オーバーツーリズムへの辛抱とおもてなし。

京都市内には、外国人があふれている。朝も昼も夜も・・・。
コロナ前に戻った感じだ。もっとも中国系の人は少ないが。
京都はKYOTOなのだ。やはり世界が選ぶ大観光地。
パリに並ぶ存在だ。

でも、もうこれ以上本当に来てほしくないほど町に観光客があふれかえっている。
賑わいというか、雑踏というか、公害というか・・・。
とくに錦市場の混雑ぶりは・・・。歩きたくても歩けない。
急いでいるのに、急げない。普通に過ごしたい人、市民の皆さんにとっては
とても不自由な京都である。

これから紅葉の時期が、怖いね・・と周囲に話す。
とにかくピークを迎える秋。

そんななか、朝8時半前、京都駅にある観光案内所の前。
営業前から、何名かの外国人が入口で待っている。
私も資料を探したく、そこに行くがまだ開いていない。電車の時間まで
どうしようかと思っていたところ、
まだ開かないのか、遅いな~とちょっとイライラしている一人のご婦人が
視界に入る。
どうしたのかな?
ちょっと声をかけてみると、半日コースの京都観光のバスツアーに行きたい
とのこと。
ああ、もうすぐ案内所が空くので、もうしばらく待ってくださいね。
と話すと、その方は大変喜んでくれて、少し会話が続いた。

私もしばらく海外に出ていないため、英語での会話は最近、ご無沙汰であったが
通じたのがうれしく話を続ける。
オーストラリアはメルボルンからおいでになっており、夕方の新幹線で東京に戻り
明日帰国だそう。以前は名古屋にも住んでいたことがある、英語の教師だそう。

日本が京都が好きで、今日は夕方までひとりで電車の時間まで京都観光をひとりで
楽しみたいのだそう・・。
その顔つきからインド系かなと思ってきいたら、スリランカ出身。
スリランカ!懐かしい!ああ、行ったことがありますよ~と話しているうちに、
観光案内所に外国人観光客がどんどん集まってきた。
「じゃ、お気をつけて。良い旅を」
とてもいい会話を楽しみ、別れを告げ、私は次に向かう。メールアドレスも交換した。
その方、日本人は優しいので、日本が大好きだとのこと・・・。いい印象をもって
帰国してもらえたらいい。

グループになって、集団で行動されると、圧を感じるが一人旅なら、自然に歓迎の
気持ちも沸いてくる。

世界中から京都へ人が集まる。もちろんそれ以外の町にも・・・。

オーバーツーリズムとおもてなし。
みんなにとって、気持ちいい、楽しい頃合いがいいけれど・・・。

ふと、コロナ禍に出かけた静寂の清水寺を思い出した。
ああ、あの時が良かった。としみじみ・・・。

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アフターコロナのびっくりニュース

なかなか新潟の人たちに会いに行く機会を作れない。
ずっと気になっていた。
そんななか、新潟で開催される展示会に現場応援のため出向く予定が入った。
であれば、地元の懐かしい人たちに久しぶりに声をかけてみよう。
広報の勉強会絡みの人たち、新潟でディナーショーに来られらた人たち、
それ以外のご縁で出会い、今も細い糸でつながっている人たち・・・。
数年以上会っていない人にも、これを機に・・・。
個別に会う時間がとれないので、一緒に会って交流しようという試み。
一斉配信で連絡をすると、返事がくる。
会える人、都合がつかず会えない人・・いろいろであるが、後者の場合は
近況が書かれている。
そんななかで、びっくりニュース。

なんと自分よりかなり年上と思っていた社長さんが、今年再婚されたとの
こと。そしてお子様が誕生。
まじ~!!びっくり。お相手は私のディナーショーに来られていた方だそうだ。
まさかそのショーがキューピットというわけではないだろうが・・・。
お子様が大学生になる頃 自分は90歳になります。100年時代をしっかり
楽しみます。

と綴ってあり、再びびっくり!
70歳にもなると、定年になり・・・。とか、健康が・・・とか、活発な人生の
あゆみを緩め、終活を想起させる、もしくは心配になるようなそんな近況が多い
傾向であるがまさかの再婚とお子様誕生!70歳でパパなんだ!

