同じ組織のもと、長きにわたりお仕事されるというのは、本当に
大したものだと尊敬する。
企業では毎年、あるいは大きな節目のときに、このような表彰の場を
設けるところが多いが、素晴らしいと思う。
地道にコツコツとお仕事される方が、日頃スポットをあびることは
少ないけれど、そういった仕事の積み重ねがあって、企業は存続する
ことができる。
すぐやめる・・という人も世の中には多いけれど、ずっと続けることは
本当に大変だ。まず健康でなければできないし、仕事への思いも途切れて
はいけないし、仲間ともうまくやらなければならないし・・・。
その仕事が好きでなければ、何十年も続かない。
今回、45年、35年とお勤めされた方の表彰の場に参加させていただいた。
日ごろ接客をされている皆さんであるが、大勢の前で表彰される姿が
ちょっと恥ずかしいような・・・。でもその謙虚な姿がまた素敵だ。
なんだか、その方がおられるお店に、今度出かけていきたいとそんな気持ちに
なった・・。
私は組織へのおつとめは、13年ほどであったので、永年勤続には程遠く
それどころか、途中で脱サラしてしまったため、どこからも表彰されること
はない。こんな自由気ままに生きてきた自分からすれば、同じところで、
コツコツがんばってこられた方のことは、ただ、ただ尊敬なのである。
ふとふりかえれば、父も半世紀、会社つとめをしていたな。偉大である。
働き方が変わってきた今の時代、これからの時代は、
この永年勤続という形がどう変わっていくのだろう・・・と、そんなことも
気になりながら・・・。
永年勤続される方への感動と尊敬
消えない、切れない新潟縁。
新潟で久しぶりの会食を企画する。ぜっかく行くので、コロナも少し落ち着いたので・・・ということで、数年ぶりにコンタクトする。
すぐ行きます!と言って下さる方もおられる一方、会いたいけれど都合がつかないので
次回また声をかけてとの返信、または近況を聞かせてくださる方とか・・。
さまざまな反応に、ありがたいと思う。それぞれとの懐かしい日々がよみがえる。
返信があれば、元気でおられる証拠、覚えてもらえている証し。
まずそのことに安堵する。
ふと、数年前、10年前であったら、このように声をかけたら、すぐ反応があって、
お手伝いしましょうか?などおっしゃってくださる元気な方もいた。
遠方からわざわざ出向いてくださる方もいらっしゃった。
そう、その方たちとは、もうお会いすることはできない。
その当時を懐かしく思い出すのみだ。
時は流れる。年もとる。環境も変わる。
そんななかでも、ともに元気でいられること、そして久しぶりの再会が果たせることは
最高の歓び。
これから、さらに時が流れれば、さらに違う変化を感じ、いろんな思いを抱くことだろう。
わたしの新潟縁。細い糸ではあるが、強い糸だと思っている。
その糸を時間が経っても切れないように、しっかりと心に結んでおきたい。
いろんな企業さんとのこと、どれだけの出会い、学びをいただいたことか。
感謝を忘れず、紡ぎ続けたい。
改めて、生きていたら、また会える。と思う。
そして、残念ながらもう会えない素敵な人たちが、今も応援してくれている。
と、そう信じている。
「新潟をよろしくお願いします!」
そう言ってくれた人は、その後、富士山で一生を終えた・・・。
今日も新幹線でそこを通過するとき、改めてその人のことを思い出すだろう。
生きていればこそ会える。
そして、会えない人のことも思い出せば、心で再会できる。
わたしの新潟縁は、一生つづく。
今日という一日も、大切に生きたい。
信頼と共感とプロ意識の心族。
印刷会社でつとめた時代に学んだことは、ディレクションという仕事。
もっと大きな括りになるとプロデュースという役割。
