頭を使い続けるIN・OUTの暮らし

公務員、会社員など、おつとめを生業とされてきた方には、定年がある。
その日がひとつのゴールである。
仕事でおつきあいしてきた人の多くは、この節目で、いったん関係が
終わってしまうこともある。
「お世話になりました。」
この挨拶から何年かして、ふと、どうされているか?と思い、
連絡をとってみる。

突然のお久しぶりメールに、驚かれた様子の返事がすぐかえってくる。
その方は、親御さんの介護のためということで、62歳で定年された。
それから2年ほどのご無沙汰であった。
その返信によると、
お父様は、その直後に亡くなり、今はそのことで気落ちされているお母さまの
お世話をされつつ、パソコンの資格、漢字検定のための勉強、今は簿記の資格に
向けて勉強中、さらに地域のボランティアにも関わっておられるとのこと。
気ままな暮らしです。綴ってあるのが、その人らしい。
できるだけ頭を使って、地域との関わりともって活動しているとの近況をいただき、
やっぱり、元地方公務員!さすが!と思った次第。

その方以外にも、周囲には70代になっても
カラダを動かすために庭仕事をされたり、仲間とスポーツをされる方もおられるが、
さらに頭を使い続けようと、勉強したり地道に活動されている方も多い。

十数年前の現役中に、定年後のことをかなり計画的に準備されていた方が
いるが、その方は、その計画どおり今も頭も体もしっかり使って、
豊かな現役生活をおくられている。
こちらもさすが!である。

身体はもちろん、頭を使い続けること。
ひとつは学び、ひとつは社会へのお役立ちだろうか。
まさにINとOUTの両者が、心身ともに元気に生きる秘訣だろう。

60歳を節目とした、新たな生き方を、模索するなか、
いいお手本に出会うことは大切だと思う。
尊敬できる人が周囲に多くいてくださることが、本当に幸せだ。

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恥ずかしいから、勉強しよう!

いやはや、勉強不足は恥ずかしい。
いい歳になればなるほど、そのことを実感。

たとえば、どんなことでもコミュニケーションが
ちゃんとできれば、うまくいく。
ということを常々、思っているけれど、
これは、もしかしたら世の中が健全であってのことかもしれない。

健全でなければ、コミュニケーションは成り立たないのかもしれない。
その人それぞれの歴史や背景がわかっていないと、
そのコミュニケーション自体、うまくいかないし、
人間はそんな善良でわかりやすい人ばかりではなく、
利害関係が優先される世界も多いため、(自分の周りは無関係であってほしいが)
一方的に友好関係を求めても、相手によって、なかなか解決は難しいのかも。

今回のおぞましき戦争。
志ある人々の勇気と行動によって、きっと解決策があるだろうと
思っているが、それはなかなか難しいということに気づくことがあった。

「この本を読んだら、世界観が変わりますよ」
と専門家から教えられて言われて開いた、ロシアの勇気あるジャーナリスト、
アンナ ポリトコフトスカヤの「プーチニズム」という著作。

確かに、一部を読んだだけで、
この世の中は、カンタンには変わらない。
ということがすぐ想像できた。
これは、約20年前に出版された本であるが、
今のロシアをすぐイメージできる内容だ。
読んでいて気分が悪くなってきた。
チェチェンで起きた殺戮と
このウクライナの惨事は同じということがわかってくる。

隠された、誰も言わなかった世界。
閉ざされた社会では正しい情報は少ない。
だから本当に解決は難しい。

だから言わねばならぬと、現実を伝える行動をとり続けた彼女は
当局に何度も狙われ、そして殺された・・・。
いかに、自分がロシアと言う国を、
世界を知らないか恥ずかしくなってきた。
世界は、そんなに容易に変わらない。
一見友好的な、コミュニケーションでは、何も解決されない。

権威主義がはびこる閉ざされた社会。
外からはなかなか解決がむつかしい。

できるとしたら、本当に身内から・・であるが、これこそ、まさに
命がけの恐ろしい世界だ。
見守るしかないとは、本当にやるせないが。

平和な日本にいたら、わからない現実がある。
もっともっと勉強しないと、
もっとも知らないから言えることもあるが、
でも、もっと知ることで、もっといい知恵が沸いてくるはず。

