「ほんまに、ええ人やった」

この猛暑でも、実家には定期的に足を運ぶ。第二の仕事場、スタジオというか。
クリエイティブな空間として、自分にとって必要な場所になりつつもある。
そして、行くことで親たちに会えるような気もする。喜んでいるような気がする。

「また来たよ。」「じゃ、また来るわ」「じゃ、よろしく頼みますわ」と一人で
声をかけることにも慣れつつある。あまり考えないようにもしているが。

思い出は、実家だけでなく、実家と最寄りの駅までの道中にもあふれている。
春になると桜が咲く、川沿いの道。
この道は、幼き頃から高校時代まで、そして最近は親が旅立つ最後の2年ほど、
本当に数えきれないほど往復した。
ドキドキはらはらいろんな気持ちを抱きながら ひたすら家に向かい、また違う
気持ちをもって駅に向かい・・・の緊張感にあふれた生活は随分昔のように、
今は静かだ。

つい先日も、その道を歩きながら、過ぎた日々を思い出していた。
すると、目の前に、犬を連れたおばあさんが現れた。
こんな暑いのに、散歩なんだ。犬に引っ張られているな~大丈夫かな。

犬の無邪気さとおばあさんのこの一体感が微笑ましくずっと見ていたら、
どこかで見たことがある顔だ。
思わず「こんにちは!」と声をかける。
すると、おばあさんも
「こんにちは。あ。あれ?」
と私の顔を見て、表情が変わった。

「もう1年になるねえ。ほんとうに寂しい。としちゃんは、本当にいい人やった。
気前がよくてなんでも人にあげてた。あんな人はおらんかった。」
と、母のことを話し始めた。
そう、この方は、母のすすめで、私のライブにも来られている。
こちらもだんだん記憶が戻ってきた。
「いやー、ほんとうにお世話になりまして。」
「ねえ、さびしいね。ふたりともいなくなってしまって・・」
その間、犬がどうなっていたかはわからないが、そんな会話でしみじみ・・。

亡くなっても、寂しがってもらえて、「いい人だった」と言ってもらえて
母は、本当に幸せな人生だったな~。と、1年以上経過した今、改めて
思う。
そのおばあさん、奇遇にも母と同じ名前であった。
「じゃ、敏子さんもくれぐれもお元気で。長生きしてくださいね。
またお会いしますね。ありがとうございました」
お互い、元気に手をふる。

「いい人やった」の言葉を胸に、駅にたどり着き、涼しい電車に
乗りこんだら汗とともに、マスクの上から涙が・・・。

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戦争と平和と「伝え人」

ウクライナの惨状をこんなに身近に知ることができたのは、
ネットの普及のおかげ。
でも、知りたかったか?と言われたら、知らない方が幸せだったかもとも
思う自分もいる。
そう、人間は知らない方が幸せなときもある。
でも、現実から目をそらし、何もしないのは、賛成できない。
知ることができる環境のなかで、何ができるか?が大切だ。

人間は時代に関係なく、戦争する。
学ばない人がいる。
悲しい動物だ。
そのために被害を被る人がたくさんいる。
今も、まさにそうだ・・・。

そうならないために、同じあやまちを繰り返さないために・・と
活動を続けている人たちの活動、仕事がある。
色んな活動があるが、そんな中でも私自身が刺激をいただいている事例。

ひとつはジャーナリストという仕事。
今も、大学の講座を受講し続けているが、世界情勢を客観的に俯瞰しながら
主観をもって、いのちを守るためのメッセージを発し続けている。
自らがチェチェン戦地などにも出向き、精力的に取材を続け、発信して
こられているジャーナリスト、横村 出氏。
講座では自らが撮影してきた戦地の惨状をそのまま示され、ありのままを
伝えたいとされる。自ら命をかけて活動されている力強さを感じる。
ちゃんと伝えようとすることで、受け取る側に問題提起を与える人。
戦争にならないためにどうすればよいかについてのメッセージを送る。
私は、その講義の内容はもちろんであるが、横村氏の仕事への向き合い方、
姿勢を学ばせてもらっている。