もう数年以上お会いしていないその人の歓びの顔が、くっきりと浮かんだ。

コロナでいろんなことが変わってしまい、思うように生きられない人も
増えているなか、人生100年をほんとうに全うしようとしている人が
いることに驚き、そして笑いがこみあげた。

やるな~。

きっとこの方は、これまで以上に健康に気遣って、家族を大切に
第二の人生を生き続けていかれるだろう。
きっと、周囲からはうらやむ声もあることだろう。

いやはや、元気な70歳。
人生いろいろ。愛は人生を変えるのかも?

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やなブラ懐かし・・で終わらせない。

わがふるさと岐阜市は、岐阜県の県庁所在地であり、人口約40万人の地方都市である。
名古屋のベッドタウンとしてそれなりに開けており、郊外の一部には若い世帯が移り住み、
人口が増えている地域もあるが、空き家も増えている。
郊外には、他の地域と同様、大型SCができており、車社会のこの町での買い物や食事は
この郊外で事足りる。駐車場も大きいため、便利であり、家族層にも使いやすい。

一方、私が子供の頃、昭和40年代、街なかが繁栄していた。
「柳ケ瀬」といわれる商店街は大変にぎわっていた。多くの商店が軒を連ね、飲み屋街もあり、「柳ケ瀬ブルース」という演歌が大ヒット。その名は全国に知られるきっかけになった。
私が小学生の頃は、近鉄百貨店の前身である丸物百貨店があり、そして高島屋ができた。
今でも、父と出かけた近鉄百貨店。山下清の作品展を見たこと、楽譜売り場でベートーベン
ソナタを無理やり買ってもらったことは懐かしい思い出のひとつ。
当時、駅前にはパルコもあり、岐阜はそれなりの先進的でおしゃれな地方都市なのだとちょっと自慢していた・・・。
その後、近鉄百貨店もパルコも閉店・・・。
岐阜を離れてから、岐阜の街中の活気は郊外にもっていかれた・・・。
当時、柳ケ瀬をぶらつくことを「やなブラ」と言っていたが、ぶらつく人は減少の一途・・。
商業店舗の郊外出店により、柳ケ瀬は衰退に向かった。

それでも、なんとか街なかを活性化しようと、行政や市民のみなさんの努力は続き、最近では高島屋に隣接したタワーマンションが建築されたりして、人の流れも変わるかも?と少し期待していたが・・・・。

このたびの、高島屋の来夏閉店のニュースは衝撃的であった。
今や、岐阜市民の話題はまずそれ・・。とくに高島屋をよく利用した高齢者には
懐かしみと寂しさと・・・。また私たちの年齢でも、岐阜といえば、高島屋がある。ということでのたのしみがあっただけに、これは大きなショック・・・。

高島屋があるからマンションを購入したという人も多いと思われるが、一体どうなることか。
百貨店の存続は、地方では難しくなっているのは今に始まったことではなく
今回のことも、想像はしていたけれど・・という現実。

それでも半世紀もよく持ちこたえた。
行政支援があっての維持であった。
街中に、商店街のシンボルとして百貨店は不可欠であったが、無い袖はふれない・・。
厳しい選択となった。

この柳ケ瀬はどうなるのか?
街は変わりゆくことを、今回改めて衝撃をもって受けとめている。
ふるさとが変わっていく。
それは、自分をはじめ出ていく人間がいるから・・ということも無関係ではなく
責任も感じる。

ふと、この高島屋の周囲にあるなじみのお店たちの今後を思うと、
何かできないかと思う今日この頃。
都会中心の経済。
百貨店という業態の変化。

百貨店が好きな世代であるゆえ、寂しさとなつかしさと・・・一つの時代の
終焉を感じている。
半世紀。これは街が変わるひとつの区切りなのかもしれない。
終わってはいけない。愛すべき柳ケ瀬。

