「ちょこ冷えの一粒」で感謝!

この暑さ。歩くサウナのような外出の苦行。そう、夏の屋外移動は苦行である。
何かに意識を集中しないと、暑さに負けそうである。
まだ室内での仕事もあり、本当に助かる。
終日外回りであると、これはなかなか厳しい。

一日外で仕事をされている方には頭が下がる。
現場での作業をされている方、配送業の方・・・・。挙げればきりが
ないほど、この夏を快適に生活するために尽力されている方がおられる。


宅配便の方。暑い中 運転して、車を止めて、荷物をもってお届け先へ・・・。
重いため宅配を選んでしまっているため、申し訳ないと思いながら
利用させていただいている。
夏はとくに申し訳ない。
そんな気持ちもあって、猛暑の日、宅配の方が重い荷物を届けてくださったときには
「はい!よかったら一口ですが」といって、渡すようにしている一口アイス。
すると、暑くて苦しくてどうしようもない状態であった方たちが、
瞬間、ちょっと笑顔になって「いいんですか?」と言い、受け取ってくださる。
たった、一個の一口アイスでも 少しでも暑さ対策になれば・・。
ここんところ、連日お渡ししている。
実はこれは、東京に住んでいた頃からやっていること。
あまりに暑い日には、何か…と思うがあまり大げさなこともかえってと思い、
飴ちゃん感覚で一口アイス。
冷凍庫から玄関まで持って行く間にも溶けそうなそんな暑い日が続く。
宅配の方、本当に本当にお疲れさまです。

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「慣れて」好きになる?

つい最近、新幹線の停車駅が近づく際の車内サウンドが変わった。
その話題は変わった当日にニュースでは見ており、そうなんだ。
と思っていたが、実際に聴いたのは昨日が初めてであった。
なんだか、馴染みのメロディではなく知らない音になって違和感を
感じたのは正直な感想。
おそらく30年以上、新幹線を利用して、あの音を聞いて、
下車する準備をしたり、座席を立ったりしてきた時のあの音が
いつもと違うというのは、何とも不思議な感じ。

正直、前のサウンドの方が落ち着きや安らぎもあり、ああ、
旅の終わりという余韻もあって、今となれば、なかなか
良かったのだ。

その昔、こんなことがあった。
利用していた航空会社のロゴが変わって、昔の方が
良かったのに・・と思ったり、同じくデパートの包装紙のおなじみ
のチェック柄が変わったときにも、前の方が良かったのにと
思った。
当時、どちらのときも、「前のデザインの方が良かったです」と
それぞれ予約係やお店の人に、ぽろり感想を言った。
すると、
「そうですね~。人それぞれ、好き好きもありますし」
「まあ、そのうち慣れてきますから。」
と、そんな返事をもらった。
そのときは、そんな回答か・・・と思ったが、今確かに、
その航空会社のロゴも、デパートのチェック柄もすっかり
その会社のデザインとして受けとめ、引き続き愛用させて
もらっている。前のデザインはもう覚えていない。
確かに慣れれば、どうってことはない。

