虹を見た!虹が入った!!

実家の庭。この季節になると落ち葉の量が半端ない。
何日か足を運ばないと、地面の色が隠れるほどに赤や黄色の葉っぱで埋め尽くされる。見ている分には良いが、ほうっておくわけにはいかない。
せっせと掃き集めた。親が生きていた頃は、彼らの日課だったのだろう。その面影をしのびながら無言で葉っぱを集める。
ひととおりきれいになったので安堵して、室内に入り、用事を済ませ、外に出ようとしたら、掃除したあとに強風が吹きまくり、再び庭は葉っぱでいっぱいに・・・。
いたちごっこの冬支度というところか。

もう時間がないからと、二度目の掃除は断念して、駅に向かう。
強風で吹き飛ばされそうになる。すると目に何かが入った感じ。痛い・・。

その直後に写真のような虹が見えた。
冬空の虹。虹を見るチャンスは、アラスカでオーロラを見るよりは容易なことであるが、
それでも毎日見える、見れるものではないし、見ようと思って見られるものでもない。
目に異物が入った痛さを忘れて、シャッターを押す。

虹が瞬く間に消えた。
でも、目の痛みは消えないまま・・・。
痛いのをこらえるのは、しんどいので、虹が目に入ったことにしよう。

そんなこんなで、今朝はまだ、目に虹が入ったままである・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | 虹を見た!虹が入った!! はコメントを受け付けていません

クリエイティブから生まれる美を。

年末に向け、いろんなことが同時進行。
そんななかで、新しい企てを準備している。
人間やろうと思ったら何でもできるものだと
思う。
やらない、やれないと思ったら何もできない。

とにかくやろうと思うことをやればいい。

ボストンに住む知人は、古希になって引き続き
好きな仕事を続けているとメッセージを
くれた。
また別の古希を越えた知人は新しい本を出版された。
こちらは会社勤めを卒業されてからの挑戦を続けて
おられる。
みなさん、マイペースに、そして充実の人生を
それぞれ、楽しんでおられる。

自分の人生を創ること、これがクリエイティブな生き方だ。
やりたいこと、やってみたいことは、やる。
どうしたらうまくいくか考え、工夫する。
そのプロセスがまさに、生きているということであり、
そのプロセスを想像したり、工夫することがクリエイティブなので
ある。

クリエイティブに生きることが、
美しい年輪を生み出すのではないだろうか。

人が決めた境界線に惑わされず、自分の意思と感性でとにかく
どんどんいこう。
この年末から、年始、来年にかけては挑戦がいっぱい!
わくわくどきどきを楽しむとしよう。

カテゴリー: Essay (Word) | クリエイティブから生まれる美を。 はコメントを受け付けていません

語れる力とストーリー。

時々、青山方面に出向くことがある。
日本でも有数のファッションの発信拠点であり、世界からも多くの
ファンが集う。
さまざまなブランドの本店はこの青山エリアに結集しているため、国内外の
主要なブランド商品の最新情報を入手、観察するには、最高のロケーション
である。購入するしないにかかわらず、美術館のように巡り、今どきの
トレンドを体感するには大変有効なエリアである。

そして、そこで見るのは商品だけでなく、販売する人の発信力。
どこまでそのブランドのことを語れるか。で商品の魅力は何倍にも
増し、また語れなければ魅力が伝わらない。
実は、商品を見るだけでなく、そのコミュニケーション力も学べる
点も青山が興味深い点である。

全国のデパートにも店舗が入っているブランドも多く、購入するだけであれば
全国どこでも、ネットででも購入することができる。
でも、直営店では、さらに青山本店では語れるスタッフに出会うことがあり、
体験が大きく異なってくる。

本部直轄ということもあるが、オーナーやデザイナー、作り手に
近いところで仕事をしているため、そのスピリッツを日常的に感じ、
仕事をされているため、その説明力に魂が込められているのだ。
トップの目が行き届き、思いが深く厚く共有されているという点では
独特のオーラを感じることもできる。

デパートの店舗などでは、ちょっと購入すると、
「いつもどこでお求めですか?」と、画一的でつまらない問いかけを
され、げんなりすることがある。
どこで買っていようがいいじゃん。と思ってしまうが、
そんなことを聞く前に、しっかり説明をしてほしい。
販売する仕事は、伝える仕事である。説明をする仕事である。

