早々と梅雨明けらしい。
今年は紫陽花とともに、この季節を愛でる時間が
あっと言う間に過ぎ去った。
暑さが、暦を待てずに爆発、夏が来た。
という感じだ。
もう電力が心配。
東京ではすでに大変な事態。
節電をしなければ、生活が成り立たない。
温暖化のせいで、年々夏の気温は上昇を続け、
夏が来るたびに恐怖が押し寄せる。
生きていく上には、暑さをしのび、涼もとらねばならぬ。
東日本大震災がなかったら、原発事故がなければ・・・
いろんなことが変わっていただろうが、
もうこれが現実だ。
人間がしてきた、さまざまな行為、判断が
すべて後に生きる人へ影響が及ぶ。
ひとりひとりの意識、行動が未来に負の遺産も
残す可能性も高い。
生きるということは、きわめて責任重大なことだと
痛感する。
暑さに加えて、コロナ対策。
どう身を守るのか。
これまでと一緒ではいかなくなることを
真剣に考えなければならない。
節電。
ちょっとしたことを全員が見直すことで
かなりの省力化にはなるようだ。
意識をするということ、実践するということ。
難しい夏がやってきた。
人間は、便利な時代を過ぎて、困難な時代を生きることに
なる。
夏が好きという人はたくましい。
私は、早く語尾にERが付く季節が来てほしい。
ああ、実家からもってきた紫陽花が枯れた。
ありがとう、短い時間でしたが、
両親の思い出とともに、楽しませてもらいました。
さあ、心して、夏に向かう。
夏が来た!心して。
揺れ動く、「自由」。
ああ、日本で良かった。日本人で良かったと思うことが多い。
今のところ・・ということにはなるが。
理不尽な戦争に巻き込まれ、住む場所を失ったり、
大切な人と別れ別れにならなければならない・・・・ということは、
今の日本にいる限りは、大丈夫そうだ。
次はアメリカでの女性にとって、決して自由とはいえない
法律の判決。そう、中絶の権利を認めないという。
宗教によっては、それを歓迎する向きもあるが、
(その宗教は自殺も認めない)
しかし、この現代社会では、しかも世界を代表する自由の国
であるべきアメリカで、そんな判決が出たということは、
驚きであり。悲劇だ。
人には、さまざまな事情があるにも関わらず・・・それよりも
いのちの尊厳を優先。
命はもちろん大切であるが、どうも男性社会の名残というか、
時代錯誤でしかないというか・・もし、これが日本であったら・・と
ぞっとする。
と、日々の報道に接し、複雑な思いで、世界と対峙する今日。
国を越えて、世代を越えて、性を越えて、人は自由であるべき。
それが、さまざまな観点から切り崩されつつある現在。
社会の分断がどんどん深まる。
お互いを尊重するとか、配慮するとか、相手の立場に立つとか
そういう価値はない人がいる。権力者の判断で多くの人が
自由も、夢もなくす。
法の下の暴力、とそんなことさえ思ってしまう。
21世紀の社会は、デジタルコミュニケーションは進化しているが
人としての生き方についての模索と、実践においては、後退しては
いないだろうか?
自由であり続けたい。自由に生きたい。
そんなことを改めて思うほど、理不尽な不自由があちこちに
現出している。
貧困がさらに増える心配も・・・。
誰一人取り残さない社会・・という世界と、この現実の社会は
同じ世界のことだろうか?
と思うことは多々ある。
それでも、今日も元気に自由に生きられることにただ感謝して
悔いない1日を創りたい。
一番の幸せは、自由であること。
これだけは間違いない。
いつまで、豊かな暮らし?
日本は本当に豊かな国だ。
そして、安全な国だ。
今のところ。
東京で生活していた23年に比べ、名古屋を拠点にしてから、
食生活ががぜん豊かになったと感じている。
美味しい野菜が安く手に入る。入りやすい。
海の幸も手に入りやすく、安価だ。
名古屋の味覚が合わないせいもあるかもしれないが、
外食の数もぐんと減った。
本当に恵まれた食生活をしていると実感しながら
この暮らしも5年になる。
一方、日本のエネルギーの備蓄、食糧の自給率などの
数値を見ると、とても心配になる。
とくにこのウクライナ情勢が、徐々に生活に影を
落とし始めている。
このままでいったら、こんなにキラクにおいしいものを
いただき続けることができないのでは?
