心に染み入るか。それが価値。

今日は岐阜新聞での、年内最後のコンサート。
今回は、はるばる他県からのご来訪もあるとのことで、
本当にありがたい。
キムタクにはまったく及ばないが、自分のコンサート目的で
わざわざ岐阜まで来ていただけるとは、嬉しい限り。
そんななか、一昨日行ったデイサービス施設でのご婦人の
発言が今も頭の中をぐるぐる回っている。
「高いコンサートに行っても感動しなかったのに、
今日は本当に心に沁みました。ほんとうにありがとう」
この言葉に私が感動した、本当に心に沁みる言葉をいただいた。

高いお金を払ってでも見に行く。それも価値である。
ビジネス的に見れば、そりゃ高いお金払ってでもきてくれる
お客さんがたくさんいることは成功かもしれない。
でも、高いお金が必要の背景にはいろいろある。
ひとりのコンサートにいろんな人の役割があって
それ自体が経済活動であるから、廻していくためには
その金額設定が必要。
そして、高くて良いのは当たり前。
食事でも同じこと。高くておいしいのは当たり前。
でも、その高いところに何度も行けるか行ききたいか
・・・は別の話。

まあ、私の庶民的な演奏と、高級レストランは比較にならないが
言いたいことは、金額よりも、大切なことは価値。
価値があったかどうか?

価値があると思えば、また機会をいただける。
聴いてよかった、会えてよかった、また聴きたい・・・。
この積み重ねが、力にもなっていくのだろう。

これまでの無料コンサートでは、
「今後はお金を払って聴ける機会呼んでね。
なんだか無料ではあまりに申し訳ないので・・・」
と言ってくださって、せめてといってCDを買ってくださった
お客様もおられた。

価値があるかどうか。
そのことを自分の行動の指針としたい。
すべてのことに対して。
相手に向かう仕事、活動はすべて相手が決める。
自分に価値があるかどうか。

少しはお役に。の気持ちにさらに、
自分に価値があるかどうか?
と、少しハードルを上げていこう。

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いなくても親孝行!

あるご縁から、地元のデイサービス施設でのコンサートを依頼いただく。
その施設の利用の皆さん、十数名に向けたもの。
タイトルは、管理者の方と相談して「Mahsaのふれあいコンサート」
と名付けたが、ありがたいことに会場もそのようにしつらえていただき、
初対面の方が多いなか、あたたかい雰囲気ですんなりと本番に入ることができた。

施設での演奏は、父がお世話になった施設での演奏から2年ぶり。
コロナもあって、なかなか実現できなかった。
待っていてくださる方もおられたため、昭和の曲も入れながら
一緒に歌える曲も含め10曲ほどレパートリーを用意。手拍子あり、合唱あり、
ちょっと歌声喫茶の雰囲気もあったが、とにかくみなさんよく聴き、よく
ノッてくださった。
とくに自分のオリジナル曲への反応が高く、驚いた。知らない曲なのに
みなさん、すっと入ってくださった。
30分ほどの予定であったが、気が付けば45分もしゃべり、演奏していた。

「ひと・文様」という曲が終わったら、ひとりの利用者さんが、
「素晴らしい。心から感動しました。こんなに心がふるえたことはこれまでの
人生でなかった。高いコンサートに行っても感動しないけど、今日は違う。
こんな人生の終わりかけの私に、本当に、本当にありがとうございました
・・・」と、皆さんの前で発言され、会場もじんわり。
みなさんが、本当に感動しておられることがよくわかった。
演奏が終了してあとも、余韻は消えず、利用者さんからも、施設のスタッフの
みなさんからも歓びの声を多数いただいた。
そのなかで、ある男性の方がスマホをもって近づいてこられた。
「わしは、子供のときから音楽がダメで、これまで歌なんかどうでもいいと
思って生きてきたけれど、今日は、あの歌を聴いて、この絵が浮かんだ。」
といって、スマホの中に入っているラクダに乗って砂漠を歩く人の写真を
取り出し、見せてくださった。あの歌とは、「月の砂漠」だ。
「こんな風に歌を聴いて、絵が出てきたのは初めてや。感動した。」
と力強く言ってくださった。
スタッフによると、この方は現役時代は著名な学者さんだったらしい。

