プロセスがすべて。

ハリウッドで大規模なストライキが行われているニュースを見て、いろんな意味で納得し、
共感を抱き、俳優や作家たちにエールを送っている今日この頃。
今は亡き作家の知人が、この時代に生きていたら、ネット社会でのこのコピペ文化を
嘆き、苦しみ、もがいていたのではないかとも思う。著作権の侵害、書籍の再販の問題や
ネットによるプライバシーの侵害に対し、異を唱え、怒りをあらわにしていたその人が
生きていた十数年前よりさらに、事態は良くも悪しくも進んでいる。

改めて、21世紀は恐ろしい時代だと思う。

今、例のチャットGPTについても、危惧するクリエイターは多い。
自分が調べ、考え、その結果、ようやく生みだされる文章や音楽が、ビッグデータからの抽出、編集、加工により瞬時にカタチになり、それが作品になってしまうとしたら、作家としての自分の仕事は一体?ということになる。
AIは人間の暮らしを便利にする一方、人間の仕事を奪う、と言われてきた。でも、クリエイティブの世界には影響がないと思っていたが、いやそんなことはない。AIの力は、その領域にまで侵入してきてしまった。
人間が生んだ人工知能は、作り手の想像を越え、進化してきている。情報の蓄積があれば、なんでもできてしまうということだ。
自分でコントロールできないモノを作り、あとはみなさんよろしくといった感じでこの無責任な仕事自体、いったい何なんだろう?と思えてならないが・・・。

さて、このチャットGPTのような人工AIが瞬時にアウトプットする作品と、人間が時間をかけてつくる作品。悲しいかな、もし結果が似ているようなものであった場合、人間自ら作る作品にはどんな価値があるのだろう。
結果が同じようなものであったら、もうその時点で絶望的だとも思えるが、見方を変えると、それは「プロセス」が違うということができるということで、光が見えてくる。
人間が自分の人生、経験から発想を得て、それをカタチにして、人々とコミュニケーションしながら一緒につくりあげ、一緒に感動しながら、盛り上がっていく作品づくり。
この作り上げていくプロセスこそが、人間の創造力であるが、AIには、それはない。0か100か、まさにデジタルの世界らしく、ボタンを押せば瞬時が答えが出てしまう。そのプロセスには感動はないのだ。

よく考えたら、人生はプロセスそのものである。明日に向かって生き続ける存在である。
考えようによれば、毎日がその結果、その成果物であるともいえるが、人生は
プロセスの積み重ね。悩み歩いた結果、うれしかったり、悲しかったり、心が豊かになったり・・・。プロセスを味わうのが人生だ。
だから、AIがどんなに瞬時に似たような結果を出すという現実があったとしても、それに動じないで、人間らしくプロセスを重ねて生きたい。

もちろん時間がないなかで、アイデアを出すときの参考ツールとしてチャットGPTを使う、
ネット検索を使う、これは合っても良い。
ただ、あくまでも主役は自分である。
自分の人生、生きるプロセスをより充実したものにするために、何を選ぶべきか、使うべきかをよく熟考したい。

人間が苦しみもがいた作品こそ、ありがたみがある。
簡単にできたものには、心が動かされない
人間にはひとりひとりに背景、歴史があり、ストーリーがあるのだ。

改めて、自らの創造力を鍛えたい。

と、ボヘミアンラプソティであまりに有名なクィーンのギタリスト、ブライアン・メイさん
の最近のインタビューを聴きながら、クリエイターとして共感できる発言が多かったことに
勇気をもらい、今朝、こんなことを書いてみた。

