各地でパトロール

仕事でお店回りをよくしている。お客さんとしてその店に行き、利用して
気づく点をあとで伝え、提案したりアドバイスしたり・・。
その様を見て、仕事関係の方からは、
「パトロールお疲れ様です。」
と言ってくださり、思わず笑い。なんだか、おまわりさんみたい。
巡回するから、おまわりさん。なんだか微笑ましい。
パトロールという言葉が好きになった、今日この頃。

実家にも時々足を運ぶが、その目的のひとつは防犯上のチェック。といっても
何もできないが、巡回していること自体が、抑止力になったりすることも
あるかもしれないと思い・・・。

さらに、近所に住むお年寄りで、親が仲良くしてもらってきた人の
おうちやお店にもなるべく足を運び、安否を確認する。
これも一種のパトロール。
「元気ですか?どうしてます?」
民生委員でもなんでもないけれど、気になるところは巡回し、確認し、
声をかける。

さらに、引っ越して数年。ご無沙汰の東京でお世話になった方たちのことも
気になってくる。
なんといっても23年も暮らした神楽坂。わが第二のふるさとでも
ある。
当時お世話になったお好み焼き屋のご主人。もう10年ほど前に
閉店されているが、今も細々ではあるが、やりとりは続いている。
父と同じ年齢の方であるので、親近感もある。
時間が少しできたため、電話を入れる。
「お元気ですか?ご無沙汰しています。今近くにいるので、寄っても
いいですか?顔見てすぐ帰ります」
と言って、すぐうかがう。
3年ぶりぐらいの再会であるが、お元気そうだ。お変わりなさそうだ。
よく家族のように一緒にご飯食べたこともあったな~。
「もう86歳だよ。よくこんなに長いこと生きてきたなあと思うよ。」
「神楽坂のお父さんだから、まだまだ元気でいてもらわないと」
少しだけ話して、失礼する。
これもパトロール。

歩いていてどんどんいろんな人を思い出し、その人のお住まいの近く
を通るようにする。
気になったのは、以前住んでいた部屋の大家さん。お店をされている。
寄ってみた。お元気で、久しぶりすぎてとても喜ばれた。
「今、名古屋にいるんですよ」
「へえ?そうなんだー。」
仕事の手を止めて、いろいろ話してくださった。こちら70代後半。

各地でのパトロール。
まだまだいろいろ、行かねばならないところがある。
そして、いつお別れになるかわからないから、
しっかり話して、挨拶もしておくことにする。
もちろん、またお会いする。会いに行くけれど、先はわからないから。

マーサ流パトロール。
これからも各地を巡るとしよう。

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理念ありき。

今どきの国内外の政治動向を見るなかで、「現実主義」という言葉に
出くわすことがある。そして、その言葉の意味も気になる。
目の前のことを大切にする、優先することは一見、良さそうであるが、
でも、常に目の前のことばかりに集中すると、本来進むべき道とは違う
方向に進むこともあるし、どこに向かうべきだったのかを見失うこともある。

また本来進むべき道が見えていないのに、目の前のことを優先するのは、
行き当たりばったりになりかねない。そしてやっていることがぶれてくる。
現実を大切にするならば、まずは理念ありき。
どうあるべきか、どちらに進むべきか?の考えがあって、
そのために、今はこうする。次にこうする。
と、具体的に行動を起こすのが良いと思う。

理念とは哲学である。
こうあるべきである。こっちへ進むべきである。こうすべきである。
と、考える習慣を身に着けたい。
そしてそれに向けて、最適な現実の進み方を考え、動いていきたい。

ひとりの人生でも、企業でも、国でも同じこと。
先が見えていないのに、今が良くなることは難しい。

理念があれば、ブレずに生きられる。と信じている。

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心の防空頭巾。

生きているといろんな災害、障害に出会う。
カラダも守らなければならないが、同じく心も大切に守らなければならない。
よく心が折れるという言葉を聞くが、心に骨があったのか?と思うこともあるが
いちいち折れていては生きていけない。
災害に備えて、非常食を常備するように、日々のコミュニケーションや対人関係に
おいても、備えをしておくことが必要と思う。

