お金の使い方。

最近、「いったい、誰のお金なんだろう」
と思うことが多すぎる。
オリンピックから、先日の武道館で強行された国の?行事。
さらに、急にはじまった旅行支援。
全部、膨大な費用が必要な取り組みである。

そのお金は湯水のように湧いてくるものなのか?
それは一体誰のお金なのか?
お金のなる木が、どこかにあるのだろうか?

コロナが落ち着き、経済の活性化のため、
ダメージを受けた観光業界を支援したい
という意図はわからなくはないけれど
お金の使い方は、気になるばかり。

安く旅行に行けるなら、ありがたいと思わなくては。
とは思うのであるが、
例えば、京都が、またあの騒々しい様相に戻ってしまうことに
心から不安を感じている。
昨日、すでに京都駅の回転寿司店に、外国人観光客が席を並べていた。
これから、爆発的に増えることが心配だ・・・。

住民の暮らしに悪影響が出るような過熱ぶりは勘弁してほしい。
と、思う方も少なくないかと思う。
早くこの支援が終わり、普通に旅したい人が普通に旅する状況に
戻ることを切に願っている。

お金の使い方。
もっと、困っている人に役に立つ使い方があるはず。
お金。無限ではない。
次代の皆さんが少しでも楽ができるように考えたら、
無駄遣いはしないだろう。

狂ってませんか?金銭感覚。
小手先の消費施策は、もったいないだけ。
あとでツケがが回ってこないかと心配だ。

ふと、
会社員時代のクライアントが
「売るより、買う方が難しいんだよ」
と言われていたことや、
昨日、ある企業で購買担当者が
「お金は大切に使わないと。一円でも安く仕入れないといけないので
交渉が大変です」
と言われていたことがよみがえる。
現実の社会では、ビジネスでも、暮らしでも
皆さん、お金の収支について真剣に考え、
やりくりをして生きている。

お金は稼ぐことも大切であるが、
使うことにも神経を使いたい。
資源は有効。
無駄使いをしないで、うまくやりくりしながら、
皆が幸せになれること。
そこに頭を使うのが、よい。

自分が汗水たらして働いたことがないと、
使う感覚も違うのか・・・。

もう一度、
限りある資源を大切に。有効に。
自分自身にも言い聞かせる。




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その人にとって、自分は。

最近、考えることのひとつ。
自分が人生の最後の最後に、問いたいことについて。
たとえば、妹に対して。
「私は、いいお姉ちゃんだったかな」。
と聞いたとき、彼女はどうこたえるか?

妹は、今となれば、ひとりの肉親ということになる。
生まれながらにして、いやおうなしに家族の一員同士であったから、
彼女には、「いいおねえちゃん」として、最後
終われたらいいと思っている。

同じように、愛する人にとっても、「本当にいい人だった」
と思ってもらえるといい。
出会った人みなさんに、「いい人だった」と思ってもらえる
ことが一番の幸せだと思っている。

そうなるためには、日頃からの積み重ねだ。
人のことを本当に思い、優しく、ときには厳しく・・・。
まごころで、接することができるかどうか。

自分自分ではなく、相手にとって自分ができることを
考え、手をさしのべ続ける。
自分ができることを精いっぱいにやり続ける。

「いいおねえちゃん」で締めくくれるように。
最低限、迷惑をかけない生き方、しまい方。

そしてかかわる人にとって、かかわった意味がある人に。

最後の場面を思ってみたら、
意識も行動もおのずと変わる。

その人にとって・・・。
その目線と行動を大切に。

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一番良かった時を残して。

まもなく父の旅立ちから1年となる。
もう?まだ?と、なんともいえない気持ちである。
ただ、そろそろ、と次の段階に移っていかねばという
自分がいる。

この1年間は、いろんな後処理をしてきた。
まだ途中である。おそらくずっと途中のまま生きていくのだろう。
そんななか、1年前は両親が亡くなる直前までの思い出も
大切に保管していた。
たとえば、施設や病院にお世話になっていたときの資料
やそこで使っていた道具など。
これらを親たちの最後までがんばって生きていたという証拠のためか
処分せず、そのままにしていた。
でも、この1年間。親たちが弱ったときの資料には目を向ける
ことがなかった。
それを見ると、そのあとお別れ・・まで思い出してしまうから。

それよりも、健康で元気いっぱいの頃の思い出を優先して
残しておこうと思い、写真やモノも選び、残すようになった。

両親たちにとっても、私にとっても
一番元気で、良かった時代。
このときのことを折にふれ、思い出したい。
悲しい思い出は、そっとしまっておく。
と思っても忘れられないのだが・・・。