そのあとも、皆さんとしばしお茶をいただきながら懇談。
しっかり会場ではチャリティに協力いただいたわがCDも早速流していただいた・・・。

本当にいいふれあいができた。皆さん、コンサートが終わったら、若返った
そんな感じすらした。そして会場全体があたたかい笑顔であふれていた。
ああ、いいコンサートができた。
キーボード持ち込みで、演奏のインパクトは出せないのが残念であったが、
それでも、感動してくださる方がたくさんおられた・・ということは楽器は
あまり関係ない。
可能な環境でベストを尽くす。ただ、それだけ。

母がお世話になった方も何名か参加されており
「おかあさん、本当にいい人やった。
おかあさん、喜んでみえるわ。よかった、よかった。
今日は良かった・・」
何度も同じ言葉を繰り返しておられたのが心に沁みた。

伝わることが幸せだ。
さらに、磨きをかけよう。
いなくても親孝行。いや、ずっといる。

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考える時間のギフトとしての芝居。

夏に演奏出演した朗読劇から3か月も経っていないのに、
仲間の作家は、新作の公演を果たした。
執念の挑戦とも思える。記念すべき劇団の20回目公演。

秘めたる思いを短い時間に実現させてしまう、そのスピード感にも驚くが、
そのテーマの深遠さにも驚く。社会のそこを見ていたのか・・と、改めて
作家魂に敬意が芽生えてくる。
この作品には彼女なりの長年の想いがあったようで、その強い気持ちが
この公演への挑戦につながったのだろう。

今回のテーマは性犯罪である。しかも男性の・・というあまり聞かない話。
聞かないこと自体が、実は問題であるが、そんなことを普段考えることも
なかった。

普段、誰も目を向けようとしないことがある。
だから、言わない、言えないまま長い時間、苦しみを背負ったまま
生きなければならない弱い立場の人が、世の中には存在する。

このデリケートで重いテーマの作品。どんな風に展開するんだろう?
ドキドキしながら、ストーリーにはまっていく。
作家の強い思いと、それをちゃんと演じようとする役者たちの力が
シンクロして、私の五感にぐっと染み入った。
なぜか、涙があふれて止まらなかった。苦しい90分であった。

芝居は映画とは違う。このライブ感がたまらない。
生きている人間そのものを抉り出して見せる瞬間であるから、
人間が、むき出しに、真正面に伝わってくる。
だから、ライブは素晴らしい。コンサートとそこは共通している。

大切なテーマについて、考え、話す時間。
そんな立ち止まる時間が、とても大切だ。
普段考えないことを考えることができる。そんなギフトを
芝居は与えてくれる。
だから、世界中に演劇ファンがいる。
DXの時代と言われても、このアナログな表現こそが、人間を語る、伝える。

今回の作品はコメディではなく、社会派の演劇だ。
今の世の中だからこそ、ぜひ、見てほしい。

考えたことのない世界に足を踏み入れ、どうすれば世の中が
よくなるかと考えることはとても大切だ。
目を背けないことも大切だ。

明日、明後日と公演が続く。
ぜひ一人でも多くの人に見ていただきたい。


脚本家という仕事。役者という仕事。改めて凄いと思う。
世にメッセージを伝えるための、自己表現の職業。
アーチスト的な生き方。心から共感する。

次回公演情報 | B.LET’S (blets.net)

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みんなで作った作品だから。

今年の春にかけて、みんなでつくった曲。
障がいをもった皆さんが働く職場での勉強会中に発案、提案。
みんなで一緒に会社のイメージソングを作ろう!
みんなの想いを集め、ひとつのマーチに仕上げた。
そして、無事出来上がり、会社の記念イベントでのお披露目。

そして、季節は変わり、夏から秋へ・・・。
なんとか、この演奏を記録に残し、記憶から消えないように・・・と思っていた。
久しぶりに再会し、再び演奏。今回は、無事録画も完了。

そんなこんなで、今年完成したばかりの企業サイトでこのテーマソングを公開。
マスクをしているので、表情はいまひとつわからないのが残念ではあるが
一緒に演奏しているときに見えた皆さんの表情はばっちりであった。

なかなかいい曲ができた。
みんなでつくった曲だから、丁寧に歌い継いでいきたい。
みんなでつくった「たからもの」である。

株式会社モスシャイン | 一人ひとりが輝き、みんなが笑顔になる共創のモスシャイン (mosshine.co.jp)

