上を向いて、前を向いて。

人間観察をする時間はとても貴重だ。
電車のなかでは、動くことができないため、自然とそういう時間になる。
バスよりも、電車の中の方が多くの人が利用し、見渡せるため観察しがいがある。
ひと昔前までであれば、車内にいるときは、読書するか、寝るか、もしくは
上を向いて中刷りポスターなどよく見たものだ。
最近はその出稿数も減っているのだろう、広告がどこの車両でも減ってきている。
人の目線は、上ではなく下に向かっている。まあ、だから広告も需要がなくなってきているのだろう。
9割以上の人が、ずっと手元を見ている。スマホである。この光景は、
見ようによっては恐ろしい。

たまたま、混んでいる電車のなかで、目の前の人が、ネガティブなメッセージを入力しているのが見えてしまった。(画面がこちらに向いており、あまりに大きな文字であったため・・)思わず、目を閉じた。
もし、ここに乗っている全員が、何かに対して、このような批判的な発信をしているとしたら、ここは、物言わぬ恐怖の世界となる。
誰かが誰かにクレームを言ったり、不満をぶつけたり・・・・。静かな車内に、時々
誰かの携帯の着信音、誰かの携帯から音楽音が漏れ・・みんな知らんふり・・・。
スマホ相手であれば、勇気がない人でも、簡単につぶやける、また何かあっても
自分の世界。見えない個室にいるような感じ・・・。
これは、いったいなんだろう。
手のひらサイズの世界で、小さな世界で、なんやら世の中が動いている。
何とも言えない恐怖をさらに感じる。

ふと、スマホがない時代が懐かしい。
せめて、電車の中ではスマホを見ないように。と最近心がけるようにしようと思い始めた。
もっと広い世界を見なくては。
ああ、スマホなしで生きたい。もちろん私も仕事でフル活用しているけれど、
この世界、なんとかしたい。

世の中がどんどん小さく、狭く、そして小さな分断が連なっている感じ。
どうでもいいことに、手先を動かすよりも、もっと大きなことを考える時間をもちたい。
人間は、進化しながら退化している。。。これから、どうなるのやら?
自分はせめて、人として少しでも進化したいけれど・・・。

上を向いて歩こう、前を向いて世界をみつめよう。
小さな世界にいる自分から、一歩外へ。

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空耳が楽しいとき。

「障がい者」という括り方は、実は違和感を感じている。
その人をそのように表現するのは、なんだか決めつけているようで、どうなんだろうと。
どんな人でも、すぐれたところがあれば、劣ったところもあるし、その程度にもよるのであろうが、社会のルールに合わせて生きられない人を、障がい者と呼ぶこともあり、
私も見方によれば、障害あるんだけどな~と思ってしまう。

そもそも、永遠なる、完全なる健常者なんていないと思っている。みんな、何かしらの障害をもちながら克服しながら生きている。と、そんな風に思っている。

社会のルールどおりに生きづらい方たちが、施設等のお世話になり、そこで
様々な活動をしており、仕事をされているケースも多い。
作品づくりをされている方も多い。

社会のルールに合わなくても、自由な感性で素晴らしい作品を生み出す方も多くて
人間の無限の可能性をつくづく感じ、感動する。
そして表現しつくしたときの彼らの顔は、なんとも光り輝いている。

最近、美術館で施設で活動する人たちの作品や活動の様子を収めた写真や、
動画を見る機会があった。
ある人が施設から歌を歌いながら、出てきた様子をカメラがずっと追いかけている。
「ハッピーバースデー TO YOU♪」を何度も何度も続けて歌っている。
そしてその合間に目の前にいない誰かに話しかけている。その言葉と歌がシンクロ。
元気に、そして楽しそうに歌い、話していてこちらが楽しくなる。
その動画から体を話して、別室に移ってもその声だけは聞こえてくる。
「ハッピーバースデー TO YOU♪ ハッピーバースデー TO  YOU」
そのうち、
「あけまして TO YOU♪」と、歌っているような、そんな音が聞こえてきた。
新年のご挨拶が、こんな歌になるのか~。
思わず笑みがこぼれ、私も一緒に「あけまして TO YOU♪」と口ずさんでいた。

いいね。こんな新年の歌、あっていい。
と、自由な発想で彼らは楽しい世界を見せてくれる。

もしかしたら、この歌は空耳だったかもしれないが、私には確かにそう聴こえた。
考えて面白いことはできない。
自由な精神に、純粋な笑いが生まれる。

障がいがあっても、いい。元気があればいい。
もちろん社会でみんなで共生していきたいから、助け合えるといい。

私も、いずれ何らかの障害を持つこともあるだろう。でも、それが自然なのだろう。
そんなときにも、元気は忘れずにいたい。
最近、そんな風に強く、強く思っている。

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評価と目標。

多くの企業では、一年間の節目に従業員の評価をし、その上で新たな役割を
与えたり、任せたり、あるいは役割の変更ということをしている。
企業の業績を踏まえ、進むべき道に沿って、現状を改善していく努力は
必須である。