いろんな形でモノづくりやコトづくりに関わってきたが、とくにデザイナーと
組む仕事は多かった。
自分が考えたアイデアやイメージを具体化していただく。
コンセプトをビジュアルにする。
クライアントの意向を受け、最適な表現を導く。
なんて、若い時はよく偉そうにやっていたなとも思うけれど、
懐かしい限り。
今のようにデジタルが普及していない時代であった20代、30代は手書きの
ラフスケッチ、今も忘れないが、紙のボードに貼ったプレゼンボード・・・。
プレゼンテーションは大げさなイベントであった。
デジタルの普及でプレゼンテーションの手法も様変わりしたけれど、
いつの時代も、プロとしてお客様の要望にあった、そして期待を応える提案をすること。
それは変わらない。
そのためにデザイナーとは昼夜を問わず、打ち合わせをして、一緒にプレゼン準備。
徹夜、日曜の打ち合わせ、早朝のチェック・・・そんなことも日常茶飯事。
とにかくいい仕事をするために、ともに汗をかき、知恵を絞った。
プレゼンに勝った日はともに歓び、とれなかったときもともに悔しがり・・。
そんなクリエイターとしての青春時代のことを改めて思い出した。
そのきっかけとなったのは、二つの出来事。
まず、30年以上おつきあいいただいている東京のデザイナーさんの娘さんとお会いした
こと。その娘さんが生まれる前から、一緒に仕事してきたという歴史を話し、
お母さんとどんな風に仕事をしてきたかを少し伝えたら、娘さんは、お母さまの
知らなかった仕事での一面を知って、大変興味をもってくれた。
お母さまの協力なしでは、グラン・ルーは生まれなかったかもしれないし、
今も自信をもって自分のブランドを維持できているのはデザインのおかげとも
話したら、目を輝かせてきいてくれた。
それから、30年以上おつきあいいただいている京都のデザイナーさんと
久しぶりに乾杯をしたこと。
彼女が起業して30余年、私が脱サラする前からのつきあいであるので、
起業されてまもなくお付き合いが始まり、今にいたっている。
今も京都にちなむ仕事はお声がけをさせていただいている。
あれこれ、昔話もしながら、仕事に対する思いを語り合う。
価値観が同じということで、いつも安心し、勇気もいただく。
どちらのデザイナーさんとも30年以上のおつきあい。長いといえば長い。
人生の約半分、お世話になってきたのだ。
東京、京都。それぞれの時代、拠点で出会ったかけがえのないクリエイティブ
パートナー。
女性同士ということもあり、また世代も同じで、女性が働く環境の厳しさも
ともに経験してきており、なんといってもプロ意識をもって仕事をやりきると
いうところが、これまでご縁が続いた一番の理由かもしれない。
寝る時間を削って一緒に作り上げてきた日々。
あの経験が今に生きているのだと思う。
懐かしく、また誇らしい。
今もこのデザイナーさんとの共働は続いている。
そして、これからもお互いが現役であるうちは、ずっと刺激を与えあい、
一緒に進んでいくつもり。
そのために元気でいなければ。
プロ意識。結局はここだ。
妥協を許さない仕事。そこに共感し、お互いやりきった時代があるから、
絶対の信頼を寄せている。
こんな素敵なパートナーと仕事ができて、そして応援していただけて
うれしい。と改めて感激、感謝。
これからも、きらり光る新鮮な感性を養い、表現、発信していきたい。
そんながんばるお母ちゃんの背中を見て、デザイナーさんたちのお子様たちが
素敵に自立していく姿を見ることが、私もうれしい。
デザイナーさんたちも私の大切な心族であるから・・・。
思いをカタチにする仕事。
とても重要な仕事をする仲間。心から尊敬する。
記憶に強く残ることは?
