観てよかった、観ない方がよかった。

子供の頃から、日曜ロードショーとか、水曜名画劇場(タイトルが正しかったか?)
などが、映画世界への入り口であり、大人の世界への憧れであった。
世界、歴史、人間関係、愛、生と死、神と人間・・・・。さまざまなテーマから
現実を越えた大きな世界を学ぶいい教材でもあり、エンターテイメント。
自分にとってはテーマ音楽も楽しみのひとつ。
時々、親の目を盗んで夜更かしをしてみたアラン・ドロン、オードリー・ヘップバーン
の映画などは、今もくっきりその名場面を思い出すことができることに強く胸に刻ま
れている。

映画は、フィクション。今どきの表現でいけば、フェイクであるが、それが実話に
基づいているものもあり、それでも映画ならではの脚色、演出、スケールも表現力も
元ネタとはかなり違う描写になっていることが多い。また、誇張もなければ、
映画にする意味もないため、現実とは違うな・・という点はあってしかるべき。

その映画、様々なジャンルがあり、人により嗜好も異なる。
また観る目的に応じて、視聴する作品を選ぶ。
ストレス解消して、リラックスしたいとき、とにかく笑いたいとき、スケールを楽しみたい
とき、歴史を学びたいとき、好きな人物の半生を見てみたいとき・・・。
今はAmazonだけでなく、他の企業の映画配信(配給ではなく)のサービスをしているため
自宅で、いつでも好きな状態で鑑賞できるのは、ありがたい。

そんななか、好きな歴史上の人物の作品を観ることは好きだ。
先日は信長をテーマにした作品を2つほど観たが、これは良かった。自分が思い描いていた
信長像の延長にあり、自然にその世界に入っていけた。
一方、ナポレオンをテーマにした作品もみつけたので、少し観てみた。
実はナポレオンも、ザビエル、ベートーベンと同じぐらい興味関心のある人物で、
20代、30代にはゆかりの場所を訪ねたこともあり、私にとっては身近な存在。
美術館ではナポレオンの肖像画を何度も観たり、実際に使用した家具を見たり、妻ジョセフィーヌのためにつくった城に出向き、その庭、建物、調度品を見ながら、在りし日のナポレオンを想像していた。ベートーベンがつくった「皇帝」を聴くと、ナポレオンが馬に乗って
行進している姿が浮かんだ・・。などなど、自分なりのナポレオン像があったのだが、映画を
観たとたん、「あれ?こんな感じ?」と思う点が次々と出てきて、また時に戦の現場の惨い描写に目を覆い、観続けることができなくなった。
ナポレオンの印象が変わってしまうのが、嫌だったのかもしれない。

ということで、映画はかなりのインパクトをもって、観客にメッセージを伝えるメディア。
五感に訴えてくる。そして、良くも悪くも、強く伝えることができる。

あとで観て良かったと思うか、観ない方が良かったと思うか。
もし、大切にしたい人物像がある場合は、そのあたりも覚悟しながら、映画鑑賞をするのが
良いのかもしれない。

誰かがつくったイメージよりも、自分でつくったイメージのままで良い場合もある。

と、改めて映画の力を感じている。もちろん可能性も感じている。
でも、ナポレオンの作品は、自分にとっては、観ない方が良かった・・。


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「自分らしく」を探し続ける道。

先日、仕事で接点がある人と、はじめて個人的な話をする時間があった。
普段は、目の前にある仕事の話しかしないので、どんな人なのか、どんな背景をもって
いるかなど知る由もなかったが、知っておくとおつきあいもしやすいため、
声をかけてみた。
その人は、自分のことをぽつりぽつりと話しはじめ、いろいろお聞きしているうちに、「自分も本当は今尾さんみたいな生き方をしたい人なんですよね」という言葉が出てきた。
「でも、今は家族もあるし・・・」と、ほんとうはやりたいこと、生きたい道があったけれどそれではない道を選び、生きていると言われた。
話を聞きながら、その人は自分らしく生きられているのかな。と気になってきた。
もしかして、ずっと我慢や妥協を続けている・・・のではないだろうか?とも思った。

結果的には、どの道も自分が選んだ道なので、どの道を歩んでも自分の道であるが、
その道が自分らしく進める道であれば、良いと思う。
そのためには、家族や同居人と話し合ったり、お互い理解、協力をすることも大切だ。

自分はこう生きたい。こんな人生にしたい。

小さくても夢や、思いをなくさずに、どうしたら自分がやりたいこと、
進みたいことができるのか。を持ち続けたい。
ひとりで生きると、自由があって、どんなことも、周囲に遠慮なくできそうに思うけれど、
家族や同居人がいれば、ちょっと不自由もつきまとうが、別の良さもある。
あれもこれも、は難しい。
それとどう折り合いをつけるのか。
諦めず、折り合いをつけ続けるのが、生きること。