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遠くから祇園祭

祇園祭。京都を、日本を代表する夏まつりのひとつ。
思い出せば、一人暮らしを始めた学生時代。短期バイトをしていた証券会社の
大きい窓から鉾巡行の瞬間を観ることができ、そのスケールにびっくり!
京都ってすごいな~と思ったのが、私にとって初めての祇園祭だったかも。
田舎の祭りとは桁が違う。ダイナミックであり、厳かであり、華やかであり・・・。
30代の頃は、この祇園祭の時期に、木屋町のお店を借りて、ライブを何度かやった。
元上司や仲間たちが応援してくれて、暑い祇園祭りを楽しんだ。
とても懐かしい思い出だ。
あれから20年以上が経過・・・。
そしてコロナで3年間、祇園祭りは中止となり、バーチャルで楽しむなどの企画も
ありながら何か物足りない夏を迎えていた。
全国のファンにすればそんな気持ちであっただろう。

あのお囃子の音、町を巡る山鉾の姿・・・。あれがないと、京都の夏ははじまらない。
そんな京都にとっては不可欠なお宝、祇園祭。

先日、実際にその鉾の上でお囃子をされる方とのご縁をいただき、幸運なことに
大切な粽をいただいた。
その方は菊水鉾に乗られるとのこと。この祇園祭りにつくられる粽は、食べる粽ではなく、特別な、厄除けお守りである。こちらの菊水鉾は商売繁盛と不老長寿。
先週、施設でコンサートをやった際に、この粽を皆さんに見せたらたいそう喜ばれ、
「商売繁盛と不老長寿どっちがいいですか?」とたずねたら、全員声をそろえて
「不老長寿」と言われたのが印象的であった。そう、都市を重ねると
だんだんそちらを求めるようになるのだと学んだ。

さて、本日はいよいよ鉾巡行1日目、前祭である。四条烏丸から、四条通りを高島屋の前まで進み、方向転換をして(ここが見せ場のひとつ)河原町を御池方面に進む・・・。頭のなかでこの様子がしっかり蘇る朝。沿道の観光客のぎっしり密な感じも懐かしい。
三連休と重なった今年の祇園祭りは4年ぶりに大盛況、過去最高の人出となるかも。


実は、今回、なんと招待席チケットをいただいていたが、猛暑と混雑に耐えられる自信がなく、今日はこの粽に感謝し、お囃子の方に感謝をし、遠くからエールをおくることにする。そして、その昔、一緒に祇園祭ライブを盛り上げてくださって今は亡き、上司や友人のことを偲ぶとしよう。

今日、京都が最高に盛り上がる。無事に復活でき、良かった。
事故がなく、無事に執り行われることを心から祈る。
京都の夏。いよいよ本番だ。

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出会える力も、実力のうちか。

優れたアーチスト。才能があっても、世に名前が出ないまま
一生を終える人もいる。
私もいろんな作家さんに会ってきたが、経済面でどう生きて
おられるのかと気になる方もいる。
ある方の作品が有名になれるように、ささやかな応援を
してきた日も、今となれば懐かしいが・・・。
やはり、この世界も発信力は重要だ。

素晴らしい作品を制作しても、それを認めてもらえる場や
理解し、支援してくれる人との出会いがなければ、有名になることは
難しい。それだけでなく経済的なサポートをしてもらえる人の
存在があるかどうかで、その人の作家生活自体も変わってくる。
もちろん、経済的な豊かさを求めて作品をつくる人が
本当の芸術家であるかどうかは、疑問であるし、それを求めない
生き方こそ、清貧なる生き方こそが、美しいが、何もなければ
活動自体ができないため、支援はやはり不可欠だ。

画家だけでなく、音楽の世界も同様。
スポンサー、パトロン・・・。そんな人に出会うことを夢見て
ひたすらに制作に打ち込む作家たち。

作家の使命・・・いかに人々に感動を与える作品を、つくることが
できるか?
そして、いい出会いに恵まれるか?
孤高の人として生き続け、作品を作り続けるのも、
ひとつの道であるが
良き支援者を得ることができれあば、もっと大きな仕事が
でき、その仕事の軌跡を後世に残すこともできる。