とそんなことを、青山に出向くと、改めて感じるのである。

私が学生時代からあこがれていたブランド。そのオーナーたちは
今、80代になられてもお元気にご活躍だとお聞きした。
「時々、この店にもぶらり立ち寄るんですよ。この内装も、
自らの構想で、できたものです・・・」
たとえば、こんなストーリーを聴くと、その店舗にも改めて興味が湧く。
今回は、尊敬する山本耀司さんや、川久保玲さんがまだまだ
お元気で現役でおられることを聞き、背筋が伸びた。

説明力はお客のイマジネーションを膨らませる。

何を以て伝えるか。それは商品の特性やターゲットによって異なるが、
最後は人の力であることを、改めて学ぶ。

いざ、青山へ。
普段接する世界と違う空間に身をおくと、新たなヒントが湧いてくる。

説明する力は、ブランド、企業の価値を伝える力に匹敵する。


カテゴリー: Essay (Word) | 語れる力とストーリー。 はコメントを受け付けていません

ラッキーナンバーの幸せ。

123.と覚えやすい数字のせいか、わが誕生日を覚えて
いてくださる方がいて、メッセージを寄せてくださる。
当日も、その前後も・・。あ、そういえばと思い出して
くださるのかと思うと、ありがたいの一言に尽きる。
メッセージ以外にも、お花や癒しの道具、美味しいもの・・・。
いろんな気遣いが届けられ、覚えていていただけ、気に留めて
いただけることに胸がいっぱいになる。
当日の0時2分に届いたメッセージは、まさに一番のり。そこから
5日の1時すぎ。現地時間では4日のお昼か。
ボストンからメッセージが届き、驚く。
数年以上逢っていない知人からの祝福メッセージだ。
どこかに控えてあったのだろうか?その人の中にバースデー
カレンダーが存在しているのだろうか?
(以前、NYの文具屋で、知り合いのバースデーを記載する
カレンダーなるものをみつけたことを、思い出した)

とにかく123になると、思い出していただき、あたたかい
メッセージをいただくことが、何よりの贈り物だ。

存在を覚えていていただけること。記憶されていること。
認めてもらっていること。そして、応援していただけること。

この123はまさに、私にとって一生のラッキーナンバーだ。

123は、動きを止めない、そしてアウフヘーベンな建設的かつ
発展的で、楽しい数字だととらえている。
ザビエルが空に帰った日が、私が世に誕生した日。
なんとまあ、ロマンチックな123だろう。

と、日々のくらしのなか、しばらく123の余韻にひたる。

メッセージを寄せていただいた一人一rに感謝を込めて。

カテゴリー: Essay (Word) | ラッキーナンバーの幸せ。 はコメントを受け付けていません

小さな戸惑いを越え。

さっそく、外出先でアンケートに答える機会があり、年齢記入欄に戸惑い。
これまでと違う項目にチェックをしなければならないことに、ちょっと違和感。
50代になったばかりのときも、同じ感覚であったことを思い出す。
昨日まで40代のところにチェックをしていたのに・・・。と思った10年前。
今は、慣れ親しんだ?50代枠ではなく、60代にチェックを入れることへの
ためらい・・・。
大したことではないのに、そんなことが気になったりするものなのだと、改めて思う。

60代ともなれば、いろんな優待や割引もあるので、有効活用すればいいとそんな声も
あるが、吉永小百合さんのコマーシャルなど、シニア向けのサービスは
自分にはまったく関係ないと思っていたことが、意外と自分もその世界に近いところにすでにきているのだ・・・と改めてショック・・・。
生命保険会社からのDMもなんだか、人生の後半色を感じさせる文言で、そんなに60歳が
特別なのかと不思議に思う。

など、まだ60代という世界に慣れていない私。
人生の先輩たちも、この節目に同じようなことを感じていたのだろうな。

まあ、そのうち慣れるし、自分は自分だ。
4か月前に60歳になった仲間から、
「また同い年になりましたね。ここから一緒に元気にがんばっていきましょう。
還暦は暦がひとまわり。ここからですね」