いい歳して、知らないことが多いことに気づくことが多い。

恥ずかしいから勉強しよう。
これも、学びのひとつの動機になるだろうか。

もっと広く深く社会を、世界を理解し、
正しい道筋を考え、少しでも自分にできる行動を
とることができたら・・・。

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非難と制裁よりも、仲介と対話を。

この戦争は一体なんだろう?
結局、だんだんと、なんだか当事者以外は、どこかしら他人事のような。
報道も、毎日しつこいぐらい流されていたコロナの感染状況に代わって
最近はウクライナ情勢がトップニュース。
映像のなかの戦争が日常化している・・。
そして各国の非難の話、制裁の話ばかり・・・。

もう惨い現地の様子は見たくない。
早く終わらせるにはどうしたらいいのか?
どうしたら、ウクライナの人を救えるのか?
どうしたら、この狂気を止められるのか?
なんだか結局はさまざまな人たちの
コミュニケーションのすれ違いから、溝が生まれ。
この悲劇が始まったように思えてならない。

コミュニケーションのズレ、間違った情報の伝達。
また考えの違う者同士が、お互いに理解しようとしない。・
対話をしないから、この状況が生まれているように思えてならない。
嘘とわかっていても、立場を貫く。こんな生き方は本当に幸せだろうか?
とも思える。

非難の声をあげ、制裁を強める各国のリーダーたちも、
そうじゃなくて、自分が当事者に直談判していって、
世の中はこうなっている!と
面と向かって言えないものだろうか?
ただ武器を与えて、がんばれ!という応援は本当の応援だろうか?

親しい知人が、今こそ、国際軍が必要。
ウクライナを救わねばと言っているが、本当にそのとおりだ。
どうしたら、救えるか。どうしたら終わらせることができるか?
の答えは、避難と制裁・・だけではないと思えてならない。

今の私には、自己満足かもしれないちっぽけな額の寄付や
祈ることぐらいしかできず、一緒に泣くことぐらいしかできず、
ふがいない。声を上げる人もいる。それはそれでいい。
それぞれができることをやればいい。
でも、世界を本当に動かせるのは政治の力
あるいは、宗教の力。
そのリーダーは今こそ真の役割を果たすべきではないか。
説得しにいけるリーダーこそが、真のリーダーだ。
「ウラジミル、本当に本当にこれでいいのかな?」
と言える人、いないのか?

日常に置き換えても
相手への非難や制裁だけでは、誰もハッピーにならない。
それどころかそのつけが、自分に、毒のように回ってくる。

今回の戦争。
日本も他人事ではない。

とにかく、涙でインタビューに応じる人たちの姿を見てしまうと
たまらない毎日。このことに慣れてはいけない。

いろんな哀しみを抱きながら、今日もはじまる。
せめて、自分ができること。
しっかりやろう。
そして、人の痛みが分かる人、寄り沿える人に。
コミュニケーションを大切に。






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まさこさんにメガエール!!

先日、ある方からのメールに茫然となり、
そしてずっと心配していた・・・。

60歳からの起業を応援しつつ、久しぶりのZOOM面談で、
彼女のお店(カフェレストラン)がこの5月に5周年を迎えると聞き、
じゃ、5月5日にコンサートをしよう!と楽しい約束をしていたのは
今年に入ってから・・・。
その後、介護をされてきたお母さまが亡くなり、
コンサートはもう少し後に、でも必ずしましょう。とお互い、楽しみは
後で・・そんな約束をしていた。
そして、私の記事を新聞でみつけて、すぐメールをくださって、激励や感謝の言葉を
送ってくださった、そんな矢先・・・。

なんと、3月末、ご自宅とお店が火事になってしまわれたとのこと・・・。
「ご報告します」と書きだされたメールに、瞬間目を疑った。届いたのは4月前半。
こんなことがあるのだろうか?
幸いにして、ご本人は救急搬送され、奇跡的に助かったようだ。
たまたま、娘さんもこの時期、近くに滞在されていてこれも救いであった。
ご無事であったことが何より。でも、あんなにがんばっていたお店、
そして、ご自宅にはご家族との思い出が詰まっていたはずなのに・・・。
お母さまが亡くなられたばかりなのに・・・。

心配になり、すぐ駆けつけたい気持ちで、メールを返したがしばらく返事が
なかった。携帯自体もすでになかったのかもしれない・・・。

そんなこんなでずっと気になっていたら、この連休に入り、連絡が入った。
そして電話で話すことができた。
ああ、元気だ。普段どおりのまさこさんだ。
「ああ、よくご無事で~。」二人で声の再会を喜んだ。
「1か月で復帰しました。わたし、元気に生きていきますから、
これからもよろしくお願いします!」
電話の向こうで、いつもどおりの笑顔を見せてくださっているのがわかった。

