この瞬間を生きる!ミルバのバラ

両親が旅立ってから、よく花を買うようになった。
祈り、お供えというだけでなく、自分の癒しのためにである。
常に何かちょっと飾ってみる。
くらしのなかのオアシスだ。
バラがシンボルのデパートの花売り場の前を通ったら
「今日はローズの日」ということで、バラを安価に提供
していた。1本売りも安くしてくれるようだ。
そこで目に飛び込んできたのが
このオレンジのバラ。名前は「ミルバ」である。
もしかして、あのイタリアの歌手が由来?そうミルバは
先日もここに書いたが、母と同じく昨年亡くなったイタリアの
歌手。まさに情熱と愛の歌い手。
確かにこのバラも情熱を感じる色だ。
早速1本買ってみる。
きれいなオレンジ。レトロな色合いと感じる人もいるかも
しれないが、私はこの1本から生命を感じる。
真っ赤な赤とは違う、炎のような生きる力・・・。

花言葉を調べてみると、
「今この瞬間を生きる」という意味だそうで、まさに
今の自分にピッタリの言葉であり、見ていて元気も沸いて
くる。
あのつややかな伸びある声のミルバのことを思い出しながら、
私も今という瞬間を
精いっぱい生きていこうと改めて心に決める。

バラには、実にいろんな種類がある。
ぜひいろいろ試して、それぞれの思いに包まれ、
できる限り、美しく年を重ねたい。

ミルバなラビアンローズを!生き続けたい。

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四半世紀をともに、の感謝。

グラン・ルーは来年開設から25周年を迎えるが、その時間を
ずっと寄り添い、助けてくださった大切な存在がデザイナーさんである。
脱サラをして、こんなことをしようと思っていると打ち明けたのが
34歳の今ごろだ。
ご自身も会社づとめから、独立して仕事をする人であったので、
私の決断に共感を寄せてくださって、まずはグラン・ルーのロゴづくり、
そして名刺、毎年の年賀状、ホームぺージ、CDのジャケット、各種チラシ
オリジナルグッズ、カレンダー・・・と、グラン・ルーに関わる
デザインはすべてお願いをしてきた。このブログのヘッダーもそのひとつ。
今から思えば、打ち合わせや製作は、時間を問わず、早朝から夜中まで
おつきあいいただいた。公私ともに私という人間をご理解いただき、
その想いをカタチにしてくださった。
5年前、東京を離れてからも、変わらず関係は続いている。

ありがたいのは、この間に使ってきた写真をはじめとしたデータ類も
共有、保尊してくださっており、何かあればこちらから言わなくても、
グラン・ルーのコンセプト、歴史、世界観を理解されているので、
ここにはこんな色、こんなレイアウトが良いのではと私が求めることを
先に提示してくださる。一から説明しなくても良い、そして新しい提案を
いただける。こうだといいのではないか?いつも私の見え方を客観的に
考えてくださっている。そう、分身のような存在だ。

グラン・ルーの世界観は彼女とともに、彼女がいたから見える化
できたのだと思う。いろんな提案も数えきれないほどいただいた。
ライブにも駆けつけてくださり、いつも応援してくださった。
私の挑戦を楽しみにしてくださるので、真っ先に報告したい人の一人
である。
家族の変化、親の死・・・。うれしいことから、悲しみまで・・・。
さまざまな気持ちを共有しながら、激励いただきながら、進んできた。

ブランディングには時間がかかる。
そして見える化することで、はじめてわかる。
見えなければ、何もない。
デザインの仕事は、思いをカタチにすること。
私の想いを見える化する上で、デザイナーさんの存在、関係は
一番大切である。

お付き合いを30年以上重ね、四半世紀、一緒に健康で仕事ができること。
自分のことを、常に見守り応援していただけることは、本当に
嬉しい。
最近、25年に向けさまざまな取り組みを見直し、新しい挑戦を
するにあたり、改めて、デザイナーさんの存在に思いを寄せて
いる。
私が仕事をする限り、最後の最後まで、グラン・ルーのデザインは
このままお願いしていきたい。
クリエイターとして、人として、共感し合える仲間がいることは
本当にありがたい。
いい仕事は、信頼から生まれる。仕事にもパートナーは不可欠だ。
今改めて、生涯のおつきあいを願っている。
グラン・ルーを一緒に回していただける仲間を大切にしたい。

