想定外が想定内になった。

昨今、まず話題になるのは、電気料金の値上げ。
その影響も含め、生活用品の値上げ、値上げ・・。どこまでいくのか。
東日本大震災のときに味わった、これまでにない感覚、不安、恐怖感を
今、思い出すことが多い。
これから一体どうなるんだろう?と被災地の皆さんはもちろんのこと、
周囲にいる人もそう感じ、歳月をかけ、復旧につとめ、今日にたどりついた。
まだまだ大変であり、その傷跡は消えることはないが、あのときから、
「想定外」は存在するということを学んだ。

最近は想定外の連続である。
マヒするほどに、いろんなことが起きても、驚きがあっても、
そうなんだ。そうなるんだ。
と衝撃や驚きはあるものの、静かに受け留めるようになってきている。
想定外も想定内。
そりゃ、こんなことになれば、こんなことも起きるだろう。
と、現実の厳しさを受け入れざるを得ない状況にあると思っている。

あわてず、ひるまず。
こんな状況で、どうするか?まず何をするのか?
人のせいにしたり、何かを待っているだけではなく、
自分で考えて、行動を変えていくしかない。

エネルギーの心配は大きい。
だから、なるべく使わないようにする。
その意識と行動。

ドイツでは、東日本大震災、原発の事故を教訓に、
国全体で行動を変えてきたそうだ。
だから、このウクライナ危機でのエネルギー対策も
他国に比して、うまくいっているようだ。
ひとつの経験から、先を読んで早く行動する。
想定外は、想定内なのだと、実際に考え、動き始めること。

結局はこの実践こそが、生き残る道であると思えてならない。
電気代の高騰で驚き、ショックを受けているだけでは
進まないので、そんな状況でもどう生き延びるのか。

まずはスマホの使い過ぎの見直しからでも良い。
充電できることを当たり前と思わないことから、かもしれない。

想定外は想定内。
これは、決してうれしいことではないが、
そう考えざるを得ない世の中になっているのだ。

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「チャオ」が似合う友。

ナポリが登場する、世界のまちあるき番組を見ていたら
十数年以上前に、何度か足を運んだあの街並みが思い出され
懐かしくて思わず、当時そこで出会った現地ガイド、通訳の友人に
久しぶりのメールをした。

もうずっと会えていない。どうしているだろうか。
コロナ禍で苦労も多かったことだろう・・。
そんな思いをしたため、こちらの近況も記す。
イタリア時間の夕方に、返事が届いた。

元気そうではあるが、
いやはや、コロナで仕事は大変な状況のようだ。
コロナで観光客相手の仕事がなくなってしまい、
今も戻っていないようだ。
ビジネス関連の仕事はあれど、観光客相手の仕事は
さっぱりとのこと。

確かに自分もこの3年余り、全然海外に行かなくなっている。
同じように海外渡航を控える人が多くなっているだろうから、
その影響の大変さは目に浮かぶ。
観光の仕事は、京都をはじめとする日本でも大変であったが、
日本人を迎える海外に住む人にとっても同じく、大変なことだ。
いや、日本人観光客だけを海外で待つという方が大変かもしれない。

今さら日本に帰っても仕事がないから、まだ少しは仕事がある
イタリアに今はい続けるけれど、それもなくなったら、日本に帰るかも?

と、近況と心情を返信してくれた友。

彼女が何十年もナポリに住み続けて、がんばっていることに
30代の頃から敬意を表し、またその生き方にずっと共感していた。
だから、彼女の人生をずっと応援したいと、今改めて思う。

ああ、彼女が案内してくれたナポリの旧市街に、
そしてカンツォーネを歌いながら歩いた、ナポリ湾のほとりに
またぜひ!絶対行かなくちゃ。
あそこに行くと、曲が浮かぶ。
そう、サンタルチアをテーマにつくった楽曲もある。

「チャオ!」と笑顔で別れたあの日が、今もくっきり脳裏に
焼き付いている。
どうぞ、お元気で!絶対会いに行く!