とうれしいメッセージ。
そうそうここから、人生の観覧車は新しく回る。
それだけのことだ。ワクワク前に進もう。

圧倒的にびっくり元気な人生を重ねるため、心身の力を蓄えたい!
生涯、夢見る、挑戦を止めない・・・そんなマーサ流生き方を止めないと
心に誓う。



カテゴリー: Essay (Word) | 小さな戸惑いを越え。 はコメントを受け付けていません

心からの感謝祭、はじまる。

60回目の誕生日となった。
親が生きていたら、父は87歳、母は84歳か。
そう、27歳と24歳で私の誕生となった。
あれから60年というわけだ。長い。短くはない。
もう電話をかけたり、メールで
「誕生日、ありがとう」という相手はいなくなってしまったが、
誕生日だけは巡り、さまざまな思い出がよみがえる朝。

あの親が存在していなければ、この私はここにいなかった。
たまたま、あの親なのか、もしくは、あらかじめそのように仕組まれていたのかは、
神のみぞ知る。であるが、現実、与えられた環境で生まれた私は、
60年も生きてしまった。長いけれど、あっという間でもある。

たまたまなのか、必然なのか、わからないが、今日のところ、まだ生きている。
不思議なものだ。

これからも、もうしばらく生きるとするならば、
残された人生、自分にとっても、周りにとっても、
いい思い出になるような瞬間づくりを重ねたい。
まだまだ、これまでどおり、これまで以上に元気に走ることができるが
永遠ではないから、その自覚をもちたい。

そう、すべてが永遠ではないことを改めて胸に抱き、
その時、その人、その場所での時間を丁寧に紡ぎたい。

これまで出会い、お世話になってきた皆様に心からの感謝。
そう、これからの人生は、「感謝祭」でいこう。
楽しいこと、わくわくすることを心がけ、相手にそれが伝わるように。

ということで、ここからは、わが人生感謝祭。
グラン・ルー25周年。今尾昌子60周年。
これからも、これまでも。
人生は観覧車のように。
くるくる回して、祭をはじめるとしよう。

誕生日、ありがとうございます!



カテゴリー: Essay (Word) | 心からの感謝祭、はじまる。 はコメントを受け付けていません

Last Day の心構え。

いくつになっても、誕生日ってうれしいものなのか?
「そんな、もううれしくないわ」
と口にする人生の先輩たちをたくさん見てきた。
年をとると、そんなものなのかなと思っていたが、
確かに、そんなにうれしくないかも・・・。
もちろん、無事に生きてきたことへの感謝の気持ちは
尽きないけれど。

人生も後半になると、誕生日も何か違う意味合いになって
くる人が多いのかもしれない。
さあ、未来に向けてこれをやるぞ!とか前向きになったり
新たな夢がわいてくるような記念日ならばいいけれど、
老いへの意識が前向きな考え方に歯止めをかけているのかも
しれない。
年を重ねると、健康に生きることが一番の願いになって
くるのかもしれない。
でも、それだけではなく、生涯追いかける夢をもちたい。

と、一つ節目を迎える前日。50代最後の今日は、
次のステージの生き方について作戦を練る日にしよう。

アンチエイジングではなく、プラス思考での生き方を。

その前に、この59年間を振り返り、自分をしっかり
抱きしめたい。ありがとう、50代!
とそんなLAST DAY に感謝を込めて。

カテゴリー: Essay (Word) | Last Day の心構え。 はコメントを受け付けていません

48時間をどう刻むか。

私の新年は、1月ではなく12月だ。
そんな認識でいつも過ごしてきた。
12月3日が私の新年。
そこまであと48時間を切った。書いている間にも刻一刻と、時は進む。
いつも節目の年齢を迎える前になると、感慨深いというか、なんというか
それ以外の年とは違う心持になる。

人生はできたら、50代で幕引きとなったらいいな。
と常々思ってきたが、ここまで元気できているので、
きっとこのまま新年に突入することになるのだろう。

あと48時間。いや、正確には43時間を切った。
この短い時間で、私は何を残せるだろうかと改めて考える。
カレンダーも、今年最後の1枚を残すのみ。
ああ、これで50代も卒業。そして、その続きがはじまるのだ。
人生の第二幕といってもいい。

と、今朝はそんな気分だ。
残された時間を大切に過ごし、
ああ、我ながらいい50代であったと、心から自分の生を
祝福できるように。

以上は今朝の気持ちだ。
人生ゴールを仮に決めると、真剣さが増す。

人生50代の結び。しっかり生きよう。
人生は観覧車のように。今日もしっかり回したい。

カテゴリー: Essay (Word) | 48時間をどう刻むか。 はコメントを受け付けていません

いつの時代もほう・れん・そう!