このサイトのイベント・セミナーコーナーにて動画を公開、チャレンジ日記という
ブログページでその様子も投稿されています。

チャレンジ日記 | 株式会社モスシャイン (mosshine.co.jp)

「みんなで」という言葉、想い。大切にしたい。

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無から有が面白い。

クリエーションとは、ゼロから生み出す活動だ。
まさに創造的な活動。
音楽でも、もちろんクラシックも流行歌も好きな曲は数多あるが、
人のつくったものよりも、自分で作った曲の方が思いが伝わる。
当然といえば当然のことだ。
音楽以外のコミュニケーションの仕事でも、企画や製作の仕事に
携わる場合は、本当に楽しい。
ゼロからの仕事は、かなり想像力が必要だ。どうすればどうなるか?
イメージがわかないと、人に伝え、カタチにしてもらうことができない。
こういうのを作りたい、こういうのが必要だ。ではそれをするには?
どんどん湧いてくる仕事がクリエーションだ。
今年はホームぺージの仕事もいくつかやってきたが、自分のサイトも
リニューアルでき、イメージどおりにできたことが嬉しいし、
今取り組んでいるサイトも、予定通り、自分が思っていた世界がカタチになりつつ
まり、どんどん楽しみになっている。
無から有を生み出す仕事は、やはり面白い。
もちろん無から有にするプロセスでは、さまざまな経験、事例や情報が参考になり
その組み合わせ、掛け合わせで新たな有が生まれる。
まったく何もなければ、有は生まれない。
こうしたい、そんなものにしたい。との思いを膨らませ、それを実現するための
パーツを常にもっていること。
日頃から、アンテナを張り巡らせることがポイントかもしれない。

小さくてもいい。無から有の楽しみを人生に、人生にたくさん取り入れていきたい。

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平和なふるさと。

上の写真は、わがふるさと岐阜の駅前広場だ。
金ぴかの銅像は、かの織田信長公。出身はお隣
愛知県であるが、岐阜城の主であったため、
岐阜が誇るヒーローであり、岐阜の名付け親
でもある。
春は道三まつり、秋は信長まつりと、毎年開催
されていることは知っているが、これまでは
まあ地元がちょっと盛り上がる程度のローカル
なお祭りという認識である。しかもコロナで
随分ご無沙汰している感じであった。

ところが、このポスターを見たときから何か
違っていた。
「今回の信長まつりのポスターはなんだかいつも
と違ってイケメン。誰?」ちょっと気になる。
そして、祭りの告知や抽選の様子について、
マスコミが騒ぎ始めて、びっくり仰天。
あれは、キムタクのポスターだったのか。

ということで、この写真の岐阜駅はまつり前日から
多数の観光客が岐阜入り、そしてまつり当日は
史上初の大賑わい。どうやら人口の倍の人が
岐阜に、キムタク信長を拝みに来られたと
全国ニュースでも報道され、これまたビックリ。

あの閑散とした廃れた寂しさ漂う岐阜の繊維街周辺に、
柳ケ瀬にこんなに大勢の人が溢れるとは・・・。
しかも女性客が続々・・・。
メディアの影響、映画の影響・・・。
とにかく、
岐阜市内での話題は、これ一色?。
しかもイベントが終わって2日経っても、
地元新聞社では、入り口でまつり翌日の朝刊を
販売していた。こんなことは、これまでないこと。
キムタクが一面に載っている岐阜新聞とは、レアもの
保存版である。

「キムタク見た?」がしばらくの合言葉になりそうだ。
ソウルでの惨劇があったばかりで、警備体制も厳重で
あったようであるが、まあ、事故もなく、平和に
無事終わって良かった。

街は再び、いつもの岐阜に戻り、とても静かだ。
これが岐阜だ。メディアで騒がれる街ではない。
でも、なんだか町中に興奮の余韻があるのが面白い。
外し忘れられた街角のポスターを見ながら、
ふるさとの平和を改めて感じた。

信長のことは、実は何年も前からマークしており、
曲も書いている。
来週の岐阜新聞社でのコンサートでは、
こんな話題と演奏もタイムリーかもしれない。

ああ、平和なふるさと。永遠であれ。


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ごまかしのできない仕事。

マーケティングやコミュニケーションの世界に身を置いた十数年の間に、
ピアノの演奏力は低下した。この現実は、ときに苦しく、ときに
悔しく・・・。でも、その代わりに得たものは、出会いは、新たな世界は、
より広く、大きく、また違う豊かさもあるのだから、それでよかったのだと
言い訳をする自分もいる。