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みんなの〇〇

誰かの母親になることもなく生きてきた。
そして、わが人生はとっくに、旅の終点に向かって折り返している。
これでいいと思っているので、それはそれとして、
数年お会いしていない、親しくしてきた年下の友人からこんなメールが届いた。
年賀状を見て、今年が25周年ということを知ってくださってのメッセージだ。

「マーサさんのお仕事は、誰かを応援したいという気持ちが根底にあると
私は認識しています。少なくとも25年間そのお仕事を続けてこられ、
私もその応援を受けている一人だということが嬉しいです。
日本国内はもちろん、きっと世界中に老若男女、私の兄弟みたいな人がいて、
さながら、マーサさんは皆のお母ちゃん的な存在なんだろうなと思いました。
(個人の感想です)
これからも、どうぞ優しく見守って頂けると幸いです。」
という内容だ。
へえ、親子ほど年が変わらない、妹のような存在の人に、かあちゃん!と言われた。
思わず、笑みがこぼれた。そうなんや~。

うれしく思うと同時に、
以前、自分のことを「みんなの先生」と言ってくださった方がいたことを
懐かしく思い出した
新潟で広報の勉強会を長年させていただき、多くの企業さんと接していた時代。
ある受講生の企業の方がそんな風に言って下さっていたことを・・・。
その方もご自身が学校の先生をされていたから、先生という言葉に馴染みがあった
のかもしれない。

みんなの母ちゃん、みんなの先生、みんなのおねえちゃん、みんなのマーサ。
なんでもいい。
みんなのというところが、とてもとてもうれしい。
そんなうれしい気持ちで2月が始まった。
12分の2か月目。カレンダーもめくって、さあ、元気に笑顔でスタート!

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現状の延長にはない明日。

コロナから3年。マスクを外せる日も近そうな動き
もあるが、安心はできない。
環境に慣れていく、環境と共生していく。
そのようにして人類は長い歴史を歩んできたし、
自らが得た経験を活かし、学びながら、生き続けてきた。
それが人間の逞しさでもある。

でも、努力をしないと生き残ることは難しい。
あとで、「ああ、あんな時代もあったね。」
と笑って振り返ることができるように、今がふんばりどき。

業種業界によっては、コロナ前までには戻らないものの、
回復傾向にあるケースもあるが、そうはいかないで
苦しい状況のまま、足踏みしている場合も多い。
加えて、戦争の影響で以前と同じ計算式ではビジネスが
成り立たない。
今本当にがんばらなければ、明日はない。

そのうちよくなる。きっとよくなる。
と希望的観測だけでは、良くならない。
現状の延長に未来が来るとは、ちょっと思えないからだ。

だから、自分で現状分析をしながら、まずは自分の未来が来るために
生き延びるために、自分がやりきる生き方に変えていかねば
と思う。
同じことを繰り返しているだけでは、変わらない。
昨日得たことを今日すぐ生かす。ひとつひとつの行動の
スピードを上げる。すべて他人事ではなく、自分ごとにして
いかねばならない。

危機感が本気の行動に変わる。
本気とは、集中とスピード。知恵と行動。

とにかく現状の延長に、明日はない。
今、そんな状況だと、改めて自らにもそう言い聞かせる。

これまでにない危機感をもって日々を過ごされている経営者と
かかわりながら、自分ができることを、今一度考える。

とにかく、現状の延長に明日はない。
明日は、自分がつくるしかない。

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特技を生かして差別化。

春に向けて、勝負に出ようとされている方のサポートが始まった。
選挙は「キャンペーン」というが、まさにその人自身が商品であり、
その商品の価値をどうアピールするかにかかっている。

勝つためには、コミュニケーションの力が絶対に必要。
どれだけ多くの発信、また受信をして、有権者の心をつかむか、
投票日まで記憶しておいていただき、そのまま投票してもらえるか。

私は第一印象から、ステップごとの発信について、全方位で
俯瞰しながら、その戦略戦術を考える。
(普段は、戦略・戦術と戦争用語は使いたくないが、こと選挙の場合は
その言葉が似合う気がするので、やむなく・・
それにしても、なぜ出馬というのだろう。これまたいかにもという用語である。)

ライバルと比べて、どこが違うか、個性か、特徴か。
強みをしっかり把握して、それが生かされるように工夫する。

もし、特技があれば、それもうまく生かすようにする。
他の人にはできないちょっとしたことが、差別化になることもある。

同じ土俵で戦うのではなく、あえて、違う自分が輝くステージを作る。
それをどうすると効果があるかについて、その人を観察しながら考える。

昨年末、はじめて担当したキャンペーン(選挙)の広報アドバイス。
今回も前回の経験がとても役立ちそうだ。
純粋に世の中を、地域社会をよくしたいと立ち上がる、でもいわゆる
業界のバックグラウンドがない方たちを後ろからしっかりサポートしたい。