食糧不足になったり、値段の高騰で手に入れることが
できないものが出てきたり・・・。
考えだしたら、きりがない。
SDGsをしきりに叫び、その方向へ向かおうと努力する
人々がいても、一方、戦争で環境破壊から、貧困、飢餓を
増大させる国もある・・・。
豊かな暮らしは、いつまでも続かないであろうと
危機意識をもつのも当然。そして、持たないといけない。
豊かな暮らしに慣れてはいけない。
いつ、何があっても柔軟に状況に対応できるように。
コロナが落ち着き、人々が活発に動き始めることで、
世界はもとには戻らないのに・・・と
憂う自分がいる。
豊かだったね。あの頃はよかったね。
と言わなくていいように。
まずは一杯のコーヒーに感謝し、
1日1日を大切に生きたい。
毎朝、淹れたてのコーヒーをいただけるとは、
本当に豊かである。
熱き就活キャンペーン。
急に、駅前が、街頭が、騒がしくなってきた。
選挙活動がスタートしたせいだ。
いつも思うが、選挙のときにがぜん頑張る候補者たちという印象。
なぜ、選挙のときは、「お願いします」と頭を下げ、
ひとたび、当選すればガラリと変わる人もいるのだろうと
不思議に思ってきた。
先日は、「本人」という襷をかけた女性が、信号待ちする人ひとりひとりに
名刺を無理やり配っている姿に出会い、そのあまりの積極性に一歩引いた。
政治家の就活キャンペーンとしか思えない、このイベント。
全部、税金だ。
もったいない。
なんのためにあるのか、参議院。
もっといえば、なんのための国会議員。
と思ってはいけないが、選挙のたびにいろんな思いが
交雑する。
候補者たちのプレゼンスキルも気になる。
にわか仕込みの大げさなゼスチャー。
自分の言葉で、伝わる演説が出来る人は少ない。
そんななかでも、共感できる人、期待できる人をみつけ、
その人に思いを託したいが・・・。
政治家は、言葉の仕事である。
コミュニケーションの仕事である。
伝わる力がなければ、声は届かない。
もちろん政策、考え方、内容あっての話。
よく見極めて、選ばないと・・・。
自分がもう少し若かったら・・と思うところもある。
いや、今も若いが・・・。
いろんな思いが交雑するこの期間。
必死に活動する人々をよく見ながら、
いろいろと考える機会としたい。
改めて言葉の力、伝わる力。そして見極める力。
いずれにせよ、この税金イベントを、
他人事で終わらせてはいけない。
高級の普及は、中級?
近所に大型スーパーができたせいで、リサーチがさらに楽しくなってきた。
これまであまり馴染がなかった商品にもたくさん出会い、店舗の品揃えに
感心しながら、気になった商品を手にとり、ネーミング、パッケージに
至るまで眺めていると1日でも過ごせそうだ。
マーケティングの仕事には、こういった時間も大変貴重。
そんななか、パン売り場を眺める。誰もが知る、大手パンメーカーの棚である。
あんぱん、クリームパン、昔ながらのアイテムから、今の流行りものまで・・・。
ふと目が止まった。
「高級あんぱん」と書いてある。お値段158円。へえ、この値段で高級なんだ。
じゃ、高級じゃない普通のあんぱんは?確かに半額ぐらいで買えるものもある。
子どもの頃、この「高級」という文字が入ったあんぱんはあっただろうか?
記憶にない。高級は大人のための言葉なのかもしれない?特に最近の・・・。
そして、食パン。この大手メーカー製のものにも、今流行りの高級食パンがある。
400~600円ほど。高いものはコンビニやファーストフードで予約制だったりする。
コンビニやファーストフードで買うものが高級なんだ~。そうなんだ。そう?
そして、この3~4年か、店舗が増えた 高級食パン専門店。国道沿いからエキナカ
までいたるところに、この業態。いつまであるかは、ちょっと心配であるけれど・・。
食パンとは、もともと庶民のパン=毎日食べる食事のパンであるはず。でも、それが
高級専門店で単品販売されてしまうのだ~。
お値段は1斤1000円ぐらいか。高級×食パン。このギャップが受けているのかも。
他にも、高級ブランド、高級車、高級時計、高級レストラン、高級マンション・・・。
世の中は、「高級」であふれている。
人々は高級に弱いのかもしれない。しかもアジアの、日本の人々は。
それは、日本の場合、中級(中流)で育ってきた人が多い、中間層が
圧倒的に多いせいなのかもしれない。
プチ非日常の、ワンランク上の高級品を持つことがステイタスであったり、
楽しみであったり・・人生のひとつの価値にもなってくるのかもしれない。
子供のころには、そんな興味はなかったはずが、大人になると、高級な
暮らしに憧れる。そんな日本は、一見、豊かな国だ。
平和だ。本当に・・・。
モノでの高級を求め、幸せな気持ちになる。シンプルといえばシンプルだ。
本当に豊かな人は、高級を求めないだろう。
とにかく、まちは高級であふれている。
こんなにたくさんあったら、結局は、中級じゃん。と思ったら
笑えてきた。
いつまで続く?この高級志向。
小さな歓びを味わう!