時々演奏に行く施設で会う、地元のおばあさんのことを思い出す。
その方はどうやら、母と親しかったようで、私が母の娘であるという
認識はおありのようで、会うたびに
「お母さんは本当に偉い人だった。いつもお墓にお参りにみえて、掃除を
されていて・・・。帰りにいつも寄ってくれた・・」という会話をくりかえされる。
お墓の近所に住んでおられるので、母の姿をよく見かけていたようだ。
この会話は、会うたびに初めて話すことのように話されるので、こちらも前聞いた
とは言わず、「そうですか。それはそれは」と答えることにしている。
母はもういない。ということはどうやらお分かりになっている。そして、
その母との思い出の断片をいつも話される。
よっぽど、母といえば、お墓まいり。という場面がその方の脳に焼き付いているの
だろう。
認知が進んでも、他のことを忘れても、同じことの繰り返しであっても、その方の
人生の記憶に母の存在があることは、うれしいと思う。
だから、何度同じ話を聞いても、新しい心でうけとめるようにする。
さて、年を重ねるとこういった現象は日常茶飯事になる。
いつか、自分の記憶も薄らいで、人生の一部、断片しか思い出せなくなるのかも
しれない。
そのときは、どんなことを思い出し、口に出すのだろう。
または、お世話になってきた先輩たちが高齢になられたときに、
わたしの記憶は残されるのだろうか?
そんな印象強い存在だろうか?
そんなことを思うと、覚えているということは 奇跡であるとも思えてくる。
明日は忘れてしまうこともあるかもしれない。あるだろう。
そんなことに一喜一憂せず、今日は今日、かけがえのない1日として、記憶に
残る、感動の1日になるように過ごせばよい。
丁寧に生きる、心を込めて生きる。それしかない。
人生の最後に向かうとき、生きてきたどの場面を切り取っていくのだろう。
終末の自分は、一体、何を覚えているのだろう?
そのときの自分を見ることができないのは、ちょっと残念であるが。
いい思い出であるように。楽しい思い出であるように。
と願いつつ、今日も思い出に残る、残せる1日を目指したい。
急げ50代の総仕上げ?
なんだかあわただしい。
50代のラストスパートに向かって、今すべきことは、今しなくては!と
なんだか意気込んでいる。
先週のふるさと岐阜コンサートも、もちろんそのひとつであるが、
すでに次の準備に向かっている。
それはレコーディングだ。
かなり久しぶりの挑戦となる。
コミュニケーション環境の変化のなか、CDという作品をつくることに
ためらいがあり、しばらく足踏みをしていたが、、カタチにこだわるのではなく、
これまでの経験を活かしながら新たなスタイルに踏み切ることにしよう。
という考えにいたったのは、先日の新聞記者の取材があったから。
「コンサートに行けない人にはどうするんですか?それを担保してもらえるなら
記事にしますよ」
読者からのさまざまな問い合わせを想定されての提案であった。
記者が私の背中を押してくれた。
そう、今回の取材で、お客様に聴いていただける環境を創っていかねばならない。
と、そう思ったのだ。今しかない!今だ!
ということで、北海道が厳しい季節に向かうギリギリ前のところで、
現地に向かうことにする。
すでにレコーディングスタッフからさまざまな情報が流れてくる。
普段と違う業界の言葉も多いが、久しぶりで新鮮でもある。
一人でも多くの方に聴いていただける工夫。
ライブはもちろん大切な機会であるため、継続していくが、
それ以外のカタチもつくる。
コロナや親のことや、さまざまなやらない理由、やれない理由が
なくなり、さらに50代の総仕上げとして、あと2か月ない時間のなかで
自分への挑戦、決断。
やるしかない。
また新しい世界が見えてくる。
草鞋を何足もはきながら、もう1足。
オーバーツーリズムへの辛抱とおもてなし。
京都市内には、外国人があふれている。朝も昼も夜も・・・。
コロナ前に戻った感じだ。もっとも中国系の人は少ないが。
京都はKYOTOなのだ。やはり世界が選ぶ大観光地。
パリに並ぶ存在だ。
でも、もうこれ以上本当に来てほしくないほど町に観光客があふれかえっている。
賑わいというか、雑踏というか、公害というか・・・。
とくに錦市場の混雑ぶりは・・・。歩きたくても歩けない。
急いでいるのに、急げない。普通に過ごしたい人、市民の皆さんにとっては
とても不自由な京都である。
これから紅葉の時期が、怖いね・・と周囲に話す。
とにかくピークを迎える秋。
そんななか、朝8時半前、京都駅にある観光案内所の前。
営業前から、何名かの外国人が入口で待っている。
私も資料を探したく、そこに行くがまだ開いていない。電車の時間まで
どうしようかと思っていたところ、
まだ開かないのか、遅いな~とちょっとイライラしている一人のご婦人が
視界に入る。
どうしたのかな?