変える側にはその時期や理由があるから、それはそれで
やむなきこと。それに慣れること。

新しい音は、降りなきゃ!と目が覚めやすいかも?
という点で、乗り過ごしには効果的かもしれない。
そんな意図もあっての選曲?かどうかは未確認である。

慣れて好きになる。何事もそうかもしれない。

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「小道具に使って!」の贈り物

昨日、珍しい贈り物が届いた。
「さっき、郡上へ行ってきてね。これ、良かったら小道具に使って。8月はライブないかもだけど・・・」
とのこと。郡上といえば、全国でも有名な郡上おどりの地。夏の日、夜通し踊り続けられる珍しい夏祭り。ちょっと調べたら、今年は7月15日から9月9日まで踊りが続くそう。
全国からファンが集まる岐阜の夏の風物詩のひとつ。として知られているが、私自身、踊りに出かけたことも夜見物に行ったこともない。一度、昼間に町歩きをしたことはあったが。
確かに素敵なところ。この郡上おどりで、町おこしをしてきた歴史ある城下町だ。
今回、下駄をくださったのは、ライブによくおいでいただくお客様。常連さんである。
その方が郡上に出かけたついでに、もしかしたら郡上踊りの音楽を耳にされたときに、
私を思い出してくださったのかもしれない。
しかも、紫の鼻緒・・・。小道具に使って。と言われるところが心にくい。
酷暑のなか、ちょっとバテそうになっているところに、こんな贈り物はなかなかうれしい。
夏は祭り。おどり。コロナもおさまって、今年は各地で盛り上がることだろう。
「4年ぶりにあそんじゃえ!」というポスターを最近町で見かけたが、
町のあちらこちらに、そんな雰囲気を感じはじめている。

それにしても、この下駄の贈り物とは・・・。
旅先で思い出していただけることが、幸せだ。
まずは、母に見せてあげよう。
いつか、これが使えるイベントもしなくちゃ・・・。と夏の宿題もいただいた。
ありがとうございます!

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人にはそれぞれ「役割」がある

ある番組で、高知に住むある母娘のことを知った。
生まれながらの難病の子供さんと向き合いながら18年間生きて、そしてそのお子さんとの経験を活かし世の役に立ちたいと、重症児のサポートをする活動を立ち上げ、活躍されている。自らが立ち上げた施設に、娘さんも入所され、元気に暮らしておられる・・・。

手足の長さも違い、指も奇形で脳にも障害があり、視力も・・・。といった本当に大変なハンディを乗り越え、お子さんを養護学校にも通わせ、歩けるようになったり、話せるようになったり…とにかく笑顔の家庭を一緒につくってこられたこの母娘の物語。
最初はもう生きていけない、死にたいとも思ったこともあったが、そのお子さんがそれでも生きている育っていることに勇気をもらい、また周囲のサポートからがんばって生きなければ思い、がむしゃらに生きてこられた・・・。
その姿を見て、いかに自分は、大した苦労なしに生きてきている。
それなのに…と恥ずかしく思った次第。

そのお母さんががんばれたのは、そのお子さんがおられたから。
その子が一生懸命生きている姿から、自分も頑張らねばと思った。
お子さんはお母さんに勇気を与え、生きることを教えてくれた。
お子さんのことを、師匠とも呼ばれていたことが印象的であった。


人にはそれぞれ役割がある。
どんな形、どんな特徴があっても、生きている以上、何かをするため、誰かのために
生きている。それぞれに役割があるのだ。
それを意識しているか、していないかの違いはあっても、間違いなく役割がある。
役割のない人、生物は存在しない・・・。
人間でなく、たとえば炎天下に咲く一輪のひまわりも、私たちに元気と癒しを
与えてくれる、そんな役割をもっている。

改めてじーんと心に響くメッセージだ。

ふと自分の幼いころの家族のことを思い出す。
どんな人にも役割がある。何かを教えてくれている。
そのことを、私自身も自分の家族から学んで生きてきたことを
久しぶりに思い出した。・

ほんとうにそのとおり。
人生ふりかえれば、あの人のおかげで・・ということばかり。

では自分には何の役割を与えられているのだろう。

周囲の人を元気にする。笑顔にする。
そんな役割があるのだと、きっとそういうことを与えられているのだ
思って、精一杯すべきことをする。

なんだかあの母娘の姿を見ていたら、少々のハンディやいろんなことは
大した苦労じゃないと思えてきた。
小さなことにも幸せはみつけられるし、小さなことは乗り越えられる。

大切なことは、相手を思う心。愛。

さあ、自分の役割を果たせるように、前に進むとしよう。

それと、お役に立とうとあまり意気込む必要もない。
自然に生きていれば、結果、そうなることもあるし、相手にそれが
伝わる。自然体で一生懸命生きればいい。

高知でがんばっておられるその母娘のお幸せを、心から応援し続けたいと
思う。

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暑さと涼感?まさに夏らしいイベントに挑戦!

