20年後、30年後を見る上司。

今、ある企業の人づくりプログラムの一環として、各ステージごとの
個別面談を行っている。
今回は、管理職面談。
皆さんとは1年ぶり、久しぶりに話す。その間コロナ禍を乗り越えて、
本当にがんばって仕事を続けてこられた。
いろんなアクシデントがあっても、
みんなで乗り越えてこられた。人手不足が続くなか、現場を見ながらの
マネージメント。
なかなかハードな日々である。
そんなマネージャーたちとのコミュニケーションタイム。
言葉に力がある。
人は責任ある仕事を任せられるようになると、自然とそうなるのかもしれない。

今回うれしい発見は、ますます管理職としてふさわしい人が、
増えているということ。
ひとつは、自分の下を育てなければならないという強い気持ち。
がんばってもらって、給料もあがってほしいという思い。
そして、そうできるために会社にも提案したいことがあるという前向きさ。
また、企業理念があることが有難いから、それに乗ってがんばります。
という声もあり。
とにかく、同じ思いで、みんなで良くなろう!という気持ちが共通している。
そして、自分たちよりも、次の世代ががんばれるようにという願いが、
それぞれの言動、行動に現れていることもうれしかった。
20年後は、30年後は・・という言葉が会話の中によく出てきた。

企業は永久に続く生命体でなければならない。
先を考えて動ける従業員がいてくれることが、企業存続のカギとなる。

あるマネージャーから
「これからも、当社を宜しくお願いします」
との言葉をいただき、思わず自分の20年後も想像してしまった。



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動機と思い。

今、話題のChat PGT。いろんな可能性とリスクについて世界中で
その対応が検討されているが、基本的に前向きな活用が進んでいる。
不思議なのは、開発した当人が、その管理や制御を他人(政府機関・国際社会)
に委ねようとしている点。そんな危険な取り扱いが難しいものなら、公開するなよ。
とも言いたくなるが・・・。正直、よくわからない。
とにかく、ある意味人間の能力以上に優秀なこのツールを、人間様がいかに
使いこなせるか?ここが課題であることは間違いがなさそうだ。

さて、AIの活躍。知らぬ間にこの人工知能には日頃、お世話になってしまって
いる。頼んだつもりはないけれど、検索すればすぐ情報が容易に取り出せたり
自分の履歴がちゃんと記憶されて、自分にあわせた情報が出てきたり・・。
時々、気持ち悪いと思うこともしばしばである。なんで、知ってるの?
しつこいな~。とネット利用しながら、パソコンの画面を見ながら毎日のように
思っている。パソコンのなかに人が住んでいるのか?と思うほどに、自分のことを
知っているのだ。
便利はいいことであるが、不幸になることもある。

このChat PGTでは、小説も書こうと思ったら書けるし、作詞もできるそうだ。
キーワードを入れたら、それなりの作詞ができる事例を見て、なるほどと思った。
小説も、この機能を使って書いた文章があるコンテストで優秀賞を受賞したとも聞き、
確かに・・とも思った。
で、それでいいのか?という疑問。遊んでいる程度なら問題ない。また、
アイデアの参考にする程度の使い方は良いと思う。企画のヒントになることもあるかも。
また。誰でもできそうな文章作成を依頼することで、人が行う「作業」が軽減され、
もっと考えたり、独創的なことをする時間を得られるならば、それは良いと思う。
でも、そのまま使うことに慣れるのは絶対に避けたい。

この優秀なツールの文章は、いろんな事例を拝見する限り、よどみなく、語彙も
豊富で、一見素晴らしい。
自分が知らない言葉も多く使われていたり、理論的にも問題ないだろう。
何といってもビッグデータから選ばれた言葉であるため、客観的には的を得て
いる。
でも、そこにないものは、「思い」や動機、「主体的な意思」だ。
なぜ、それを書いているのか。なぜそれがいいと思うのか。
顔が見えないということだ。これを伝えたいという思いはない。
人工知能には顔がない。
「こんなん、出ましたけど?」
なぜか、と昔の占い師の言葉がなぜか浮かぶ。(ちょっと違うが)

こうだから、こう書いたんです。書きたいと思ったのです。ではなく、
過去の情報がこうだから、こう出てきたんです。
私が書きました。誰?この責任はだれがとるのか?
もちろん使う人ということになってくるのだろう。

