空想コラボで、自分らしく生きる。

自分の生き方は、われながら、まあ自分らしいと思う。
相対的に生きたくない、誰かと比較されることなく、
唯一無二の自分として、自分ができることで生きていきたい。
と30代から、そして今もそう思い続けている。
このスタイルは間違っていなかったと思っている。

自分ができること。
大したことはできないが、少しはできることがある。
それを生きている最後の瞬間まで希求したい。
自分が取り組むテーマを思い描き、それを実践することは
意味があると思っている。
創造的な生き方につながると思っている。

周囲に環境に流され、生きていく生き方もあるが、
自分には幼い頃から、周囲への反発や違和感を感じることも
あったせいもあり、自我が早く芽生え、独立心が若いうちから
育ってしまった。それが良かったかどうかはわからないが。
哲学に出会ったおかげで、まずは疑う、考えてみるという習慣も
身についてしまった。

だから、世の中のルールとされていることでもおかしいと
思うことが多く、いつもそこには入りたくないと思う自分がいる。
それでいい。

自分らしく生き切る。
人生も間違いなく後半に来たのだから、これからもテーマを決めて、
それをひとつひとつやり抜こう。
テーマなき人生はありえない。

ということで次なるテーマは、
尊敬する人との対話。
時間、距離、歴史を越えて、人はコラボできる。
ほんのさわりであるが、ザビエル、信長、そして芭蕉・・。
みんな私の空想コラボ。

誰にも邪魔されない、独自の発想での次なる展開の模索。

小学生の頃から大好きなピアノソナタを弾きながら、
次なるテーマを考える。

そんな時間をもてるのは、幸せなこと。
自分らしく、人がしないことを思いつく瞬間を
楽しみたい。

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活動再開、活力湧き出る

コロナがあけて、ようやく活動が再開・・・。
飲食業やリゾート、サービス業だけでなく、
アーチストたちのライブな活動がまさにそうだ。
自分も久しぶりに自主コンサートを再開した昨秋。
そこから勢いでアルバム制作や、配信ライブなどにも
挑戦。
やらねばムードが自らに湧き上がってきた。
仲間たちも、それぞれのやり方、表現で活動を再開。

そんななか、これまで何度も演奏を一緒にしてきた
尺八演奏家 鯨岡徹さんの音色を久しぶりに聴いた。
今回はソロではなく、尺八四重奏という一風変わった
演奏スタイル。
クラシックであれば四重奏もおなじみであるが、尺八で?
実は、このユニットの存在はもちろんご本人からも聞いて
おり、知ってはいたが聴いたことがなかった。

今回、コロナ後、4年ぶりのライブ。
どんな構成でどんな曲目を、どんなアレンジで演奏するのだろう?
いろんなことが楽しみであった。
そして、久しぶりに聴く尺八の音色はどんなんだろう?

新潟でよく聴いてきた、あの懐かしい尺八の音色。
ああ、ひさしぶり、ああ、やっぱりいいね。
四重奏という取り組みももちろん良かったし、
そして、しばらくきいていなかったうちに
音がとてもいい!・・というと偉そうな表現になるが
それがとてもうれしかった。
演奏キャリア、年齢を重ねるにつれ、音に深みが増し、
円熟さをもって、なんとも言えないいい音色に・・・。
時間をかけて自らの音を磨いてこられたんだな・・・。

声が人によって違うように、尺八の音色も演奏する人によって
全く違う音になるということを、今回の四重奏を聴きながら、感じた次第。

とにかくコロナを経て、いろんな苦労を経て、やっと久しぶりに
お客様の前で演奏できる・・・その晴れ舞台に同席できたことがうれしく
最初の音色が聞こえてきたとき、思わず目頭があつくなった。
よく続けて、がんばってこられたなあ。