もうひとつは、被爆体験を語り続けていこうという朗読会の活動。
この週末も朗読によるこの語りを聴かせてもらったが、
想像力をかきたてる朗読で、聞き手に戦争の悲惨さをイメージさせ、
忘れないように働きかけ続けることは本当に根気のいる活動であると
改めて思う。
それをやり続けておられる人たち。
たまたま、最近出会った、被爆体験記の朗読「永遠の会」。
ボランティアの皆さんの思いはただひとつ。
事実を語り継ぎ、後世に伝え続ける。この悲劇を忘れてはいけない、
同じあやまちを繰り返してはいけない。そのために語りつぐ。
皆さんの、力強い言葉にその想いがしっかり籠っている。

いずれも言葉や文字で「伝える」活動・仕事だ。
武器をもって相手を責めない。傷つけない。

コミュニケーションで、人は幸せになれないのだろうか?
平和を願い、自分ができることを、もっとしないと・・と
心から思う。

自分ができることで、一生懸命伝えようと行動される方に
改めて敬意を、拍手を送り、応援を続けたい。



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長崎に行った気持ちで応援し、学ぶ!

実はこの週末は、長崎にいる予定であった。
春に長崎を訪ね、原爆資料館に隣接する長崎原爆死没者追悼平和祈念館で
出会った朗読の会の方に、ご紹介いただいたイベントに参加しようとの計画で
あった。
ぜひ出向いて勉強し、また平和のための活動を地道にされている皆さんを応援したいと
思っていた。そして、それをきっかけに、自分が今後できることを模索しようと思って
いた。

そのイベントは、「ナガサキ映画と朗読プロジェクト」である。


ところが、このコロナ感染の急拡大。
来週もさまざまなイベントなどが控えているため、大変悩んだが、直前になって
出発を見送った。
誘ってくださった現地の皆さまにも申し訳ないと思ったが、また改めての再会と
とメールでやりとりを続けていた。

残念な気持ちで土曜を過ごしていたら、さきほど長崎から、配信で観ることができるとの
連絡が入った。
そうなんだ!もっと早く気が付くべきだった。

ということで、長崎にいなくても、配信で参加することができる。
今回、このことを教えてくださった被爆体験朗読「永遠の会」甲斐さんも朗読をされる。
(16時ごろからの「原子野に生きる」の予定)
また、1日目23日分の配信にて、最後のプログラム「浦上の丘に立ちて」でも
会の代表大塚さんの朗読も視聴できる。

【公式】ナガサキ 映画と朗読プロジェクト (nfrp.jp)

コロナに慣れたおかげで、現地に行けなくても参加できる。離れていても応援できるのだ。
ということで、ご興味ある方は時間あるときにチェックしていただけるとありがたい。

原爆投下の日が近づいたから・・だけでなく、いつもいつも平和な社会を願い、自分たちが
できることをし続ける、思い続けることが大切だと思う。
そして、経験を伝え続ける人々に敬意を表し、応援を続けていかねばと改めて思う。
この思いにあふれた本プロジェクトの成功を名古屋から祈りつつ・・・。

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夏の挑戦、やりますわよ!

いやはや、ほんとうにやるんだ。
という感じで、チラシができてきて、あと1か月しかない!と
思わず目を疑う。
いつもこんな風にバタバタとはじまる。
そして限られた時間に集中して、本番に突入。
このバタバタ仕事が、実はとても好きだ。
ドキドキ、わくわくな1か月を過ごせるからだ。

今回上演の作品は東京と上田で、コロナ前にやったことがある。
それも懐かしい。マスク不要のあの自由な時代のステージ・・。

今回は再演。キャストが変わる。
しかも10代の若い人と一緒に出演だそうで・・。
「マーサさん」と呼ばれるこの仕事は、なんとも
不思議な感覚だ。
異世代の初顔合わせで、どんな作品にしあがるだろう。
付箋をいっぱい貼った台本捨てないで良かった。

