恩返し復活!

久しぶりに父が最期までお世話になっていた施設を訪問する。
この1年半、コロナが落ち着いたらぜひ!と思っていたその施設での
感謝のコンサートをそろそろ・・・。
今は、もう父はそこにはいない。ではあるが、人生の最期のときまで過ごして
いた場所である。父との最期の思い出の場所、家族全員がそろって再会できた
最後の場所・・・。などなどあまりに特別であり、永遠の空間なのである。
そして最後までお世話になり、看取っていただいた場所・・・。
だからこの場所との縁は、切れない。
だから、父が座っていたそこで、一度は演奏会をしたいと思っていた。

どうやら、7月には実現しそうだ。
観客のみなさんは、今そこで生活されている方やデイサービスの利用者さん。
父母と同世代の人たちである。なじみの顔もあるかもしれない。認知症の方もいらっしゃるかもしれない。スタッフの方も一緒に参加され、盛り上げてくれることだろう。

父が生きていたとき、コロナ禍の合間をぬって、この施設で一度だけ演奏をした。
父はこの日を、それはそれは大変楽しみにしており、そして会場で演奏が始まったら、大声で泣いていた。感極まりとは、まさにこういうことだったのか。それとも、自由がきかなくなった我が身への悲しみの叫びだったのかもしれない。
わたしの音楽=父はアッシー。そう、自由で元気な時代の象徴だったから・・・。
と、父の元気だったころ、施設でお世話になった日々のこと両方を思い出す。

さあ、今回は目の前の客席にこそ、父の姿は見えないけれど、がんばって演奏する。
きっと父も母も大喜びで見守ってくれるに違いないから。

コロナが終わって、新しい日常がはじまり、やろうと思っていたことにとりかかる。
やれるときに、やろうと思っていたことを悔いなくやる。
またやれなくなる時が来るかもしれないから。

出会った人に、お世話になってきた人に感謝を込めて。今できることを。
これもそのひとつ。

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歴史をロマンにする力。

昨年秋から今年にかけて、岐阜市を大いに盛り上げたキムタク主演の映画。
信長役を演じたというが、どんな風に?
と気になりながら、なかなか機会がなく、このたびやっと鑑賞することができた。
久しぶりに映画らしい長編(といっても3時間ほど)を観た。
日本の歴史は苦手であるがふるさとも関係している作品となれば、
そして、わがふるさとのヒーロー信長の物語とあれば、それは別。
最初から最後まで飽きることなく、出てくる地名、ロケ地から登場人物、
セリフ(方言)まですみずみと楽しませていただいた。
そして、数年前に、信長をテーマに毎朝曲を書き、100曲まで続けた
という、今となれば不思議な経験も懐かしく思い出し、映画を観る
ことでさらに新たな発想が浮かんできた。

名古屋、岐阜、安土、比叡山、そして京都・・。信長の人生を変えた各拠点での展開を見守りながら、描かれた信長の半生に改めて感動を覚え、そして今回は濃姫にも新たな
興味を抱いた。

映画やドラマは必ず賛否両論がつきものであるが、わたしは日本の映画文化を育ててきた
企業の70周年の作品にふさわしい出来栄えであると素直に思った。
毎週連続していく大河ドラマの楽しみ方もあるだろうが、一気に集中してその世界に入り込む映画とは、本当に素晴らしい芸術であると、今回改めて思った次第。

歴史は単なる過去の出来事、過去に生きた人々の事実の記録。ではない、そこから時間を経て後世の人々の想像力と創造力により、美化されるところもあるかもしれないが、後世に伝えたい力強いメッセージになる。
歴史がロマンになる、憧れになるのは、二度と戻らない過去である点と、当時の限られた情報、記録からいいところだけが伝番され、ドラマができあがる点にあると思う。
そして、そのロマンに触れ、たとえば(今回の映画であれば)、ああ信長が名付けた岐阜に生まれて良かった・・・とふるさと愛が育まれることもあるだろう。