音楽だけ一筋に生きてきた人の生き方をうらやむことはしないと
思ってきたが、それでも、華々しいステージで勝負する演奏家たちの
姿を映像などで見るにつれ、いろんな思いが募る。
そんななか、
ショパンの再来といわれた、あのブーニンの9年ぶりの復帰の報道に
接し、釘付けとなる。
まさに音楽一筋、ピアノだけに生きてきたあの天才が、そういえば
ここんところ、コンサート情報も来日という話題もなかった。
左手が動かなくなるという大病を患い、足も骨折。そのための治療や
リハビリをされており、やっとこのたび日本での演奏会で復帰された
とのことで、番組はその様子を伝えた。
いつの間にか中年になったブーニンが、久しぶりに演奏した曲は、
昔のような華麗なショパンではなく、静かなシューマンの小品集から。
以前の指先の見事な速い動きこそないが、ひとつひとつの音が
心にしみわたる、深いキレイな音色が心を震わせた。

技術ではなく、美しい音色を届けたい。
そんな思いがじんわりと伝わる、素晴らしい演奏で、
苦難、苦労を乗り越えたブーニンの今を感じることができた。
昔は聞いていて、その指さばきに感嘆こそすれど、涙は出なかったが
今は、いろんな思いが重なって、一音一音が全身に染み渡った。

演奏後のインタビューのなかで、
「ステージはごまかしのできない場」であると言っていたことが
とても印象に残った。
「自分ができること、できないことが、わかってしまう世界」
確かにそうだ。

音楽は音が出た瞬間が、永遠である。
上から色を塗り足すことも、消しゴムでなかったことにする
こともできない。
出された音が、すべて。
この瞬間にすべてを賭ける。
それが演奏家の仕事。

ごまかしができない仕事。

ふと思った。
音楽の世界で学んだことのひとつは、これだったと。

今、音楽以外の仕事、活動をするときにも、
ここは大切にしなくては、と無意識ではあるが、
ずっとそうしてきたような・・・。

ごまかしはいけない。

ブーニンは1年後、さらに昔に戻るようにリハビリ練習を
続けるそうだ。

人生の頂点とは何かわからないが、
年齢や苦労や経験を重ね、
真なるものに向かっていく・・。それが人生か。
もちろん努力がなければ、向かうことはできない。

ごまかしのない仕事、生き方。
自分がまず、それをわかっているはず。

さらに人間味と愛にあふれたブーニンのこれからを
影ながら応援し、そして
私もさらなる復帰!を目指したい。

技巧を尊敬するだけでなく、
生きざまが尊敬される。
そんな人になれるのかどうかは、あとでわかること。
まずは、ごまかしのない今日1日を。

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野菜ダイアローグ。

初めて足を運ぶ土地で、道の駅や、直売所に足を運ぶ。
これはとても楽しいリサーチであり、ミニイベントだ。
珍しい地元ならではの農作物に出会えたりする。
デパートや大型スーパーに並ぶ、カタチやサイズの整った
キレイな野菜よりも、
近所の農家さんがそのまま持ち込んできたような、
ちょっと土がついたままだったり、
形が不格好だったりする野菜の方が、断然愛着がわく。

また、普段売り場で見たことのない野菜をみつけると、
思わず購入してしまう。
「何?これ?」
世の中には、まだまだ知らないものがたくさんある。
大量に流通する世界では出会えない、小さな発見が直売所には存在する。
さらに、親世代の人たちが、よく食していたであろうものに出会うと、
なぜか懐かしくなってしまう。
貧しい時代に食していたものたち。ちょっと面倒ではあるが、
ちゃんと美味しく食べられるものたち。

たまたま、「いものつる」をみつけた。
芋づる式とはここから来ているのかどうかわからないが、
畑の様子を、想像するのが楽しい。(といいつつ、土いじりは苦手であるが・・・)
食べるには水にさらしたり、皮をむいたりと面倒ではあるが、
なぜか、しみじみとした気持ちになる。日頃の疲れも吹っ飛ぶのが不思議だ。