久しぶりに大原美術館に足を運び、そんなことをしみじみ考えた。
そして、ご無沙汰している作家さんのことが改めて浮かんだ。

もちろん「出会い」はアーチストにのみ必要なことではなく
ビジネスでも、人生そのものにおいても・・・。
出会いこそ、すべて。これは間違いない。


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ためぐち NO THANK YOU

最近、気になっていることのひとつは、ビジネスにおける言葉遣い。
会議でも、接客でも、ためぐちになる人のことは、その瞬間で、
残念ながら、印象がかなり変わってしまう。
特に初対面での会話や、年下の人との会話、接客される時に、相手から敬語ではなく 
慣れ慣れしい態度をとられたり、「ためぐち」を吐く(あえてそういわせていただくが)人には、その人のビジネスマナーや、社会人としての常識、資質を疑ってしまう。

たとえば化粧品売り場など、女性相手の接客の場面でも、親しげに声をかけてくる人は苦手である。
一見、お客様に興味をもってもらえるように努力しているが、何か質問してこちらが答えると
「うん、うん」と聞いている様子。お客様に、その相槌はないだろう。と興ざめし、ここでは、この人からは買いたくない。と思ってしまう。悪気はないだろうが、接客時の相槌は敬語に決まっている。この会社の教育はどうなっているのか?と思う。
正直、相手を見ずに親しくしてくる人は、ご遠慮したくなる・・・。
同じ商品を買う場合でも、最後は人を見て 店を選んでいるし、その接客が嫌だからネットで購入することにもなる・・。一生懸命やっているのに、残念だ。

そして、医者での診療時のためぐち。これは本当に不快である。
名古屋に引っ越してから、医者の言葉遣いが嫌で、結局、信頼できる医者、病院が少ない。
東京の先生の方が、安心できると思ってしまい、結局今だに東京の医療機関を利用
している。
先日、どうしてもの症状があり、名古屋の診療所に行った。ある男性の先生はとても丁寧で
言葉遣いもきちんとされていた。なんといっても、目線がいい。患者に寄り添っている。
翌日、違う先生に診てもらうことになったが、最初の一声で、帰りたいと思った。
挨拶から、ため口、上から目線であったのだ。私よりかなり年下の女医(さん)。何様かと
思った。
症状を聞くときも、偉そうで、とにかく早く帰りたいと思い、後悔をした。
最近の医者は、パソコンを見ながら診療をする。入力しながらであるから、時間ももったいないからわかるけれど、カルテは後で書けば?とも思ってしまう。
診療より、記録・共有に重きが置かれ、目の前のコミュニケーションは置き去り。
心はそこにない。
残念ながら、いきがかり上 もう一度は行かねばならないが、もうその後は二度と行くまい
と思うほどに、私にとっては、してはならない接客を見せられ、後味が悪かった。
診療はラポール。対話であり、コミュニケーション。
もっといえば、競争が激しい医療機関において、診療は接客である。患者さんはお客様である・・・ということがわかっていないのは、いずれ客層の低下につながり、その医者、医療機関にとっても明るい未来はないと思う。

これ以外でも、会議での言葉遣いでも、ついついためぐちになってしまう・・・など
気を付けたいことは多い。

とにかく、「ためぐち」をビジネスで使う以上、一流にはなれない。
女性が活躍・・といろいろ騒がしいが、まずは自分の言葉遣いから。と思う例が残念ながら多いと感じている。

と、改めて自分のことも見直したい。
相手に不快な言葉を投げかけていないか。
人のふり見て、わがふり直せ である。

そんなこんなで、残念ながらモノを買いたい店、通いたい医者は今住んでいる町には
なかなか出会えないで数年が経過している。



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手も命、眼も命。

ちょっとパソコン仕事が続いているせいなのか、
重い荷物をもった移動のせいなのか、
ピアノのせいもあるのか。たぶんこれはあまり関係ないとは思うが、

ここのところ、手が使いすぎのようで、腕が悲鳴を上げているような
感じだ。
痛みが走ったり、身に覚えのないあざができたり・・・。
そうそう、スマホの使い過ぎもその原因のひとつかもしれない。
とにかく、手も目も使いすぎの日々を何年もずっと過ごしてきている。
壊れないパーツのように思って酷使してきたかもしれない。
悲鳴を感じてやっと反省、手を休める。

