それぞれのアニバーサリー。

今年、わがグラン・ルーは9月17日をもってまる25年を迎える。
25年目であっても、まる25年であっても、記念すべき1年であり、周年の考え方は
さまざまである。長く感謝の意思を伝えるならば、前年から告知することもあり、
該当するその1年間を周年としてとらえ、さまざまな企画を行う企業もある。
大手企業の場合は、年間を通じて、社内から各ターゲットへの発信、またマーケティング
面での施策から、地域貢献の取り組みまで幅広く取り組みをするケースもあり、
この年をきっかけに次のアニバーサリーに向け、指針も新たに出発する企業もある。
一方、コロナの影響や環境変化により、業績が厳しい企業にとっては、周年の考え方も
切実である。成果が出ていないのに、周年イベントなんてやっている場合ではないという
場合もある。
大切なことは、派手なこと、目立つこと、話題になることをする機会ではなく、
関係者が心ひとつに再出発する大切な節目であるという認識。
だから、まずは今まで企業や組織が続いてきたことへの、先輩たちやお世話になってきた
すべての皆さんの尽力、協力への感謝。
これに尽きると思う。

以前、ある福祉施設の20周年の集まりでコンサートをさせていただいたときに
一緒に考えたテーマが思い出される。
「これまでも、これからもありがとう」
このテーマはどこでも、いつでも普遍ではないかと今改めて思う。

今、身の回りで周年を迎える、迎えた企業さんも多い。
それぞれの実情に沿って、また時代の変化に沿って、やり方はそれぞれ違えど、
その気持ちをお互いに確認でき、新たな出発になることを願っている。

実は見える部分よりも、見えない「内面の周年の在り方」こそが、重要であると
思っている。そう、その内面が変わるために、見える何かをすることが必要なのだろう。

自分の仕事が25周年であり、自分の人生も節目の年であるからか、今年は
アニバーサリーについて、考える機会が多い。

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長らくのご愛顧ありがとうございました、の文字に。

名古屋を拠点にするようなってから、ずっと利用してきた
名駅にある旅行代理店。切符の手配やいろいろ、お世話になってきた。
コロナ禍では、日本中が移動できなくなって、新幹線も今では
信じられないほどの、減便かつ利用者減。ほとんど空席の状態で
運行。利用する側には空いていて良かったけれど、赤字が累積
される状態は見ていて怖かった。この先、どうなるんだろう・・・。
出張に極力いかない時期が続いた一昨年、昨年前半・・・。

その間に観光地、繁華街の店舗が次々と閉店していった。
旅行代理店も同じく・・・。
あ、あそこも、ここも・・・。
便利に活用していた自分にとっては、だんだん店がなくなって
いくのが寂しくて・・。
もちろん切符自体はネットでも購入できるけれども、
電話一本で、予約できたり、顔を見て気軽に話しかけたり、
コロナのときは励まし合ったり・・・。
お客とお店の関係ではあったけれども、ともにコロナ禍も生きて
いきた、戦ってきた仲間ともいえる。

その一番愛用していたお店が、この6月末で閉店となる。
今年になって店に行くたびに、扱い商品が減っていたり、閉店の告知とともに
ネット販売のお知らせ・・・。店にくるお客もどんどん減っていき・・・。