いやはや、いろんなお声をいただいて、ありがたい限りだ。
これ以上、夏にふさわしいイベントはないと思われる企画に出会った。

岐阜での話。地域の人がつくった数千個のひまわりの種を空き地にまいた。
そこはたちまち、「ひまわり畑」となって、昨年から花を咲かせた。
記念に、地元の人が元気になるイベントをしたいと、昨年「ひまわりフェスタ」
を開催。真夏の炎天下の開催で、大変だったとのこと・・。
実際、6月に開催した屋外コンサートでも救急車出動となったくらいであるから、
真夏の屋外イベントは避けたいところ。でも、せっかくのひまわり・・・。
ということで、今年は、その畑に隣接する、葬祭会場を使ってのイベント開催
ということになった。
真夏に咲く花を愛でるイベントであるため、もちろん主役はひまわりであるが、
イベント自体を屋外で涼しく・・。そのなかで、ふれあいコンサートをやって
盛り上げてほしいということ。

その主役のひまわり畑の写真を責任者の方から見せていただいた。(下の写真)
「これ、昨日咲いたんですよ。最初のひまわりが!」とてもうれしそうに話して
くださったのが印象的だった。この畑一面がひまわりになる!と思うとわくわく
してくる。
まあ、暑い夏も悪いばかりじゃないとも思えてくる。

ということで、ひまわり畑は楽しみになってきたが、さて、そのイベントを行う会場が斎場?そこでコンサート????

果たして、いったいどんなオファーか?と思ったが、現地を下見。
通常イメージする葬祭場の雰囲気ではなく、音響も素晴らしく、葬祭以外でも
使えそうな空間。教会建築は音響が素晴らしいが、それに共通する天井の作り。
ドーム型になっているため、声がよく通る。
と、音響的には納得。それでも葬祭の会場なのに、ちょっと不謹慎な感じ・・。
と思っていたら、祭壇はちゃんとカーテン(緞帳)で仕切られており、一見
するとそこは普通のイベント会場である。
カーテンを開けると、そこには祭壇・・であるが。

地域に開放し、地元の方に葬祭場のイメージを日常のなかで知っておいて
いただき、いざというときにお役に立てれば・・という意図もあるが
ある場所を有効活用して、地域の交流の場にしたい。という思いに共感、
喜んでお手伝いすることにした。
とはいえ、カーテン越しの祭壇に背を向けて、お客様に向かって演奏することに
なる。

2年前の親の葬儀のことを、久しぶりに思い出し、瞬間、胸がいっぱいに。
それでも、今となれば、もう客観的に見ることができる。
「ついに、ここでもコンサートすることになったよ」とちょっと笑いながら親に報告する。
きっと自分が喪主として、葬祭に関わっていなければ、このオファーもちょっと
厳しかったかもしれないが、今は、以前より葬祭が自分のなかで経験のひとつ
となり、人を送ることの大切さも理解できているため、今回の企画も興味をもって
取り組める。

というわけで、このお盆は葬祭場を使ってのコンサートに挑戦。
リクエストは「ひまわり」に関する歌を歌ってほしい。元気が出る歌をやってほしい。
ということ。

いろんな意味で夏にふさわしいイベント。
変わった工夫をする人には、こちらも興味が湧いてアイデアも膨らむ。
咲き始めたひまわりが、いいタイミングで満開になることを願って・・・。

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持つ道具と続ける仕事。

実家に行く途中、川があってその土手の道沿いに古い家が建っている。
小学生のころからその前をずっと通っていたので、その家の存在はよく知っている。
子どものころは、床屋さんだった。
駅に行く途中の目印のひとつ。昔ながらのくるくるデザインの床屋さん
看板も出ていた。
あれから半世紀以上経つ。店はもう営業していないが、人は住んでいる。
そこの住人が、いつも、川の土手の草刈りをされている。
おばあちゃん。いつ通っても 雨がふっていない限り、ほとんど家の前の
土手にしゃがんで、草刈りをされている。
おかげで、その家の前の土手だけ、きれいーに草が刈られている。