近々お会いする予定だ。
そして、彼女の新しい出発に対して、何等かのお手伝い・応援を
したいと心から思っている。
私の「愛の賛歌」が好きだと、ディナーショーの催促もしてくださった。
「ピンチはチャンスですね!」
モノがなくなっても、いのちがある。思い出という宝物がある。
そして、娘さんや息子さんが彼女を助けておられることも安心だ。

とてつもなく、前向きなまさこさん、心から改めて凄い人だと
思った次第。
アクシデントがあっても、助かる人には、理由があるはずだ。
まだまだがんばらねば、まだまだ人生楽しまねば。

まさこさんの底抜けのバイタリティ。大好きだ。

彼女の大切なお店は永遠に私たちの心にある。
まさこさんに、抱えきれないほどのメガエールを送りたい!


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「最期の自分」を考える。

会社役員をこの春退職された方から、ご挨拶状が届いた。
その中に手書きでひとこと
「次に進みます!」
とあるその一言に、拍手を送りたい気持ちになり、すぐメールをする。

60代前半。まだまだ働ける会社という職場を一足早く卒業され、
次なる挑戦をされるのだ。もっと大きい社会へのデビューのための
卒業だ。本当に素晴らしいこと!!

ふと、自分の35歳のときの脱サラの時のことを思い出しつつ、
いや、60歳過ぎてからの挑戦は、より重いものであると
思い直す。比べものにならない。
若いころの勢いだけではなく、長年の経験や知恵や人脈を
踏まえての決断という出発なのだ。
苦労されてきた分の重み、存在感と自信を感じる。

すぐ連絡をとってみると、こんなメッセージが返ってきた。

「いつ死ぬかもしれない。しかし、いつも険しい坂道を上り続けたい。
たとえ、死ぬときはどぶの中でも、前のめりで死んでいたい。と
坂本龍馬の言葉がありますが、自分のなかには、そんな気持ちがあります。」

うわ。かっこよすぎる!
最期の最期まで 受け身ではなく、生きてやる!やってやる!の
前進一路である。

これは、その方がこれまで生きてこられた歴史からにじんでくる
生きざまである。

最近、ある日突然、狂暴により、人生を止められてしまった
ウクライナの人々のことを思うとたまらない気持ちになっていた。
こんな最期ってあるか?ありえないことが起きている。
抵抗しながら、あるいは抵抗もできずに・・・自分の意志とは
関係なくいのちを奪われた人たち・・・。
こんな最期ってあるか?

この現状を自分に置き換える。
戦争で最期を迎えるのだけは、絶対嫌だ。
平和のなかで、自分と戦い、そして果てていく・・。
そんな終わり方がいい。そうありたい、願いたい。

「最期」という言葉で話が揺れたが、
いずれにしても、常に自分の最期を思いながら、
走り続けること。
これは、いいことだと思っている。
私の最期は・・・
ピアノを弾きながら、息絶えたら最高。
それは、ちょっと難しいかも?でも妄想は自由で幸せだ。

いずれにせよ、自分の意志で生きたい、生き切りたい。

話しを戻す。
挑戦する知人に心からエールを、そして
狂気の戦争が早く終わって、世界が平和になるように、
今日も祈りつつ、私も元気に走り出そう!



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挑戦する人に刺激受け。

東日本大震災で被災し、大変なご苦労をされた人のひとり。
大船渡でずっと会社員・役員を経て地域とともに奮闘されてきた。
いつしか「むーさん」とニックネームで呼ばせていただき、
この方の導きにより、震災後
町の老人施設へボランティア演奏に二度伺うことができた。

「自然には感情がないんだよね」
津波のあと、晴天の下、静かに波打つ湾を見ながら、
なんともいえない悔しそうな表情で
そんな言葉を発したむーさんのことは、
今も忘れるこよができない。

あれから、11年。毎年ずっと連絡を取り続けている。
そして、いかに地元のために全力を捧げてこられたかを
遠くに住む私でさえも強く感じていたぐらいだから、地元の
皆様にはもっとずっとわかるはず・・・。
そんなむーさん、このたび長年おつとめの会社を退職され、
次の市長選に出馬されるとの情報を得た。
驚きよりも、そうだろうな、そうされるのが自然だな
と心から共感した。そして、すぐ応援メッセージを送る。

63歳の挑戦とのこと。
出馬するために、3年考えてきたとのこと。
未来のために、地元を元気にしたいとの思いだ。
その情熱と行動力には頭が下がる。
昨年、私の親が亡くなった時の、すばやいむーさんの
心配りがじんと蘇り、まさに利己ではなく、
他己の人であり、思いやり溢れる人であると
あらためてこれまでの交流のひとときが蘇った。

やる人はやる。
しんどくても、やる。自分から前に出る。
やっぱり、人生はそうでなくちゃ!