「真夏の雪」。とてもいいタイトルで、中身もなかなか・・。
女性作家らしい、しなやかさが出ていて、とてもドラマチック。

チャンスをいただきうれしい。クリエイターとしても
オファーされる仕事があることは幸せだ。

公演の詳細はこちら!
https://www.blets.net/%E6%AC%A1%E5%9B%9E%E5%85%AC%E6%BC%94%E6%83%85%E5%A0%B1/

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一緒に挑戦しよう!の夏本番。

京都出身の脚本作家とは、東京の作家大学で知り合った。
本当に得難い貴重な出会い。
このおかげで、東京でのクリエイター活動も続けることが
でき、幅も広がった。

コロナを恐れながら行った、今年2月のバレンタインの公演から
はや半年。
で、またやる!ということに!!
今度は大丈夫かな?と思っていたら、ちょっと怪しいコロナ・・・。
でも、それでやめることはない。
やると決めたら、やる!
気合いでコロナには絶対ならへん!
とお互い言いながら、駆け抜けた2月の公演が今となっては懐かしい
が、また同じ気持ち、ドキドキのスタートだ。

集客がままならなかった2月よりは、集まっていただけるかな?
と心配は尽きないが、やると決めたらやる!
この作家と私の共通点はここだ。
ふたりで握手を交わし、キックオフ!

ということで、8月26日から再び東京下北沢で朗読劇と生演奏!
作品は「真夏の雪」再演。
なんと今回は18歳の役者さんとも共演できるそうだ。
多くの若者が本作品を演じたいとオーディションにエントリー
いただいたようで、光栄だ。

同じ作品でも人が変わればまったく違う。
ということで、忘れかけた作品を思い出しながらピアノ演奏
の仕事を再び!
クリエイターとして仕事ができる時間が楽しみだ。

そろそろチラシもでき、告知もはじまる。
本番があると、なぜか気が引き締まる!

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どんどん再会しよう!

何かのきっかけでしばらく会えなくなってしまった人。
でも、ご縁がある方とは、必ずまた出会えるようになっている。
と、そんな風に思うことが多い。

今回も、なんとなくご無沙汰して十数年・・・の方に再会。
知らない間に、当時からお世話になっていた会社の社長さんに
なっておられた。
どんなオーラを放っておられるかと楽しみにしていたが、
昔のままの笑顔と明るさ、そして自然体。

話は2時間半も続いた。
話題が切れることはない。
営業歴の長い方であったため、大変参考になるお話しも
いただいた。

売りに入ってはダメ。
相手が何を欲しているかをまず知ること。
機微んのわかる人になれ。
営業として、そんなことを先代から教えられたと語ってくださったのが
とても印象的だ。


「今日は本当に久しぶりにお会いできてうれしかったです」
「これからも、またお願いします。また会いましょう!」
と固く長く握手。

再会できてよかった。
心からそう思い、なんだか心が晴ればれした。

会いたいと思う人。とはぜひ会っておきたい。
相手も自分も元気なうちに。
また会おうと元気に分かれられるうちに。

と思っているうちに、次会ったときのネタがもう
浮かんだ。
会いたい人との関係は、こういうものかもしれない。
縁はつづくよ、いつまでも・・・。

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真の「よりそい」について考える。

最近見た何かの記事で、「寄り添い」という言葉が嫌いだという
どなたかの発言を読み、ああ、そうなんだと思った。
好きとか嫌いというものなのかと。

一方、人間とは一人では生きられない。
お互いに協力しながら、助け合いながら生きていけるものだと
思う。

困っている人、傷ついている人がいれば、やはり、
そっと手をさしのべ、助けるということは、
人としてすべき当然のことだと思う。
しかし、あまり遠かったりすると、実際に近くまでいったり、
関心を寄せ続けることができず、心が離れてしまうこともある。

「よりそい」には身近だと感じることができる距離というものが
前提にあるのかもしれない。
あまりに遠くからでは、その目的を果たしづらいのかもしれない。
「よりそい」とは、寄って、添うものだから。