今回、キムタクの演技力と存在感は、想像以上であり、この配役に納得。この映画で信長を演じるのは彼しかいなかったのだろうと合点もゆく。

歴史はロマンになる。
そこにはその時代を真剣に生きたヒーローやヒロインの存在が不可欠だ。
そして、それを映画にする場合は、それにふさわしい配役が必須。そういう点でも
よくできた作品であると思う。

自分の人生と重ね合わせ、改めて信長と、濃姫には改めて興味を抱いた。
岐阜から滋賀を経て京都へ、サビエル、南蛮文化へのあこがれ・・・。勝手にではあるが、
共通点がある。
そんな二人のことを、自分なりにロマンチックに表現してみたいと思うきっかけを
改めて得た。

一方、映画を観て考えさせられたことはもう1点。
戦争についてだ。過去において、日本でも信じられない殺戮があった。
今回の映画を観ても、何度も目を背けた、そして今の世界で起きていることが
頭に浮かび、悲しく、情けなくなった・・・。
武器こそ違えど、命を奪い合う戦いの様子は目をそむけたくなる。
信長が「われ、人にあらず」といって、比叡山に火をつけ、僧侶も女子どもも
焼き殺した・・・なんていう事実はロマンではないし、決して、見習ってはいけない。
その場面は、信長にプーチンを重ね合わせ、ぶるぶると震えた。

と、1本の映画から、少し話がそれたが・・・。
映画という芸術は、お金も人手もかかる贅沢な芸術であるが
時空を超えてもうひとつの世界を見せてくれる永久保存の作品である。
そして、生きる私たちに示唆や学びもくれる教材でもある。

後世に伝えるべき作品をこれからも、丁寧に作り育んでいただきたい。

歴史はロマン。
悲しきは繰り返される戦争。これは絶対ロマンであってはならない。

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山と田と、みんなで創るハーモニー。

わがふるさと岐阜市は、濃尾平野が広がる、人口40万人ほどの中堅地方都市。長良川の豊かな清流に育まれ、農業もさかんな町でもある。
市内の北部に進むと、名前も知らない山々、そして田んぼが広がり、駅前の風景とは別世界
を楽しむことができる。
このエリアに住む元気なマダム!たちとお会いし、歌の練習をする機会をいただいた。
今月後半に、この地に新たに誕生できるコミュニケーションプラザのオープニングにと依頼されたコンサート。その時、自作の地元への賛歌「みのり愛」を、このご婦人たちと一緒に演奏するとのこと。昨日はその顔合わせ、一度だけの練習日。
♪心に花を咲かす わたしのふるさと♪ではじまるこの曲は、つくってから10年。その間、地元の農協の婦人部の活動で歌ったり、大正琴で弾いたりと親しんでくださった。が、コロナで演奏する機会もなくなり、久しぶりの合唱の機会だそう。
マスクを外して、思いっきり歌うことができるようになった。合唱ができる。なんと気持ちいいことか。

歌のレッスンなんて、あまりやらないが、今回は特別に。
発生をやったり、輪唱の練習をしたり、小一時間の練習であったが、みなさまとても
楽しんで、喜んで参加していただいた。
本番に向かっての練習というのは、目的があってほどよい緊張感があってとても良い。
「じゃあ、本番宜しくお願いいたします!」
皆さんと笑顔でお別れ。
また会えるのがうれしい。

この曲は、母の強い思いがあって生まれた背景もあり、歌っていると、母の笑顔が浮かんで
くる。だから、演奏の機会は多ければ多いほど、親孝行になるかな?と。

♪いのち みんな ともに みのり愛♪
本番まで、みなさん、運転しながら、散歩しながら、お風呂でも?練習してくださること
だろう。

田にも、山にも皆さんの元気な歌が、響き、こだまするように。
当日は、地元の小学生と校歌も合唱する予定とのこと。

みんなでつくるハーモニー。楽しみだ。

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頭をかすめたら、即!