どんな言葉に出会っても、どんなショックなことを言われたとしても、
心を守るための常備はあった方がいいときもある。
デジタル社会になり、人間本来のコミュニケーション力が低下するなか、
備えなしに、いきなり対人関係で苦労したり、思い違いで怪我をすることも
避けたいものだ。

そんななか、心の防空頭巾という発想が浮かんだ。
突然に、いろんな言葉や雑音が降ってきてもそれを被って 
それらが止むのを待つ。
そして、ああ、これはこういうことを言いたいのだ、これって、このことを
解釈しているのかなとか、少し距離を置いて聞いていると、傷付くこともなく
丁寧に相手に接することもでき、気持ちよく関係を維持することもできる。
まあ、心の防空頭巾までいかなくとも、雨に傘をさすように、心にも傘を
用意しておくということだ。

相手のせいにするばかりではなく、自分で身も心も守る。
そんな備えもあっていい。
出たとこ勝負で、何も考えずに世間に飛び出せば、そりゃ、事故も怪我もするだろう。

人は誰ひとり、自分と同じではないのだから、違って当たり前。そこからどううまく
つきあえるか?に尽きる。

何事においても、備えあれば憂いなし。怪我もなし。
今日もココロ健やかに穏やかに、元気な1日を過ごしたい。

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今どきのフリーマーケット考

京都は「市」がさかんだ。昔からお寺や神社へのお参りには、そういった
楽しみも不可欠で、その名残が今も健在だ。
月に何度か、日や曜日を決めて、さまざまなマルシェが開催されている。

たまたまお天気の良い週末に 偶然みつけ、たち寄った、平安神宮前での
フリーマーケット。
いわゆる骨董業者さんたちが出店しているようなプロの店ではなく、本当に
一般の人の参加、出店がほとんどのフリマ。
子供服100円とか、まあ確かにね~という激安のものから、まあ、いろんな
種類の古着や雑貨、骨董品がずらり。
色のきれいなセーターを見つけて眺めていると、その出展者の人がすかさず
声をかけてくる。
「これ、いいでしょう。色いい。モノもいい」
「で、ちなみにおいくら?他やったら、100円とか200円とか書いてあるけど?」
と冗談交じりに聞いてみる。
「そんな、これは100円とかということにはできないけれど、お客さんがいくら
と言ってくれたら考えますわ~」という交渉になる。そんな、買うつもりはなく
ても、そういうムードになってくるのが、フリマ。
ああ、こうやって値段を決めていくんだ・・・。どうしても買ってほしいオーラ
に負けて、財布を開く。「わかった、もらっとくわ」と、そのときの店主のうれしそうな
顔。かなり値切られたのに、それでもすっきり顔である。
最後には、「私、天神さんも、工法さんも毎月出ているし、また寄って」
とすっかりお友達気分になる会話。名前も聞かず、顔だけで覚えていくそれがフリマ。

他には、なかなか書い手がつかなさそうな衣類があり、その横にちょっと素敵な
アンティークなバッグも。
「これ、いくら?」
「それ、2000円、ついでにそこにある服3枚も一緒にもっていって。込みでいいわ。
私、もう大きい荷物持って帰りたくないので、よかったらもらって」
という感じで、結局はこの人はお金が欲しいのではなく、このものを誰かに
譲りたい、使ってほしい。捨てるに捨てられないモノを託したい。
そんな様子が伝わってきた。
その近くには、あるトランクを広げているお店。そこに雑貨を入れて来たのだろう。
もう少しモノが残っている。
「残ったら、嫁に怒られます~」とトランクに張り紙。全部売らないと家に
帰れないのだろうか?
売りさばき、荷物を減らすために利用するフリマ。

大量なモノを消費してきた人間、最後は何も持っていくことができない。
のであれば、今のうちから、早く人にいい形で渡るように。
断捨離、終活からも、フリマは有効な交換、清算の場である。

まだまだ実家にも、親の残した小物雑貨があるな=。と頭によぎるわが家のこと。
「実家のガレージででも縁側ででも、マーサ市やったら?」
との声に、それもありか。と思ったり・・・。
お金が欲しいのではなく、使ってもらえる人に使ってもらう。そんな
交換の意味が分かり始めた今日この頃。