また、「よりそう」とは、抽象的な言葉になりがちであるが、
役に立つためには、より具体的なことをしたい。

また、瞬間的な寄り沿いは、容易であるが、継続して長きにわた
って応援し続けることは難しいかもしれない。

と、最近、情報も少なくなってきているウクライナのことを
思いながら、そんなことを思い、一種のジレンマも感じる。

一人の人間。自分ひとりが生きていくのが精いっぱいなので、
他方に目を向け、多くの人に寄り沿って生きることが難しい
かもしれない。

でも、出来る限り、自分ができることがあれば、気持ちがそちらに
向くのであれば、応援を続けたい。

今、改めて世界に目を向けてみる。
自分が生きる世界の小ささ、自分がいかに、何も大したことが
できない存在かを改めて知る。中途半端だとも思う。

でも、何もできないわけではない。
今日で会う人との関わりのなかでも、できることはあるし、
海の向こうで気になる人があれば、できることをすればよい。

寄り添う生き方。
思えば自分自身が、多くの方に支えていただき、生きている。
気づかないだけで、多くの人のおかげで・・・。

他人事として片づけずに、「自分事」として、物事をとらえ、感じ、
行動したい。もし、自分がそうだったら・・・と。
そう、思えるかどうかが、寄り添いの第一歩かも・・・。

そのことを忘れずに、今日も1日を生きるとしよう。

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いつでも、世界旅行の贅沢。

コストをかけない世界旅行。しかもタイムトリップも含めて・・。
そんなことができることに気づかせてくれたのは、コロナ。

2020年1月以降、パスポートを使うことがなく、渡航のチャンスを
持てないまま、まだしばらくは、難しい。
そんなこの2年半の間に、覚えたのが「ピアノ」で出かける世界旅行だ。

弾きたい曲で行きたい国へ行き、会いたい人に会える。
これはなかなか面白い。
たとえば、ベートーベンのピアノソナタ8番を弾きだす。
すると、ベートーベンの生家のことが浮かび、その町ボンの
駅前からその家までの道のりが頭に浮かび、とくに12月の町
の賑わいが出てくる。さらには何度も出向いたベートーベンの
お母さんマリアさんのお墓も出てきて、ありがたい気持ちが
高まり…。

次はバッハの昔懐かしいインベンションを弾きながら、
コロナの直前に駆け込んだ、アイゼナハの駅が浮かび、
バッハハウスまでの道のりと、このミュージアムがとてつもない
観光地になっていて驚いたことを思い出し・・・。
帰りの電車に遅れないようにと走りながら、道を尋ねた人達の
親切さが懐かしくなり・・・。

次はショパンの即興曲などを弾きながら、ポーランドで
生まれ、パリで亡くなったショパンの物悲しい半生を
想像し・・・。ワルシャワがまだ行ったことがないが、
パリの亡くなったヴァンドーム広場を思い出し、ロマンチック
な気分に浸り・・・。

旅の締め。せっかくなので、と足を延ばしNY経由で
アルゼンチンに行こうと
おもむろに、ピアソラのオブリビオン(忘却)やリベルタンゴを弾きだす。
そうピアソラはNYを拠点にしながら、いつもふるさと
アルゼンチンのことを思っていたから・・・。
ブエノスアイレスの街並みがパノラマのように浮かび
タンゲーラ店内、あの老舗カフェのスタッフのこと
など・・・昨日出会ったかのように蘇る・・・。

とそんな具合に2時間ほど次々と各地を巡り、その地で
作曲家たちに出会い、また実際に出会った人たちのことも
思い出す。

経験があるからできることだ。コロナ前の経験は宝。

本当に、豊かな気持ちになる。
免税店も食事もついていないが、本当に楽しい旅。
いつでも行ける。コストもいらない。

これからも、思い立ったらいつでも行けるように、
ベートーベンやショパンやピアソラに会えるように、
もっと練習を積まなくちゃ。

人は、想像と妄想で結構楽しく生きられる。
さあ、次はどこの誰に会いに行こうか。


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思わず涙の、お囃子の音。

仕事で数えきれないほど京都に出向いているが、
この連休は足止め。
静かなところで過ごしている。
でも、少しだけあの賑わいが気になって、祇園祭りのライブ中継を
ちょっとだけ見てみる。
大変スローで躍動感とは対極にある、お上品なおまつりの生中継
というのも、解説が大変だなと思いつつ、それは流し聞きしながら、
お囃子の音に注意が向く。