人はそれぞれ、自分に与えられた課題に向き合っている。
それを解決すること、いい結果が出るように努力すること。
そのことがまさに「今日の使命」ということになるのだろう。
それは仕事であったり、家族のことであったり、自分の健康の
ことであったり・・・。
何も課題がない人はいないだろうし、課題がない人生は
退屈でつまらないのだろう。
課題があるから、生きる意味がある。やりがいもある。
と思うようにする。
だから、少々ちょっとしんどいと思うことでも、
逃げずに立ち向かう。
そして、流れにのって(流されるのではなく)うまく
前に進んでいく。
そうすると、必ず、小さな発見や歓びに出会い、それが
楽しみになってくる。
それがみつかると仕事も介護もがんばれる。
今日はここまでやったら、あそこで美味しいコーヒーを飲む!
でもいいし、町に出て散歩する。でもいい。
雨露に輝く紫陽花を眺めて、この季節を楽しむのもいい。
「ああ、がんばってよかった!」
「ああ、きれいだな~」
と思えるひとときが、小さな歓びだ。そして、それは大きな歓びになる。
そのように、毎日奮闘する合間に、自ら歓びをみつけ、それを味わう。
それが豊かな1日、人生につながるはず。
毎日、中途半端ではなく、小さなことでもやりきることで
歓びに多く出会えるはず。
さあ、今日はどんな出会い、どんな学び、どんな交流?
きっと新たな発見、歓びもみつかることだろう。
と新しい朝をポジティブにスタート、
今日も元気に京へ向かうとする。
苦しいときほど。
人生は、山あり谷あり、苦あれば楽あり。
本当に、毎日いろんなことが起きる。
それらにひとつひとつ真剣に向き合うことで
キャパを越えそうになったり、息苦しくなったり
ストレスがたまっていくこともある。
やはり、緊張と緩和。この塩梅が人生を生き抜くコツであると
思う。
また、いい加減にやりすごすというのも、ありかもしれない。
周囲にはそういう人もいる。
最近は、苦しいときほど、
「今日が最後かもしれんから、がんばろう」
と自分にエールを送る。
いつまでこの苦労が続くのだろう、とこれからまだまだ続くかも
しれない果てしない道のりを思い浮かべるよりも。
「いつか終わる、今日かもしれぬ」
と思えば、わりきれるし、楽になるし、覚悟も生まれる。
ふと親の介護で奔走していた日々を思い出す。
いつまでこんな生活が続くのか?人はいつまで生きるのだ?
と問いながら毎日、不安の道を手探りで生きていた。
でも、もしかしたら
今日で明日で、終わるかもしれないから、と走り続けていた。
それは悲しいけれど本当にそうなってしまい。
今となれば良き思い出になりつつある。
人間は生身だ。
だからこそ、
苦しいときほど、今日で終わるかもしれないから、
今日を精いっぱいやろう!いいこともいっぱいあるから!
誰かが必ず見ていてくれるから!
と、今一度、自分を鼓舞して、前に進みたい。
そうやって生き続けて、そのまま本当に終わってしまうのか、
違うフェイズに持ち越していくのか、
それはわからない。
ただ、時は止まっていない。そして前に進んでいることだけは
確かだ。
目立ってなんぼ。
企画する人たちへの応援の仕事。
提案書のチェックというのも多い。
とくにコンペの場合の企画書は客観的に事前チェックをすることは
有効だ。
直前になればなるほど、もう企画段階の話ではなく、プレゼンのテクニック
の話になる。
たとえば、企画書など提案する資料が、相手にとってどんな印象になると
より伝わるか。コンペであれば、いかにプラスイメージで目立つか。
真面目なだけでは興味をもってもらえない。
たとえば、表紙は大切だ。
「本文に出てくるエッセンスを少し表紙でちらり見せたら?」
「相手の組織のイメージは、花ならば、そんなイメージを表紙に入れて
雰囲気よくしたら」
「もっと色をカラフルにした方が見やすい」
「通し番号をちゃんとつけた方がいい」
受け取った相手にとって、不便なないようにしておかないともったいない。
せっかく考えたプランがそのまま、スムーズに相手に理解されるように。
そのためにも、目立ってなんぼ!