そこで働く人も評価をされ、昇級していくことで、組織人としての成長に
つながり、結果、会社にも大きく貢献していく。
誰しも人から「認められる」ということは、うれしいことであり、やりがいに
つながる。
そして、企業側にとっても「認めたい」「評価に値する」人材が多いということ
は企業の存続、成長にとって大変良いことで、そういった人が増えるように日々
育成していく必要がある。

認められる仕事とは、目標設定に大きくかかわっている。
どんな目標を立てるのか?によって、結果は行動する前から、かなり見えてくる。

企業全体の目標、それを受けた部門の目標、そしてそこで働く個人の目標。
すべてが当然リンクしていなければ、個人の力を組織に生かすことが
できないので、そのすり合わせは大前提になる。
個人の目標は、評価されたいことを意識するとよいと思う。
会社、部門の目標達成にために、自分ならこんなことができる。こんなところ
で挑戦したい。だから、ここを見てほしい!!
という目標設定。
会社の進む方向に沿って、自分ができること。しかも評価されるということ
は、結果が見えないと評価もしづらいため、数字や具体的な目標を示すと
達成しやすく、また評価もしやすいということになる。

現実には、評価されない・・と悩む人も増えるこの時期。
なぜ評価されないのか?とかく人と比べてしまうケースも多いだろう。
そんなときは、まずは他の人のことはおいといて、
自分の目標設定からその後の行動のプロセスと、どう見えているか?
どう見られてきたか?について、一度振り返ってみるとよいと思う。

その振り返りなしに、評価されていない・・ということ結果を取り出して
世間を逆評価しないようにしたい。
評価されるには、ステップがある。
それさえ明確になっており、それをひとつひとつクリアしていけば
成果は見えるようになり、プロセスも含め、評価する上司も理解して
くれる。
もちろん、組織には枠があるため、全員が自己評価どおりの良い評価に
ならないことがあり、そこは相対評価という目も必要で、
競争になることもあるため、それは企業戦士である以上やむを得ない。

ただ、しっかり目標をもってそのために、日頃から上司部下としっかり
コミュニケーションをとり、連携していれば、いい評価は必ず得られると
確信する。もちろん、上司本人にも、部下を育成する意識と実践力は必要
だ。一緒に前を向いて、がんばれる。そんな職場であれば良い。

今はとくに、そんなことを考える時期である。

自分のなかの絶対評価と、見られている存在としての相対評価。
両者を客観的に見ることができると、自分を客観視でき、冷静に
成長へのステップも見えてくるだろう。
残念ながら自分よがりになっていると、評価はされづらいままだ。
一度俯瞰してみると、きっと気づく点はあるはず。

評価は難しい。しかし組織で働く以上不可欠である。
あきらめずに、自分の成長の糧として生かしてほしい。

もっとも、世の中には評価制度がない企業もある。
どちらが良いだろうか?
もちろん仕事に対する向き合い方で、どちらもありかもしれないが、
最後は自分はどうなりたいか?どうしたいか?
どんな仕事人でありたいか?に尽きるだろう。

勉強も仕事も、よくも悪くも評価されて、成長につながる。
思えば本当にそうだと思う。
そして、評価を生かすも生かさないも、自分次第。

それぞれにとって、よし!がんばろう!と
前向きな気持ちに満ちた、素敵な春になるように願っている。


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「つながっていたい」気持ち

母がいなくなってから、母がとくに親しくしていた方との交流を深めている。
母にしてきたように、何か珍しい食べ物があれば、花があれば、
何かあげたいものがあればもっていき、前は一切しなかった世間話もするようになった。
母をよく知っている人と、可能な限り、つながっていたいのだ。
その方たちに、5年でも1年でも、1日でも元気に長生きしてほしいのだ。
その方たちが元気でいてくださると、母も生きているような気持ち、一緒にいるような
気持ちになる。

姿カタチは見えなくても、誰かを媒介として、永遠につながっていたいという気持ち。
不思議なことに、その相手であるおばさまたちも、本当によくしてくださる。
母の代わりに接してくださっているのだろう。