モノへの執着はこの世限り。むしろ、早めに悔いなく活用できるのがいい。
人に託す。人生、そのことが増えてくるだろう。
それにしても、フリマは普段と違う人生観が学べる。
また、足を運びたい。フリマ。
しかし、売り切って帰りたいあのおねえさん、おばちゃんたちのパワーは
なかなかだ。

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やさしく話そう。

ポストコロナ。生のコミュニケーションの機会が増えている。
会議では、まだマスクは外せないが、それでも顔を突き合わせての話し合いの機会は
増えている。
改めて人の声、話し方を耳にする機会が増えてくると、その言葉遣いや声の音量、高さ・・
などに注意が向く。
個別で話す場合、グループで話す場合、相手によって、人は無意識か、意識的にか
その話し方を変える人もいる。
オフィシャル、ビジネスの場面では、社内・社外関係なく、やはり一定の緊張感をもって
きれいな言葉、はきはきとした声、そしてやさしい話し方で伝えるのが良い。
自分の声が周囲にどう聞かれているか、ということを確認することも大切だ。
自分はどうだろう?
多くの話し方に触れることで、自分はちゃんとできているだろうか?と確認する。
言葉はとても重要だ。繊細で、しかも強烈だ。
話し方によって内容まで変わって聞こえてくる。
攻撃的な言葉遣い、強さだけが残る言葉では、なんとも後味は良くないものだ。
一方、やさしく思いやりが溢れる言葉遣い、そして前向きな話し方をすると、後味も
すっきり気持ちいい。

毎日、多くの人と接するなかで、「やさしく話す」ということは相手の心に伝わる
ために、大変重要であることを改めて学ぶ。

わが人生、方言でむき出しの言葉遣いのせいで、よく家族や親しい中で不快な思いを
したことがあった。親との会話では、言葉遣いが原因で伝わらないことで、言い合いに
なり、苦労したこともあった。(今から思えば懐かしくもあるが・・・)
とくに、ビジネスの場面では、聴く人の立場に立って、自分が発する声、言葉がこれで良いかどうかを再点検し、初めから終わりまで、快適にコミュニケーションできるようにしたい。もちろん身内にも同じことだ。

ちょっとした心がけで、お互いの関係性もさらに良くなるはず!
何気なく発している言葉がそれでいいかどうか。改めて見直し、
素敵な対話を心がけたい。

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沿線で感じた別世界。

コロナも落ち着き、新しい日常が始まった4月。
コロナ禍で学んだ、リモートコミュニケーションは生かしつつも、対面での
コミュニケーションが復活。
たまたま先週訪れたモノづくり系の展示会場は、コロナ前の時代に戻ったような
賑わい、お祭り気分で、不思議な感覚に包まれた。
コンパニオンという言葉がまだあるのかどうかわからないが、ノベルティを配布
しアンケートを集めたり、企業の担当者に成り代わって滑らかな口調でプレゼン
をする女性たち、元気に接客対応をする企業の人々・・・。
デジタルとリアルの融合。やっぱり生コミュニケーションだ・・・。
なんだか皆さん、とても元気でやる気に満ちている。
東京で以前よく通っていた展示会を思い出した。展示会ビジネスもこのコロナで
本当に大変だったな・・・。久しぶりの熱狂を感じ、目的を果たしてすぐに会場を出た。
久しぶりで疲れたというのもあった。
名古屋港を前に深呼吸。
混雑している空間に慣れない自分がいた。
マスクの着脱も自分で判断でき、自由に行き来できる日常をありがたいと思った。
帰り道、ふたたび電車に乗って、名古屋駅方面に向かう。
行きには気づかなかったが、帰り道の途中駅で、入国管理局のビルが目に飛び込んだ。
「あ、ここだ」
先日、報道で信じられない光景を見たここで起きた事件のことが頭をよぎった。
スリランカの女性のことだ。
ああ、この建物のなかに、自由を許されない海外の人たちがいる・・・。
さっきまでの展示会の熱狂と全く違う世界。電車で10分ほどの距離なのに・・・。
とても苦しくなってきた。