なんといっても、緊張しながらも、楽しく演奏されている姿も
良かった。

尺八を身近に、お客様を笑顔に。


そんなフレーズを何度も四人で声を合わせ、会場を沸かしていたことも
良かった。

ユニットでできること。いろんな可能性を感じるステージであった。
久しぶりに尺八とのコラボもやりたい・・・そんな気持ちも高まる
活動再開ライブ。
盛会で良かった。

今日は島根へ向かうとのこと・・・。演奏旅行もできるようになり
ほんとうに、ほんとうに良かった。

https://hachiku.office-isana.jp/

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涙まみれの瞳に。

日々いろんな出会いをいただく。
この仕事の一番の歓びは、日々変化にとんだ人との出会い、
コミュニケーション、交流、学び・・・。
何もない日は1日たりともない。

ある会社の社員面談を続けている。
管理職から一般職にいたるまで・・・。

ある男性社員と面談した。
障がいをもたれており、歩行や動作、会話にも支障がある。
しっかり話しを聴きたいと思い、会話をはじめる。
その方はゆっくりゆっくり、体内から絞り出されるような声で
自分の言葉を発してくださる。
一言一言を聞き洩らさないように、こちらも集中する。
少し話せば、そのスピードにも慣れてくる。
お聞きすると、その会社ですでに30年以上勤務されているとのこと。
同じ職場でこんなに長くつとめることができるとは、ご本人の努力と忍耐は
もちろんであるが、周囲の応援と協力があってのことである。
この方との会話を通じて、障害をもつ方を長く雇用し続けている会社に対して
尊敬の念が湧いてきた。
今でこそ、SDGsだ、共生だ、インクルーシブだと言い、障害をもつ方々の
社会参加も進んでいるが、30年以上前から地道に取り組んでいる会社もあるのだ。

その方は介護離職の話もされた。
これからは自分が年老いた父親の介護もしなければならない。だからいずれ仕事も・・。
障がいがあっても、親の介護の心配をされている。
とそんなことも考えておられる様子に心うたれた。
そうだ、親の介護は他人事ではない。障がいがなくても、大変なことなのに・・・。

家族の話をするとき、目から涙があふれた。
いろんな悲しみや憂いや、やるせない気持がこぼれたのだと思った。
思うように動けない、ひとりでいろんなことができない自分へのもどかしさを
抱えながら生きてこられている・・。
「自分は弱いんです・・・」
絞り出すように何度も言われたその言葉に、
「弱くないですよ。30年以上も同じ会社につとめることができるなんて、
強さがなかったらできないですよ」
とくり返す。

障がいをもって生きることの大変さ。
これは、その本人にならないと、家族でないとわからない。
いろいろあっても、周囲に支えられて日々生きる、はたらく。

「お母さんが見守ってくれているから、元気にがんばってくださいね。
応援しています。体に気を付けて、またお話ししましょう」
最後はくしゃくしゃの笑顔で会釈。
「ありがとうございました」
絞り出すように出された言葉を、ありがたく受けとめた。

今回の面談は、私に大きな衝撃を与えた。
障がい。いつどこで誰が、何か起きるかわからない。
たまたま自分は今、元気で自由に生きさせてもらっている。
でも、明日はわからない。
どんな状態になっても、自分も強く生きられるのだろうか。
自分こそ、弱虫だろう。きっと・・・。
人様に偉そうに言っているけれど、自分だったら・・・と思ったら
なんとも言えない気持ちになってくる。

どんな状況になっても、周囲の助けを得ながら、生きていけるのだろうか。
生きていく。生きる。しんどくても生きる。
涙であふれたその人の目は、きらきらと光り、生きているんだ、生きているんだと
私に訴えているようであった。

改めて、自分が今できることを毎日やりきること、
そして困っている方や、応援したいと思う人に寄り添って
できることをし続けること。
それをやらなければいけないと強く思った。

今回お会いした社員さんの上司は、その人の力や性格もわかった上で
真正面からおつきあいされている。体をはって・・・。
素晴らしい上司だ。
一緒にがんばろう!とその人に日々伝えておられるのだろう。

助けあって生きる。

生きていると、自分なんか・・・と思って命を絶ちたくなることも
あるだろう。
でも、生きている。周囲の応援があったら、がんばれる。と信じたい。

なんだかこちらが大きな力と教訓をいただいた・・・。そんなひととき。
一晩たっても、その人の涙にまみれた瞳がずっと心に焼き付いている。

どうか、元気にがんばってください!お母さんも見守っておられますから!
応援しています!

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愛しの白物との別れ。

白物家電といえば、もともとは冷蔵庫、洗濯機、エアコン・・。
毎日毎夜、人々が使い続けている。お世話になっている。
それなしでは生きられない。
これだけネットが普及しようが、AIが登場しようが、冷蔵庫も洗濯機も
エアコンも日常生活には不可欠である。

そんな中で、わが家の洗濯機。なんと10年も使っていたようだ。
製造年が書かれたシールをみてびっくり。
東京にいた頃から使っていたのだ。東京から一緒に引っ越して
きたのだ。もうそろそろ・・・壊れるかも・・・と思いながら日々
お世話になってきた。
とにかく朝も夜も・・・出張行く前、戻ってから、とにかく洗濯機を
よく回した。
洗濯機が私の日々の暮らしを一番理解しているのかもと思うほどに、
三度の食事より洗濯・・・。
洗濯機がない生活は考えられない・・。
その愛用マシンが、少し大きな音を出し始めた。
あ、もうそろそろ、ちょっとやばいかな。
思い切って、買い替えに挑んだ。
本当に壊れるまで使っていたかったけれど、そうもいかない。