これからは、できる限り、腕や指先、目を意識して使わない時間をもつようにしたい。
手も、目にも休養は必要だ。

動かなくなったら。見えなくなってしまったら・・と考えたら、もっと大切にしないと。
と真剣に今日この頃。

とはいえ、1日が走り始めたら。手も目もフル回転。
いつまで、この全力マラソンができるだろう。

走りたかったら走ればいい。
但し。サインには、シグナルには早めに注意して。

手も目も、そして足も、全部私の大切な命。
体も心もつながっている。
どこが悪くても、観覧車は回らなくなる。

「ひとりの私」を生かしてくれているすべての存在に感謝して
丁寧に生きること。そして
悲鳴には謙虚に向き合うこと。

思えば、毎日、命をすり減らして生きている。
半世紀以上生きてきていると思うと、人間ってすごいと思う。
止まらず動いているのだから、そりゃ故障もする。
この先も元気に生きるために、栄養補給、休憩をとって・・・。
できる限りいい状態で、長持ちできるようにしなければ。

自分の体は、自分しかわからない。
疲れを知らない子供のように・・・の時代はもうとっくに
終わっていることを、自覚しはじめている今日この頃だ。

誰も代わりに生きてくれない。
だから、自分がしっかり自分をマネジメントすること。
最期の瞬間まで自分の力でしっかり生きるために・・。

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身に覚えがないこと

毎日、前を向いて、自分なりのゴールに向かって生きているつもり。
そして、自分がしていることは、全部自分が把握している。
自分の身におきていることは、もちろん自分が全部わかっている。
と、若いときはそんな風に思いがちだ。

でも、最近、身に覚えがないことも起きるのだということに気づく。
たとえば、わが体のこと。
つい最近、左の上腕がまるで強く打撲したように、あざになっていること
に気づく。そのあざはなかなか消えない。何もした覚えはない。
あまりに変色して、自分の腕ではないような感じだ。
え?いつ?何があった?転んでもいないし、ぶつけてもいないのに・・。

この見覚えのない、あざはどうしてできるのだろう?
いろいろネットで調べても、よくわからない。

ただ言えることは、身に覚えがないこと、自分でもわからないことがある
ということ。これが現実。
もしかしたら これから年を重ねていくと、もっともっとそんなことに
遭遇することになるのかも・・とちょっと怖い気もするが。

自分の心とは別に、体はカラダで生きている。
心が多少我慢していても、体は正直、嘘が付けない、無茶はできない。
身に覚えがないからだの変調が、何かのサインだったりもする。
だから、ちょっと立ち止まる。ふりかえる。

自分の体を過信しないこと。

身に覚えがないと思っても、身が覚えていることもある。
体は自分自身の鏡、正直な存在。
元気で長持ちするためにも、時々自分の体の声を聞くことにしよう。

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夢で会いました。

この素敵な絵手紙は、母と親しくしていただいた作家さんによるもの。一昨日のコンサートにおいでいただき、帰りにこの3枚を渡された。
「今朝、お母さんと楽しくお茶している夢を見たわ、そしたらこんな絵を描きたくなってね」渡されたはがきには、岐阜が誇る金華山の岐阜城と鵜飼いの様子、そしてアジサイに、バラの花・・。愛は美しくという言葉も添えてある。すらすらっと描かれるのだろう。
本当に素晴らしい。絵手紙の先生として活躍されており、母も応援していた。
今は、私が応援していただいている。

この絵ハガキをいただき、驚いた。偶然にも今回のコンサートでは、鵜飼いの歌も、あじさいの歌も、演奏したから。そしてバラも、私のコンサートに欠かせないテーマ「愛」の象徴だ。なんで?わかったのかな?・・と。