自由に行き来できている自分たち。
一方、そうはならない、そうさせてもらえない海外の人たち・・。

名古屋駅に着いたら、また賑わいが戻り、多くのビジネスマンや
観光客でさっきの入管の風景が、別世界に見えてきた・・・。

自由であることを当たり前と思ってはいけない。
感謝して、生きなければ・・・。




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常に自分が主体的・能動的であること。

今、対話型AIに人々の関心が集まっている。
どんなことができる?どこまでできる?そんなにすごい?
知りたいことを入力すれば、瞬時に回答が出てくる。しかも
計算しつくされた情報が整理されて出てくる。
そのまま原稿にも使えそうな、まるで誰かがが書いたような
文章を、AIが見事に提示してくれるのだ。
検索すればすぐ必要な情報を見ることができるこの便利な時代に、
こちらのサービスの登場は自然のなりゆきで、歓迎されるのも
理解できる。

しかし、こんなにそれらしき文章をすらすら並べられては
困る、やってられない。
と危機感をもつ人も多いことと思う。
作家の仕事でも、このチャットGPTを使って賞をとる作家さんも
いたりすると、大変な複雑な気持ちになる。

どんどんツールは開発される。
人間はそのツールに使われてはいけない。
ツールを使うのは、あくまでも人間。私たちが主役。
こんなことがしたいから、このときに、このツールを使う。
とよく考えて手法を選択し、目的を達成するならば良い。
単に便利だからと、安易に利用するだけでは、考える力が
退化するだろう。

何でも流行るとそこにハマっていく人もいるが、
話題になっているから、便利だからといって、考えることもなく
利用することは賛成できない。
目的達成のために、その特性もよく理解した上で、効果的に
使うならば、良いと思う。
先日も企画をする仲間同士でこの会話になった。
「人手不足だし、アイデア出しぐらいは、このチャットを使って
それも参考にしながら自分たちで考え、まとめていくという使い方は
ありですね。もしかしたら自分たちだけでは思いつかない情報やアイデアが
出てくるかもしれないですしね。」
確かに、こういった使い方は適切だと思う。

自分の仕事は、AIと戦わない。
AIには絶対できないことをする。しよう。
改めて心に誓いながら、一方、相手をよく知り、時に活用したり
活用をすすめる場面もあって良いと思う。

大切なことは、あくまでも自分が主役。人間が主役。
ツールに使われる、踊らされることなく、
自分が考え、使う。主体性と能動性がここでも求められる。

人間にしかできないこと。ここを改めて考えながら
柔軟に、しなやかに生きていきたい!
このブログも、自分しか書けないことにこだわり続ける。

とはいえ、時間があるときにいろいろ試してみようとは思って
いる。主体的・能動的に生きるために・・・。

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若者が生み出す、アナログメッセージ。

京都の地下鉄車内で、みつけた広告。
実は先日京都新聞の記事を読んで、その発想と行動力に感動し、機会があったら現物を見たいと思っていた作品。
コロナで広告出稿が減った地下鉄の広告の現状を見て、なんとかせねば!と京都の学生さんたちが、京都市交通局に自分たちが広告を出稿して、車内広告を募集するという企画。
「まるたけえびすに・・・」のキャッチを見れば、すぐ京都の道の数え歌であると思い、
一目で京都をPRしつつ、さりげなくこの空間であなたも情報発信しませんか?と自然に
広告募集中のメッセージに目が流れる。
出稿主は大学の広告研究会。
広告を自ら学び、研究する学生さんたちが毎日利用する地下鉄のコロナ禍の厳しい状況を見て、広告をもって何かできないかと考え、具体化したコラボ企画。
学生さんたちが、どのように交通局に話を持ち込んだかは直接取材していないため、わからないが、素敵なプレゼンをされたことだろう。
このフレッシュな感性、勇気、行動力。
自腹を切っての出稿というところが、えらい!と思った次第。
この広告に続き、さまざまな京都の企業や団体の出稿が増え、昔の社内のようににぎわう日が戻るといい。
ただ、時代は手のひらの時代。
見ていると、立っているお客さんでも、上を見ず、下を見ている時間がほとんど。
スマホは、従来広告の存続にも大きな影響をもたらしているかもしれない。
でも、学生さんたちの発信力は素晴らしい。
ひとり、この広告をじっと見ながら、拍手を送っていた。
出ては消えていくデジタルの広告と、カタチになって心にメッセージを残すアナログ広告。
基本をもう一度みつめたい気持ちになる車内でのひとときであった。