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今年もできたよ。みんなでつくる美術館

昨日、都内のオフィスのエントランスラウンジにて、
障がい者アートの展示を行った。
作品は、新潟の提携先から責任者が持って駆けつけ、
その企業で働く皆さんと一緒に飾り付けを行っていく。
どの作品をどこに飾るか。をみんなで考え、
上から吊るしたり、イーゼルに乗せて、バランスを
見ながら、調整していく。作品・作家紹介のPOPも取り付け
よく読めるかどうかも点検。
「もっと左」「もっと右」「これぐらいかな」
みんなが様々な意見を言いながら、どうしたら
見る人にとって、より見やすいかを真剣に考える。
スタートから約90分で、展示は完成。
みんなでプチ達成感の歓びを胸に、笑顔の記念撮影。

障害をもつ人も、そうでない人も一緒になって
力をあわせてつくるミニ美術館。
これから、しばらく会社のエントランスを華やかに
してくれるだろう。
そこで働く人にはもちろん、来社されるお客様にも
アートな時間を、しばし楽しんでいただきたい。

今回は、作品横にホワイトボードを設置し、皆さんに
自由に感想を書いてもらう予定。
それを撮影記録して、あとで作家さんたちにもお見せする。
これもみんなでつくる美術館らしい、素敵なアイデアだ。

そんなこんなで、MOSごと美術館が2022年もスタートした。
毎年、違った形で表現できていることが、うれしい。
実は、今回の展示作品を活用した、アートフルな店舗が原宿にある。
オフィスとお店、両方で作品たちを見比べてみると、これまた違う感動が。
空間が変わると、アートの楽しみ方が膨らんでくる。

※この作品展示「MOSごと美術館」の2022年企画は
6月1日より㈱モスフードサービス本社のエントランスでスタート。
こちらでの展示作品を活かした店舗が、表参道にて絶賛営業中です。https://www.mos.jp/shop/detail/02404/


こちらは、表参道原宿のモスバーガーの店内
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手足が三本ないだけ・・・と言える強さ。

あるニュース番組で、不慮の事故で、大けがをして、両足と片腕を切断せざるを
得なかった青年のことを知った。
事故は10年前のことだそうで、その当時は、ショックでいかに死ぬかということ
ばかり考えていたそうだ。
今日眠って明日になったら死んでいたらどんなにいいかと・・。
もし、自分がその立場になったら、もちろんそう思うだろうと思った。

でも、その彼は、入院中学生時代の友達が見舞いに来てくれて、
けがのことは何も触れず、普段通りに接してくれたことで、
「自分は何も変わっていないんだ」と、いう気持ちになり、
前向きに生きていくきっかけを得た。

そして、懸命のリハビリを重ね、最新の義足を使って、社会復帰を果たした。
なんと、今はひとり暮らしをされているのだという。
趣味は料理だそうだ。
自宅に帰ったら、靴や靴下を脱ぐように義足を脱いで、車いすに乗って
料理をする。義足が靴や靴下とは・・・なるほど。

彼は会社勤めをされているが、なんと障がい者雇用ではなく、一般の雇用枠
で働いている。上司も何も気遣いなく、普通に接しているとのこと。
普通に働き、なんでも挑戦したいとのこと。
この生き方を見て、そしてこの方の清々しい笑顔を見て、なんと素晴らしいと
思った。

さらに、別の話題。最近、ニューヨークで開催された「障がい者の芸術祭」の
ことを知った。そこに左手が不自由なアーチストが、右手でキーボードを弾き、
左でボタン操作をしながら、懸命に歌を歌っている様を見て、全身がふるえた。
自分に障害があったら、きっとこうするだろうと、強く思ったのだ。

このアーチストはインタビューで、障害が「創造の原点」になっていると
話していた。そこからはじまる。障害は自分の一部。障害があることが
自分の個性でもあり、そこから伝えたいメッセージも生まれてくる。
単に演奏が上手いとか、そんなことよりも、何を伝えるか?という点で
障がい者の演奏、表現は人々の心をうつのだと確信した。

手足が三本ないだけのこと、左手が使えないだけのこと。
いや、そんな状況であっても、やろうと思ったら、働いたり、表現したり、
いっぱいコミュニケーションをして、充実した人生を生きることができるのだ。
彼らの笑顔が印象的であった。

自分は五体満足が普通と思い、胡坐をかいていないだろうか。
と、そんなことを思った。
五本の指が動きづらいのは、病気でもけがでもなく、単なる練習不足。
もっとやればもっとうまくなる!
あるものをもっと活用する。指があるなら、もっと練習しなくちゃ。