「わたしは、自分らしく生きているだろうか?」
と改めて自に問う。
今は、大きく頷ける。
子供の頃は、そうではない面もあったが、それは親の世話になっていた時代だから
当然のことだ。
「大人になったら、好きなようにしろ」
と何度も言われた時代。その時代こそが、自分らしさを考えさせてくれたのかもしれない。
もっとおしゃれがしたい、もっと〇〇へ行きたい・・・。
それができるために、がんばってきた18歳以降の人生・・・。

今日までをふりかえると、自分らしさ・・そこにこだわり、そこだけを選び、
そのために生きてきた人生だったかもしれない。
人によって、何が「らしさ」なのかは異なるが、
私の場合は、今の日々の生き方そのものが、自分らしい、そうありたいと生きている。
だから、今、とても幸せだ。そして、周囲に感謝している。
周囲の理解や応援なしでは、自分らしく生きることは、難しい。
そして、平和であるからこその、自分らしさでもある。

自分らしくは、人は与えない。自分がつくること。
自分が意識し、そちらに向かうよう努力すること。

「まあ、いいか。」
と妥協した時点で、らしさは崩れてしまうような気がするから、
そこは気を抜かず、「自分らしさ」を希求し続けよう。

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楽しそうなオーバーツーリスト。

京都はますます外国人観光客でごった返している。
今週は3度京都出張があったが、曜日は関係なく、外国人グループを
多く見かける。最近はとくに欧米からの訪問者が多いように感じる。
爆買いを楽しむのではなく、異国のKYOTOにいる時間を楽しんで
いる、大人の旅行者という感じで安心する。

新幹線の構内も、通路も、在来線もバスも外国人であふれている。
大きなスーツケースを引っ張りながら、大きなリュックを背負い
ながら・・・。昔は若いバックパッカーのような旅人が多かったが
今は、大人のグループも多い。
錦市場の狭い路地は、連日、昔の大晦日のような混雑ぶり。
ほんとうに、ほんとうに京都は外国人観光客で溢れかえっている。
そのため最近は、混んだバスに乗るのを避けて、地下鉄に乗るのも
あきらめて、四条から京都駅まで歩くようにしている・・・。

京都駅。回転寿司屋の前に大勢の外国人観光客が列をつくっている。
おそらくSNSで話題になってしまっているのだろう。いつも、並んで
いる。安いのと珍しいのが人気なのかもしれないが、コロナの時とは
ガラリと違う店頭・店内。
同じく、席の改札にほど近い洋風居酒屋。そこでお客さんを待っている間に、
その店に来ている旅行客の様子を観察。
夕方17時前。まだ日本人のビジネス客はいないが、ツーリストでいっぱい。
自分がローマの駅近くの店にでもいるのでは?と思う感覚にもなる。
その店はバールのような雰囲気なので、もしかしたら伏見稲荷に行った
帰りに寄ってくるのかもしれない。
気軽に入れる店が旅行客は好きだ。しかもそんな高価な食事は求めない。
みんな、ビールジョッキ片手に大変幸せそう。
隣のテーブルにいる私にもサインを送ってくる。
一緒に飲まない?そんなメッセージを感じる。
京都にいながら、外国にいる気分になれる、ちょっとこちらが海外時間を
懐かしむ束の間・・・。
ひとり居酒屋で外国人観光客を眺めていると、新たなヒントも生まるかも。
本当に幸せそうで、こちらも楽しくなる。

一方、連休もはじまり、今日から京都はさらにオーバーツーリズムに悩まされる
週末となる。
ほんとうに何とかして!と思うボリュームであるが、それでも一人一人の
顔を見ていると、皆さん幸せそうなのが、印象的。

念願のKYOTO旅行を楽しんでいるのだ。
為替の影響とオーバーツーリズム。どこまで人が増えるのだろう。

ちょっとだけ、コロナのときの静けさが懐かしくもある。

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傾聴する経営者。

いろんな経営者にお会いしてきた。メディアに登場する著名人だけが社長ではない。
世界には、大企業から中小企業まで、会社の数だけ社長が存在する。
創業者、二代目、三代目、そしてサラリーマン社長・・。いろんな背景がある。
自分で創業した社長さんには共通する強さ、情熱を感じることが多いが、そうでなくても
ひとたび会社を背負えば、責任は重く、社長という仕事は実に大変だ。
会社の目標は経営の安定。企業の成長。それを果たすために、社長は従業員が意欲を
もって働き、同じベクトルで前進し続けることができるよう、幹部と連携しながら、
組織を支えなければならない。