そんな店舗内に大きく掲げられた手作りpop。
「長らくのご愛顧、誠にありがとうございました。」
店の外を行く人の目にも飛び込んでくる大きさだ。

ああ、いよいよ本当になくなってしまうのだ。
カウントダウン。
コロナ禍を一緒に乗り切ってきたから、なんだか寂しい。

スタッフとも仲良くなってきたため、そんな会話もする。
「もう、ほんとうになくなってしまうんやね。さみしいね」
「ほんとうに、コロナのときもお世話になりました。
旅行支援でパニックになりそうなときは、いろいろご協力も
ありがとうございました・・」
いろいろ、覚えていてくれるのがうれしい。
若い人たちが、旅行代理店で働くというのは、どんな背景なんだろう、
案内している先々のすべてを体験していなくても、さも知っているように
説明するというのもなかなか大変だな。
それにしても根気のいる仕事だな。
代理店を使用する人の中には、旅慣れしていない方も多いため、
その対応に手を取られる。
待ち時間にその光景を見ながら、勝手に想像するのも楽しかった。
そんな時間とも、お別れ。
どれほどのお客さんの旅の手伝いをしてきただろう。
ネットではなく、来店して利用する人にはその目的がある。
それがなくなるのは、コロナのせい。でも、考えようによっては
コロナによって、ビジネスの有り様が大きく変わったのだ。
これは、企業である以上、やむない選択だ。
店舗をもつ負担の軽減から、ネットに切り替わるサービスは
もっと増えていくだろう。
ITに慣れない人、とくに高齢者の方には、旅もしづらくなるのかも
しれない。

飲食店でも、他の業態でも、コロナで去っていくお店は
まだまだ続くだろう。
何とも言えない気持ちでいる。

コロナを一緒に生き抜いてきたから・・。

改めて思うのは、顔の見えるコミュニケーション。
このニーズはなくなることはない。

最終日まで、できたら、もう一度、彼らに会いに行こうと
思っている。

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ポリシーを行動に。


仲間との会話で、感動的な言葉に出会った。
「自分の周りに困っている人がいて、それを助けられる自分がいたら、助ける。
ただ、それだけ。ただ、そのときに、いちいち自分が何者だとか名前を明かしたりしない。それが自分のポリシーです。」

そうそう、そういうこと。と思わず手をたたきそうになった。
困っている人がいたら、絶対知らないふりはしない。
できることをする。

その仲間は、たとえば、道端でお年寄りが倒れていたら、助けに行く、状況によっては
家まで送ってあげたりする。ということもあるそうだ。
介護の仕事をされているため、車を運転していても、そういう目で見ているから、意外と
そういう人が道ばたにおられるそうだ。
車を運転しない自分には、まったく見えない、気づかないことであるが、気づく彼は
とにかく、自然にそういう行動をとる。
本当に素晴らしいポリシーの持ち主であり、正義の味方である。


比較にならない些細な話題であるが、この週末の出来事。
大勢の来店客でにぎわう駅前の大型店舗の入り口の受付で、大声を出し、意味不明の言葉を発し続けている不審な客の対応に、店員さんが困っているところに出くわした。
ああ、大変だな。大声でわめくので、他のお客様もその受付を利用しづらい。
大声は暴力になることもある。
接客は大変な仕事だなと思い、いったんそこを離れ、用事を済ませて戻ってくる間10分ほど。まだそこにその大声を出す人がいて、受付の責任者らしき人も登場して、手を焼いている
様子であった。ああ、まだやっているんだ・・・。
と思いながら、そこに向かっていった。
「あのー、すみません。◌◌って、どこにあるんでしたっけ?」
と、受付の人に大きい声で質問をすると、受付の方はほっとした感じで、こちらの
問い合わせに「それは、◌階にございます。」と答えてくれた。実はその答えは
知っていたが、さらに「あ、そこしかなかったでしたっけ?」と再度訪ねているうちに
大声を出していたおじさんは、受付カウンターから去っていった。
「大変ですね。こういう時に他のお客さんが来ると、いなくなるかなと思って
声かけてみました」
と言ったら、受付の責任者が満面の笑みで「助かりました~。ほんとうにそのとおりですね。ありがとうございます」と安堵された様子。
別に人助けというつもりはないけれど、大声を出し続けている人が入口にいると
他のお客さんも不快で、危険な感じがしたから・・のプチ行動。
こんなことも、小さなポリシー?気になることがあり、できることがあったらやる。
だいたい「ほっておけばいい」という風潮もあるが、ほっておけないときには・・である。

命を救うことは私なんかにはできないけれど、コミュニケーションのことでできることが
あれば、いつでもと思っている。

ポリシー。みんなが平和で楽しく過ごせるために自分ができることはやる。

ポリシーのある日々を。それが自分らしさにもつながっていくのだろう。

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共感、共鳴、共走できる人。

親しくさせていただいているデイサービスセンターに久しぶりに
顔を出す。
代表者の名前は「まさお」さんなので、まーくんと呼び、
私もマーサさんと呼んでいただいている。
伺ったらすぐに、「今日書いたんです」と、1枚のカードを渡される。