親たちが50代前後から。
子供も独立して、自由に生き始めた時代。
そう、50代から70代までが、花盛りたったかも。

これからも毎日心のなかに住み続ける親たち。

一番威勢のいい時の、元気なときの・・・
がいい。

墓に行き、
「もうすぐ、1年やね~。どうやね、元気にしとるかね?」
と、元気だった二人の姿を思い出して話しかける。

不思議だ。時は流れるもんだ。

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難書との向き合い方。

久しぶりに、哲学系の書籍で、翻訳ものを入手した。
たまたま 売り場でその本が目立っており、タイトルと
表紙の色が自分を誘惑した。
なんだか、面白そうと思い、でも最後まで読めるかなと
何度か店頭で眺めた上で、帰ってから、よし挑戦するぞ!
とネットから注文。
哲学書は心に、時間にゆとりがないと、読めない。
さて、今日こそは、と本を広げる午後の時間。
本を開きページを最初からめくると、翻訳にあたってのまえがき・・
という まえがきのまえがき・・のような書き出しがあり、
そこから躓いた。なんだか面倒くさそうだな~。
知らない名前、修飾語が多すぎて、すんなりと頭に入ってこない。
いったりきたり、そして「ん?」と思って戻る。睡魔も襲ってくる。
読書では、文字が言葉となって、すいすい頭に入ってくる場合と、
何度もうろうろしてしまう場合がある。
今回は、後者か?悔しい。最後までなんとか読み通したいのに。
気合いで文章を追いかけるが、なぜか頭に入りにくい。
専門用語が多すぎるのか、訳文の個性によるものが、いやいや
こちらの理解力が乏しいのだろう・・。

諦めて、しっかり読もうとするのではなく、まずは流し読みを
しようと思った。
目で追いかけているうちに、気になる言葉が入ってくるのではないかと。
そして、最後までいく。
残念ではあるが、理解ができていないままだ。共感できるフレーズが
探せない。

悔しい。
でも、焦らず、一度本を閉じて、しばらく他のことに頭を切り替える。
しばらくしてから、もう一度その本を開く。
最初を読む。あ。少しは覚えている。
ということは、頭に入ったかな?

ということで、難書は焦らず、何度も何度も開きながら
ゆっくり読み進めることに。
この読書が楽しいかどうかは別であるが、
抽象的な表現や、自己満足的な描写も少なからずなので
一言でも、二言でも役立つ言葉に出会えれば良い。ぐらいの
気持ちで向かい合いことにする。

学生時代に向き合った哲学書も、本当にそんな本が多かった。
難しいことを、やさしく書いてほしいのだけれど。
哲学者には、サービス精神とか、顧客志向という発想は
ないのだろう。
すべては自分を疑うところから始めるぐらいだから・・。

などいろいろあるが、
たまには、難書も悪くない。
本を通じて、普段考えないことを考えてみる、
新しい発想に巡り合う、心の旅時間をもつことが何より大切だ。

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コロナで変わったことを改めて。

約3年ぶりか。コロナ前に似た、生活が戻りつつある。
ずっと受講してきている大学の講座も、コロナによりオンラインのみで
開講していたが、やっとやっと対面授業が再開となった。
でも、オンラインも可能という、ハイブリッド式に。
今の私にとっては、とても都合が良い。

今回も私自身は、パソコンのモニターから、先生の話を聴く。
去年、一昨年前の授業は、毎回先生の仕事場からのリモート形式で
話自体はもちろんよくわかるが、2D故の不自由さも感じていた。
先生自体も、顔が見えない相手に向かって話をされて、大変だったと
思う。オンライン面談はまだしも、相手が顔出ししないで聴いているであろう
相手に向けて90分もの時間、一方的に話すのは、やりづらいはずだ・・
そんななかで一生懸命伝えようと工夫されている姿にエールをおくりながら、
受講していた日々。

ところが、今回からは違う。
先生は、出会った当初と同じく大学の教室で話されており、先生の前には
何十人かの受講生がおられるので、先生自体の熱、気迫を感じる。
言葉の力が違う。ああ、こういう授業だったと、懐かしく思い出す。
モニターを見てしゃべっているのでは、やはり伝わりづらい。

相手がいると場の空気が変わる。こちらがオンラインであってもそれが伝わる。
ただ、前回までは、先生の顔にマスクはなかったから顔全体が見えた。
今日の対面授業。先生の顔にはマスク。本当は顔全体が見えた方がもっと伝わる。
ここは残念。でもやむないこと。
とにかく、対面授業も復活でき、めでたしめでたし。
先生の冒頭の言葉より。
「コロナの前と今で、何がどう変わったかを検証することは大切ですね。」