人が書くものには、個々の思いや動機がある。
だから作品は生まれるのだ。

最近、知人が書き上げ、出版された小説を読んで、やっぱり人が書いたものだと
感動した。
これまでの作品はみなそうだった。
思いがあって、意図や意思から言葉が選ばれ、紡がれる。
自分が書く詩(歌詞)や、文章も同じ。思いがある。
そこを感じ取ることが大切だ。

さあ、これからも
流されないように、しっかりツールを選び、使っていこう。
生きるのは、自分なのだから。

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宿命と運命。改めて・・。

命は神様から預かった時間。その時間の長さは未定で、有限。
いつどんな風にその命が絶えるのか、わからないで
明日もきっとくるであろう、生きているだろうとの希望的観測でのみ、
生きている。
そして、今日もまた生きて朝を迎えることができた。
これは、当たり前ではなく、「奇跡」だと思わねば・・・。

最近、ある後輩が、交通事故で亡くなったとの報せがあり、
それ以来、ずっとその人のことを思いながら、人の命について
改めて考える時間が続いている。

事故の当日まで普段どおり元気に仕事をしていたとのこと。
職場の人はもちろん、ご家族のみなさんも、まさか・・・の事態を
考えもしなかったと思う。
とくにご家族のことを思うと、言葉がみつからない。

ふと、10年前にお世話になった新潟の方が雪の日にトンネルで
事故をされて帰らぬ人になったときのことも思い出す。
事故は、事件は予期できぬこと。
突然に、人の命をさらっていく、恐ろしい魔物。

親しくしているマジシャンが、ご自身の人生の数々のご苦労を
ふりかえり、「運命は変えられるけど、宿命は変えられない。」
とよく口にされていたことも、今改めて思い出す。

人の命は自分で決められない。
努力して変えられること、残念ながら自分ではどうしようも
ないこと。
そういった現実があるということを忘れずに、
今自分ができることをがんばってやる!
それに尽きる。

しばらくその後輩が若かったころ、同じ職場で仕事をしていた
頃のことが何度もよみがえり、何気ない場面を懐かしみながら、
とても複雑な気持ちでいる。
これまで思い出したこともなかったような
その当時の日常を思い出し、あれから30年あまりか・・・。
結局、彼が笑って何気ない言葉を交わしている姿しか浮かんでこない。

人生は、本当にわからない。
そのことを忘れずに、という教訓を授けてもらった。

心からご冥福を祈りたい。


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やっぱ、モノクロですね。

先日、1日に2会場でコンサートをする機会をいただいたが、ちょうど、両方の会場に
来られたカメラマンの方が撮影をしてくださっていた。
大きなレンズを付けたカメラを首から下げて会場内を前後左右に。ちょろちょろ動く私の
少しでも良い姿を、とずっと追いかけてくださっていたのだ。

後日、USBに入ったデータを受け取る。
ドキドキしながら画像をチェック。自分の顔を見るのは、緊張する。
とくに、コロナ前とコロナ後では顔が変わったようにも感じるから。
さすがに3年もマスクをしていると、マスクなしの自分の顔に慣れないというか、
3年の老いを認めたくないというか・・・。まあ、複雑な気持ちである。

データを見てみると、カラーの写真よりも、モノクロのものが圧倒的に多い。
「マーサさんは、やっぱりモノクロの方がいいですね。表情が出るというか、
雰囲気がありますね」と言われていたことも思い出し、画像を見ながら納得。
カラーの写真もカラフルで良いけれど、モノクロでは表情豊かに見える。
お客様と話しているところ、演奏しているところ。さまざまな角度から
どうカメラを構えれば自然にいい表情が出せるかを考えていただいている
のがよくわかる。
写真を見て、自分のいくつかの表情も発見する。こんな顔して歌っているのか。
恥ずかしいなあ。でも一生懸命になっているときって、こんな顔か。
笑っている顔、夢中になっている顔。ちょっと考えていているところ。
いずれも真剣な瞬間、本気の一コマ。

自分の顔。自分の表情。モノクロで見える世界は、七難隠して、いいところだけ
見せてもらえるようで、ありがたい。
ここではほんの一部をご紹介。

コミュニケーションは表情の豊かさで決まる。
これらの写真を見ながら、自分の日々をふりかえる。
思いが伝わっているかな。だといいな。

すっかり岐阜のカメラマンとしてお世話になりっぱなしのR.Tさんには
改めて感謝。
今日、いい表情で、ハッピーコミュニケーションを!