私のために書いてくださったのだ。

こちらの施設では、利用者の皆さんに、このような手書きのメッセージカードを
渡したり、ご自身たちで書いてもらったりと、言葉を大切にしたコミュニケーション、
しかも、それがカタチに残る工夫を常にされている。
明日になって今日のことを忘れてしまっても、カタチに残っていれば、
もう一度見て思い出すことができるから。素敵なアナログコミュニケーションだ。

とにかく、「言葉」を大切にされている。
そしていつでも、素敵な言葉が使えるように日頃からアンテナを張っているとのことで、
オン・オフともに楽しみながら見つけた言葉をインプットされている。
その意識と行動に共感を抱く。

さらに、まーくんは、仕事をする上で、絶対「逃げない」ことを信条とされている。
そんなことを聞いて、こちらも共感。私も、そうありたいといつも思っている。

人のために役立つ仕事を楽しんでされているマーくんの
考え方や行動力には会うたびに共感、共鳴。
福祉の世界でも、こういう経営者がいるのだと思うと
本当にいい出会いをいただいたと、うれしくなる。

利益を求めることも、もちろん大切であるけれど、目の前の人が困っていたら、
お役に立つことの方がまず第一。

困っている人がいて、助けられる自分がいたら、すぐやればいい。

共感、共鳴できる人とは共走したい。
そんなことを、自然に思わせてくれる人。

これからも地域のお年寄りのため、そのご家族のために
「今」を大切に、元気に走り続けてほしい。




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「新聞に載りました~」の報告、今も。

新潟に通っていた18年間。とにかく企業さんの広報活動の応援をさせて
いただいた。
勉強会に参加された、相談会に来られた企業さんから、
「新潟日報に載りました~」「日経新聞に載りました~」「NHKに出ます!」
と報告があるとわがことのように、やったー!と喜び、
その報告をいただけることが、自分の仕事のやりがいでもあった。
その広報支援任務がひと区切りして、まる2年が経過した。

それにもかかわらず、新潟の企業さんからの連絡が途絶えることなく、
なんやかんやと情報を寄せていただき、珍しいものを送っていただき、と
その関係は変わらない。新潟の方とは毎日のようにやり取りが続いている。
そして、今回は2年ほどご無沙汰の方から
「新商品のカヌレが新潟日報に出ました~」と記事添付のメールが届く。

お会いした当時は、なかなかリリースがうまくできずに、四苦八苦していた
が、展示会含め積極的に活動を続けることにより、地元で評判の米粉を使用した
店となった。もともと、こちらは100余年、営業を続けておられるお米屋さんで、
米粉を使ったクレープの移動販売をされるなどして、大変ユニークな活動を
されており、この米粉スィーツで知名度を上げようと奮闘されてきた。
移動販売だけでなく、今度は地元の米店敷地内にクレープ屋もつくると
相談を受けて、キャラクターを描くイラストレーターさんを紹介したり、五泉の
お店まで足を運んでなんやかんやと打ち合わせしていた頃が懐かしい。

クレープの次は、カヌレ。冷凍で販売か・・・。
いろいろ苦労を重ねての販売であったことが記事にあり、いつもながらの
店主の努力を想像する。
そして、地元紙に掲載され、やった!と思って、昔のようにこちらにも報告の
連絡をしてくださったのだと思う。
うれしい。うれしすぎる。
自分のことを忘れず、ずっと報告をくださる。
教えてもらったり、応援してもらった方への報告と感謝。
さて、私自身はできているだろうか?と思わず反省。背筋も伸びる。

できました~。載りました~。これからもこの報告を聞き続けたい。
18年間皆さんにお伝えしたことが間違っていなかったのだと、確認できる
ことは、本当にうれしくご縁が切れないことが幸せ。
これからも、ずっとご縁ある新潟のみなさんを応援し続けたい。