母の夢を見たその作家さんが描かれた絵にまつわる曲を私が演奏したことに、作家さんはとても驚き、「お母さんと夢で話して、何か気持ちが伝わったのかな。」ととてもうれしそう。
ほんとうに、不思議な夢と絵葉書と音楽の三角関係・・。
そう、夢で会った印に、母が先生にこの絵をリクエストしたのだろう。
夢で会いましょう。そうしたら、また何かが生まれるかも・・・。
そんな予感を感じた夏の絵手紙の贈り物・・・。

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ずっと親孝行ができる歓び。

蒸し暑いなか、昨日の岐阜新聞のコンサートには多くのお客様が駆けつけてくださった。
あまり暑いので、無理されてはと思い、普段よりお声がけを控えていた。
ところが、皆さん汗をぬぐいながら、会場においでいただいたようで、あたたかい拍手
に包まれ、演奏も無事開始。この暑さのなか、おいでになるということはよっぽど楽しみ
にしていただいているから。ということで、こちらの演奏にもつい、熱がこもる。

今回は「思い出いっぱい、夏のこころ旅」というテーマで構成。まずは、京都の祇園祭のことをうたった「紅い灯ゆらり」を歌い、引き続き、夏の旅ということで、世界の名曲の中から選んだ「ワルツ」のメドレーで世界旅行を楽しんでいただく。続いて両親のことを思ってつくったワルツ2曲「あじさい日記」と「夜想曲2021」を弾き歌い。そして、締めはふるさとの夏の風物である鵜飼いをテーマにしたオリジナル曲「やがて・・・」でクライマックス。
皆さんの笑顔と拍手で無事、終了。

その後、会場から親子連れの方が声をかけてくださる。
娘さんは私と同世代だ。前回もおいでいただいた方だ。
「連れてきました~。」どうやら、その方のお母様と、私の両親は仲良しだったようだ。
お母さまは「お父さん、お母さんとよく遊びに行ったよ。いろいろ連れていってもらってね。
いやー、懐かしい。あんたはお父さんそっくりかな。子供の頃、毎日ピアノのレッスンに
いってたね~。本当にお母さん一生懸命やった。ああ、今日は懐かしい」と話された。
娘さんが、お母さまをわざわざ会場にお連れくださったのだ。
コロナで最期の別れもできなかったから、と娘さんが気を利かして、私のコンサートに
親子で来てくださったのだ。
コンサートの間中、ずっとお母さまは、私の両親との楽しかった時間を思い出しておら
れたようだ。
この親子を出口までお送りし、そのお母さまの背中を見ながら、母の最期に会った元気な日の背中を思い出した。ああ、こんな感じだったな・・と。

今になっても、親のことを思い出して下さる方がいる。コンサートが思い出の場所、
時間になっている。そんな一面もとてもありがたい。
コンサートを通じて、音楽を通じて、親と出会った人たちが、心のなかで親との再会を楽しんでおられる。
そんな場をもてていることが、なんともうれしい。
少しは親孝行になっているかな。

私に音楽とのきっかけをくれた親のおかげで、今、小さな親孝行ができている。
としたら、とても幸せだ。

自分に会いに来てくださる方、親に会いに来てくださる方。どちらもいずれも、大歓迎だ。

おかげさまで、今回もいい活動になった。
他にも、いっぱいお声をいただいた。最近、声の調子が上がっているようで、ご好評を
いただいているのも、最高にうれしい。

これからも、こちらの道もがんばる。
そして今日は、昨日のお客様の笑顔と拍手を胸に、
もうひとつの道を全力で駆け抜けるとしよう。

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ただ、ただ感謝の気持ちで集中。

人間生きていれば、いろんなことが起きる。
体の不調、異変もときには起きる。
アスリートもそうだと思う。
練習、トレーニング時に起きるさまざまな事故や不調。
いざ、本番に向かうときに万全な調子で臨みたいが、そうもいかない
ということはあるはずだ。
また精神面でもいろんな悩みを抱えたり、不調なときもあるだろう。
そりゃ、人間だもの。いろんなことがある。