やる以上は、勝ってほしい。かかわった以上、絶対に笑顔の結果が
出るようにしたい。

自分が商品という仕事。まさに自分もそうである。
いかに特技を生かして、差別化するか。
人のお世話をさせていただき、わが道にも生かしていきたい。

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余命、知りたいか。

先日、とある人との会話で、余命宣告の是非についての話題
になった。
今の医療では、それが義務付けられているのか、
とにかく患者の家族にはそのことを告げられ、さて本人には。
ということになるが、
ある方は、ご家族本人に余命宣告をしたことで、それがショック
で寝込んでしまい、結局寿命をさらに縮めてしまったとの
ことで、それ以後、余命宣告には反対。もし、他の家族に
そんなことがあっても、本人には言いたくない。

といったそんなお話であり、ずっと自分の中でそのこと
が忘れられずにいた。
自分が本人だったら、余命を知りたいだろうか。
家族だったら、どうするだろうか?

余命がわかる病気以外の場合、人はいつ果てるか
わからない。10年後かもしれないし、明日かもしれない。
わからないからこそ、今日1日をしっかり生きようと
思っている。
でも、実際自分が不治の病に冒されてしまった場合は
迫る最後の日のことを知りたいだろうか?

今のところは、応えはNOである。
明日死ぬかもしれないが、生きるかもしれないと
思って生きている方が、自分は幸せのような気がする。
知らない方が、希望を感じられ、生きがいを最後まで
持てるような気がする。

ああ、もう終わってしまうんだ。
でも、奇跡が起きるかも?と
思えるのかどうか、今はわからない。

ということで、今のところ、余命宣告はいらない。
と、元気な私であるが、実際にご家族がそんな状況に
いらっしゃる方のことを思うと、心が痛い。

いずれにせよ、命は限りあるもの。
それは間違いないから、今日1日を丁寧に、大切に
生きたいと思う。



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自分流瞑想、こころの時間。

静かな朝。コロナで何年もお会いできていないが、メール含め
やりとりが今も続いている、ある方のことをふと、思い出す。

私が会社員であった頃からのおつきあいであるから、30年近く
ご縁をいただいていることになる。
それは、国際マーケティング勉強会での出会いであった。
その方は50代後半に脱サラされ、会社員時代の経験を活かし、
起業された。
そして私の35歳での脱サラ後も、マーケティング方面での仕事への
心配、音楽活動への応援、ときに翻訳などで助けていただいたことも
・・・。
思い起こせば、良き応援団として、ずっとずっと見守っていただいてきた。

今は70代後半。現役を退いても、積極的に社会に関わり 長年培われた
国際的なキャリアを生かし、海外と日本をつなぐ社会活動を続けて
おられる。そして健康的な生活を送っておられ、とてもお元気な様子。

つねに人生に対して、勤勉であり、計画的であり、そして敬虔であり、
信仰がある人の生き方とは、こういうものかと学びをいただいたことも
多かった。

定年後の暮らしについてたずねたときに、毎日、瞑想をされていると
言われたことを思い出した。それが心の健康法であるとも・・・。
瞑想は、自分と向き合う集中の時間。
かのスティーブジョブズも瞑想をしていたそうであるが、
日々課題多き人にこそ、心を静め、無になり、頭を整理する時間は
有意義であろう。

最近、住人が長い旅に出てしまった実家はわが仕事部屋、スタジオとして
使うことも増えてきたが、静かな部屋に、親の写真を置き、じっと静かに
過ごす時間をもつことがある。
本来の瞑想とは違うかもしれないが、私の場合はこんなやり方。
親と対話をする。それは自分との対話の時間でもある。