日頃、物事を進めていくにあたり、途中でちょっと気になるけど、大丈夫だろう。
と進めていて、あとで、その気になっていたことが原因で、やり直しになったり、
再検討になってしまう・・ということはないだろうか?

そこまで気にしなくても大丈夫だろう。いや、大丈夫。
と少し気になりながらも、前向きに解釈して前に進める。
と、そのときはそれでいいけれど、実は確認漏れがあったり、意図が伝わっていなかったり・・・ということに気づく。
そこからが大変である。やっぱり、あのとき確認しておくべきであった・・・と。

自分ではよかれと思っていても、世の中は、そんなことばかりではない。
だから、少しでも、頭をかすめることがあったら、前に進めるためにちょっと立ち止まって、再点検、再確認を。
小さなことではあるが、とても大切なこと。

頭をかすめる・・・これは直感であり、本能であり、無意識であるけれど・・・
自分へのサインだ。大丈夫か?ともう一人の自分が教えてくれている自分の背後に
吹く風のような存在。

もっと注意深く、思慮深く・・・。
前を見る自分だけでなく、頭の後ろから吹く風を大切に。
頭をかすめることがあったら、即!

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心からのお見舞いと祈り。

ウクライナにまた新たな衝撃・・・。
ダムの崩壊により、ヘルソンというあの映画「ひまわり」の舞台にもなった
いつかは訪ねたいと思っていた町が浸水・・・。
まだ被害、影響が見えない状況であるとのこと。
自宅が浸水して、不安におびえながら、救助を、飲料水と求めている住民の
方の叫びを報道で知り、心が痛む。
どこまでひどいことをしたら、そしてどこまで相手のせいにし続けたら
気が済むのだろうか?
戦争は人の命も、自然も崩壊させる狂気の行為。常軌を逸している。
と、そんな言葉では言い尽くせないほどに残酷すぎる。
早く終わってくれ。終わらせてくれ。
ずっと思っているが、この衝撃により、何もできない外野の無力さを思う。
トルコの大統領でも誰もいいから、早く終わらせてほしい。
この浸水は人災。天災も恐ろしいが、人災は意図が加わっているだけ
残酷だ。
被害が早く食い止められるように、心から祈る。
自分ができることは祈ることと、ささやかな寄付・・これっぽっちの
ことしかできなくて、申し訳ない気持ち。

とにかく水が早く引いてくれるように・・・。
人々の影響が少しでも少なくなるように。

神さまがいるならば、残酷だと思うが、
神さまがいるならば、罪のない人を救ってほしい。

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あの日常は戻らず。

大阪の町。久しぶりに心斎橋界隈を通る。
2年前だったか、コロナ禍に、このあたりを歩きながら
立ち並ぶお店のシャッターが下り、なんともいえない
気持ちになったあの頃を忘れることができないが、
その様子が嘘のように、平日というのに大勢の人でにぎわって
いる。インバウンドの買い物客もたくさんの紙袋を持ち歩き
自撮りをして・・・。
一見、コロナ前の日常が戻ったようだ。
賑わい。ちょっと怪しいバブルな感じ・・・。
マスクをしている人も減ってきて、あの苦しかった時間が
遠い昔のように。