と、改めて反省とともに背筋が伸びた次第。

世の中には、不自由な身体でありながら、努力している人がたくさん
いる。
見習いたい。そして、障がいをもつ人たちとの創造を、もっと広げて
いきたい。

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五つ星の表情を撮る人。

今日は写真の話題。
先日5月8日に開催された岐阜新聞でのミニコンサートに駆けつけて
くださったアマチュアカメラマン。お忙しい仕事の合間に本当に「駆け付けて」
来てくださった。
「マーサさんの写真をまた撮りたいと思って・・」。
以前も演奏風景を撮っていただき、大変気に入っていたため、
今回も楽しみにしていた。
但し、会場が感染対策上、透明シートが設置され、近づいたり、
決まった場所からしか撮れない・・・など。なかなか自由に動けない環境であった。

しかし、そんな環境とは無縁に、素晴らしいショットがたくさん!
自分の写真を見るのは勇気がいる。あ、こんな顔している。ああ、しわくちゃ。
マスク生活でフェイスライン、大丈夫か?などなど・・。
皺や造形そのものはモデルの問題であって、カメラマンの腕には関係ない。
・・・とそんな中に、きらっと光るものもある。
とても自然な表情であったり、真剣にやっていることが伝わる情熱の瞬間であったり、
今にも写真から音が飛び出してきそうな写真がたくさん!
激写といっても良いほど、いろんな表情を次々と抑えてくださって、短いコンサート
時間、ずっと私という被写体に集中していただいたことがわかる。

改めて自分の表情を見る、顔を見る。ああ、口が歪んでいる。
こっちの角度からの写真はダメだな、こっちはまあいいか。
と、自分がどう見られているか、見られると良いかの点検はとても大切だ。

今回の写真も五つ星。いろんな場面で使わせていただく。
いくつになっても、見られる仕事をしよう。
見られることに耐えられるように努力しなければ!
と、背筋も伸びる。

Tさん、ステキな写真を今回もありがとうございました!
それにしても、素晴らしい才能だ。
アマチュアかプロかではなく、「表情を撮る」すぐれたアーチストだと思う。
(ここには、一部をご紹介します)

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「ご丁寧に」の後悔。

母の遺品整理を久しぶりに再開。
あまり整理しすぎることへの寂しさも募るが、
進めていかねばならない仕事だ。
どれを残し、どれを捨てるか。なかなかむつかしい選択だ。

郵便のなかに、何度も登場するAさんの名前をみつけた。
そのハガキや封書を見ると、同窓会の案内らしきものが
ほとんどだ。小学校の同級生のようだ。
へえ、こんな方がいたんだ。
と、顔も何も知らないAさんのことを想像した。

こんなに長きにわたり、郵便物が来ている方ならば、やっぱり連絡して
おいた方がいいだろう。と思って、
その郵便物に記載されている住所の横にある電話番号に勇気をもって
かけてみた。
最初はご自宅へ。いきなり携帯だと詐欺と思われて出られないかも。
しかし、出られないので、今度は携帯に・・・。
でも出られないので、そりゃ不信に思われるだろう・・としばらく待つ。
すると先方からかかってきた。着信に反応されたのだ。

「すみません。今尾敏子の娘の昌子と申します。はじめまして・・」
と名乗り、「母宛にたくさんお便りいただいてありがとうございます。
実は・・・」と母のことを報告した。
すると、電話の向こうでAさんはちょっと驚き、「そうですか~。それはそれは。
とてもお元気な人でね。そうですか~」なんども「そうですか~」
と言われ、「本当にご愁傷様です。ご丁寧に教えていただき、あ
りがとうございました。」と言われ、ご挨拶をして、電話を切った。

82歳~83歳だろう。母と同い年。
小学校の同級生。まず話がしっかり通じて安堵する。
そして、「ご丁寧にありがとうございました」と言われたことが、
あとでだんだん気になってきた。

もしかしたら、言わない方がよかったかも?いちいち報告しなくても
良かったのかも。
Aさんも、体調がすぐれないとのことをおっしゃっていたので、
そんな報せをきいて、悪化されるかも・・・。
であれば、余計な情報お伝えしなくても良かったかも。

と、電話を切ってからのAさんの心中を思ったら、後悔の念が
沸いてきた。

知らない方がいいこともある。知らない方がいいときもある。

お世話になった方なので、きちんと報告しておかねばと思い、
その意のままに行動したが、
ときには、それが相手にとって良くない場合もあるかもしれない。

「母の分まで、どうぞお元気に長生きしてくださいね」
とお伝えしたが、本当にそういう気持ちで電話を切った。
うーん。それでも言わない方が良かっただろうか?