最初は精が出るな。暑い日も寒い日も…と感心していたが、あまりに毎日
しゃばんで刈っておられるので、あるとき、勝手に妄想しはじめた。
もしかしたら、昔、床屋さんをされていたので、そのなごりで、今は草刈りを
ずっとされているのでは・・・。頭用のハサミで草刈りをされているのでは・・。
ハサミをもって、何かを刈り続けることがその人の日課になっているのでは・・。
さあ、今日もやるぞ。と無意識にハサミをもって家の前に出て、仕事をしているのだ。
ハサミをもって何かをしていることが あの方の人生そのものなのかも。
と思うほどに、本当にほんとうにいつもいつも、草刈りをされているのだ。

刃さばきもお見事だ。ただ無心に人の頭ではなく、土手の草を刈り続けて
おられるのだ。

ハサミとともに・・の人生なのだろう。
何かをもって仕事をし続けてきた人。働き者の証拠だ。
いつも無心に草を刈り続けているおばあさんのこと、尊敬しながら
見守っている。
「あ、今日もおられる」
でも、なぜかあまりに一生懸命にされているので、声がかけられない。うっかり
怪我をされてもいけないし、声をかけてはいけない空気を感じるのだ・・・。

生涯持つ道具・・・。人にはそれぞれ何かあるだろう。
筆を持つ人、ナベを持つ人、カメラを持つ人・・・・。
人生の最後まで、使える道具があること、
その道具で毎日何かの仕事をする。それがいきがいになることは
とても素晴らしい。

と、無心に草刈りをするおばあちゃんの存在が、ずっと気になっている・・。
今日もいるだろうか?ひとりしゃがんで、チョキチョキ・・・。
炎天下で帽子もかぶらず、そのうち熱中症にならないかと
心配であるが・・・。
どうぞ、お元気にいてほしい。

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何がしたい、何をすべきかが同じになる。

いつの間にか人生、後半を走っているようである。
気が付かないうちに、同世代のサラリーマンの皆さんは、次のステージに
向かっておられる。
組織で働いてきた人は、定年という節目があり、その後、自分は何をして生きるのか?
ということについて、考え、備える。
働くペース、働き方を見直し、違う日々の過ごし方をはじめる。
いい定年後の暮らしをしている方も多い。定年までがんばってこられたからだろう。

さあ、解放されたから、念願の世界旅行へ夫婦で行くぞ、好きな趣味に没頭するぞ。
という人もいれば、もう一度勉強し直そうという方もいたり、
新たな社会活動をする人もいたり・・・。親の介護に定年後の時間を費やす方もおられる。

いずれにせよ、定年までの時間にできなかったことをして、人生の仕上げをする、悔いのない人生に願い、行動する。60代はそんな年齢だろうか。

自分の場合は、定年という節目はなく、このまま生涯現役のまま走り続ける予定
でいるが、その活動の内容はその時代や自身の変化にあわせ、柔軟にと思っている。
これまでも十分、自由に生きてきており、ありがたい人生。
好きなことをやってきたわが人生。
では、これからも好きなことをやり続けるのか。

もちろんやり続ける。仕事も、それ以外もやりたいことをどんどんみつけ、実践する。
そして、これからは、できる限り、利他を意識して行動をしていきたい。
それが、これから私がしたいこと、すべきこと。

モノを消費する楽しみよりも、お役に立つ喜びを優先。後者の方が自分以外もうれしい。
そんなことを最近考える。

昨日、この秋地元で開催される 一人暮らしのお年寄りのためのイベントで演奏会を
ご依頼いただいた。とてもうれしい報せ。こういうことこそ、やりたいこと、すべきことだ。

人生の残り時間。自分がしたいことは、すべきことと同義になる。
これでいい。

自分だけ楽しい人生。それはない。
自分も相手も楽しく、うれしい人生。

そんな生き方にさらにシフトしたい。


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ゆるす、うけいれる。わかちあう。

ネット社会。SNSの拡散が当たり前となり、匿名で好き放題、
人のこと言い放題、無責任言な発言し放題・・・。無秩序な情報の氾濫、情報の質の
低下・・・。
本来双方向であるべき、コミュニケーションは実は、一方的になり、劣化していることに
大変な危機感をもつ今日この頃。

発信する側も、受ける側も、これでいいのかなと思うことが多いが、この流れは
止まらないのか。
こんなやりとりが続いて、人は本当に心の対話ができるのか?