長年使う道具には愛着がわく。
今回新たに購入したものも、このマシンの後継機種のようなものだ。
形、デザイン、機能ともに慣れている方がいい。

いよいよ洗濯機交換の朝がやってきた。
前夜には「最後の洗濯」をした。
急に馴染みの洗濯機との別れが寂しく思えてくる。
どんなときも手伝ってもらった戦友!である。

なぜか、当日の朝は撮影をして、洗濯機に「ありがとうありがとう」と
声をかける。こちらは、リサイクル家電として、また誰かのお役に立つ
こともあるのだろう。業者さんに導かれて部屋を出ていく洗濯機を
名残惜しく見送った・・・。

そう、この洗濯機とは東京から一緒だった・・・。
私のバタバタな50代を毎日、毎日見守ってくれた。
「よく働くね~。今日はどこ行くの?」
「今回は多いね~。どこ行ってたの?」
そんな言葉を発していてくれたかもしれない。
10年も使えると思わなかったけれど、本当によく働いてくれた。
白物家電。

洗濯機のおかげで、仕事もできる。
ほんとうにありがたい道具たち。
どれだけのモノに、先人たちの知恵に支えられて日々の自分の
暮らしがあるのか・・・。

洗濯機が交換され、早速新しい白物で初洗濯。
ああ、ちゃんと使えた。

日常が途絶えないこと。これが安心の秘訣。
生活とは、こんなことの繰り返し、積み重ね。
あらゆるものに感謝をしながら、1日をはじめよう!

白物!あって当たり前ではないことを忘れずに。

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何度も足を運びたい、あたたかい作品展。

作品の説明や解説など、とてもじゃないがおこがましい。
描いている作家本人にしか見えないこと、わからないことがある。
観る人はただひたすらに、それを想像して楽しむ。
絵画鑑賞とは、それでいい。それに尽きるのではないかと思わせてくれる
言葉を越える、作品たち。

何度見ても楽しく、幸せな気持ちになり、またその作品に取り組む
作家さんたちの表情や手元が浮かんでくる、そんな作品たち。
生きてるな~。すごいなあ~。とただ、ただ感嘆!

現在、京都市の京セラギャラリー(京セラ美術館ではない)で開催されて
いる作品展。
個性的な作家さんたちの入魂込めた、力作がずらり並ぶ。

混雑した著名な画家の展覧会と違って、ゆったりした広々空間で、1点づつ
の作品に向かい合うことができる。
本当に贅沢な作品展だ。ついこの1週間で二度も足を運んでしまった。

高価な作品を美術館で見ることや、絵画を販売する会場に足を運び、絵画を
偉そうに観る機会はあるけれど、
ここにある作品は商品ではなく、純粋なる作品。
まず、そこに心打たれるのである。

素晴らしい観察眼。繊細な色さばき、筆遣い。緻密さ、明るさ、やさしさ。
その人しか見えない、独自の世界を1本の筆から、色鉛筆から、手先から
表現されているのだ。
この作品展では、絵画だけではなく、段ボールを使ったユニークな人形や、アニメ
など、多種多様な作品がずらり並んでいる。

先日、作家さんたちが日々通う施設に向かう道で、ある一人の作家さんと
出会った。声をかけたら、くしゃくしゃの顔をしながら、恥ずかしいのか
走ってどこかに行ってしまった。なんだか想像を超える行動に、いつも
不思議な感覚を覚え、取り残されて、ふっと笑った。

社会の決まったルールのなかで、ストレスを抱えていきる人たちと、
その枠にとどまらず、自由に表現し続けている人たち。
どっちが幸せ。という比較はないが、とにかく彼ら、彼女らの
作品を観ていると、透明でやさしい気持ちになれる気がするのだ。
ここに作品をいくつか投稿させていただく。私がとくに好きな作品の一部。
(全部好きなのだけれど・・・)
ぜひ期間中に、足を運んでいただきたい。

障がいではなく、個性。
個性豊かな人たちが自由に自分を表現する世界。
生きるとは、社会とのかかわりとは・・・いろいろ考える前に
いっぱい感じたい。

実は、この作家さんたちとのコラボ活動が、この春から本格稼働する。
(このことは、後日紹介する)
この関わりも、私にとってはとてもうれしい。
そんなこともあって、この作家さんたちを余計に応援したい気持ちが高まっている。