やなブラ。両親の元気だった時代がよみがえる。
ああ、自分が育った昭和は、自分にも町にもいい時代だったなあ。
懐かしいだけで終わりたくない・・・。

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記憶喪失の時代。

いやはや、人間には記憶がまったく途切れてしまう時期があるのだ。と
我ながら驚くことがあった。
先日のコンサート。あるお客様がお客様を紹介してくださった。
名前を聞いて、なんだか聞いたことがある名前・・・とは思った。
高校の先輩だそう。そういえば、確かに・・・。でも、なぜ名前を知って
いるのか、とかどういう場面で関わりがあったのか・・・はわからない。
コンサートの当日、40年ぶりにお会いするその名前の方の顔を拝見し、
確かにこの方お会いしているし、知っている・・と懐かしい感じはしたが。

そのお客様は、とても再会を喜んでくださって、コンサートの時間、
ずーっと私をみつめておられた。その目線を感じながら、演奏を続けた。
そして、コンサートの翌日、連絡をいただき、お会いすることになった。
まだ、どこでどうお世話になったのか、思い出せないまま、でも、確かに
知っている・・・。

お会いしたとき、その方は私の40年前のことを詳しく話してくださった。
どうやら、大変お世話になったらしい。そして大変印象に残って、その後
どうしているのか、思い出し、周囲の人に尋ねたりしてくださっていたらしい。
そう、岐阜を離れ、どこへ行き、何をしていたか‥不明のまま、今回の再会と
なった。

そう、私は高校を出て、ふるさとの音楽仲間の間で、行方不明になっていたのだ。
(自分でそうしていたのだ。)

先輩は私の高校生時代のことを、いろいろ話された、エピソードがいろいろあって
驚いた。へえ、私、そんなことしてましたか?そんなことがありましたか?
大変、不思議な感覚であった。

思えば、岐阜から京都に移り住んだとき、音楽を捨てた、岐阜を捨てた。
という感覚ではあった。親に反対され、ピアノを捨て京都に飛び出たあのときの
意地・・。
以来、自分のなかでは高校卒業~大学入学前の自分のことを、その後封印して
生きてきたのかもしれない。
京都に移ってからの自分の記憶ははっきりしているが、岐阜を出る前の記憶は
とくに音楽の記憶はぷっつり切れている。
自分で記憶のチェーンを断ち切っていたのかもしれない。
思い出したくない時代、思い出してはいけない時代・・・だったのかもしれない。

と、その先輩の話を聞きながら、記憶喪失時代の自分のことを、だんだん思い出した。

・・・・そんなことがあったんだ。
「それはそれは失礼しました。大変お世話になったんですね。」

いやはや、ずいぶん失礼な私である。

その頃の自分の話を聞きながら、本質的に変わっていないのだということも
改めて知った。自分の考えをもっていて、疑問があればとことんきいてくる。
考えたこともないようなものの見方をして困らせる・・・。
規定概念、こうせねばならぬ・・ということにただ従うことができない性質
だった点・・・。今も根っこは同じだ。変わっていない・・。

自分の人生のなかの記憶喪失の時代。
忘れていた、音楽高校生時代の一コマ。

とにかく40年前の自分を、覚えている方と、今回再会したことは、
何か意味があるのだと思えてならない。

いつも思い出していれば、ずっと記憶は途切れない。
故人との関係も同じだ。
でも、忘れようとすれば、記憶は薄れ、切れていくのだ。

人間の記憶は、意思や意識と密接にかかわっていることを、改めて知る。

それにしても、自分のことをまったく覚えていない時代があったとは。
忘れたまま、一生を終えていたかもしれないのだ。

岐阜を出て、一度生まれ変わっていた自分。

記憶喪失の時代。もしかしたら、そういう経験を持つ人は少なくない
のかもしれない。
過去の記憶をそこに置いて、違うステージで新しく生きはじめる。
こんな生き方を、無意識のうちにしていたのだな・・。