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また来年、ここで会おうね。

花びらがすべて散った桜の木々。誰も、もう立ち止まって見上げることも
ないが、その緑色が目に優しい。
そして、季節が少し動いたことを感じる。
卒業、入学、入社・・新しいスタートを祝い、応援する春の儀式が
終わった。桜はやはり、日本の春の儀式のシンボルだ。

祭りも終わって、「さくらまつり」と書かれた提灯だけが、木々につながれたまま
ゆらゆらと揺れている。
もう今日あたり、この提灯は片付けられることだろう。
地域のみなさま、本当にお疲れ様です。毎年ありがとうございます!

次、この道を歩くときには、なくなっているはずだ。

父の名前が書かれた提灯に近寄り、立ち止まって、父の顔に触れるように
少しだけ撫でる。
人が通ったら、おかしな人と思われることだろう。

「今年も、桜終わったね。また来年会おうね。元気でね」と、言葉をかけ、
少し名残惜しく、そこを立ち去り、駅に向かう。

元気でね。は、自分に向けた言葉である。
来年、また父のこの提灯に出会えるように、この地が平和のままで、桜の
木も元気で、そして地域の皆さんも元気で、自分も元気なままでいられるように。
父との思い出をたどる、大切な場面、時間を大切に生きたい。
そんな願いを込めて。
生きていれば、すべてが動き続ける。

「お父さん、またね。桜の季節にここで会おうね。」

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中学2年の「ORIGINAL」

1枚の賞状が出てきた。
大人になってから賞状はあまりもらったことがないが、幼少の頃には何かあるたびに
「賞」をもらうことで、モチベーションが維持され、がんばることができたのかもしれない。
そんななかの1枚が、実家の本棚におきざりになっていた。
ずっと忘れ、目もくれなかったのが、突然目に入った。
「誰の賞状?いつの?へー?」という感じだ。

2年3組とあるから、中学生の頃の賞状。
タイトルは「ORIGINAL」。なんだろう?
よく見ると、夏休みの宿題の表彰だったようで、「銀賞」と書いてある。
なんでも、自分で作った曲を夏休みの宿題に出していたようだ。
そして、このタイトル「ORIGINAL」も、自分で付けたはずだ。

中学二年といえば、14~15歳か。
その頃からオリジナルだったんだ。

当時のわたしは、今の自分にしっかりつながっているのだと、その一枚を眺める。
人まねでなく、自分流。自分しかできないことを10代前半からそうしていたとは。
「よっしゃ~!」と、その頃の自分に思わずガッツポーズしたくなる。

きっと、暗記する勉強があまり好きでなかったり、人と比較されない道を行く
のが好きだったり・・ということだとは思うが、それにしても、中学二年に
作った曲は何だったんだろう?

中学時代の自分はどこか面白い。
この2年生には残っていた賞状から、オリジナルの曲をつくったようであるが、
1年か3年かには、ベートーベンの本のスクラップから、我流「ベートーベン物語」
を作っていたから、いずれにせよ、面白い。
暑い夏に、当時岐阜公園の中にあった県立図書館に通って、ベートーベンの本を毎日
探してはメモをとったり、コピーをとったり、見た目一人前のことをしていたことは
覚えている。(冷房の入った図書館に行きたかっただけかもしれないが)

オリジナルに生きたい。
親とよくケンカになった「10人中いたら9人がすることをすればいい」の反対を
身をもって示したかった、思春期の意地だったのかもしれない。

40年以上の自分は、今につながっている。
このまま、ずーっと「ORIGINAL」でいこうと心に決める。

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