母に話しかけてみる。
「Aさんに電話しておいたよ。良かったかな」
写真の母は笑っている。

だんだんいろいろ考える年齢になる。
「ご丁寧に」・・・気を付けよう。

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「愚痴」は言いません。

「大変ですね~。いつでも愚痴ってくださいね。」
とやさしい言葉をくれる人がいた。
愚痴か~。
有難い限り。
聞いてもらえるのは時にうれしい。

でも、愚痴は言わない。言わないようにしたい。
なぜかというと、この二文字が好きではないから。
とても見た目に、そして音的にも美しくない
漢字だと昔から思っているから。

だから、愚痴を言う人は、美しくない。
愚痴を言う人は、賢くない。というイメージだ。
行動は人を現す。

英語で愚痴に相当する言葉・・・どうやらcomplaintsが
近いようであるが、こちらの方が、
まだソフトでいいが、苦情とか不満
という意味でもあるようで、日本で言う「愚痴」
というのとは、また違う気もする。

まあ、いろんなことがある日々、
聞いてもらう存在も大切かもしれない。
ま、家族や親しい人に、日々の出来事を
いろいろさらけ出したり、相談できるのは
とてもいい。そのために身近な人がいてくれる。
「ま、いろいろあるけど、がんばってね」
と、前向きになるためのコミュニケーション
であれば、建設的で良い。
でも、私には「愚痴」という二文字からは、
前向きオーラは感じない。

一方、孤独であっても、ぐちゃぐちゃ言わずに
ひとりで静かに生きる人の方が美しいと感じる。
人のことをどうこうとネガティブなことばかり
話すよりも、自分と向き合い、作品づくりに精を出す、
勉強する、次のことに熱中する。
こっちの方が断然素敵だ。

とはいえ、愚痴を言いたくなることが多い
世の中かもしれない。
私も日々、いろんな話を聞かせていただいている。
考えようによれば、愚痴をいえる相手は
限られた人。と思えば、これもありがたいこと。
聞かせてもらえるということは、
心の叫びを教えてもらえるということ。
信頼されていなければ、愚痴は言われない。
と思いたい。
世の中には、そこまで考えず、誰彼にも言葉を発する
人もいるかもしれないが、そこは用心だ。

自分が発する言葉には責任がある。
気を付けて、心して。
でも、心許せる人がいたら、聞き合える人がいたらいい。
すっきりしてがんばればいい。
常に、前向きに。愚痴のままで終わらないように。

でもやっぱり、言いたくない。


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本音、本気のコミュニケーション。

仲間と進めている、とある案件。お客様の案件ではないため、
とくにこの日までにという期限はなく、当初は急いではいなかったが、
まあ3か月もあったらできるだろうと思っていた。
しかし、やはり日々生きているといろんなことが起きるため、
ついつい、そちらを優先。
気が付くと大した進捗もなく、時間だけが経っていき、さらに他のことが
優先され、3か月を越えて、このままいけば、何もなく半年経ってしまう・・。

さすがに、危機感をもった。
このままではいけない!とチームのメンバーに再度声をかけ、
改めて期限を決め直して、まずこの日までに全力投球しよう!と再稼働
することにした。
最近お会いした方も、仲間で仕事をしていることで、善意や協力体制は
疑いがないが、ビジネスライクにはなかなかことが進まないという現実に
直面されていたが、これは決して他人事ではない。

仲間であればあるほど 甘えが生じることがある。
それではいい仕事はできない。
ときに厳しく、言いづらいこともいいながら、でも前向きに進む。

本音のコミュニケーションは、ときとして信頼にひびが入ることもあるが
本気であれば、それは伝わるし、ときにぶつかりあうことも大切だ。
もちろん思いやり、誠意、配慮、助け合いが根底になければならない。


また、人と仕事をするときは、我慢と忍耐も必要。お互いさまのことだ。
お互いしっかりコミュニケーションして、腹におちて、再スタート。
「とにかく、まず5月末までにできることを全力でやりましょう!」
実は絶対の期限ありきではないが、期限を決め、計画を立て、
緊張感をもつことで、行動に勢いがつく。そして早くやり終える。