「あのさ、これ、どうやって食べてた?」
「へえ、きんぴらにするの?」
「ちょっと、めんどうくさいよね」
と、手を動かしながら、ひとりで話している。
そう、母に話しかけているのだ。
きっと彼女はこういった類の野菜に親しんでいたはずだから。
扱い方は聞いても返事はないため、ネットで調べるが、
とにかく対話をするのが、いい。

野菜を切りながら、皮をむきながら、母に声をかける。
きっと、これからもそうするんだろう。
野菜ダイアローグは、自分にとって一種の癒しでもある。

そんなひととき、悪くない。
ちなみに、写真の野菜ははじめて出会ったもの。
コールラビと呼ぶらしい。
母は知っていたかな。そんなことで野菜ダイアローグを楽しむのも
四季の歓び。
大地の恵みを、母の思い出とともに、ありがたくいただく。

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分断を乗り越えて。

アメリカで中間選挙が行われる。
この結果が世界にもたらす影響は計り知れない。
世界のなかのアメリカの役割、存在力が変わりつつある中、
未来のリーダーがどうなるか?が見えてくるからだ。

もう20余年が経過してしまった21世紀を振り返る。
悲しいかな、同時多発テロにはじまり、そして現在も続いている
ロシアのウクライナ侵攻、大国の権威主義の強化・・・。
一人一人が自由に、平等に、平和に、安心してくらせる世の中とは
違う方向に進んでいるように思う。
SDGsを合言葉に、持続可能な取り組みを一生懸命やっている
多くの人がいる一方、自分主義で権力を押し続けている人もいて・・。
別の世界の話だろうかと思う今日この頃。
このように、世界が分断されていると思う、感じることが多すぎる。

アメリカでは分断がさらに進み、自分の主義主張、思考と相いれない
人を排除する傾向が高まっている。
もちろん地域差はあるだろうが。

日本でも安心はしていられない。
情報の受け入れ方によって、人は違う方向を向くようになる。
認め合う、赦し合う、思いやる、愛する。
そういった人として基本的なことを忘れずにいなければ、
人間社会は成り立たなくなる。

分断。
違う意見をもっていても、お互いに聞き入れ、話し合う。
そしてお互いのいいところを取り入れる。
コミュニケーションをしっかりとる。
それが民主主義でもあると思う。

分断を乗り越えたい。
まずは、相手のことを知ること、認めること。
そして、共通点を見出すこと。
安易に決めつけてはいけない。

アメリカの動向を見ながら、これから世界はどうなるか、
そのなかで、自分はどうするのか?をしっかり考えていかねば。
すべての動向、事象は他人事ではない。
全部、自分に跳ね返ってくるのだから。

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老々の時代に。

老々介護が原因の痛ましい事件、事故・・・。
その報道に接するたびに、心が痛む。
老々でなくても、
両親の最期は、まさに真剣勝負で緊張の毎日であった。
「おまえに、わしがどんだけ痛いかわからんやろ。
 もう殺してくれ~」
と、そんな言葉も生存確認の決まり文句のような朝も
多かった。
そんな言葉は母の訴えであったし、一生懸命生きている
証しであった。
こんな激しい暴言のあと、力抜けて
「昌子さんと喧嘩せなあかんで、長生きせなあかんな。」
と言ったこの言葉が、母から私への遺言となった。

もし、この生活があと10年も続いていたら、私も70歳前になり
体力気力もどうなっていただろう。
まさに、老々介護になる・・・。
おかげさまでというと罰当たりかもしれないが、
そこまでいかないうちに、旅立ってしまった。

でも、何十年も介護をしなければならないとしたら、
介護者である家族の負担は計り知れない。
仕事も好きなこともできない。どこにも行けない。
経済面の不安も絶えない。
介護は本当に大変な人生の仕事だ。

他人事ではない、老々介護。
人生を「ありがとう」と笑顔で終えたいが、
そのためには、まずは今できることをやり、
人に迷惑をかけない生き方をしっかり準備しておくこと。

生きることは、本当に難しい。

このたびの悲しい事件のこと、他人事とせず、
どうしたらこういうことがなくなるのか、
をしっかり考えなければ。
加害者、被害者で人生が終わらないように。
「ごめんね」ではなく、
「ありがとう」で終えたい。

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