記事自体はここに掲載できないが、奮闘するそのお米屋さんが展開する
クレープ店サイトはこちら。
https://hana4040.jimdofree.com/

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ひとすじの人。

自分と同じく、起業から25周年。といっても人生経験は質量ともに、私の何倍も
豊かな方。その方が人生かけて向き合っておられる「からむし」についての記事を、京都の仲間が運用している「TKGプレス」に最近投稿し、改めてこの人のことをすごいなと思った。
https://www.taihei.co.jp/tkgpress/mono/964

「からむし」については、ここに記載したので、ここでは割愛するが、とにかく、この
方、村山さんのからむし人生はあっぱれ!だ。
古くから伝えられた地元の植物をもともとのご自身の職業である着物だけでなく、
食品へ、ファッションへ・・・とマーケティング面だけでなく、地元の子供たちへの
教材として、あるいは大地の芸術祭で知られる地元から、からむしをアート作品として
首都圏や地方の学生らと発信したりと、とにかく「からむし」人生まっしぐら。
その道にかける思い、行動が四半世紀変わらないのだ。
今は亡くなったがある著名なバイヤーさんが、この村山さんを称して「からむし伝道師」
と命名されたとのことであるが、よく理解できる。まったくその通りだ。
「からむし」自体を知らない人が多かった25年前から比べ、その地道なご努力により、
からむしの認知度はじわじわと高まってきている。そして地元を代表する産品を生み出
し、個性ある産業文化として内外に知られるようになってきている。
村山さんの、からむしにかける情熱と行動力あってのこの結果だと感心する。

ひとすじの人。
は、本当に素晴らしい。
それに比べて、私は扱う範囲が広くて、「ひとすじ」とはいえない生き方。

70歳を越えても、きらきら輝き ひとすじ、ひたむきな人生を送っておられる
村山さんを見習って、自分も、「ひとすじ」な生き方をそろそろ考えてみたい。
そして、わが人生も、同じくオンリーワンで進み続けたい。

いつまでも、どうぞお元気に!からむし人生をエンジョイいただきたい。

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「もし」、ということを考えて。

以前から気になっていたひとりの女性画家がいた。
何かの情報誌でその存在を知って、いつかその作品を見てみたいと
思っていたが、やっとその機会を得た。
その画家は、三橋節子氏。
なんと生年月日からすると、母と同じ年の生まれ。
でも、35歳という若さで生涯を終えられた。

もともと野草が好きで、それをモチーフにした作品を多く描かれていたが
病気により、画家の生命といえる右腕を切断・・・。
その後、三橋さんは筆を左手に置き換えて、作品を描き続けられた・・。
まさに命を振り絞っての創作活動。
亡くなる直前まで創作活動を続け、命の限界を超えた、創造への執念。
いや、生への執念であろう。
病後の作品は、地元の民話をモチーフにしたものに変わっていったが
それは子供たちへの思い、母としての思いが反映された作品になっている。
不思議なことに、病後の作品は力強さを感じるのである。

本当に短い人生であったが、病前・病後含め多くの作品を残されるだけ
でなく、作品を通じ、最期の瞬間まで画家として生きることについて
のメッセージを残された。
とくに亡くなる直前に残された作品やメッセージからは、家族(とくに
子供たち)への思いがあふれ出ており、心打たれる・・。

そして、いろんな思いが頭を巡った。
もし、自分に同じような病が襲ってきたら・・・。
右腕、はもちろんのこと、何かを切断することになったら、
果たして限られた、残された命に対して、こんな前向きに生きることが
できるだろうか・・と。
表現することをやめずに、続けてできるだろうか・・・と。
自分の場合は、美術ではなく音楽に当てはめてみる・・・。
うーん、他人事ではない。いつ、なんどき、何が起きるかわからないから。

五体満足。これは本当に宝物である。感謝をして、大事にしなければならない。
同時に、もしこの身に何か起きても、最期まで力強く、生きなければならない。

何かあっても、生きられる。何かあっても、作品はできる。
そんな前向きな教えを、三橋さんは与えてくれた。

最期まで真剣に生きる。それに尽きるのだと。

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ミューズはいる。

あるとき、話の流れで「特に特定の信仰はありませんので」と言ったら
「それはお気の毒に・・・」といった返事をいただき、ちょっと
驚いたことがあった。
何か特定のものを信じない人は、気の毒、救われないのだ。
だから、よく「信じるものは救われる」といったものだ。
が、残念ながら?、おかげさまで今も特定の信仰はなくとも、
いたって元気はつらつ生きている。
周囲にそういう人も多いし、自分の場合はそうだ。