AIDMA的にもそこは、やはり最初の重要ポイントなのだ。
それにしても、プランナーと言う仕事。
私も長くなっていた時代があるから、苦労もわかるが、皆さん素晴らしい。
ゼロから形にする仕事は、本当に大変なのだ。
なんとか、せっかく考えたことが、カタチにできるように、
心からのエールを送る。
即興力を生かす。
ピアノに向かうと、そのときの感情がキャンパスに絵を描くように
メロディーとなって現れる。
指の赴くまま、心の動くままに、音を重ねていくと一曲の小品ができる。
そのひとときを、たまに楽しんでいる。
ピアノがなく、歩いていて歌うときでも、同じことが楽しめる。
ちょっと贅沢、心豊かになれる、ひとときでもある。
但し、録音や記録しないと、その時限りの作品として消えていく。
不思議なことに、子どもの頃から、この即興が得意であった。
何も考えなくても、鍵盤の前に座ったら、勝手にメロディが
出てくる、勝手に指が動く。
確か幼稚園の頃、オルガンに向かってもそうだった。
また、聞いたことある曲が弾けたり、勝手に伴奏を付けたり・・・。
演奏には、楽譜どおりきちんと弾くということはもちろん
重要であるが、即興や初見という力も求められる。
そのどちらもなぜか得意だった。
即興はまさにアドリブ。ジャズのごとく、すらすらと湧いてくる音を
弾いていく。初見は、知らない曲の楽譜を見て、すぐ弾けるかどうか
というもので、どちらも努力や練習を要さない、芸当?で
練習不足、努力が嫌いな
私には都合が良いものだった。
それで、ごまかしてきたことも正直、あったかもしれない。
アドリブができると、実はずるくなる。
しっかり記録をとったり、何度も練習しない。
その場その場で、ごまかせることで、満足してしまう。
努力した上で、アドリブができるのが一番良い。
自分のオリジナル曲のほとんども、もともと即興から生まれた。
歩きながら、浮かんできたメロディを記録してという流れ。
作曲とはそんなものだと思う。瞬間芸の集積なのだ。
この即興力。
日常では、柔軟性とか自由に置き換えることができるか
もしれない。
その場の発想、着想をうまくカタチにしていく。
もっともっと、意識して生かしていきたいと思う。
即興。
もっと人生のなかで楽しみたい。
ピュアな才能が見える瞬間でもある。
そのためには、やはり日頃からのインプットが
大切であり、
出会いがしらのアクシデントも意味
があるのかも。
もちろん新たな出会いが多いことも
豊かな発想につながるだろう。
父なき、父の日。
今日は父の日だそうだ。
ここんところ、〇〇の日にはアンテナを張らなく
なってきたせいか、最近までその日も忘れていた。
昨年の今日、父は生きていた。でも、コロナで会えず、
また寂しい毎日を送っていた父に、元気な頃のような
プレゼントはできなかったが、手紙を書いて
届けた記憶がある。
それが今から思えば、最後の父の日。
父なき記念日は、寂しさが募る。
実家に咲く、紫陽花を1本持ち帰る。
そして、
父との会話を思い出すが、気になる言葉ばかりが
蘇る。
「わしの人生、終わったわ」
「おれの気持ち、おれにしかわからん」
免許返納後、そして病に倒れてからの
父の心の叫びが蘇ってくる。
そのことに、何もしてあげられていなかった
ような気持ちになる。
人生はずっとピークではありえない。
下り坂が必ずくる。
父のことを思い出す。
いろんな顔、いろんな場面・・。
そして、ふと、ピアソラが亡くなったお父様のことを
しのんでつくった「アディオス ノニーノ」(さよなら、お父さん)
のことを思い出し、ブエノスアイレスから持ち帰ったバンドネオンの前に、
紫陽花をおいてみると、あのメロディが蘇る。
自分が撮った長良川の漁火の写真と、紫陽花と、ピアソラ・・・・。
(漁火も父を想い出す、ふるさとのシンボルだ。)
私にとっての今日の父の日は、不思議な組み合わせ。
父を静かに思い出し、懐かしむ1日にしたい。
会いたくなるのが、たまらないけれど・・・。
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