世界の有識者たちが、コロナがはじまった頃、コロナは世界にどんな変化を
もたらすか・・・について、さまざま説を投げかけた。
その当時をふりかえり、そして実際にはどうであったか。という検証だ。
その予測はどの程度合っていたのかどうか?である。
そう、情報を受け取る側は、受け取りっぱなしではいけない。
それを比較しながら、実際どうであったかを考えなければいけない。

確かに世界にはさまざまな変化が見られたし、コロナによって
むき出しになった面もあったが、
世界を振り返る前に、まずは自分から。

コロナがもたらした変化についての総括。
ここは大切だ。なんとなく、流され忘れそうになっていたかもしれない。

私にとっては、最初に書いたように、コミュニケーション環境の変化が
大きい。行かなくても、コミュニケーションができるというメリット。
会えない苦痛の日々もあったが、移動しなくても伝え合うことはできるという
発見。これは通信技術の進歩のおかげともいえる。
一方、生で伝えたいことへの願望、欲求がさらに高まった。
感動はやはり、生に限る・・・と当たり前だった、ライブ感のありがたみを
痛切に感じた。
あと、日々の仕事に関して。おかげさまで、コロナによるダメージは最小限に食い止める
ことができたようだ。これはひとえに仕事の環境、相手先様の理解や協力のおかげ。
リモートでもできる業務が多かったことは、本当に救い。
もちろん小さなマイナスの変化はあっても、これは次に向かうために、
コロナが背中を押してくれたぐらいに感じている。

そして、自分の一番の変化は、
コロナ前には元気であった両親がこのコロナ禍で、いなくなったこと。
コロナが直接の原因ではないが、この時期でなければ、元気でいてくれただろうと
確信している。
この変化は、私にとって、一番大きく、重いし、一生、コロナの変化として
忘れない。

でも、私は元気にその経験の上に、変わらず元気に生きている。
生かしてもらっている。

コロナでいろんな変化があったけれど、それを乗り越え、こうして俯瞰しながら
ふりかえりができる、この「今」に感謝したい。

コロナにより、世界(国内含め)の動きにも、より敏感になったかもしれない。
これも自分のなかの変化かもしれない。
また、コロナを利用する政治の存在をより感じるようになり、
しっかり物事をみつめなければと コロナ前より、厳しい目をもつように
なったかもしれない。

間違いなく、コロナは現代を生きる世界共通言語のような存在になってしまったが、
人間社会をみつめる上では、本当に貴重な経験であった、今、まだ
終わってないから、経験まっただなかであるが。

と、久しぶりの対面授業の様子に触れ、ウィズコロナの生活がさらに
前に進み始めたことをうれしく思う。

近いうちに、久しぶりに教室に足を運び、3年ぶりに先生の生の声を
聴きたいと思う。
学べる自由。ありがたい。

コロナ前になかった戦争。この忌まわしい現実が早く終わるように。
その想いを胸に、感謝を忘れず、世界に目を向けたい。

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本当に尊敬する人。

世の中は、いろんな方の働きによって、成り立っている。
自分ひとりの人生も、直接会う方だけでなく、見えない先の人々にも
お世話になりながら、生きている。いや、生きさせてもらっている。
最近、本当にそんなことを思うことが多い。
そして、自分ができないことがいかに多いか。
そのことを、いろんな方が助けてくださる。
そのおかげで、自分の人生をこのように、好きなように生きさせて
もらっている。
改めて、ありがたいと思う。

自分ができないこと、そして、人が嫌がるような仕事。
それをやっておられる、やってくださる方の存在は本当にありがたい。
かっこいい仕事への憧れは誰もが口にするが、人が嫌がる仕事、汚い仕事、きつい仕事
のことは目を伏せがちである。
知らないうちに誰かがやってくれていると、見ないふりをしているかもしれない。
でも、そういう仕事をしてくれる人がいることで、助かっている私たち、わたし。
困ったときにこそ、その存在に気づくことが多い。

親から受け継いださまざまなこと。後処理をするなかで、これまで考えたことが
なかったことにぶち当たってきたこの1年半。
虫一匹が怖い私には、田舎のさまざまな仕事は、本当にたまらなく苦痛だ。
でも、そのことを助けてくださる地域の方、またその関係者。
先日は、害虫駆除(虫だけではなく・・)の専門家の方とお会いしたが、
いやー、その道のプロの知識や手腕に感心した。
問題に遭遇しなければ出会わなかった業界の方々。困った人が扉をたたく世界が
ちゃんとあることにも感心する。
人が嫌がるところに仕事はある。ビジネスチャンスがあるのだろうけれど、
やりたくないことをやる。というところが本当に頭が下がる。