ちょっと声をかけてみると、半日コースの京都観光のバスツアーに行きたい
とのこと。
ああ、もうすぐ案内所が空くので、もうしばらく待ってくださいね。
と話すと、その方は大変喜んでくれて、少し会話が続いた。
私もしばらく海外に出ていないため、英語での会話は最近、ご無沙汰であったが
通じたのがうれしく話を続ける。
オーストラリアはメルボルンからおいでになっており、夕方の新幹線で東京に戻り
明日帰国だそう。以前は名古屋にも住んでいたことがある、英語の教師だそう。
日本が京都が好きで、今日は夕方までひとりで電車の時間まで京都観光をひとりで
楽しみたいのだそう・・。
その顔つきからインド系かなと思ってきいたら、スリランカ出身。
スリランカ!懐かしい!ああ、行ったことがありますよ~と話しているうちに、
観光案内所に外国人観光客がどんどん集まってきた。
「じゃ、お気をつけて。良い旅を」
とてもいい会話を楽しみ、別れを告げ、私は次に向かう。メールアドレスも交換した。
その方、日本人は優しいので、日本が大好きだとのこと・・・。いい印象をもって
帰国してもらえたらいい。
グループになって、集団で行動されると、圧を感じるが一人旅なら、自然に歓迎の
気持ちも沸いてくる。
世界中から京都へ人が集まる。もちろんそれ以外の町にも・・・。
オーバーツーリズムとおもてなし。
みんなにとって、気持ちいい、楽しい頃合いがいいけれど・・・。
ふと、コロナ禍に出かけた静寂の清水寺を思い出した。
ああ、あの時が良かった。としみじみ・・・。
アフターコロナのびっくりニュース
なかなか新潟の人たちに会いに行く機会を作れない。
ずっと気になっていた。
そんななか、新潟で開催される展示会に現場応援のため出向く予定が入った。
であれば、地元の懐かしい人たちに久しぶりに声をかけてみよう。
広報の勉強会絡みの人たち、新潟でディナーショーに来られらた人たち、
それ以外のご縁で出会い、今も細い糸でつながっている人たち・・・。
数年以上会っていない人にも、これを機に・・・。
個別に会う時間がとれないので、一緒に会って交流しようという試み。
一斉配信で連絡をすると、返事がくる。
会える人、都合がつかず会えない人・・いろいろであるが、後者の場合は
近況が書かれている。
そんななかで、びっくりニュース。
なんと自分よりかなり年上と思っていた社長さんが、今年再婚されたとの
こと。そしてお子様が誕生。
まじ~!!びっくり。お相手は私のディナーショーに来られていた方だそうだ。
まさかそのショーがキューピットというわけではないだろうが・・・。
お子様が大学生になる頃 自分は90歳になります。100年時代をしっかり
楽しみます。
と綴ってあり、再びびっくり!
70歳にもなると、定年になり・・・。とか、健康が・・・とか、活発な人生の
あゆみを緩め、終活を想起させる、もしくは心配になるようなそんな近況が多い
傾向であるがまさかの再婚とお子様誕生!70歳でパパなんだ!
もう数年以上お会いしていないその人の歓びの顔が、くっきりと浮かんだ。
コロナでいろんなことが変わってしまい、思うように生きられない人も
増えているなか、人生100年をほんとうに全うしようとしている人が
いることに驚き、そして笑いがこみあげた。
やるな~。
きっとこの方は、これまで以上に健康に気遣って、家族を大切に
第二の人生を生き続けていかれるだろう。
きっと、周囲からはうらやむ声もあることだろう。
いやはや、元気な70歳。
人生いろいろ。愛は人生を変えるのかも?