人の話が聞けるのか、受け入れることができるのか、そして相手のことを
認め、許すことができるのか・・・。はなはだ疑問だ。

本来、人同士は、コミュニケーションによってわかりあって、許しあって、お互いを受け入れて、認め合って生きていくもの。
そんな存在ではなかったか。

でも、今はむしろ、自分自身を防御したり、フェイクな情報を使ってでも、自己主張を通す。
自分のためのコミュニケーションが横行している。

自分自分ではなく、もっと相手と向き合い、話し合いをする。そして理解し、ゆるす。
そのことが人間社会を維持するためにいかに必要かをもっと考えたい。

人の間と書いて、人間。その間を埋め、人同士を結ぶ役割を担うのがコミュニケーション。
であるはずが、今は この間には、怪しく危険な空気が入り込んでいる。
人が人を信じない。
そんな世の中になってはいけないのであるが・・・。
自分本位からはじまる分断社会・・・。
時計の針を戻したい気持ちになるが、
それは叶わないので、しっかり目を見開き、現実に向かいたい。

ゆるす。うけいれる。わかちあう。
そんな世の中に向かえるように。
まずは自分から。もっと器を磨かねば。


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記念日を大切に思う朝。

今日は、お世話になっている会社のオリジナル商品が初めて
発売となった記念日。5周年を迎える。
私がその商品を知ったのは発売後1年になる前であるから
約4年の月日をその企業とさまざまな関わりを持ちながら、
過ごさせていただいたことになる。
そんなわけで、
私にとっては、その4年間を改めて思い出す記念の朝でもある。
今も忘れない。
都内でのある会合の場に、社長さん自らが、その自社製品をお持ちになり
参加者に配付されていた。「京都からきました!」ずっしり手ごたえ
ある商品を自ら、人数分持参されたことに、他の経営者とは違う
パッションを感じた。
そこから、この社長さん、会社とのかかわりが始まったといえる。

あれから、その商品の課題をお聞きしながら、どうしたら社内を盛り上げ
魅力を発信するか・・・さまざまな議論を重ね、4年前の今日に、会社の食堂で発売1周年の誕生日会をやったことが、懐かしくよみがえる。
あれから、4年。地元企業へキャラバンを仕掛けたり、その後コロナになって
しまい、少しでも地域に還元できないかとお子様のおられる家庭に商品をプレゼントをしたり・・・。他社とのコラボ商品を限定発売したり・・・。
このコロナ禍というタイミングもあって、思うように営業活動もできない
一面もあったけれど、活動を絶やさず、新商品をつくるべくチームを再結成
しながら、とにかく一歩一歩取り組んだ。
そして発売5年。
OEMに取り組む会社が、自社製品を持つということの強みを実感できる
機会も増えてきた。
自社の顔がないまま、「できます。作れます」というよりも、まずすぐ
見せられる商品があるのは、営業的にもプラスになる。

改めてこの事業を始めようと思った社長の思いを私なりに描いてみる。
強い意思がなければ、はじめることはできない。
そして新しい取り組みである以上、もちろんいろんな課題も出てくるのが
当然。まずは継続すること、流れを止めないこと。
そして、それがあることで、社内に一体感がうまれる、そんなきっかけに
なるのもよい。

いつの間にか、4年以上もお世話になっている。
私が東京から離れて得られた、ありがたい貴重なご縁だと思う。

これからも、がんばる企業を応援したい。
社長さんを、従業員さんを家族のように、
応援したい。
と、そんな気持ちになる朝である。

ヨリトコ、5周年おめでとうございます!