自らの想いをいかに伝え続けるか、理解者を増やし、行動してもらえるか。
伝えることを重視する社長さんには多く出会ってきた。
いかに伝えるか。発信する方に注意が向く。

そんななか、会った瞬間から、傾聴する社長さんに出会った。
とにかく人の話をよく聞かれる。
あまり自分の言葉を、会話の途中で挟まない。
それは一対一になればまた違うのかもしれないが、三人いれば、まずは聞き役になる。
その姿勢は謙虚であり。表情は穏やかだ。

攻める、自ら発信する経営者が多いなか、とにかく聴く、場の空気を感じながら
それでいて存在感を現す。
そんな珍しい経営者である。
とにかく終始笑顔である。リップサービスもない。
信頼できる人という印象も強くなる。

こういった人に向き合うときは、目でしっかり会話する。
そうすると相手も応えてくださる。
言葉を多く発するだけが、コミュニケーションではない。
そんなことを改めて教えられる。

弥勒菩薩みたいな社長。
社員はそんな風に私に教えてくれた。納得する。
私もそう思った。なんだか超越的なオーラを感じたのだ。
言葉が少なくても、すとんと落ちる。心に響く。
であれば、言葉は少なくても効果はてきめんだ。

静かな社長、穏やかな社長。
新潟で出会った多くの経営者のなかには、そういったタイプの方もいた。
でも、みなさん静かに燃える炎を秘めておられた。

今回出会った経営者にも何か静かな力を感じた。
これからのおつきあいが楽しみだ。

聴く社長。
これも大切な経営者の要件かもしれない。
春は、いろんな出会いをいただく季節だ。

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AIとの付き合い方。

生成AIという言葉を聞き始めたとき、その日本語は何?と思ったが、
もう耳になじんできた。
そして、ネット検索すれば、すぐにそのAIくんが活躍してくれる。
たとえば、自分のことも、さもよく熟知しているかのように紹介
文を表示してくれる。へえ、今尾昌子さんて、そういう人なんだ。
すごいと思いながら、ちょっと後ずさりも・・・。

先日あるニュースキャスターがAIを使い、自分が話すニュースが
日本語ではなく中国語、フランス語で普通に自然に話されている実験
結果を見て、「ちょっと怖い感じがします」とコメントされていたが、
言葉だけでなく、話す表情も自然っぽくなっているので、確かに
怖くもあり、気持ち悪くもあった。

そう、気持ち悪い。心地悪いのだ。
と、こうやって毎日書いているブログも、AIは日々学習しているから、
記憶され、どこかで表現されてしまうのかもしれない。
恐ろしい。別にいいけれど。
自分の信念は見ている人が見ている、わかる人にわかる。であるから
フェイクなマーサが流れても、わかる人はわかると信じたい。

さて、執筆、作曲、演奏・・・。これらのクリエイティブな仕事は、
このAIの進化により、これから人間と競争になるとも言われている。
情報力、学習が瞬時にアウトプットにつながる。
便利この上ない、脳作業の外注である。

便利の渦に引き込まれていくと、人間はだんだん考えなくなる。
それは大変危険だ。
簡単に翻訳ツールがあるけれど、自分でどうだったか?と調べたり
考えたり、想像するプロセスが人間が行う学習。
AIが量と時間で勝負ならば、人間は考える、感情を不可できるところが
特徴だ。
AIには情熱はない。

と、日々、AIのことを考えると、これからの人間社会の行く末を
案じてしまう部分もあるが、活用すべきところは大いに使えば
いい。でも、「よく考えて」というのが前提になる。

AIにふりまわされて、人間がフェイクな情報に踊らされ、
間違った方向に進んだり、平和が脅かされることは断じて
避けなければならない。
そのための規定、ルールは当然必要なこと。

今、AIの企業が日本に進出している。
日本は国際的な著作権の保護に後れを取っている。
だから、自由にいろんな実験ができる市場。
規定が厳しいEUとは違うのだ。
進出されることを手放しで喜んでいる場合ではない。

いろんな意味で人が人として生きていくために、
人間社会、ひとりひとりの暮らしを守るために
情報は活用されなければならない。

便利だからいい。という時代はとっくに終わっている。
下を向いてスマホを見る人たちを電車のなかで眺めながら、
みんな、上を向いて、前を向いて!と
思わず言いたくなる。

AIを自分はどうとらえ、生かす、生かさないのか。
そして、自分はどう生きるのか。
人間が学習を止めたら、終わりだ。

前にも書いたが、AIもいいけれど
AI(アイ・愛・あい)のコミュニケーションを大切に
したい。改めて!