一方、母が歩いていた道、通った店、よく迎えにきていた駅・・・などに
出向くと、いろんな思い出がよみがえって、寂しさとなつかしさがこみあげる。

人を通じ、場所を通じ、ずっとつながっていたい。
そんな気持ちは、これからもずっと消えないのだろう。

大切な人とは、時空を超えて、永遠につながっていたい。

そんなことを思う、命日前のお彼岸。

「雨降ってきたよ」
と、母と仲良しだったおばちゃんとの会話のあと、傘を貸してくれた。
「ありがとう。今度また返しにくるわ」
また会えることで、母ともまた、つながれる。

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20年。ただただ、ありがたい。

お仕事には期限付きのものがある。
とくに雇用されている立場ではない場合、契約案件が多いため、当然更新の時期がある。
自動更新もおかげさまの仕事が多いが、状況によって改めて見直すタイミングもある。
この時期はそんな節目のシーズンでもあり、背筋も伸びる。
この四半世紀、その緊張を何度も繰り返して、今日にいたっている。

ある企業での担当者との会話・・。
「最初の契約は2003年でした。ということは20年。20年?
 すごいですね~。へえ~」
そう、そうなんだ。もう20年もお世話になっているんだ・・・
よく長いおつきあいをいただけたものだ。

この20年は本当に短いようで長く、長いようで短く・・・。
いろんな出会いがあり、別れも・・・でも別れは少なく、
関係が続いている人がほとんどだ。20年もかかわっていれば、
当時現役で活躍が期待されていた人が、経営側になっている場合も
あり、あの人が立派になって~と思うこともしばしば。

契約の仕事は、折々で見直す点はあるにせよ、それでも継続ことが重要だ。
仕事は、一過性でなく、利益主義ではなく、
継続して関係しながら、成果が出るように努力することだ。

それにしても20年か~。改めてしみじみ。ただただ感謝のひとこと。
きっかけをいただいた方にも、心から感謝。

グラン・ルー25年の間には、いろんなドラマがあったが
この20年もなかなかのもの。思い出いっぱい、感謝でいっぱい。
もっとお役に立てるようにがんばりたい。

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「涙しました・・」に涙。

このたび、グラン・ルー25周年事業のひとつとして、詞集
「人生は観覧車のように ~心のふるさと、愛する人たちへ~歌詞集」
を発刊した。
手のひらサイズのかわいらしい本である。
長らく応援している新潟の企業さんの発案「手のひらシリーズ」に共鳴共感し、
私も何か、この「手のひら」にメッセージを載せたいと思い、この25年の間に
つくった曲の歌詞をまとめることにした。
だから、詩集ではなく、「詞集」。
実は親が亡くなる前から考えていたが、そのあと二人とも旅立ってしまい
落ち着いて準備する時間がとれず、今になってしまったが、なんとか三回忌には間に合った。

限定500部、売り上げの半分はウクライナの人道支援に寄付。
というものであるが、一気にPRするのではなく、じわじわご案内をはじめている。
「配りたい人がいるから」とまとめて購入いただいた方もあれば、サイトのインフォメーションやチラシを見て、すぐ「ぜひ、味わわせてもらいますね」とネットから注文いただ
いた方、ウクライナにも寄付できるならばという方もおられ、ありがたい限り。
そしてこの週末、久しぶりにお会いした企業の会長さんとの会話のなかで、
ご紹介したら、
「今、その本ありますか?」
と言われ、たまたまバッグに1冊あったので、それをお渡ししたところ、その夜に
「・・・・・床にはいる前に、詩集を少し読みました。すっと頭に入ってきて、涙が
出ました。ありがとうございました」
とのメッセージが届いた。

このお客様は、私のオリジナル曲はお聞きになったことがないので、歌はご存知なく
歌詞から入ってくださった。今度、コンサートにも来てくださるとのこと。
音楽を聴いて涙される方はこれまでもおられたが、歌詞を読んで涙されたとは・・・。
紡いだ言葉に感動いただけるとは、涙が出るほどうれしかった。
言葉でも人の心を動かすことができる。
これからも、じわじわとお伝えしていきたい。

詳細はこちらをごらんください。
25周年感謝の記念出版 いよいよ完成!受付開始 | La Grande Roue (mahsa.jp)

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働く人を守る、ともに育つ。

事業を継続するためには、従業員の力が不可欠だ。
製品を作ったり、お客様にサービスしたり、それができるための
各工程にかかわる人の力がなければ、どんな事業もなしえない。
社長がどんなにがんばっても、人の力がなければ、現場は動かない。
少子化、高齢化、コロナによるビジネスのありようの変化、
戦争の影響による物価の高騰。・・・・・さまざまな
要因で、働く環境も急激に変わってきている。