「人がいっぱい。もうコロナ終わったみたいや。」
と独り言を言う。
コロナが終わったから、帰ってきてもいいのに。
と、そんな気持ちになっている自分に気づく。

そう、コロナ前の日常が戻ってきたなら、
親も元気に戻ってきたら・・とつい、思ってしまい、
うっとなった。
何を考えているんだろう。戻るはずがないのに。

でも、コロナ禍に大切な人を失くした人は
そんな幻想を抱くこともあるかもしれない。
元気なあの頃。という日常には、その大切な人は
元気にそこにいたのだから。

でも、日常は戻ることはない。
以前のような、それに似た、似て非なる日常が
やってきただけだ。

だから、そんなにはしゃぎたくもないし、
手放しにうれしくもないし、
改めて、
バブルな時間を過ごしたいわけでもない。

むしろ、静かにいたい。
と、にぎわう街を背に、あの日常は戻ってこないことを
思いながら、歩き続けた・・。

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掲げる数字と現実。

たとえば国という大きな括りをまとめていくときは、まずは数字を掲げるのが
手っ取り早いのだろうか?と、思うことが相変わらず多い。

子育て支援、軍事費は◌兆円。とか、女性の役員は◌年までに◌%を目指す。
とか、こういう見出しを見ると、また出た。と思ってしまい、何か違和感を感じる。
数字を言い切る根拠を、言ってほしいのだ。
また、なぜそれが本当に必要なのか、もちゃんとわかるようにして
ほしいのだ。
と思ってしまう。数字の一人歩き、数字合わせ・・・。
もちろん数字を決めないと、女性が活躍する社会ができないからという
発想もわからなくはないけれども、数字を決めたから、決まったから、
はいあなたも役員ね。役割を与えられても…数合わせのようなことに
ならないかとも思ってしまう。

本当はこんな数字は決めなくても、自然に能力がある、やる気がある女性
も男性も活躍する機会を得られ、いきいきとがんばる人たちが増えて
社会が元気になる!活性化する!というのがいいと思うのだが。
決めないと変わらないこと自体が、そういう体質が、あるべき社会の
姿とは違う気がしてしまう。

ではあるが、何か数字を言わないと、掛け声をかけないと、
変わらないのだろう。
と前向きに理解するように努力するが、
なぜ?どうやって?それで世の中がどう、よくなるのか?
を実感できるように、描けるようにしていかねば。

いずれにしても、頼っていても何もはじまらない。
自分で自分の力を発揮して、男性であろうが女性であろうがなんであろうか
評価されるようにがんばる。
そのことを、まず忘れてはいけない。

まずは、自立だ。

そして、数ではない。中身。


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ニュースな包装紙。

新潟から手作りのお菓子などが届いた。
地元の野菜(越の丸茄子)を使った焼き菓子「マドレーヌ」が絶品。
この商品をPRしたいと出会ってから早、十数年のおつきあいになる。
糸魚川の静かな山村から届くお菓子は、本当にうれしくあたたかい
気持ちになる。賞味期限の短い、手作り、少量のみという貴重品。
今回はそこになぜか赤飯も入っていた。
「25周年のお祝いに・・・」へ?そんな・・。こちらの周年まで
気にかけてもらえているとは感激・・・。
その赤飯を包んである紙は、新聞紙。地元で読まれている新潟日報だ。
まあ、新聞紙に野菜をくるんだり、食品を包むことは慣れているので
違和感がなかったが、さりげなくその新聞紙に何が書いてあるかな?と
紙面を開いたとたん、びっくり!
そこには、私が今まさに読み進めている小説の書評が書かれていたのだ。
しかもその本は、新潟出身の作家(ジャーナリスト)で、大学の講座で
お世話になっている講師の作品。
この本の感想をご本人にメールしたばかりであったところに、
まさか赤飯を包んであった新聞紙で、その方の書評~しかも顔写真付き~
が見られるとは。荷物の送り主は、まさかその作家と私の接点はご存知ない。
いやはや、こんなことがあるのかと本当に目を疑った。
お菓子の送り主に、この驚きの発見を伝えると
「新潟への思いがおありになるので、包装紙につつむよりも、新聞の方が
読めていいかなと思って新聞紙にしました~」
とのこと。
そう、包装紙は見た目きれいでうれしい。でも、ニュースが読める包装紙は
これまたうれしい。思わずその記事をクリッピング。その作家さんに連絡
しなくちゃ!相手の笑顔も浮かんでくる。