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花を持たせる仕事。

これまで、自分でいろんなことを思いついたり、新しいアイデアが
浮かんでくると、自分でやらなくちゃ!と思ってきた。
そして、企画からプロデュースまで、いくつものテーマについて
取り組んできた。
一方、現実では黒子であったり、アドバイスや支援をする立場の仕事も
多く、そこでは一歩踏みとどまったり、引っ込んだりすることも
大切だ。

そう、自分が主役ではなく、主役を育てる仕事。
その主役になった方たちが、自分の仕事を全うされ、成功という花束を
受け取れるようにするのが、わが仕事。
そう、花を持たせる仕事である。

やりたい仕事があっても、自分がやるのではなく、やる人を応援する。
それが人づくりにつながる。
ときに我慢や辛抱も必要であるが、それも仕事。
そして、主役を育てる仕事の方が、実はやりがいがあるのかもしれない。
少し時間はかかるけれど、それがこれからの使命のひとつ。
人づくりのためのタネをまいたり、育てたり・・・・。

人に花を持たせる仕事。
いい仕事だと思う。

もちろん仕事による。自分にしかできない仕事は、生涯自分がやればいい。

目の前の仕事、未来の仕事。これらを同時を見据えながら、自分が
求められることに応えていきたい。

さあ、今日は誰にどんな花を?

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恥ずかしくない生き方をするために。

学生時代は勉強することが仕事であった。というわりには
そんなに熱心に勉強していなかった。もともと、努力家ではなかった。
でも、受験勉強よりも知的好奇心をそそられる学術的テーマには
関心をもてたため、大学時代の勉強はそれなりに面白かった。

でも、社会人になるとしばらく学生時代の学びの時間は
過去の思い出となり、仕事をする上で必要なことを勉強した。
それはそれで役立ったし、今も学びながら歩んでいる。
そう、どのジャンルにせよ、勉強は生きていく上で必須である。

そして、仕事も落ち着いてきて、ある程度長年生きてくると、
生きることについて、世界について改めて問題意識も生まれ、
改めて人として学ぶべきことについて、もっと知りたい、考えたい
という意欲もわいてくる。

高齢化社会も一因かもしれないが、
近年、社会人向け講座を有する大学も増えてきている。
自分で学びたいプログラムを選び、楽しく学ぶ大人が増えている。

私の興味関心はいろいろあるが、
そのひとつはジャーナリズムと報道について。
世界を歩いて、日本で見ている世界と外から見る世界が違うという
ことを感じたり、世の中を正しく、自分なりに確かにみつめるために
正しい見方を身に付けることは大切と思い、このことに少しでも
触れたいと思うようになった。
広報の仕事をするなかで、メディアについて思うところが出てきた
という点も関係があるのだと思うが。

またジャーナリストという仕事、生き方に関心をもっているため、
あるべき報道人についても考えたいという動機もあっての今回の
学びである。

昨日、春の講座が終わった。ウクライナの今後、広島ビジョンのこと、
・・・自分だけでは知ることができなかった貴重な知識を得たり、
物事の見方を教えていただき、また少し世界観が広がったことをうれしく
思う反面、知ることで世界への危機意識も高まり、緊張を覚えている。

改めて世の中はしっかりみつめなくちゃいけない。と・・。
学ぶことで、早く気づいたり、身を守ったりすることもできるかも
しれない。
心豊かに生きるために学びたいが、それだけでなく、間違った方向に
いかないために学ぶことが求められる時代。


今回の講座で一番心に残った言葉は、恥ずかしくない生き方をしたい。
という講師の言葉。
一人の人として、こうありたい、こう世の中に関わりたいという自分が
ある以上、それに背く選択や行動をしないためにも、
恥ずかしい生き方をしないためにも、学びはやはり大切なのだ。

今回も深い洞察力をもち、揺れ動く世界の読み解き方を教えてくださり、
そして、恥ずかしい生き方をしないためのヒントを多くくださった
ブレないジャーナリスト、横村出さんの講義に、心から感謝したい。
いつも、こういう仕事をしなければと思わせていただいている。
講義の内容もであるが、その発信の姿勢こそが、ジャーリストであると
心から敬意を表している。
戦争の現場に出向き、命の危険を冒してまで、仕事をされてきた故の
強さを感じる。