でも、ピアノに向かったり、人前で歌うとき、何か見守られている
存在を感じることがある。
それは、ミューズ。音楽の神様。
その存在は、信じることができる。
その世界自体が美しく、きよらかで、真実だから。
また音楽によって、人と人がひとつになれるから。
音楽は、どんな表現、媒体よりも魂により深く入り込み、心を静め、覚ます。
もちろん言葉も言霊といわれることから、その力も信じているけれど、
それ以上に、私にとっては音楽の力は絶対だ。

尊敬するドイツのピアニスト、メナハム プレスナー氏が先月99歳
で亡くなったということを知った。
そしてその哀悼番組として93歳で来日されたときの演奏が放送され、
手を止め、釘付けになった。
その清らかな演奏と、そのご本人のなんともいえぬ神々しさ・・・。
演奏のみならず、インタビューで話される一言一言に音楽を愛する
思いが詰まっていて、それにも多くの学びを得る。
このビデオは何度も見ているが、何度見ても、聴いても飽きることなく、
いや、聴くたびにその存在の偉大さに深い感動が沸き上がってくる。

昨年だったか、この映像を見たときはご存命で、90歳を過ぎても
ピアノが弾け、世界で演奏できるなんて、どんな超人かと思っていたが、
亡くなった今は、この医大なるピアニストをしのび、じっと音色を聴きながら
演奏の様子、表情をみつめ、そして祈る。
ほんとうに、神様みたいな、清らかさだ・・・。
本当に美しい音色、そしてなんとも神々しい表情・・・。
音楽を究めると、こういう表情になっていくのだろうか?
もちろんその人の生まれ育った環境やその背景も大きく影響しているだろう。

音楽を愛する人のところにはミューズがいる。
最近、確かにそう思うのだ。
だから、しいていえば、「音楽の神様を信じています。」
お経を唱え、聖書を読み、それぞれの神仏を信じる人もよし、
私の場合は、ミューズの存在を信じ、これからも音楽を大切に生きる。

メナハムさんの安らかな眠りを心から祈って・・・。


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恩返し復活!

久しぶりに父が最期までお世話になっていた施設を訪問する。
この1年半、コロナが落ち着いたらぜひ!と思っていたその施設での
感謝のコンサートをそろそろ・・・。
今は、もう父はそこにはいない。ではあるが、人生の最期のときまで過ごして
いた場所である。父との最期の思い出の場所、家族全員がそろって再会できた
最後の場所・・・。などなどあまりに特別であり、永遠の空間なのである。
そして最後までお世話になり、看取っていただいた場所・・・。
だからこの場所との縁は、切れない。
だから、父が座っていたそこで、一度は演奏会をしたいと思っていた。

どうやら、7月には実現しそうだ。
観客のみなさんは、今そこで生活されている方やデイサービスの利用者さん。
父母と同世代の人たちである。なじみの顔もあるかもしれない。認知症の方もいらっしゃるかもしれない。スタッフの方も一緒に参加され、盛り上げてくれることだろう。

父が生きていたとき、コロナ禍の合間をぬって、この施設で一度だけ演奏をした。
父はこの日を、それはそれは大変楽しみにしており、そして会場で演奏が始まったら、大声で泣いていた。感極まりとは、まさにこういうことだったのか。それとも、自由がきかなくなった我が身への悲しみの叫びだったのかもしれない。
わたしの音楽=父はアッシー。そう、自由で元気な時代の象徴だったから・・・。
と、父の元気だったころ、施設でお世話になった日々のこと両方を思い出す。