仲間だからこそ、本音をぶつけることもできるのかもしれないが、
仕事を一緒にする人は、基本みんな仲間だ。
表面上のやりとりでは、成功しない場合が多い。
パワーを要するけれども、ときに本音、ときに本気を見せる。
緩急のメリハリはもちろん大切。

一体になる。チームワーク。
言葉でいうのはたやすいが、苦楽をともにしてこそ、
ホンモノになる。

今回もいい勉強をさせていただいている。
一緒にがんばっていただける仲間がいることに
感謝をしながら。

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ステージが変わっても。

現役時代、組織の頂点に立ち、大きな仕事を、人を動かしてきた
人たちも、いつしか定年になり、その肩書きなしの人となる。
もともと、肩書はなかったと思えば良いが、いつまでもその肩書きが
ないと生きられない人もいるし、それにこだわらずまったく新しい
生き方をはじめる方もおられる。

コロナ禍に定年となって、念願の起業をされた方がいる。
なかなかコロナで人に会えず、営業もできず、足踏み状態。
また、組織にいたときとは違って、いろんな方に気を遣い
人間関係を大切にしながら・・・と、昔とは勝手の違う道を
歩まれている。
もしかしたら、こんなはずじゃなかったと思うこともあるかも
しれない。

組織のなかで、関係を広げ仕事をしていくのと、
フリーになって、仲間と新たな仕事をつくっていくのは
違う苦労があることも、やってみてわかってくる。
肩書きなしで、どこまで自分らしく、仕事をやり切ることができるか。

最近、定年された先輩たちと話していて思うのは、
人生のステージは、死ぬまで変わっていくということ。
だからそのステージごとに衣装も、演目も
環境、相手に合わせて変えていかねばならないということ。

もちろん、その根底には、新しいステージに立つ自分の
コンセプトが必要だ。

豊かな経験だけでは、前に進まない。
新しいステージに立つ、自分の姿をイメージして、磨き、アピールすること。

ステージが変わっても、目を輝かせ、自分らしくいきいきと活動するために。
やっぱりコンセプトだろうか。
自分は何がしたい?何をすべき?

私自身も、これからの自分について、自らを問い続けたい。


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たまにはCANヅメになる。

出張や外出が多い暮らしではあるが、たまに、この日は
1日内勤しよう!と決めたら、外出せずに1日パソコンに
向かっている日もある。決めないと時間は作れず、また
その本業に向かうまでに、雑用がつきもの・・。
やっとこもり始めても、パソコンの前ではさまざまなことが
起き続ける。ひとつひとつと格闘を続ける。
気が付けば12時間以上、いや14時間?途中、ちょっと抜
けて何か他の用事をしたり、コーヒーを飲んだりしたとしても
気が付けば、時計が何周?窓の外はすっかり闇。
とにかく1日中でひとり格闘している。
ひとりといっても、電話会議にはじまり(ZOOMより
電話がてっとりばやいというケースも多い)引き続きZOOM
で打ち合わせ・・・その後はメールでやりとりしながら
考えもの、書き物を進める。

やはり外出すると、気持ちが切り替わってしまうので、
集中して何かをするときは心決めて、こもるに限る。
気持を切り替えないということも、時に必要だ。

カンヅメ。なぜそう呼ぶのだろう。ふと考える。
そして、カンヅメといえばポルトガル。
と、ふとオイルサーディンなどを思いうかべ、
カンヅメとは?と考える。
カンヅメとは、まさにCANの中に何かを詰めたもの。密封したもの。
転じて、一定の空間に長いこと人を押し込む状態。
カンヅメにされる・・というのは受動的であり、
自分からカンヅメになるのは、大変積極的だ。
そう、自分からカンヅメになって、おいしくなるように
努力する日。
そう、CAN=仕事部屋のなかで、あれこれ格闘する。
すいすい順調なことばかりではなく、ときにネットの環境が
悪くなって、対応に追われたり、うまくデータが送れなくて
慌てたり・・・。
どうやら、このカンヅメはイワシくんのように、缶の中で
じっとしていない「動くカンヅメ」だ。

と、バタバタしながら、カンヅメDAYを終え、
心新たに、外に出る日がはじまる。

ときに、カンヅメは大切だ。
集中と分散。緊張と解放。
この繰り返しで、仕事が仕上がっていく。

I CAN!
今日も夢が膨らむ 希望の1日になりますよう。

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