自分にとって、恥ずかしくない生き方とは。

今日はそのことを改めて考えてみたい。

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ぐるり回って京で再会。

15年ほど前、初めて京都で出会ったその女性。
当時、彼女は20代前半だったのでは。
まさか、その後、こんなにも長い間、そしていろんなところで
会える関係になるとは思いもよらなかった。
京都、ニセコ、東京、京都、山口、オンライン、京都・・・。
彼女と会った町を思い浮かべる。
オンラインはコロナ禍での再会のこと。

彼女が転勤したり、転職すればその先に足を運び。
また私が動けば彼女もはるばる足を運んでくれたり・・・と
何も縛りもないのに、こんなに長く続いてきた関係。
ザビエルの歌を歌うからといえば、地元の岡山から、
はるばる山口のザビエル教会まで来てくれたことは、今も忘れない
感動物語。
突然現れることもあり、なんだかいつもドラマみたいだ。

エステの仕事を長くがんばってきた彼女は、いつしか介護福祉士になった。
全国各地にとどまらず、世界にも冒険に出ていた自由奔放な彼女が
故郷に戻り、お母さまの最期をしっかり自分で看取ったとのこと。
今もふるさとに住み、地元のお年寄りのお世話をしている。

コロナも落ち着き、久しぶりに京都で再会。
彼女と知り合った京都で、また会えるとは感慨深い。

お互い、両親を送った経験を経て、少し大人になったというか、
感謝の気持ちを抱きながら、心のなかに棲む親とともに過ごす
感じも少し似ている。

年はかなり離れているけれども、大切な心の妹のひとり。
「安楽死できたらいいね。」
と、こんな話題も、自然にできるのが、とてもいい。

「京都ってこんなんでしたっけ?」
「今度、またどこかで会いましょう」
別れるときは、どこで別れても出口までついてきてくれる。
送ってくれるのだ。

京都で出会った妹と、ぐるり回って京都で三たび。
次は、岐阜で?津山で?
会えない時間が長くても、一生かけてのつきあいだから、
と気長に再会を待てる。

変わらない関係。京都は私にこんな素敵な出会いも
授けてくれている。


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95歳からの年金

超高齢化社会を自分事として実感する一コマに遭遇した。

各金融機関では、さまざまな年金商品を取り扱って
いる。年金なんて・・・と思っていたのに、気が付けば
受給年齢まで、そんなに遠くないところに来てしまっている。


先輩たちが、「もう年金もらってもらう年になった」
と言われても、まったく他人事、遠い未来の話と思って
いたのに、最近では少し身近な話題と感じられるように
なってきた。
もちろん、年金暮らしをしたいと思っているわけでもないし、
生涯現役で生きたいという気持ちは変わらず。

そんななか、ある商品を紹介された。
なんと95歳から受給できる年金。というもの。
これからはじめて・・・の話であるから、35年余り
先の話。
そのためにこれから・・・という話である。

驚いた。
この業界では、常に安心な未来を提供するための
商品として、10年、20年後の話は常識の範囲であるが
95歳とは驚いた。

こういった商品に興味をもって、運用される方もいるのだ。
もちろんお金は寝かせておくよりは、うまく運用した方が
良いのは理解しているが、自分が95歳の時のことは、
正直、想像したくないとも思った。

老いていく自分を見据え、その日に備えるというのも
少し勇気がいることでもある。
いつまでも、この延長でいたいと思っているが、さすがに
35年後の自分がこのままでいられるとは・・・。

人生備えあれば憂いなしであるが、
備えることは、老いを認めることでもあると実感。

保険、年金・・・。もちろん備えは必要。

95歳の自分。
地球はこのままだろうか。

と思うと・・・。そっちへの備えが優先なような気もしている。
地球があってこその、わが身。
未来は明るくありたいものであることに、変わりない。

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季節感をもった生き方。

20年ほど前、まだ自分が「若い人」と仕事の諸先輩からそういわれて
いた頃。ある企業の幹部の方(当時50代)が、言われたことを思い出す。
「もう、おれたちはそろそろ人生の秋を迎えるわけ。だから、その季節を
どう生きて、冬に向かうかを考えなくちゃいけないんだ」

その方は仕事だけでなく、趣味や地域活動も大変活発で、特にダンスが
得意な方だったと、今改めて思い出す。人脈も広かった。

人生を四季になぞらえ、当時の50代は秋と・・。
気候の温暖化により、自然の四季のスピードは年々早まっているが、
人生の四季は高齢化で遅くなっているのかもしれない。