何があっても、大丈夫!と笑っていられる人は少ないはず。
身に降りかかるアクシデント、トラブルをいかに乗り越えるか。その課題に対し努力をし、本番に臨む。負けないでやりきることが、本当の強さでもある。

実はこの1週間、左腕の調子がおかしい。
痛みや覚えのないあざ?
自分の腕であるのに、見覚えのない症状。おかしいなあ・・。
ではあるが、なんとか演奏や移動には影響がなさそう。と信じ、
今日はやりきる。
多少の体調の異変があっても、全体的に見れば何ということはなし。


そんなことよりも、
この暑い中、おいでいただけるお客様には感謝の気持ちしかない。
あまり暑いので、外出をおすすめしたくないこの季節に、
コンサート会場までおいでいただける方に、心を込めて感謝の気持ちで
接したい。
今、自分ができる最高のパフォーマンスを発揮したい。

生きていればいろんな不安が常につきまとう。それを打ち消すのは
自分を求めてくれる人の存在、自分のために動いてくださる方の存在、
心を寄せ、応援してくださる方の存在。この力で、不安に打ち勝つことが
できる。

せっかく足を運んでいただけるお客様に、全身全霊で向き合う。
「来てよかったわ~」この言葉が、一番の治療薬になる。

暑い中、おいでいただける方、ひとりひとりに心を込めて、感謝を伝えたい。
そして夏のはじまりにふさわしい、こころの旅へご案内したい・・・。

※本日7月10日 12時30分より 岐阜新聞本社にてロビーコンサートを行います。

https://www.gifu-np.co.jp/ud/soumu/page/lobby_concert

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記憶と感動。

このところ、とくに2~3年か、多様な出会い、交流が広がっているような気がする。
経営者から、組織で働く人たち、業種・職種、性別、年代、キャリアもさまざま。
いわゆるビジネスマンだけでなくアーチスト、政治に取り組む人・・・。そして障害を持つ人とも会い、定年を過ぎ、自由を楽しみつつ、健康に留意しながら過ごしておられる方たち、施設に入所されたり、利用しながら老後の時間を過ごす人たち・・・。どの人も(自分も含め)とにかく毎日を生きている。見えない明日の可能性を信じて生きている。明日は来るものだと・・・。
そう、生きる以上明日は来るのだ。と思っている。

そして、昨日は楽しかった、あのときは良かったという感動の記憶は生きるバネになっている。心豊かに生きるために、そのバネは強力である。
ふと、認知症になったときの記憶と感動について考える。

たとえば、私のコンサート。認知症になられた方には、ある意味毎回新しい、
新鮮な感動がある。
毎回新しいのだ。昨日の記憶はない・・。
但し、昔に楽しい経験、感動があると、何かがきっかけで(たとえば音楽の力で)その懐かしい日のことを思い出し、楽しむことができる。
先日のコンサートでも、そんな現象に遭遇した。急に昔の懐かしい体験談を話し始めるおばあさんがおられたのだ。

記憶という力は、残念ながら高齢とともにおぼつかないものになっていくため、
できれば、幼い日、若いときにたくさんの感動、経験をしておくのが良い。
その時の記憶は消えないから。
もちろん、記憶が難しくなる認知症になったとしても、感動をお届けする
意味は大いにある。今を楽しむ、今という瞬間を満喫することが、明日への
活力につながるから。

人生において感動は、いつの時にも生きる糧。
でも、できる限り覚えていたいから、若いうちにできるときにいっぱい
豊かな経験をして、心の引き出しにたくさんの感動を詰めておこう。
もちろん記憶力を低下させないために学び続ける、脳を活性化させ続ける努力は
同時に重要だ。

感動と記憶。
多様な人に出会うことによって、そんなことを何度も考える。
そんな学びの日々である。

明日は岐阜新聞でのコンサート。おそらくここに来られる元気な皆さんは
その時間を記憶されるだろう。しっかり心に残る寶の時間にしたいと、
改めて思う。

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