それぞれがもつ才能を存分に開花させる。そんな生き方をしたい。
改めて背中を押される展覧会でもある。

本展覧会の詳細はこちら

京セラギャラリー2024年冬季特別展 「宇宙の意志 ーアトリエやっほぅ!!ー」

https://atelieryoohoo.com/news/362



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肩の荷をひとつづつ。

人生は様々な荷物を担ぎ、そしておろす。その繰り返しなの
かなと思う昨今・・・。
何も背負わなければ、重さを感じることなく、楽々生きられる
かもしれないが、自分から荷物を担いだり、背負ったりする。
荷を担ぐとその重圧で歩きが止まったり、阻まれたり・・と
思うように前進できない日もあったり、心労も増える。

でも、目的地にたどりついて、その重い荷物が降ろせた瞬間、
その解放感たるや格別であり、頑張って担いだ自分をほめて
やりたくなる。
肩の荷がおりる。たとえば子どもをもつ親御さんであれば、
子育てが一区切りされたら、そんな気持ちになるのでは。と
思う。

私の場合は、子育てという荷物はないが、それ以外の荷物を
背負って生きる。自分で作った荷物だ。

今回は4作目のアルバムをリリースできて、何とかカタチに
することができ、よくやり切ったなと思っている。
自分にしかわからない、大きな荷物をひとつおろした心境だ。

何か新たな挑戦をしようと思えば、背負う荷物は増える。
それは当然。
背負ってはおろす。背負ってはおろす。忙しくなり、疲れる日も
あるが、それを繰り返すわが人生。

残りの人生のなかで、あといくつの大きな荷物を背負うだろう。
心身ともに、まだまだいける!とそんな気持ちでいるが、
その前に、一人でも多くの方に聴いていただけるように、
活動を続けていかねば・・。
そう思うと、荷物を下ろした・・けれど、活動は終わっていない。

ひとつづつ肩の荷をおろしながら、運び終わった歓びをかみしめる。
そんな瞬間を増やしたい。


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「黒いひまわり」とともに祈る日。

2月24日はロシアがウクライナに軍事進攻した、戦争を仕掛けた忌まわしい日だ。
あれから2年経ってしまった。
長い歳月である。あれからずっと戦争状態が続き、罪なき多くの人々が犠牲になって
いる。自分の国を守るため。このことのため、いわれなき戦いに向き合わなければ
ならないとは、本当に不運なことである。

夢や希望に満ちたはずの人生が、独裁者のせいでズタズタにされ、家族も愛する人も
そしてふるさとも捨てなければならなくなってしまった、そんな人生・・・。
想像するだけで身震いがする。

ウクライナの各町では、一見日常生活が維持されているように見えるが、毎日の
ように爆発が起き、警報とともに逃げなければならない、こんな生活・・・。
いつ襲われるか、いつ命を落とすか、自分自身も、家族も・・・。

天災も困ったものであるが、人災であれば恨みや憎しみも増す・・・。
何もなければ、平和に生きられるのに、その国の歴史や地政学的な位置により、
運命は変わる。ほんとうにウクライナの人のことを思うとこんなに離れていても
首謀者への憎しみの感情も沸いてしまう。人間とは恐ろしい存在だと思えてしまう。

2年も続いていたら、疲れ果てる。どうでもいいわ。なんでもいいから早く終わって
くれ。と自暴自棄になってもおかしくない。
でもあきらめては、いけない・・・と頑張り続ける人たち。

本当に戦争は何の意味もない。いいことなど何もない。
大国のおごり、権力行使・・・。辟易する。

この戦争が始まって間もないころに、頭に浮かんだ「黒いひまわり」。
早く戦争が終われと祈りを込めて作った。
まだ見ぬひまわり畑がなくならないようにと・・・。
今回リリースしたアルバムにも挿入しているが、この曲を支持してくださる
方は多い。みなさん、同じ気持ちになってくださっているのだ。

昨日もこの曲をひとり弾きながら、この無謀な戦争の終結を祈った。
今日も明日も祈り続けたい・・。

黄色いひまわりが元気に咲き誇る、そんな日が戻ってくることを
心より、心より祈っている。



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お父さんと乾杯!