やなブラ懐かし・・で終わらせない。
わがふるさと岐阜市は、岐阜県の県庁所在地であり、人口約40万人の地方都市である。
名古屋のベッドタウンとしてそれなりに開けており、郊外の一部には若い世帯が移り住み、
人口が増えている地域もあるが、空き家も増えている。
郊外には、他の地域と同様、大型SCができており、車社会のこの町での買い物や食事は
この郊外で事足りる。駐車場も大きいため、便利であり、家族層にも使いやすい。
一方、私が子供の頃、昭和40年代、街なかが繁栄していた。
「柳ケ瀬」といわれる商店街は大変にぎわっていた。多くの商店が軒を連ね、飲み屋街もあり、「柳ケ瀬ブルース」という演歌が大ヒット。その名は全国に知られるきっかけになった。
私が小学生の頃は、近鉄百貨店の前身である丸物百貨店があり、そして高島屋ができた。
今でも、父と出かけた近鉄百貨店。山下清の作品展を見たこと、楽譜売り場でベートーベン
ソナタを無理やり買ってもらったことは懐かしい思い出のひとつ。
当時、駅前にはパルコもあり、岐阜はそれなりの先進的でおしゃれな地方都市なのだとちょっと自慢していた・・・。
その後、近鉄百貨店もパルコも閉店・・・。
岐阜を離れてから、岐阜の街中の活気は郊外にもっていかれた・・・。
当時、柳ケ瀬をぶらつくことを「やなブラ」と言っていたが、ぶらつく人は減少の一途・・。
商業店舗の郊外出店により、柳ケ瀬は衰退に向かった。
それでも、なんとか街なかを活性化しようと、行政や市民のみなさんの努力は続き、最近では高島屋に隣接したタワーマンションが建築されたりして、人の流れも変わるかも?と少し期待していたが・・・・。
このたびの、高島屋の来夏閉店のニュースは衝撃的であった。
今や、岐阜市民の話題はまずそれ・・。とくに高島屋をよく利用した高齢者には
懐かしみと寂しさと・・・。また私たちの年齢でも、岐阜といえば、高島屋がある。ということでのたのしみがあっただけに、これは大きなショック・・・。
高島屋があるからマンションを購入したという人も多いと思われるが、一体どうなることか。
百貨店の存続は、地方では難しくなっているのは今に始まったことではなく
今回のことも、想像はしていたけれど・・という現実。
それでも半世紀もよく持ちこたえた。
行政支援があっての維持であった。
街中に、商店街のシンボルとして百貨店は不可欠であったが、無い袖はふれない・・。
厳しい選択となった。
この柳ケ瀬はどうなるのか?
街は変わりゆくことを、今回改めて衝撃をもって受けとめている。
ふるさとが変わっていく。
それは、自分をはじめ出ていく人間がいるから・・ということも無関係ではなく
責任も感じる。
ふと、この高島屋の周囲にあるなじみのお店たちの今後を思うと、
何かできないかと思う今日この頃。
都会中心の経済。
百貨店という業態の変化。
百貨店が好きな世代であるゆえ、寂しさとなつかしさと・・・一つの時代の
終焉を感じている。
半世紀。これは街が変わるひとつの区切りなのかもしれない。
終わってはいけない。愛すべき柳ケ瀬。
やなブラ。両親の元気だった時代がよみがえる。
ああ、自分が育った昭和は、自分にも町にもいい時代だったなあ。
懐かしいだけで終わりたくない・・・。
記憶喪失の時代。
いやはや、人間には記憶がまったく途切れてしまう時期があるのだ。と
我ながら驚くことがあった。
先日のコンサート。あるお客様がお客様を紹介してくださった。
名前を聞いて、なんだか聞いたことがある名前・・・とは思った。
高校の先輩だそう。そういえば、確かに・・・。でも、なぜ名前を知って
いるのか、とかどういう場面で関わりがあったのか・・・はわからない。
コンサートの当日、40年ぶりにお会いするその名前の方の顔を拝見し、
確かにこの方お会いしているし、知っている・・と懐かしい感じはしたが。
そのお客様は、とても再会を喜んでくださって、コンサートの時間、
ずーっと私をみつめておられた。その目線を感じながら、演奏を続けた。
そして、コンサートの翌日、連絡をいただき、お会いすることになった。
まだ、どこでどうお世話になったのか、思い出せないまま、でも、確かに
知っている・・・。
お会いしたとき、その方は私の40年前のことを詳しく話してくださった。
どうやら、大変お世話になったらしい。そして大変印象に残って、その後
どうしているのか、思い出し、周囲の人に尋ねたりしてくださっていたらしい。
そう、岐阜を離れ、どこへ行き、何をしていたか‥不明のまま、今回の再会と
なった。
そう、私は高校を出て、ふるさとの音楽仲間の間で、行方不明になっていたのだ。
(自分でそうしていたのだ。)
先輩は私の高校生時代のことを、いろいろ話された、エピソードがいろいろあって
驚いた。へえ、私、そんなことしてましたか?そんなことがありましたか?