それにしても、自分にとって旬の話題で、知っている人が載っている新聞
で包んである赤飯とは、格別すぎる。

包装紙。単に包むだけでなく、さまざまなメッセージを包むこともできるのだ。

子供時代、父が毎日会社へ持っていったアルミの弁当箱は、
新聞紙で包まれていたことを思い出した。
昨日の朝刊を読みながら、ランチしていたのかな・・・。

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楽譜はタイムトラベルの地図。

親が与えてくれた、遺してくれた音楽世界は、このコロナ禍、そして
アフターコロナの今も、とても役に立っている。
concertをするとか、人前で演奏するという活動だけでなく、
自分自身の内面の充足に大変役立っている。

たとえば、今日はショパンでいこう。ブラームスでいこう。
と思えば、その楽譜を開き、目に映る音符たちを初見であっても
昔親しんだ曲であっても、目を凝らし集中して弾き進めていく。
すると、音の連なりから、あるひとつの世界が広がっていく。

今度は、いくつかの名曲がひとつにまとまった「ピアノアルバム」
という、ミュンヘンの出版社のオリジナル編集の1冊をめくりながら、
最初のバッハから、最後のガーシュインまで音符をたどる。
上手く弾けなくてもとりあえず次へ次へと弾き進める、
その作曲家の生まれ故郷、住んでいた町、竟の住処となった
場所・・・曲が変わるごとに、いろんな場所に移動する。
そんな気持ちになってくる。
1冊弾くとドイツからフランスやロシアを経て、最後はアメリカで
終わる。なんと、1時間半で世界をぐるり周遊できる。
なんと、コスパのよい旅だろう。

実際に尋ねたことがある街であれば、具体的に街並みや建物やその日
の空の色までがよみがえり、本当に行った気分になれる。
さらに、メロディを重ねながら、時代を18世紀に、19世紀に、20世紀後半にと
時計を好きにチューニングする。すると、とても当時の町が広がる。
行ったことはないが、本で読んだり、映画で見たその時代の世界が広がる。

楽譜を見ながら、鍵盤に触れることで世界一周も、タイムトラベルも、
自由自在になる。
楽譜は想像の旅の手引書であり、地図である。
楽譜が読める、指が動く。飛行機に乗らなくても、安全な旅ができる。
なんと、幸せな人生か。贅沢なことかと思う。
昔は試験のために弾いていたから、何とも思わなかった音符が今は
私の内面を刺激し、想像力をかきたててくれる。
今だからこそ、音を味わうことができるのだ。

人間の想像力とは、本当にすごい。
当時の楽譜から、現代にいたるまで。丁寧に受け継ぎ、遺されていることに感謝
しながら、そんな小旅行の時間を意識して持つようにしたい。

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ぱっちり・しっかり・まっすぐ。

これからの自分を時々思い描く。
もし、これから10年以上生きてしまうならば・・・どんな自分に?

年を重ねたら、その分努力しないと、いろんな力が
落ちていく一方だと思う。
重力に逆らえないように、年齢にも逆らわないでいると、
みるみる老けていくのだと思う。
そういう点で、若い時は何も考えずいられたから、良かった。
若さとは、放置していても大丈夫な力なのだと、今になって
そう思う。

年を重ねるということは、1日1日、瞬間瞬間を大切にするということ。
そして、意識してありたい自分でいられるよう、維持できるよう
プチ努力をするということ。

そこで、まず、これから改めて心がけたいこと。

目はぱっちり開く、
声はしっかり届かせる、
背筋はまっすぐ伸ばす。

見た目の若さは目元、目力。意識しないと目は小さくなるらしい。
声は高く、のびのび。意識しないと声が低くなり、艶感がなくなる。
姿全体が、見られているを意識する。意識しないと背中が丸くなる、
まずは、ここから。

こうありたい自分をイメージして、キープ!
「年だから・・・」
とは言いたくない。

どうせ生きるなら、明るく美しくしなやかに。
目指すぐらいは、すぐできる。




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