デジタル社会になり、「共有」という言葉がやたら増えてきた。
驚くほどに、日々のビジネスのやりとりで、この言葉を
まるで「合言葉」のように、皆が多用するようになった。
個人的には安易に使う言葉ではないと思うことも多いが、
ネット環境が整った現在、このことはコミュニケーションの
基本のひとつになっている。

アナログ社会では、「共有」は、紙ベースや伝言でしか
できなかった。それと比べれば、今の時代はメールでCCしたり
さまざまなネットワークツールのなかで、仲間とひとつの情報を
瞬時に共有することが容易であり、伝える手間が省けて
大変便利である。

一方、ネット環境が異なったりすると、その共有もむつかしい。
情報が見えている人と見えない人が出てくると、その差を埋めなければならない。
その場合は、丁寧にコミュニケーションをすることが必要になる。

共有のいいところは、関係者に見えるということ。
それが見えない状況であれば、見えるようにしていかねばならない。

今の時代、何かと便利になっているが、
コミュニケーションの基本を忘れてはいけない。
と、改めて感じる今日この頃。

そして、パソコンに向かってのコミュニケーションももちろん
重要であるが、報連相はとても重要で、とくに顔が見えるコミュニケーション
に勝るものはない。

ビジネスの基本は、共有。
そして、その前に報連相。
信頼関係をつくるためには、人と人の関係づくりが大切。
そのために報連相は共有のため、そして共感、共創のためにも
大変重要なのだと思う。

DXの時代と言われるが、大切なことは、あくまでも人である。
そこを忘れず、丁寧に関係づくりを行うことを大切にしたい。

カテゴリー: Essay (Word) | いつの時代もほう・れん・そう! はコメントを受け付けていません

たまたま、を必然に。

今、企業で働く人達の個人面談を続けている。
最初は管理職から、そしてリーダー、さらに一般の社員の方との
面談。
普段、自分から話すことをあまりしないような人、人と関わりを
あまり持ちたくない人、常に受け身の人、人見知りをする人・・。
モノを作る現場で働く人たちには、そんなタイプの方も多く、
口を開いてもらうため、いろんな角度から話をすると、
マスクで口元は見えないが、目じりが下がってきて言葉も出て
くるようになる。
聞いていると、いろんな事情があって、その会社に入社されて
いることがわかる。
コロナのせいで、転職してのご縁となった方もあれば、結婚が
きっかけでの転職であったり・・・また、今ご家族が入院中で
慣れない子供の世話もしながら、家事も仕事も頑張る男性が
おられたり・・・。
皆さん、それぞれの環境でそれぞれの事情を抱えながら、
それぞれの人生を生きながら、同じ会社につとめている。
毎日がんばっている。
思えばすごいことだ。同じ時に、同じ場所で働いている
ということ。これは、たまたま…ではあるが、ご縁である。
だから、それを大切にして、お互いを大切にして、助け合って
いい仕事になるよう、そして結果、それぞれも幸せになり、
会社も成長できるようになるといいと思う。
そのために向かう方向をそろえていくことは大切だ。

たまたま・・ではあるが、必然。
今、自分の周りにいる人との出会いは、すべてそうである。
たまたま・・・知り合ったように見えているが、
見えない糸があっての繋がりである。
星の数ほどある出会いのなかで、たまたま出会えた貴重な
ご縁であるのだ。

「たまたま」に感謝したい。
今日も新たな出会いがあるだろうか。

それぞれの人生を生きているのに、交差する瞬間。
これを楽しみたい。そして、出会った以上、
相手を大切にしたい。

カテゴリー: Essay (Word) | たまたま、を必然に。 はコメントを受け付けていません