まだまだこれから。皆のヨリトコになるために。
目指すは世界のヨリトコ!夢は大きく!
ひまわりのように前を向き、未来に向かってLet’s GO!

ヨリトコのブランドのブランドサイトはこちら
https://yoritoko.com/

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プロセスがすべて。

ハリウッドで大規模なストライキが行われているニュースを見て、いろんな意味で納得し、
共感を抱き、俳優や作家たちにエールを送っている今日この頃。
今は亡き作家の知人が、この時代に生きていたら、ネット社会でのこのコピペ文化を
嘆き、苦しみ、もがいていたのではないかとも思う。著作権の侵害、書籍の再販の問題や
ネットによるプライバシーの侵害に対し、異を唱え、怒りをあらわにしていたその人が
生きていた十数年前よりさらに、事態は良くも悪しくも進んでいる。

改めて、21世紀は恐ろしい時代だと思う。

今、例のチャットGPTについても、危惧するクリエイターは多い。
自分が調べ、考え、その結果、ようやく生みだされる文章や音楽が、ビッグデータからの抽出、編集、加工により瞬時にカタチになり、それが作品になってしまうとしたら、作家としての自分の仕事は一体?ということになる。
AIは人間の暮らしを便利にする一方、人間の仕事を奪う、と言われてきた。でも、クリエイティブの世界には影響がないと思っていたが、いやそんなことはない。AIの力は、その領域にまで侵入してきてしまった。
人間が生んだ人工知能は、作り手の想像を越え、進化してきている。情報の蓄積があれば、なんでもできてしまうということだ。
自分でコントロールできないモノを作り、あとはみなさんよろしくといった感じでこの無責任な仕事自体、いったい何なんだろう?と思えてならないが・・・。

さて、このチャットGPTのような人工AIが瞬時にアウトプットする作品と、人間が時間をかけてつくる作品。悲しいかな、もし結果が似ているようなものであった場合、人間自ら作る作品にはどんな価値があるのだろう。
結果が同じようなものであったら、もうその時点で絶望的だとも思えるが、見方を変えると、それは「プロセス」が違うということができるということで、光が見えてくる。
人間が自分の人生、経験から発想を得て、それをカタチにして、人々とコミュニケーションしながら一緒につくりあげ、一緒に感動しながら、盛り上がっていく作品づくり。
この作り上げていくプロセスこそが、人間の創造力であるが、AIには、それはない。0か100か、まさにデジタルの世界らしく、ボタンを押せば瞬時が答えが出てしまう。そのプロセスには感動はないのだ。

よく考えたら、人生はプロセスそのものである。明日に向かって生き続ける存在である。
考えようによれば、毎日がその結果、その成果物であるともいえるが、人生は
プロセスの積み重ね。悩み歩いた結果、うれしかったり、悲しかったり、心が豊かになったり・・・。プロセスを味わうのが人生だ。
だから、AIがどんなに瞬時に似たような結果を出すという現実があったとしても、それに動じないで、人間らしくプロセスを重ねて生きたい。

もちろん時間がないなかで、アイデアを出すときの参考ツールとしてチャットGPTを使う、
ネット検索を使う、これは合っても良い。
ただ、あくまでも主役は自分である。
自分の人生、生きるプロセスをより充実したものにするために、何を選ぶべきか、使うべきかをよく熟考したい。

人間が苦しみもがいた作品こそ、ありがたみがある。
簡単にできたものには、心が動かされない
人間にはひとりひとりに背景、歴史があり、ストーリーがあるのだ。

改めて、自らの創造力を鍛えたい。

と、ボヘミアンラプソティであまりに有名なクィーンのギタリスト、ブライアン・メイさん
の最近のインタビューを聴きながら、クリエイターとして共感できる発言が多かったことに
勇気をもらい、今朝、こんなことを書いてみた。

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