ふるさとコンサートをきっかけに、ふるさとに置いてきた
自分を少し思い出せたのは、きっと意味があるのだろう。

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ラビアンローズを胸に。

先週12日のコンサートでいただいたお花たちは、いろんな場所で活躍している。
花の命は、短いけれども 本当にすごい生命力だと改めて思っている。
見る人に生きる力を与えてくれるのだ。

この画像は横浜から届いたバラの贈り物。25というキャンドルがかわいらしい。
この送り主は、毎年、創立記念日か、その時期に行うコンサートに合わせて、周年の数だけ
バラを送ってくださる。
今年は25本。25本にもなった。
「もう12~13本ぐらいのときから送らせてもらったかな、100本まではいかないと思うけれど・・」いつもその時期のコンサート会場に赤いバラが届くと、指定席のピアノの上に置く。すると、なんだかエディット・ピアフになったような気がして、歌に心が入る。

ラビアン・ローズとは、la vie en rose。バラの人生。言い換えてバラ色の人生。
人生は見ようによって、いろんな色に見えるけれど、やっぱりバラ色の人生を夢見て、
楽しく笑顔で、そして愛を大切に生きたい。

花は気持ちの現れだ。
ずっと見守ってくださる方たちに心からの感謝をもって、そして、
みんながバラ色の人生になるように、自分ができることをする。


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おもしろうて、おもしろうて、今年もフィナーレ。

10月13日開催したコンサート会場の近く。長良川での鵜飼は昨日10月15日をもって、
今年のプログラムを終了した。
最終日は、花火が打ち上げられるため、遊覧船に乗って鵜飼を楽しむ人以外に、
地元から多くの人が集まってくる。長良橋には三脚がずらりならび、シャッター
チャンスを待つ人々。
より近くで鵜飼を観たい人は、右岸に集まってくる。

今年も、天気が良くて本当に良かった。
14日命日の父、15日命日の叔父へのレクイエムのような花火だ。
全国の花火大会で見るような、巨大で豪華な花火ではなく、あくまでも鵜飼を引き立てる
演出ツールとして、やや静かに空に打ち上げられる花火。
その奥ゆかしさが、この季節にはちょうどいい。
打ち上げられて空に開いた花は、たちまち消える・・。花火の命ははかない・・・。
鵜飼と花火は、なんと相性が良いのだと改めて思う。

今年で父はまる2年、叔父は1年。
ふたりとも空の上から、きっと鵜飼を見ていることだろう。

元気なうちは、必ずこの日には長良橋と長良川右岸から、このフィナーレを見届け、
父、そして叔父に思いを馳せることにしようと、心に決める。

人生の終わりに、小さな花火をあげられたら 素敵だな。と、思っていたら、
最後の一発が終わったり、長良川が拍手で包まれた。

下の写真は鵜飼のクライマックスで6つの船が並ぶ「総がらみ」と、その後の花火、
そして、終了時の長良川と岐阜城。
この景色が、わがふるさとの誇り。

おもしろうて、おもしろうて、やがて涙あふれてる・・・♪

また来年も、再来年もずっと開催されるように、心から願っている。                    

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命の日の過ごし方。

昨日10月14日は父の命日。まる二年が経ったことになる。
仏教の世界では三回忌と呼ぶのだそう。妹と二人だけでの法要はすでに
終えていたため、当日は静かに父のことを思い出したいと思っていた。
といっても、実はいつも思い出している。命日だから改めて思い出すと
いうことはない。
いつもずっと一緒にいるという感覚だ。

でも、特別に、父が好んで通っていた懐かしの場所に行くことで、
そのときの父のことを思い出すことができる。
父はお酒を飲むのが好きで、酔っぱらうと気が大きく、陽気になった。
(幼いときはそれが嫌いなときもあったが・・・)
なんだか幸せそうに、馴染みの店の人をからかったり、冗談を言いながら
好きな煮魚をつまみながら、焼酎を飲むのが好きだった・・・。
外食が好きな両親は、近所の飲食店に頻繁に出かけていた。
そうだ、今日はひとりで、あの店に行ってみよう。