日々生きている動の時間。そしてそれをみつめ、見直す静の時間。
心身のバランスに、瞑想的な時間は大切だ。

社会で生きていくなかで、気づかないうちに沁みていく内面の垢を洗い流し、
無になる、素になる。
ほんの5分でも、それをすることで、ずいぶんと背負う荷物も軽くなる。

とくに週末。自分流の瞑想時間をほんのちょっと持つのも良いだろう。

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新たな挑戦を、人生に刻む。

1月ももうそろそろ終盤。もう月めくりカレンダーの1枚目を見る
日も残り少なくなって、ちょっと名残惜しい。
あっという間に駆け抜けるこの1月、2月から本格稼働する
新たなテーマをいくつかいただき、すでに準備、始動している。
ご依頼、ご指名いただく仕事。そして自分自身の25周年の事業、
活動。
前者は、自分としても新たな領域、分野にかかわることで、緊張もある。
また、モノではなく人をマーケティングする仕事。
いずれもリクエストにきちんと応え、指名してよかったという結果
にしなければ。と背筋が伸びる。
さらに、どうしても後回しになる、自分自身の事業、活動の本格稼働。
こちらも両立していかねばならない。

おかげさまで、常に前向きにがんばる人たちと接する機会をいただけ、
私自身、後ろを向く暇がない。というか、人生は後戻りできないのだから
前を見続けて進むのみ。

ひとつ山を越えると、必ず新たなお題が降りてくる、わが人生。
いつもありがたいと思うのみ。
いくつになっても、新たな挑戦を恐れてはいけない。むしろ、楽しむこと。
そして、コミュニケーションの仕事は無限大だ。
必要としない人は、企業はない。

しっかり伝えたい。
そんな思いの皆さんのお役に立てるように、
新たな挑戦で得たかけがえのない経験を、自分の人生の歩みにも、
自信をもって刻めるように。

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ハイブリッド時代の戦車?

先日、久しぶりにオードリーヘプバーン若き日の名作
のひとつ「尼僧物語」を観ていたら、ストーリー展開に
つい、くぎ付けとなった。
神に仕えるために修道生活を続けていた模範的な修道女
(オードリー演じるシスタールーク)が、第二次世界大戦
になり、父親が敵国の兵隊に殺されたという情報を得て、
神の名のもとに、敵をも赦すということができない、
との葛藤のもと、修道院を去った・・。というストーリー。
自分のなかで、今の社会情勢が重なった。

戦争になれば、結局は神を信じられない、憎いものは憎い
となるし、どんなにハイブリッド社会だといったところで、
結局は戦車を世界中からかき集める、超アナログな状況を
人は求める。対面での殺戮に向かってしまう・・。
人間は、いったい?
戦車の供与?これでいいのか?

先週岐阜新聞で行ったコンサートで、ウクライナでの
戦争が早く終わるようにと願って弾いたオリジナル曲の
タイトルは、「枯れたひまわり」。
そう、あのウクライナのヘルソンに咲くひまわりは、
枯れさせてはいけない。
でも、戦車の行列は、ひまわりをも潰していき、
再び咲くことができないように、枯れさせてしまうかも
しれない。美しいあのひまわりが死んでしまう・・・。
あのひまわりの下には、先の戦争で亡くなった兵士たち
が眠っているのに・・・。
と、私の中では、さまざまな想像と感情が入り乱れる。


戦車の供与ではなく、もっと違う次元で、コミュニケーション
=対話の力で、なんとかできないのか?
軍事産業が活況を帯びていくこの事態にも大変疑問を感じる。

戦車より、コミュニケーションを。
戦車より、音楽を。

と祈る人も少なくないことを信じ、自分ができることを
しなくては。


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雪お見舞い。

天気予報が当たった。大げさな予報かと思っていたが、
近くでいえば、京都方面でゆうべから今朝にかけて大きな
影響が出ている。
いつもの京都駅が目を疑う光景になっていたようだ。

名古屋は、おかげさまで白いものがちらついていない。
これから降ってくるかも。安心してはいけない。

しばらく忘れていた雪の恐ろしさを思い出した。
冬のNY渡航では、滑走路凍結のため、欠航という事態に直面したこと
もあった。この季節は移動してはいけなかったのだ。と苦い経験があった。
そして、20年近い新潟往来のなかでも、雪の影響は何度も体験した。
動けないことも多かった。転んだこともあった。
雪国の人はたくましいと、この季節になるといつも思った。
雪は、見ているだけであれば、美しいが、静かで怖い存在だ。

電車が止まってまだ家にたどり着けていない人もおられるようだ。
今朝もまだ影響は続く。
慣れない土地ほど、危険度が増す。
どうぞ、気を付けて どうぞ無理されず。

自然とともに生きる。
本当に、毎日何が起きるかわからないが、
経験を活かしながら、
いのちを守ることを優先する。

とにかく被害が少ないことを祈る。




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