さあ、今回は目の前の客席にこそ、父の姿は見えないけれど、がんばって演奏する。
きっと父も母も大喜びで見守ってくれるに違いないから。

コロナが終わって、新しい日常がはじまり、やろうと思っていたことにとりかかる。
やれるときに、やろうと思っていたことを悔いなくやる。
またやれなくなる時が来るかもしれないから。

出会った人に、お世話になってきた人に感謝を込めて。今できることを。
これもそのひとつ。

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歴史をロマンにする力。

昨年秋から今年にかけて、岐阜市を大いに盛り上げたキムタク主演の映画。
信長役を演じたというが、どんな風に?
と気になりながら、なかなか機会がなく、このたびやっと鑑賞することができた。
久しぶりに映画らしい長編(といっても3時間ほど)を観た。
日本の歴史は苦手であるがふるさとも関係している作品となれば、
そして、わがふるさとのヒーロー信長の物語とあれば、それは別。
最初から最後まで飽きることなく、出てくる地名、ロケ地から登場人物、
セリフ(方言)まですみずみと楽しませていただいた。
そして、数年前に、信長をテーマに毎朝曲を書き、100曲まで続けた
という、今となれば不思議な経験も懐かしく思い出し、映画を観る
ことでさらに新たな発想が浮かんできた。

名古屋、岐阜、安土、比叡山、そして京都・・。信長の人生を変えた各拠点での展開を見守りながら、描かれた信長の半生に改めて感動を覚え、そして今回は濃姫にも新たな
興味を抱いた。

映画やドラマは必ず賛否両論がつきものであるが、わたしは日本の映画文化を育ててきた
企業の70周年の作品にふさわしい出来栄えであると素直に思った。
毎週連続していく大河ドラマの楽しみ方もあるだろうが、一気に集中してその世界に入り込む映画とは、本当に素晴らしい芸術であると、今回改めて思った次第。

歴史は単なる過去の出来事、過去に生きた人々の事実の記録。ではない、そこから時間を経て後世の人々の想像力と創造力により、美化されるところもあるかもしれないが、後世に伝えたい力強いメッセージになる。
歴史がロマンになる、憧れになるのは、二度と戻らない過去である点と、当時の限られた情報、記録からいいところだけが伝番され、ドラマができあがる点にあると思う。
そして、そのロマンに触れ、たとえば(今回の映画であれば)、ああ信長が名付けた岐阜に生まれて良かった・・・とふるさと愛が育まれることもあるだろう。

今回、キムタクの演技力と存在感は、想像以上であり、この配役に納得。この映画で信長を演じるのは彼しかいなかったのだろうと合点もゆく。

歴史はロマンになる。
そこにはその時代を真剣に生きたヒーローやヒロインの存在が不可欠だ。
そして、それを映画にする場合は、それにふさわしい配役が必須。そういう点でも
よくできた作品であると思う。

自分の人生と重ね合わせ、改めて信長と、濃姫には改めて興味を抱いた。
岐阜から滋賀を経て京都へ、サビエル、南蛮文化へのあこがれ・・・。勝手にではあるが、
共通点がある。
そんな二人のことを、自分なりにロマンチックに表現してみたいと思うきっかけを
改めて得た。

一方、映画を観て考えさせられたことはもう1点。
戦争についてだ。過去において、日本でも信じられない殺戮があった。
今回の映画を観ても、何度も目を背けた、そして今の世界で起きていることが
頭に浮かび、悲しく、情けなくなった・・・。
武器こそ違えど、命を奪い合う戦いの様子は目をそむけたくなる。
信長が「われ、人にあらず」といって、比叡山に火をつけ、僧侶も女子どもも
焼き殺した・・・なんていう事実はロマンではないし、決して、見習ってはいけない。
その場面は、信長にプーチンを重ね合わせ、ぶるぶると震えた。

と、1本の映画から、少し話がそれたが・・・。
映画という芸術は、お金も人手もかかる贅沢な芸術であるが
時空を超えてもうひとつの世界を見せてくれる永久保存の作品である。
そして、生きる私たちに示唆や学びもくれる教材でもある。

後世に伝えるべき作品をこれからも、丁寧に作り育んでいただきたい。

歴史はロマン。
悲しきは繰り返される戦争。これは絶対ロマンであってはならない。

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