そんなことで、両親が好きだったそのお店に、久しぶりにひとりで
足を運ぶ。実家より徒歩20分程度か。国道の脇の狭い歩道をずんずん歩いた。
両親が亡くなった頃は、コロナダメージで通常営業もままならず、ご苦労されて
いた。団体客、宴会に強いお店だったから余計に大変であった。
今は落ち着いただろうか・・。お店はにぎわっているだろうか、だといいが・・。

玄関の扉を開ける。
「ごめんください」
ガラリ玄関をあける。なんだか静かだ。人の気配が前と違う感じ。

店の奥から、ママさんがゆっくり歩きながら出てきた。
「ああ、久しぶり~。会いたかった~」
とても喜んでくださる。
コロナで営業が苦しいとき、時々電話をかけてこられた以来、である。

「今日はお父さんの命日なので、お父さんが好きだったここに来たら
 喜ぶかな~と思ってきました。」
というと、いつも両親たちと来た時に座っていた席に案内してくれる。

ママさんは、母親と同じ年齢だ。まだ現役でがんばっておられる。
「もう、83歳なんよ~」
今、親が生きていたら、どうなっていただろうか?と想像した。

コロナがすべてを変えた。
親もいなくなり、そして飲食店の環境も激変した。
コロナだけでなく、さまざまな値上げが営業を圧迫している。
何もかも昔と変わった。
両親が通っていたあの頃は、お店にもにぎわいがあった。

少し静かになってしまっているお店。
BGMは昔と変わらない 琴の音。
そこに声の大きい、父と母のかけあいが聞こえてくるような
気がした。

久しぶりに東京から帰ってきた私と乾杯した父の顔が、
くっきり浮かんだ。
ああ、こんなこともあったな。ちょっと照れていたな・・・。

命日とは、その人のことを思いだして、一緒に過ごす日だと思っている。
手を合わせることも大切であるが、その偲び方は人、それぞれ。
毎日思い出しているから、毎日が命日のようなものであるが、
やはり、人生を終えた日というのは、特別な日。
命の日。命をまっとうした日。
命は限りあるもの。
寂しさは変わらないが、生きているものが、生きるのみ。を
再認識する日でもある。と思っている。

今日15日は今年の鵜飼いフィナーレ。
これも含め、私にとっては父の命日だ。

長良川の空に舞う花火と漁火を見ながら、改めて父のことを思いたい。
父につくった「やがて・・・」を橋の上で歌いながら・・。

そして、また、そのお店にも顔を出そうと思う。
父や母のことを思い出せる場所には、ずっとずっと元気に存在していてほしい。

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涙のイベント翌日。

おかげさまで、12日に開催したふるさとコンサートには、本当に多くの
歓びの声をいただいた。
やって良かったとしみじみ、じわじわ感じ、感動をゆっくり味わっている。
が、一方、イベントというのは本番を作り上げるまでの事前準備と、終わって
からの処理や片付けやもろもろ、やることがいっぱい。事前にすることは自分の
計画通りにやればいいが、事後は結果に合わせて動かねばならないので、
やることは増える。その分、余韻も味わえ、感動も・・・。

今回、ほんとうに多くのお花をいただいた。そのお礼と、そのお花の活用を思案。
当日に実家と自宅に分けて移動。乗用車に全部乗り切れず、2回に分けての搬送
となった。これはうれしい想定外。(運んでもらった家人には感謝)

抱えきれないほどの大きいお花。ひとりで鑑賞したり、棲む人がいない実家に
いっぱい飾ってもお花に申し訳ない。もったいない。
ということで、そのお花の行き先がひらめいた。
時々演奏に行き、応援していただいているデイサービスである。
今回コンサートのことが新聞掲載されたときも、記事にいちはやく反応された
方、でも移動できないためコンサートには行きたくても行けない・・・という
方に少しでも楽しんでもらいたいと急きょ、花をもらっていただくことに。

連絡をしたら、喜んですぐに取りに来てくださった。施設と母がお世話になってきた
96歳のおばあさんのお宅に届けてもらう。
おばあさんからは、超感激の電話が入る。
こうやってみんなで喜ぶのが良い!感動のお裾分けだ。