高度成長を目指した昭和のあの頃のように、作れば売れる、という時代ではない。
バブルの時代はもう戻らないし、あの時代はもしかしたら、幻想の時代
であったのかもしれない。競争環境も大きく変わった。
日本という国の進み方も、このままでよいという保証は何もなく、
不安、未確定な要素が多いなか、そのなかでどう希望を見出すかがポイントである。
さまざまな諸条件に耐えながら、いかに堅実に着実に事業を継続し、
長く存続できる力をもつか、まさに持続可能な仕事のやり方をみつけ、実行するか。
変わらなくては生き残っていけない、みんなで力を合わせ、知恵を出し合わないと
生き残れない。切実なる時代である。

働き方も変わった。個々の価値観を尊重しながら、あるべき方向に
一緒に進まなければならない。
働く人たちに負荷を与えすぎず、でも、がんばるときはがんばろう!
と前向きに一緒にがんばってくれる従業員を増やすこと。
そして感謝し、ねぎらい、ともにここで働いてよかったね!となるように
日々のコミュニケーションを欠かさないことがますます重要になってきたと
感じる今日この頃。

お客様のための企業ではあるが、その前に従業員があっての企業。
世の経営者は両者に目を向け、心を配りながら、あるべき方向に従業員とともに
進んでいかなければならない。
時代の変化に対応し、柔軟に見直すべきところは見直す。
これまでの常識が変わってもいい。

たとえば、これまで定休日がないと思われていたファストフード店やコンビニに
定休日ができても、それはそれでいい。
休まないお店の価値よりも、営業時間内に最高の商品とサービスを提供して
くれる価値が優先だ。

そして、働く人の働き甲斐を、客の立場からも応援していくべき時代ではないかと
思う。
「ありがとう。おいしかったよ」「また来るね」
こんな一言からも、従業員のモチベーションにつながることは多いはず。

働く力をみんなで育む。そんな社会、いいと思う。

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応援は惜しみなく、悔いなきように。

コロナ禍では、残念なことが続いてきた。そして今もその余波は消えること
なく、いろんな企業の倒産、廃業を知り、心が痛む。
私がもう20年ほど愛用してきた練り製品の会社。京都の老舗企業だ。
いつもいつも、京都駅や周辺のお土産売り場で、そして市内の本店で数えきれない
ほど、購入していた。
この上なく大好きな味で、京都の練り物の代名詞はここ!と思っていたのだ。
この2~3か月の間、そういえば、売り場で商品をみつけることができず、
売り切れかなと思っていた。
先日は本店の前を通ったら、シャッターが閉まっていた。今日は休みかな?
でも、定休日とも書いていないので、おかしいとは思っていた。

ネットニュースでちょっと調べたら、なんと、最近倒産されていたことがわかり、
言葉にならないショックを受けた。地元の新聞に掲載されていたわけだ。
へ?あのおいしいチーズ入りのかまぼこが、はもしんじょうが、もう食べられない
の?愛しい人が突然と姿を消えてしまったような、なんともいえない虚脱感と
いうかなんというか・・。

とにかくショック。昨日も京都駅で、前は新幹線改札内の三か所の売り場に
あったことを思い、今は他社製品があるのを見て、本当になくなってしまったのかと
改めて思い、悲しくなる。
練り製品の低価格化による競争の激化、原材料の高騰、コロナによる業務用需要の
低迷、観光客の減少・・・などなどさまざまな要因が重なっての悲しい結果になって
しまったようだ。
創業は明治2年というから、150年ほど営業を続けておられたわけだ。
老舗はつぶれないと過信していた。
いつでも絶対にあると思っていた。でも、なくなってしまった。
こんなことになるならば、もっともっと応援すべきだった。とひとりで消費できる
量はたかが知れてはいるが、なくなるぐらいなら、もっともっと購入し続けるべきだった。

コロナ禍では、昔よく通ったお好み焼きさんが閉店したこともあり、お店はずっとある
ものではないことを痛感したが、今回は毎月何度も愛用していただけに、ショック
は消えないままだ・・。
気に入ったものを生涯食べ続けることができる・・・これは奇跡なのだろう。
あって当たり前ではない。だから、目の前の大切なものをありがたく頂戴するとしよう。
ああ、それにしても悔やまれる。どれだけあのブランドの練り物に癒されてきたことか。
なんとか復活する日は来ないだろうか。
わが人生の記憶のなかで、食にまつわる、消えないエピソードはいくつかあるが、
この練り物もそんひとつになりそうだ。

応援したかったら、行動で示す。
口だけでなく、購入する、口コミする。
それをやってこそ本当の応援になる。
応援者がたくさんいるかどうか?
ここも生き残りの大切なポイントだ。