大変、不思議な感覚であった。
思えば、岐阜から京都に移り住んだとき、音楽を捨てた、岐阜を捨てた。
という感覚ではあった。親に反対され、ピアノを捨て京都に飛び出たあのときの
意地・・。
以来、自分のなかでは高校卒業~大学入学前の自分のことを、その後封印して
生きてきたのかもしれない。
京都に移ってからの自分の記憶ははっきりしているが、岐阜を出る前の記憶は
とくに音楽の記憶はぷっつり切れている。
自分で記憶のチェーンを断ち切っていたのかもしれない。
思い出したくない時代、思い出してはいけない時代・・・だったのかもしれない。
と、その先輩の話を聞きながら、記憶喪失時代の自分のことを、だんだん思い出した。
・・・・そんなことがあったんだ。
「それはそれは失礼しました。大変お世話になったんですね。」
いやはや、ずいぶん失礼な私である。
その頃の自分の話を聞きながら、本質的に変わっていないのだということも
改めて知った。自分の考えをもっていて、疑問があればとことんきいてくる。
考えたこともないようなものの見方をして困らせる・・・。
規定概念、こうせねばならぬ・・ということにただ従うことができない性質
だった点・・・。今も根っこは同じだ。変わっていない・・。
自分の人生のなかの記憶喪失の時代。
忘れていた、音楽高校生時代の一コマ。
とにかく40年前の自分を、覚えている方と、今回再会したことは、
何か意味があるのだと思えてならない。
いつも思い出していれば、ずっと記憶は途切れない。
故人との関係も同じだ。
でも、忘れようとすれば、記憶は薄れ、切れていくのだ。
人間の記憶は、意思や意識と密接にかかわっていることを、改めて知る。
それにしても、自分のことをまったく覚えていない時代があったとは。
忘れたまま、一生を終えていたかもしれないのだ。
岐阜を出て、一度生まれ変わっていた自分。
記憶喪失の時代。もしかしたら、そういう経験を持つ人は少なくない
のかもしれない。
過去の記憶をそこに置いて、違うステージで新しく生きはじめる。
こんな生き方を、無意識のうちにしていたのだな・・。
ふるさとコンサートをきっかけに、ふるさとに置いてきた
自分を少し思い出せたのは、きっと意味があるのだろう。
ラビアンローズを胸に。
先週12日のコンサートでいただいたお花たちは、いろんな場所で活躍している。
花の命は、短いけれども 本当にすごい生命力だと改めて思っている。
見る人に生きる力を与えてくれるのだ。
この画像は横浜から届いたバラの贈り物。25というキャンドルがかわいらしい。
この送り主は、毎年、創立記念日か、その時期に行うコンサートに合わせて、周年の数だけ
バラを送ってくださる。
今年は25本。25本にもなった。
「もう12~13本ぐらいのときから送らせてもらったかな、100本まではいかないと思うけれど・・」いつもその時期のコンサート会場に赤いバラが届くと、指定席のピアノの上に置く。すると、なんだかエディット・ピアフになったような気がして、歌に心が入る。
ラビアン・ローズとは、la vie en rose。バラの人生。言い換えてバラ色の人生。
人生は見ようによって、いろんな色に見えるけれど、やっぱりバラ色の人生を夢見て、
楽しく笑顔で、そして愛を大切に生きたい。
花は気持ちの現れだ。
ずっと見守ってくださる方たちに心からの感謝をもって、そして、
みんながバラ色の人生になるように、自分ができることをする。