むーさんの今回の挑戦になんだか元気をもらった。
私もやらねば!
むーさんの地元愛に負けないような、私なりの挑戦とは?

むーさんのこのチャレンジ、心から応援したい!


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人生に代行なし。

生きていく上で、それぞれ何かしらの苦痛、苦労はあるはずだ。
一見、他人から見ればつまらないことから、自分の努力では
どうにも変えられないことまで・・。
ときには八方ふさがりに思うこともあるかもしれない。
長い人生、おそらく誰にでもそんな時期があるだろう。
日常のなかでも、本当に思い通りにならないことはある、多い。
ひとつ山を越えたと思ったら、すぐ次の山。

仕事で困っていることがあった場合、
身近に相談する人がいたり、
アドバイスしてくれる人がいれば、なんとか乗り切ることができる。

仕事以外でも、家族や親しい人と助け合っていけたら、何とかなる。
でも、それがしんどいときもある。

でも、周囲に応援してくれる人がいたら、ヒントも得られて
違う行動を選ぶことができる。


でも、やるのは自分。生きるのは自分。

それぞれ、自分の命を生きるしかなく、交代することが
できないのが、人生の厳しいところだ。

自分の人生、自分でしか進めない。
自分の人生には、これまでのすべての経験が詰まっていて、
長年の間に重ねられたその時々の選択や判断から、
現在の自分が成り立っている。
だから、自分以外の存在が自分に代わることはできない。

長年生きていれば、逃げ出したくなるときもあるけれど、
時は止まっていない。
必ず前に進んでいる。
だから、今は雨風をうまくしのいで、前に進む方法を
考えればいい。

嵐も過ぎ去る。
季節は移る。

出口のないトンネルはない。と教えてくれた人がいたことを思い出す。

だから、少し時間が経つのを待ちながら
今できることを、精いっぱい。
そんななかで、少しでも楽しいことをみつけて
そんな風に生きていけたらと思う。
くだらないことでもいいから、毎日笑いたい。

誰も代われない人生。
だからこそ、生きがいがある。やりがいもある。
あの時は苦労したね~。よくがんばったね。
と自分を褒められる日が必ずくる。
自分で生きるしかない自分の人生。
等しくみな、その宿命を背負っている。

どうしたら、少しでも笑顔になれるか。
最後は自分次第。
わが人生、代行はなし。

※本日4月10日早朝、サーバ不調により公開が遅れましたこと
お詫び申し上げます。

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五感で本質を問う姿勢。

「眼聴耳視」
最近出会った、心に残る言葉がこれだ。

河合寛次郎氏の名言のひとつとして知られているが、先日京都で
この額をみつけて、足が止まった。
どうやら、もともとは禅の言葉からきているようであるが、
河井寛次郎は陶芸だけでなく、言葉の紡ぎ手としてもなかなか
奥深い表現者であったと思う。

さて、この言葉。
目で聴き、耳で視る。
物事の本質を知るためのコツともいえる。
目で聴くも、耳で視るも、頭と心の働かせ方が大切になる。
目に映る、耳に入る表面的な情報だけでなく、その裏をその奥を
しっかり見聞きして、本質をとらえるようにしよう。
ということだと解釈できる。
さて今目、目に映る、耳に入ってくる情報はあまたある。
情報の洪水時代だ。ここにおぼれることなく、
しっかり五感をフル回転させ、
全身全霊でひとつひとつの事象に向かい合おう。
ちゃんと選び取って、それを生かす。
つまり、
しっかり生きることだよ。と言われている気がする。



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生には勝てん。

2月に行った朗読劇の主催者(作家)と開催後、
やっと会えることになった。
コロナまん防のさなか、しかも雪降った翌日・・・。
いろんな悪条件での挑戦であった。
あれからもう2か月が経とうとしている。