ああ、それにしても残念・・・。
これからもずっと思い出し、惜しみ続けることだろう。


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町を支える人たちを大切に。

新聞が読まれなくなっている昨今。
とくに若い世代になればなるほど、である。
でも、地方の中高年が多く住む住宅街では、まだまだ新聞を購読するお宅は
少なくない。
最近、地元の新聞屋さんとのやりとりがあり、お店にもうかがうことがあり、
改めて、町の新聞屋さんの存在について、感じることがあった。
昔は、奨学生が朝早く自転車で新聞配達をする・・というイメージがあった。
今はちょっと違う印象だ。バイクで一斉に配達に出かける。
そういえば、各家庭に新聞を届けてくれるサービスは世界でも珍しい。
朝起きたら、すぐ新聞を読む。この習慣作りをはじめた人はすごいと思う。
そのサービス提供のため、毎日毎日、未明からの仕事。
そして日中も集金から、折り込みチラシの準備など他の業種とは違う
時間帯で忙しく動かれている。
今回伺った新聞屋さんたちは、店内がとてもきれいだ。
折り込み作業ができるように作業場もきれいに整っている。
中には新聞社の経営理念や、店主から従業員さんへのメッセージが掲示されていたり
働く人への共有にも心を配っておられる様子も伝わり、勉強になるなあと思わず、
きょろきょろしてしまった。
「以前、親が新聞とらせていただき、お世話になりました」
と、そんな話から会話が生まれる。
「ああ、そうなんですね~。それはそれは~」

新聞屋さんは地域に根ざす存在だ。
今、ネット社会になり、新聞はますます大変な状況に追い込まれているが、
新聞文化を大切に、楽しみに生きている人もいる。
私もそのひとりだ。
とくに岐阜は喫茶店文化がさかんであるため、新聞をゆっくり読みたい人が全国でも
多いのではと推察する。(今度、調べてみようと思う)

お店に寄ったついでに「今日の朝刊、まだありますか?」
昼を過ぎたのに、残っていた新聞を1部購入する。
そういえば、ここが扱う新聞は夕刊はもうないんだ・・・・・。
昔であれば、夕刊に向けての作業も忙しくなっている時間帯・・。

複雑な気持ちを抱えながら、
改めて、新聞屋さんにエールを送りたくなった。
専門店の生き残りが厳しくなっている昨今。

そんななか、頑張り続けているお店が、町を支えている。
忘れてはいけない。
地方では、学ぶことが多い。

懐かしく、愛おしく、絆を感じる。
町を支える存在に敬意を表し、感謝を込めて・・・。

そういえば、母は新聞を最後まで、占いを読むためと、
何かを包むため・・・に購読しており、それで喧嘩した
ことも今となれば、懐かしい思い出。地域への応援の
一環だったのかもしれない。

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しなやかに勝負する春!

選挙の季節が到来?街角に掲示板が設置された。そこに候補者ポスターが
掲示されるのも間もなくだ。
この掲示版という方法は、このデジタル社会でも尚、健在。
世界各地で普遍なる伝達手段なのだろう。サイズの違いはあれど、街頭
でのアピールは各国共通のようだ。
この看板は、かなり効果がある。歩けば目に付く。通り過ぎるときに目に
入るだけでなく、立ち止まってじっと見る。だからここに掲示するポスターは
とても重要。キャッチフレーズとともに、写真がポイントである。まず印象だ。
その掲示板にまもなく登場しようとしている人へのレッスンが本格的に始まった。
プレゼンテーションについての実践だ。
大きな組織に属さず、地元の人のつながりで乗り切ろうとする、ソフトな戦略。
お金や著名な存在をつかってではなく、地道に地元からじわじわ盛り上げていく作戦。
あるべき姿を実践しようとしている仲間たち。
その演説の内容、話し方、見え方・・・。お伝えできることは、惜しみなくお伝えする。
私ができることは、聴く相手の立場に立つこと。
こうしたら、伝わる、伝わらない。このやりとりを大切にするレッスン。
1時間のつもりがついつい熱が入って2時間になる。こんなことがしばらく続く。

春は勝負の時期だ。
相手がいる勝負には、それなりの作戦が必要である。
応援者をいかに増やすか。いかに心をつかむか。
クリーンにつなぐ。ここがポイント。

しなやかで、強くて、そしてやさしい。
ひとりひとりに耳を真剣に傾けることができる。
そんな存在なら、みんな求めてくれるのでは?

応援するときは、他人事ではない。自分だったらと思って本気でかかわる。
しなやかに挑戦し、笑顔で勝ってほしい。

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