そうこうしているうちに、急に新潟から来られた夫妻の帰り時間が気になった。
コンサートの前日から岐阜入りされ、鵜飼い見学をし、コンサートを観てから
犬山城に行き、そしてもう1泊、そして明治村へ。コロナ後、初の夫婦旅行。
旦那さんが車いすを必要とされるのも移動が慣れておられるといっても、大変だ。

あ、岐阜駅か名古屋駅で見送ることができたら!
急に思いつき、電話をして乗車予定の新幹線の時間を確認する。
岐阜でオンラインでやっていた会議が終わり次第、急いで駅に向かう。
岐阜駅から名古屋駅へ快速電車で移動。名古屋駅に着くのは、
新幹線発車の6分前の予定。慣れた名古屋駅、走ればいける。
でも、入場券を買わないと新幹線ホームへ行けない。
ここで時間がかかりそう・・。
岐阜から名古屋への移動時間は、そんな計算をしながら、新幹線で食べられるように
と車内おやつセットをつくる。朝買ったみかんふたつと実家にあったおかき。
これなら荷物にならないだろう。よし、これをホームで渡すぞ!!と意気込む。
絶対に間に合う、絶対改札を突破する!ちょっと新幹線の時間が遅れて出発だと
うれしいとか勝手勝手に瞬間、思ったりもしたが・・・。ネットでは平常運転。

名古屋駅に着くと階段で転ばないように気を付けながらも、猛ダッシュ。
こんな時に限って、混んでいる。いや、金曜の午後はこんなもんか。
新幹線改札の手前であと4分ある。ところが、きっぶ売り場が長蛇の列。
あ、ここは読みが甘かった。
そ戸で、ダメ元で改札の係の人に、泣きそうな声で
「ここで、入場券は買えませんか?20分の電車乗る人を送りたいので」
「ああ、ここでは買えません」の一言。
そこでかたまった。もうホームで見送ることができないことが決定。

そうこうしているうちに、頭の上でガタゴト音がしはじめた。
時計は14時20分。ああ、この電車だ。ああ、出た。ああ、間に合わなあった。
と思ったら、なぜか涙があふれて、一人で改札の外で泣いていた。
(今から思えば恥ずかしいが)

「間に合わなかったので、改札の外で見送っています」メッセージを送ったら
ちゃんと乗られている旨の返信、そしてその後、東京駅の乗り継ぎも終わって、
無事、新潟行のとき号に乗り換えも終わったともメッセージ。
私が心配していると思われたのだろう。
「新潟駅まで行かないようにね、お宅まで気を付けて」
車いすがあるから、短時間の上下車は一仕事だ。

と、そんなこんなのイベント翌日。
感動は後からやってくる。という感じで、
今回遠方からはるばるきてくださった方はじめ、地元の皆さまにも
お礼のご連絡をしながら、感謝を伝える。
最後のお客様が、帰宅されるまで、イベントは終わらない。

ドタバタのあと、自宅に戻ったら宅急便が届く。
東京の弟(?)より、今回行けないけど・・と、オリジナルラベルの
スパークリングワイン。観覧車マーク。びっくり。
乾杯するようにくれたんだな・・これも涙。

皆さまのおかげで、翌日、いっぱい感動をいただきました。
本当に、ほんとうに ありがとうございました。余韻は尽きず・・・。

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岐阜城に見守られて。おかげさまで無事終了。

昨日、10月12日の岐阜の川原町での「マーサのふるさとLOVEコンサート」
1部・2部とも盛況のうちに無事終了することができました。
ご参加いただいた岐阜の皆様、遠方よりおいでいただいた皆様、
PR活動にご協力いただきました報道関係者のみなさま、お花や
メッセージをお寄せいただいた皆さま、川原町屋のみなさま、
撮影、受付をお手伝いいただいたスタッフのみなさま、そのほか、開催に
向けてご協力いただいた、すべてのみなさま、大変ありがとうございました。