世の中、INとOUTがあるとすれば、INには興味がいきがちであるが、OUTには?
という向きも多い。食べ物、着るもの、住むところ、まさに衣食住・・・は
やがてゴミになるが、美味しい見栄えのいいものばかりが取りざたされている。
消費喚起にはやむないけれど、
世の中、きれいなころ、きれいな仕事ばかりではない。人間は汚す生き物でもある。
それが生きるということ。それが現実。

改めて、日々さまざまな現場で対処してくださる方に感謝したい。
目先の幸せ、快適を考えるのではなく、いかに生きる上で、いろんな方のお世話に
なっていくのか、力を借りなければ生きていけないのか・・を
改めて肝に銘じたい。

改めて、コツコツと人が嫌がる、人が目を向けたがらない世界の仕事に
従事される方に感謝し、自分ができることを精いっぱいやりたいと思う。
自分ができないことをやってくださる方を心から尊敬する。
みなさんのおかげで、今日もあるのだから。

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急ぎ夏を惜しむ。

知り合いの枝豆農家さんとのやりとり。
「今年最終のものをいただくので、そのタイミングになったら連絡ください」
とお願いしていたら、9月末に、10月の初旬から最終の中旬にかけて、収穫される品種も
含め、ご案内の連絡が入った。
そう、枝豆とひとことでいっても、ひと夏の中で、さまざまな品種が楽しめる。
新潟の枝豆は収穫量だけでなく、美味しさやその品種の多さも含め、感動もの。
わがふるさと岐阜の枝豆や、千葉の野田の枝豆もとても美味しいが、新潟のそれは
別格であると、新潟に通い、農家さんから送っていただける機会を得て知った。


さて、今年もその枝豆シーズンも最終ラウンド。最後は、黒豆という品種になるそうだ。
とにかく最終のものを送っていただき、一部はすぐいただくが、残りは冷凍にして
冬場もゆっくり楽しみたいと思っている。
美味しいゆで方、冷凍の仕方も新潟の皆さんから教えていただいたので、そのあたりは
大丈夫。

そんなこんなで、夏の味覚が終わりを告げる・・という今、急に夏が愛おしくなる。
夏は暑くて苦手、大嫌いと言っていたわりには、夏野菜を堪能させてもらったこの夏。
ありがたかったな~。この夏も。

急に季節が移りゆく。
さあ、最終の枝豆が届くのを待ちながら、次は秋の楽しみに・・。

食べ物に四季をまだ感じられる日本は、まだまだ幸せ。
まさに実りの国だ。
農家さん、届けてくださる皆さんに感謝を込めて・・・。


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10年先を見る生き方。

おかげさまで、年上、年下・・。いろんな年代の知人、友人が周りにいて
くれる。このことは、私にとって大変ありがたい。いろんな私を知っていて
くれる人があちらこちらにいてくださることで、救われることがある。
国籍、職業、性別、地域・・・とにかくさまざまな人が、いろんな人生を
それぞれ生きている。その人生にふれると、自分の存在が小さくなる。
そして、肩の力も抜ける。
近視眼的にならないため、いろんな属性の方たちとふれあうことは、いくつ
になっても大切だ。
自分を特別視しないためにも、自分中心の発想にならないためにも、
いろんな方の生き様にふれることは必要だ。

この1年は、年賀状もお休みであったこともあり、またこの数年、拠点を
移したこともあり、東京時代に接点をもっていた方たちとの交流が少し薄く
なっている。
とくに10歳以上、ひとまわり以上離れている方とのことは、いろんな意味で
お元気かな?と心配になる。
そこで、気になった人、ふと思い出す人には、昔の年賀状などをたどりながら
連絡をとってみる。
つきあいが途絶えると、何かあったときも連絡が来ないため、久しぶりの連絡は
勇気が要る。

二名の先輩に連絡をしてみた。
ふたりとも、おそらく70代に突入されている。
ひとりはセミナーで出会った方、もうひとりはデザイン関係の社長。
いずれも働く女性としての大先輩。
おふたりともお元気であった。
変わらぬ声、変わらぬ文章。
お互い、久しぶりではあったが、声や文章の再会をとても喜んでくださって、
ご無沙汰の距離は一気に縮まった。
年を重ね、昔とは違う仕事の仕方、あるいはその後の暮らし。
10年以上合わないうちに、いろいろ変化はあるけれど、
みなさん、健康的にしなやかに生きておられることがとてもうれしかった。
と、同時に
自分の10年後を想像する。
今の延長でいたい自分。
さて、どんな風に変化していくだろう。
流されず、ブレず、いい感じでいきたいな。
先の自分を想像するためにも、先輩の背中はとてもありがたい。
諸先輩のいろんな人生を見せていただきながら、
自分の先をイメージする。そして1日1日を重ねる。
未来はイメージでしかない。でも、イメージが現実になる。
ステキな現実になるために、先を見る習慣を。