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想人の笑顔、よみがえる朝。

あなたを想ってる長く、短く、深く・・・♪

ではじまる「想人」というオリジナル曲。
(歌詞は以下のページに記載)

La Grande Roue:Poem & Songs (mahsa.jp)

そう、本当に笑顔と、背中と懐の深さで、人生を見せてくれた
大切な人。
「想人」とは、その人のことを書いた作品だ。

今日は、そのモデル みちこさんが旅立った日。

コロナ禍で会ったため、後日知った。訃報が地元の新聞に掲載された
ということで、教えていただいた・・・。

素晴らしき経営者として、ひとりの強い女性として、
晩年は、闘病の日々が続き、大変ご苦労をされたけれど、本当に計画的に
情熱的に、生きた方。自発的に生きるお手本のような存在。
今も私の応援団でいてくださる気がする。

最近、その方の地元に仕事でお邪魔することがあるが、
きっと呼び寄せてくれているのだと、この「想人」
に出てくる「駅」を通るたび、その町にふれるたび
思いがあふれてくる。

今日は、特別に彼女との交流を懐かしみ、感謝する
1日にしよう。
仕事をする女性として、強くしなやかに生きる人として
尊敬する人。

「今日は最後のメールになります。
本当に楽しい思い出をありがとうございました。・・・」

最後に受け取ったショートメールが再び思い出される。

どうか、娘さんのご活躍を、会社のご発展をずっと
見守ってくださいね。
そして、私たち応援団のことも、時々、見ててくださいね。
がんばって生きますから。

今日は想人の旅立ちの日。

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真に優しい人。

どんな人として、一生を終えたいのだろう。
終わりよければすべてよし・・だから、最後の自分を想像することは
意味がある。
今から思っていないと、追いつかない。
母がいなくなって3年経つが、今も
「あの人は、いい人やった」
「ほんとうに、よくしてもらった」
「いつも、元気な人やった」
というお声をいただく。
ああ、そういう人として、周囲のみなさんの記憶にまだ刻まれているのだ
と思うと、母の人生は幸せだったのだなと今、改めてそう思う。

そこにいなくても、懐かしんでもらえるような人として、
人生を結んでいけたらと思う。

今、気になる人に寄り添い、気になることは行動する。
このことを大切にしたいと思う。
小さなことでもいいので、そんな行動を大切にしたいと思っている。

どんな風に見えるのかは、見えたいのかはおいといて、
今できること、しようと思ったことをするのみ。

強い人であれ、まっすぐな人であれ、賢い人であれ・・・。
周囲に対しては、真に優しい人でありたい。
寛容でありながら、厳しさもあり・・・。
と、自分への注文をたくさんつけてみる。

まだまだすぎて、まだ終われない。
もうしばらく、もがきつづけるとしよう。

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自由と責任。

人生のなかで、一度はマイノリティな環境で自分を試したい。
という思いで、海外移住しかも、大陸の最果て・・に出かけようと準備
している仲間がいる。
夫婦での決断、長年の夢とのこと。
50歳までがむしゃらにビジネスの世界で努力し、一定のゴールまで
たどり着いた。そして、これから新たな出発だそうだ。

その人と自分のやっていることのスケールは全然くらべものにならないが、
共通しているのは、「自由」をもっとも重視している点。
自由でありたい、自由に生きたい。
ここが生きる上での大前提。
そうなれるために、がむしゃらに努力する。
ときには人の何倍も仕事をすることもあるが、それは自由に生きるため、
選択できる生き方をするため。

そして、自由に生きるということは、責任をとるということと同義である。
自由に生きる以上は、社会に対して、迷惑をかけないようにするということ。
自分の行動に責任を持ちながら、自由に生きる。
自由であることには厳しさも伴うが、
この生き方が一番自分らしくいられる。

「とにかく、自由に生きたい」
そう思うこと自体が叶わない社会もある。
そんななか、この戦後日本に生まれ、社会全体が成長発展を目指すなか、
育ってこられたことはラッキーであった。

自由の反対は不自由。
不自由なことがあると、それを取り去ることからはじめなければならず
大変だ。
戦争があれば、自由は奪われる。恐ろしい。

まずは、五体満足でいられること。
そして、好きな生き方ができること。好きな人達と生きることができること。
好きなものを食べること、着ること。
好きなところで暮らすこと。
好きな音楽を、スポーツを楽しみ、旅をする。
それができるのは、
仕事をするからであるが、その仕事も好きな仕事、自分が選んだ仕事・・。
と改めて思えば、いったい、どこまで自由なんだ~と贅沢な人生だと
思えてくる。