鵜飼シーズン中に開催したいという念願が叶いました。
またお天気にも恵まれ、最高の環境での本番となり、幸せな1日でした。
親の人生と重ね合わせた鵜飼の曲や、信長のイメージ曲ほか、ふるさとにちなんだ曲や
世界中の誰もがふるさとに帰れる日が早く来るようにとの思いを込めた世界の名曲など
オリジナル曲とともに、お聴きいただきました。

当日の本番終了後、早速多数のお声をいただき、次への期待の声や、出前コンサートの
ご要望などもいただきました。
そして、次は京都で早くやってほしい!とのうれしい声も。
今回の岐阜公演に、県外からわざわざ足を運んでいただいたように、今後どこでやっても
コンサートを楽しみにいろんな町に旅していただける・・・そんな企画も楽しみながら
続けていこうと思った次第です。

まずは25周年イベントのひとつである、コロナ後初の自主コンサート
が無事に終了できましたこと、皆さまに深く御礼申し上げます。
尚、これまでの3枚のCDに収録していない新しい作品は年内にレコーディングし
配信ほかの方法でごらんいただけるようにします。今しばらくお待ちください。
以下、当日の様子の一部をご紹介します。

終わった頃に見上げた岐阜城はほんとうに美しく、しみじみとこの1日がわが人生にとって
忘れられない宝物になると確信した次第です。
ありがとうございました。

(本日のブログは、普段のエッセイとは違うスタイルでお届けしました)



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はるちゃん、はるちゃん!

女性の司法書士。彼女が年下であり、広報のことについて相談にきて
くださったその出会いから、よくできた妹のように思い、はるちゃんはるちゃん!
と呼んできた。他の方からすれば、先生と言われる職業であるのに・・・。
おそらく十数年以上のおつきあいになっていただろう。
彼女が30代後半からいい距離でおつきあいさせていただいた。
士業には広報が難しいんですよ。といいながらも、地道にいろんな方法を工夫しながら
実践される努力の方だった。
ニュースレターを発行する時も相談していただき、できるサポートをさせていただいた。
覚えているだけでも12号ぐらいまで発行しただろうか。最後に添削したのは昨年の
はじめごろ・・。
そんなおつきあいから、関東地区の司法書士さんの集まりで広報の勉強会をさせて
もらったことも懐かしい。

私を必要とし、周囲に働きかけてくれるありがたい応援団であった。
「先生、昨年がんがみつかったんですけど、完治したので快気祝い送ります」
と彼女らしいピンクのタオルセットを送ってくれたり、こちらから紅茶を送ろうとすると
自分の好きな銘柄をはっきり指定されたり、とにかく仕事柄のせいか、真面目で白黒はっきりさせる人であった。これまであまり会ったことのないタイプで、とても新鮮であった。
そして昨年夏、妹さんの起業相談にも乗ってほしいと、紹介をされた。
それから連絡が途絶えた。

そして、昨日、すでに亡くなっておられたことを知り、ショックな気持ちが消えないで
いる。
はるちゃん、はるちゃん!何度も心の中で叫んでいる。
もう一度会いたかったし、もうちょっと連絡をしっかりとっておけばよかった・・と
今からはどうしようもないが、悔いが残る。

私にとって頼りになる法律家であった。
身寄りのない方の最後まで面倒を見ていると聞いたことがあった。
ほんとうに世の中で困っている人のために、正義感をもって、がんばったはるちゃん。
「私、こういう細かいことが好きなので、司法書士向いていると思ってます」
この言葉も今も覚えている。

はるちゃん、はるちゃん。何度も呼んでしまう。
会いたかった人に会えないまま、いつのまにかいなくなっている。
ということこそ、悲しいことはない。

はるちゃん、はるちゃん。しんどかったね。がんばったね。
ネット検索したら闘病日記をみつけることができた。
もっと前に知っていたら・・・。何ができたかわからないけれど、
自分より若い人が先に逝ってしまうのは・・・・。

はるちゃんのご冥福をお祈りし、今日はダンスが好きだった彼女の分まで
全力でやらなければ。

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