今日も確実にその10年後に向かっている。この自覚をもって
進みたい。

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ちょっと気持ちいい朝。

名鉄名古屋駅は、おそらく全国でもかなり機能的なホームだ。
いろんな行先の電車が同じホームに次々止まる。
うまく乗れるように、各列車の乗車位置がそれぞれずらしてあり、
その位置がわかりやすくお客の目線と足元にうまくサイン分けされている。
おそらく利用した人にはよく理解されるだろう。
でも、初めての人には、よくわからないかもしれない。
そんなことで、朝のちょっと通勤時間の間。
ちょっとうろうろしている女子に声をかけられた。
「あの~。ちょっといいですか?」
実は、地元であってもなかっても、海外であっても、人には
よく道を聞かれる。なぜかはわからないが。
「あの~。〇〇に行きたいんですけど、23分発の〇〇行に
乗ればいいそうなんですけど。どこで乗ったらいいですか?」
その電車には乗ったことがないから、その駅は聞いたこともない。
でも、咄嗟に、
「ちょっと待って、調べてくるわ」
と言って、後ろに掲示してある時刻表を見に行った。
そこに駅名も書いてある。あ、ここに行きたいなら、確かに23分発の
この電車だ・・。
「じゃあ、この津島・弥富と書いてある、ここで待っていたら、
23分にその電車が来るから大丈夫。私も見ててあげるから大丈夫」
自分が乗る電車は25分であったので、ちょうどいい。
彼女は最初、かなり心配していたので、乗り場がわかって安心した様子。
「すみません。ありがとうございます。」
背丈は自分と同じぐらい。でも、学生さんぽい。しかも就活っぽい。
「あれ?大学生?高校生かな?」
「あのー、定時制高校にいってます。」
「あ、そう。えらいね~。で、これから面接?」
「そうです。」
「そうか~。で、この電車に乗っていくんだ。」
どうやら静岡の学生さんで、面接のために名古屋へ初めてきたそうだ。
本社が愛知の会社で、決まったら働くのは静岡で・・
「そうか~。がんばってきてね。応援しているね」
彼女は、声をかけてきたときより、だいぶ落ち着いてきたようだった。
電車がきた。
「あ、きたよ。これに乗って、で〇〇でおりてね。がんばってきてね」
彼女は何度も何度もお礼をいって、電車に乗って、そしてまたお礼を・・。
なぜか、私はこれから面接に行く女子高校生を送る家族の気分で
手を振っていた。
よく道を聞かれるが、相手の方が無事、目的地に向かわれると
こちらもホットする。
わずか5分にもならない、短い出来事であったが、1日面接どうだったかな~
と気になっていた。
合格しているといいな。
おそらく二度と会うことがない女子高校生の未来を応援!
そんな朝もいいものだ。

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デジタル終活の備えも。

この夏、やっと公式サイトをリニューアルした。
ひとつ気になっていた片付けごとが、終わったような感じ。
その間、この制作にかかわってもらっているスタッフと
いろんなやりとりがあった。

そのなかで、まだ今できていない課題。
それは、万が一のとき、サイトをどうするか?
そのときの備えは?

若い時は、そんなことは考えたこともなかったし、
考えたくもなかったが、
先を考えると、そこもちゃんとしておかないと・・・と
最近は、思えるようになった。

そこで、スタッフとはじめて覚書をとりかわすことにする。
万が一の連絡先や、そのときの対応について記載したカンタンなもの。
100%以上の信頼をもって、この20年おつきあいをいただいて
いるが、これからお互い、高齢に向かうのは避けられないから、
この機会に、そのあたりもちゃんとしておくとお互いのため・・。

ふと、自分がいなくなった後、サイトをどうしまうのか、
ブログをどう終わらせるか。
などを想像する。

そうだな。ちゃんと終わらないと。

なんでも始めることは、生みの苦しみはあるといっても、
たやすいこと。
終わる、閉める方が難しい。
なんといっても、自分では終われないので、
人様に頼んでおかねばならない。

と、こんなことを今からひとつづつ。
最後、周囲になるべく迷惑をかけないように。

決して、後ろ向きな話ではない、
生き切るとは、結びも意識することだから。
自然な流れ。

備えあれば憂いなし。人生いつ終わってもいいように。
もちろん、また新しい日が来ることを信じつつ。


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