こんな状況では劇場に来る人はあまり期待できないし、
今なら配信もできるから、
来れない人には自宅で観賞いただこう・・・。
と、今回はリアルと後日配信の二本柱で上演。
配信用は2日目の後半の部をプロが撮影し、編集。
そして、上演後に配信開始となった。
おかげさまで、多くの方にご予約いただいた。

劇場に足を運んでいただいたお客様からは、
その場でアンケートにいろんな感想をいただいた。
わざわざコロナ禍でも会場に足を運んでくださる
演劇ファンからの熱心なお言葉をいただいた。
感動した、朗読劇って想像するから楽しいね。
朗読と音楽がよくあっていて、良かった・・
などなど生の声をたくさんいただいた。

一方、配信の方は、こちらは恐る恐るであった。
どんな風に編集、再現してくれるのかな?
画面上で朗読劇って伝わるのかな・・・。
と、私自身思ってはいたが、でもやる以上はと
一生懸命告知し、応援もいただき、
当日来られない方は。それぞれのタイミングで
観賞いただくことになった。
感想をくれた人は3~4名。
すぐ感想をくれた人、ついでのときに感想を
言ってくれる人・・・。
久しぶりに演奏が聴けてよかった。
画面越しにマーサさんに会えてよかった。
新感覚ですね。千秋楽を観たかった。
朗読劇は初めてだったけれど、暗くてよく見えなかった。
ピアノの音は聞こえたけれど、役者の表情がわからなかった、
やっぱり、生で聴きたい。早くディナーショーやって!
などなど・・・。
正直、普段のライブなどより反応が少なかったのが正直なところ。

そんな感想やアンケートの声も含め、
そして自分たち自身の手ごたえとして、
「やっぱり、生じゃないと」
というのが、今回の総括。
生じゃないと、作り手、演じ手のすべてが伝わりづらい。
もちろんコロナのおかげで得た、配信という伝達方法は便利であるし
一定のことは伝えられるが、
やっぱり生には勝てないのだ。
とくに初めて観る方には尚更のこと。

もっとも4回も観て楽しんだという人もいたため、楽しみ方は
人それぞれであるが、
やっぱり生で観賞いただき、その反応をその場で得る。という
ことが本来の姿だろう。

わざわざチケットを買い、配信でごらんいただいた方に
あらためて感謝の意を伝えながら、そして次こそはライブで、生で
体感いただければと心新たにする。

「今度さあ、京都でやろうか」
「やろうやろう。絶対やる!」
京都出身の作家と、京都が第二のふるさとの私にとって
次の目標がまた加わった。

生には勝てん。
どんな場面でもそうだ。
リアル!
これに尽きる。何事も!

感動を伝えるには、心や表情の伝達が必須だ。
そして、同じ空間にいることでの共感、共鳴。

改めて、応援いただけるみなさんに感謝の意を伝え、
次はぜひ生で感動を伝えたい!と心に誓う。
ふりかえりは、本当に大切だ。と実感。
やりっぱなしじゃ、成長しない。



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来年、またここで。

 桜は咲き始め、満開、散り際と短い時間で、その変化を楽しませて
くれる大変ドラマチックな存在だ。
そして、私の場合、今年ほど、このさくらに思いを馳せるときはなかった
かもしれない。

それはやはり、両親の旅立ちと関係がある。
昨年のさくらの花が咲いたころ、母が旅立ち、父の名前が記された
この提灯が寂しそうに母を送っていたように見えた。

そして、今年は、ふたりとも旅立ってしまい、さくらの花に二人を
重ねることになった。
今年も飾っていただいたこの提灯は、まさに父と母の存在の証し
のひとつにも映った。

美しい桜吹雪は川面にも降って、水面一面が真っ白になった。
最後の最後まで咲き続ける桜の花と、風にゆらぐ父の提灯。
何度も何度も父の提灯と桜の花を撮影する。
そして、
電車が来るまで、このちょうちんの前に立ち、
父に話しかける。

電車が来た。もう行かねば。今日が見納めとなる。

「お父さん、また来年。ここで会おうね」
なんだか、父の提灯がにこにこ笑っているようにも、また
ちょっと別れを悲しんでいるようにも見えた。

二人がいなくなった春。季節が変わるごとにそのことを実感
してしまうのだろう。

人生はさくらのごとくドラマチックだ。
だから、美しい。

「来年、またここで、一緒に桜を見ようね。」
変な人のごとく、ちょうちんに何度も手を振り、
あわてて電車に乗り込んだ。




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