でも、これでいいと満足して終わらず、これからの人生ももっと自由に
好きなように生きていきたい。
なんといっても、まずは、自由な心でいること。
ここからすべてがはじまる。

自由に生きるとは、責任を持って生きるということ。
わがままというだけでは済まない。

自由を勝ち取る人生。
今、この世界には、小さな自由さえままならない人も多くいる。
そのことを忘れず、世界が自由で平和であることを願って、
今日という日を存分に生きたい。

改めて「自由」。この二文字をじっと見る。
自らに理由をもつこと。生きる意味。と、そんな意味も浮かんでくる。

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憧れをもつ、夢を見る、動き出す。

久しぶりに同郷の方と話をする機会を得る。
東京で22年前に出会い、その後、上海への食の現地調査にも
ご一緒した方。
昨年秋のふるさとコンサートがご縁で、久しぶりの再会となった。
あっという間に2時間。20年近くのご無沙汰であったため、お互いの
その後について情報交換。
ま、ひとことで言えば、「いろいろあったのよ」。
でも、そのいろいろを乗り越え、さらにパワーアップされ、のびやかに
いきいきと人生を謳歌されている様子がわかって、とてもうれしく
思った。
「年齢は七掛け、だからまだ42歳よ」と言われ、そこはあまり
ピンとこなかったが、どんなことにも前向き、そこが若々しい。
そしてこれからの人生にテーマをもち、次代に伝えたいことに取組み
愉しみながら生きておられる姿に、感銘を受けた。
その方の場合は、きものや、書道を通じて「和文化」を若い世代に
伝えていくのがテーマだそう。
楽しみながら世の中の役に立てる、とは一番幸せなこと。

心地よい刺激を受け取りながら、私自身も今後の自分の生き方を改めて
見つめてみよう!
そんな前向きの朝。録画してあった中村紘子さんのチャイコフスキー
ピアノ協奏曲第一番の演奏を試聴し、感動。やっぱりすごい、かっこいい。
演奏は昭和56年のもの。というから、まさしく自分の高校生時代に重なる。

当時、あこがれていた中村さんの若き日の演奏ぶりを見て、感動していた。
今も同じ気持ちになる。ああなりたい、ああなりたかった。・・・
でも、過去形で終わり、夢で終わりではなく、
今からでも遅くない。と思い直す。

大勢の聴衆の前で大喝采を浴びるそんな演奏家にならなくていいから、
音楽を通じて、誰かを幸せにすること。そして、独学でいいから、
昔弾きたいと思っていた曲にどんどん挑戦すること。
音楽は聴く歓びだけでなく、自らが演奏する愉しみもある。
そして、その愉しみを少しづつ人様におすそ分けできるように進化
すればよい。

と、七掛けどころか、三掛けの18歳になった気持ちで、さあ、
これからがんばろう。と思えてきた。

憧れをもつ。夢を見て、動き出す。
待っているのではなく、自分から仕掛けていく。

人生は観覧車のように。還暦で1周目。そして今二周目がはじまったばかり。
まだまだ回る。

さあ、中村さんの演奏をもっと研究、そして練習。その時間を作らねば。
そこが課題だ。
人生欲張りに、自由に生き続けよう!

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心にハンカチを。

この春、同世代の方の親御さんが旅立たれることが続く。
そういう年齢なのか・・と思うほどに・・・。

葬儀を済まされて間もない方にお会いする。
メールなどではお悔やみのメッセージをお伝えしていたが
何を送るといいのか・・・。
お花や線香や、それらに交換できるギフトカード、商品券・・・。
それもいいが、何か自分らしいものを。
と思っていたら、ふと、以前作った曲のフレーズが浮かんできた。
東日本大震災の後、生まれた「かもめりぃ」の一節。

♪泣いてない、今は泣いてない。
けれど、いつも 心にハンカチ・・・♪

最初泣いていたけれど、時間が経って、泣かなくなったけど
いつ泣きたくなるかわからないときは心で泣けばいい。
だから、心にハンカチをもっていよう。

とそんな解釈だ。
ということで、ハンカチを送る。
その人がもっていて安心するような、そんなハンカチを選び
贈ることを思いついた。

何年経っても泣きたいときはある。そのとき、このフレーズを思い出す。
と自分の経験も踏まえて・・・。

それにしても、親を失う悲しみは・・・消えないものだ。
悲しみの感情が消えなくても生きるすべを身につけているだけなのだ。
と、改めて・・・。だから、いつでも心にハンカチを。

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