最近、お世話になっている方のお父様が亡くなっておられたことを
知った。昨年の末ごろから、食事がとれなくなってきているとお聞き
していたが、自分の父の時のことを思い出し、あまりたびたび様子を
伺うのは・・・と思い、自分から尋ねないようにしていたが、
教えていただき、できたらもっと早く知って言葉をかけるべきであった
ということと、今のお父様を失くされた心境を思うと、自分の時のこと
を思い出し、なんともいえない気持ちになった。
どこに行っても会えない寂しさ・・・わかる、わかる・・。

お父様と一緒に私のライブに来ていただいた15年ほど前のことを
思い出し、ああ仲の良い父娘だな~と思ったことが昨日のようで
その後も、何度もお父様のことはお聞きしていた。
一緒にビールを飲むことが好き、もともと北海道の方とのことで、
サッポロビールがお好きだったようで・・・。
親子で乾杯とは、いい景色。
ふと、自分も父と乾杯をしていた頃のことを思い出した。

気が付くと、サッポロビールを送っていた。
お花より、お線香より、こっちが喜ばれそうな・・・。

乾杯するごとに、お父様のことを思い出す。
今は寂しさが増すかもしれないが、きっと時間を経て
良き思い出とともに、いつ見守ってくれていると
気持ちを上に前に向ける日が訪れるだろう。

親との別れ。避けられない人生の試練ではあるが、
感謝を忘れず、受け継ぐべきことを大切に、
生き続けていく。
人生はリレー。何を受け取ったか。
ここをしっかり確認して、前に進みたい。

敦ちゃんのお父様に感謝しながら、心からのご冥福を
お祈りいたします。


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いつか終わる、できあがる。

昨年末からはじまった仕事。ある企業のコーポレイトサイトのリビルドである。
近年、1年に1件はこの類のテーマにも取り組んでいるが、今進めているのは昨年の
秋から企画がはじまったもの。
そこからチームで役割分担をして、原稿作成をし、雪の年末に撮影をして・・・今
はデザインも完成に近づき、2月末、3月末と段階的に公開できる目途が立ってきた。
最初の段階は何もカタチがない。
どういうものをつくればよいか?クライアントの要望は?その先のメッセージターゲット
への響き方も考えながら、あれこれと提案しながら、議論を重ね、クリエティブスタッフ
にデザインを依頼しながら、作り進めていく。
プロデュース、ディレクション、コピーライティング・・・。
前職含め、こういった仕事を長年してきたせいか、やはり今もゼロから作り上げていく
仕事は馴染みがある。
自分が引っ張っていかないといけない緊張感と責任があるため、プレッシャーもあるが
その苦しみを越えての作品づくりとなる。
思えば、正月三が日もずっと考え、原稿を書いて・・・という年明けであった。
それが今だいぶ形になり、ゴールが見えてきた。
「あと一息です。もう少しです。」
と、チームにも声をかける。
姿かたちが見えてくると、安心する。
しかし、印刷物であれば刷り上がるまで、WEBであれば公開するまで、本当に安心は
できない。

はじまりはいつも、何もないところからのスタートである。
どんなものを作りたい、誰に何を伝えたい。
そこからはじまる。
ゼロからつくる生みの苦しみと、できたときの達成感。
苦労があるから、歓びがある。

終わりなきトンネルはなし。

今、トンネルの向こうの光が見え始めている。
もうしばらく、もがくとしよう。
仕事は、こんなことの繰り返し。

生きている間に、どれだけのトンネルを通るのだろう。

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分身つくる仕事。

仕事と作業は違う。
作業はモノづくりなど行う場合に必要な、体や手先を使って行うしごと。
指示されてそのとおりに動くのが作業。作業をしないと、モノはできない。
どうしたら生産性を上げることができるか?を考えて動く、または人や機械を
動かすのは作業ではなく仕事。
考えて、工夫したり改善することは、仕事である。
作業は他の人でも対応できること。仕事は本来、自分にしかできないこと。
また作業は労働でもある。

私が希求したい仕事は、作業ではなく自分で考え、つくりだす仕事。
できたら他の誰もしないことに挑戦したい。
そう、私にとっての仕事は想像であり、創造。
とくにコミュニケーションを軸に考え、生み出す仕事。
その結果、その制作物や商品から、メッセージを伝えることができたら、
それは最高の幸せ。

そんな仕事をしていきたいと考える。
言い換えれば、仕事は自分のいのちであり、自分の分身づくり。
そう思うと、こだわりも生まれ、いい意味での執着も生まれる。
いいモノをつくりたい。いいコトをしたい。いい時間を生み出したい。
そんな思いで、今、日々の仕事に取り組んでいる。

先週リリースしたアルバムはまさに、自分の分身。
そして、今日々取り組んでいるクライアントのお仕事も自分の分身になる。
いいサイトができた、いい商品ができた。
お客様と一緒に喜びを分かち合える商品づくりに関われることは幸せだ。

分身をつくるしごと。
やりがいがある。
今日も分身づくりに励みたい。

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