ああ、懐かしい。ああ、懐かしい。
本当は生で聴きたかった。

そして、馴染みの四条通などを鉾たちが巡業していく様を
見ながら、なぜか涙があふれてきた。

はじめて京都に来たときに、初めて観た感動。
学生時代は四条麩屋町のビルにあった企業でバイトをしていたため、
そのビルから鉾を眺め、興奮したことが蘇った。
会社員時代のこと、そして独立してから祇園祭りのときに
四条木屋町を上がったところの会員制クラブで
ライブをさせてもらったときのこと・・・。

私の青春がまるごと蘇り、今は亡きお世話になった方々や
友人のことを思い出し・・・。
そこに、あのお囃子の響きが加わる。

どんな感情も静かに収めてくれる、不思議な音色。
これが、京都どすえ~。

多くの人が鉾巡業を見守る様子を涼しいところから
眺めながら、
あっついやろうな~。
でも、それが京都の夏。
この祭りが終わったら夏本番や。

とひとり解説をして・・・。

2年実施できず、久しぶりの祇園祭。
それはそれはおめでたいこと。
心からおめでとさんどす。

でも、コロナが心配。
きっと感染者も増えるだろう。

でも、開催できてよかったと思う。

ああ、泣けてくる。わたしの祇園まつり。

今日の京は、その余韻を楽しむお客さんでまだまだ賑わっている
ことだろう。

まだあのお囃子の音が、頭の中で鳴り響いている。

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意見が自由に言える社会こそ!

おかしいな。なんで?腑に落ちない。なんで、今なの?なんで?
と、この7~8年。心からおかしいと思うことがあっても、
世の中は、そちらの方向に動き、納得できない自分がいる。
自分はよっぽどマイノリティなのか?と思うことに慣れているが、
それでも、恣意的に世の中が動いているのではと、つい猜疑心をもつ
のが当たり前になりつつある、今日この頃。

物事をまっすぐ見るということは、目の前の現象を
ただ、鵜のみにするということではなく、
俯瞰して、しっかり見る、いろんな視点から客観的に見て、
そして、自分の考えをしっかりもつと言うことだと思っている。

どんなときも、おかしいと思ったら、「それはおかしいのでは?」
と言える人がいないといけない。

自分の意見を伝え続けることで、
周囲に伝わり、風を変えることもできる。
もちろん、言い方はある。言えばいいというものではない。

民主主義、民主主義と今、言っているけれど、
暴力の対局にそれがあるということのようであるが、
思っていることをきちんと口に出す、自由に議論することができる
ということこそが、民主主義ではないか。
それって、できているだろうか?

最近、民主主義の下で、と改めてよく耳にするが、
私にとっては、少しうすら寒い感じもする。

もっとモノを言うことを生業としている人たちには、命を賭けて
言論の自由を実践してほしい。討論してほしい。
きちんと見えるコミュニケーションをしてほしい。
批判や否定から入るのではなく、あくまでもポジティブに。具体的に!
ぬるい、あまい。伝わっていない。
そして、なんとなく、流されていく。では未来がない。

今、この日本は、もっと内面から自立しなければ。
そのためには、ひとり一人がもっと学び、世界に目を向けなければ。
もちろんそれをしている若者たちもいる。
その声をもっともっと世に出していかねば。
社会は未来を生きる若者たちのためにこそ、あるのだから。
と、思っている。

先日、パリ祭があった。市民が自由を勝ち取った記念日。
ふと、その時代を自分なりに想像を膨らませながら、
今の日本を改めて思う。憂う。なんとかせねばと思う。
まず、己がもっと知見をもつこと、良質な学びを増やすこと。
そして、自分にしかできないことを、必ず実践すること。




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