今の自分は季節でいえば、確かに真っ赤な太陽の夏まっさかり。ではないが、
どっぷり秋ではない。
また、秋というと、紅葉、落葉のイメージでなんとも寂しい感じがするが
豊潤な実り、収穫の季節と思うと気分も高揚する。

上に書いた先輩は今、どんな季節をお過ごしなのかと急に懐かしくなり
つつ、今もずっと秋のままお元気ならばよいなと思う。

そう、自分もそろそろ実りの秋にふさわしい生き方をしなければならない。
何を伝え、残すか。
このことについて、しっかり自分と向き合うこと。

改めて諸先輩に教えてもらったこと、いただいた言葉を時に思い出し、
感謝しながら、秋を深めたいところ。

良く思い出すのに、会いたい先輩たちに、
だんだん会えなくなることは、大変寂しい。
人間にも、冬の次にまた春が巡ってきたらいいのだけれど・・・。

一巡しかない、人生という四季を大切に、心豊かに生きたい。

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質問がとびかう。

今年も、株主総会が行われる季節となった。
ある上場企業の総会に参加をしてみた。
その企業はV字回復をされ業績も好調であるため、スムーズに決議が進み、
短時間で終わると思っていたが、企業側の報告を受けた後の質問時間
が意外にも長かった。手を挙げる人が途切れなかったのだ。

同じ企業の総会へは、コロナ禍にも出向いたことがあったが、
そのときは、人数制限もあり、会場も自社内。
今回は登壇者はマスクなしのコロナ前と同じ状態。
会場も大勢が参加できるようにとコロナ前と同じく、ホテルでの
開催となったため、何百人もの株主が駆けつけた。

業績が良くても質問がたくさん出るのだ。
むしろ、新しいことを手掛けると、そのことへの質問も出る。
この企業のことをもっと知りたいという気持ちになるのだろう。
さらにもっと業績をあげてほしい、株価をあげてほしいと
株主の期待も高まり、挙手される方が続く。
気が付けば総会開始から1時間半以上経過しても、質問は
続く。

遠方から来られた方、あらかじめホームページで最新の企業情報を
勉強してこられた方、日頃からその企業の店舗を利用していての
感想意見をどうしても言いたい!と思いを持ってこられている方。
一人の顧客としてのご意見・質問をされる方から、いかにも投資家らしい
専門的な質問をされる方まで、幅広い。
質問を聞いていると、株主の属性も見えてくる。
他の株主も、長時間にわたる質疑をしっかり聞かれたり、メモを
とられている方もおられ、熱心な株主が多い企業だと感心もする。

質問はあらかじめ考えてこられた方から、その場で浮かんだことを
お話しになる方までいろいろ。
話し慣れているビジネス経験がおありの方から、こういう場に慣れて
いない方まで・・・。初参加の方が多かったのは、コロナも落ち着いて
きたからか、業績も良くさらに次の話を聞きたいと思われたからか・・。

何百人もの前で、手を挙げて質問をするということは大変勇気がいる。
質問力も必要だ。簡潔にわかりやすく話せねばいけない。緊張する瞬間だ。
原稿を書いて臨めば良いが、そういう方は少ないと思う。
ある株主さんは声を震わせ、大変緊張されながらも、聞きたいことを
一生懸命に尋ねられ、議長や担当役員さんもそれにしっかり答えた。
その答えにうなづき、納得された様子。
自分で直接聞いてきた。という体験こそが、その株主さんにとって
重要であると改めて感じた。
さらに、この企業を応援しようと思うきっかけになる。
熱心な株主さんの質問を聞きながら、じゃ、自分も聞いてみようかと
思った方も多かったのではないか。
2時間弱の総会時間。
一緒にこの企業を応援しようという機運が静かに高まっていったのを
感じた。

質が高い株主が応援する企業。責任と期待が高まるなかの経営は
本当に大変であると思うが、応援されてこそ存在意義がある。

この季節。まだまだ総会が続く。
どちらの企業でも、自社を支える株主との充実したやりとりが
なされ、さらに信頼と期待を寄せられる関係づくりが育まれることを
期待する。

質問には勉強が必要。そして、答えには誠意とわかりやすさが必要。
今回の総会、なかなか聴きごたえがあり、学びも多かった。

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