ふるさと納税もいいけど、ふるさと孝行

両親が旅立って、1年以上が経過した。
人間、不思議なもので、それでもなんとか生きていけているということに
気づいた。
ある人にそう言ったら、
「そりゃ、人類の歴史、みんなそうしてきたからね」
と言われ、確かにそうだ。親が死んだからといって、子供がショックで
生きられない。そんなことでは歴史は続かない。
なんやかんやあっても、みんな先代のいろんなこと、もの、思いを受け継ぎながら
生きるものだ。
寂しさが消えるのではないが、寂しさが普通になる。寂しさを飲み込んだように
自分のなかに存在しながら、新たな自分になっていくのだろう。

そんな日々であるが、最近、親がお世話になってきた人々に関わる
ことが日課というか、ミッションになってきている。
たとえば、親とよく飲みに行っていたという方が、その店に一緒に
行きたいと言われる。その店でお酒を飲むのではなく、ランチをいただ
くだけであるが、その方はずっと、父や母と過ごした時間について懐かしがって
いろんな場面について話してくださり、「今日は思い出せて楽しかった。ありがとう」
と満足して帰られる。当時のことが蘇ってうれしかったとのこと。
ある方には、演奏会をリクエストされ、その方が通うデイサービスの施設に向かい
そこで演奏をさせていただく。
すると、親の話題がたくさん出て、皆さん、母のことや、一緒に旅した日々のことを
楽しそうに思い出しておられる。いきいきされて話される様子が印象的だ。

自分がそこにいることで、楽しい思い出の時間になるようだ。
「またやって。次はいつかな?」
ふるさとの皆さんが、とても楽しみにしてくださる。

そんなことで、私にとっては、今はふるさと納税もいいけれど、ふるさと活動が
せねばならないこと。
それをすることで、父母のことが改めて思い出せ、皆さん喜ばれる。

思い出すことは寂しいけれど、それを表現することも必要。
ふるさと・・縁がきれないように。
なぜか、80歳以上のお友達が増えていく。喜んでおつきあいさせて
いただこう。ふるさと孝行。自分の心もあたたかくなる。ありがたい。

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恐ろしき分断を乗り越える力。

エジプトでCOP27が開催。会期延長して議論され、どうやらやっと
途上国を支援する基金が開設されるようだ。
少し安堵している。
地球の温暖化は、先進国の責任。
温暖化のツケが途上国に回っている。
途上国の人が満足に生きることができない、生きづらくなっている。
という現実。
SDGsという言葉は、先進国では主流になりつつあり、これはこれで
いいことであるが、実際に被害を被っている国々にとってみれば
そんなキレイごとではないよ。ということだろう。
自分たちだけがよければ、自分たちの国だけがよければ。
自分だけがよければ。
どこかにこんな考え方がないかと思うことは多い。
他者と交わり、理解しながらお互いによくなるために協力していく
姿こそが求められていると思うが、先進国が成長を今尚求めつづけて
いる姿に改めて疑問を抱いてしまう・・・。
日本もそうだ。

自然を破壊してまで成長して何がある。
なんのために成長するのか?なんのために経済大国になる。
正直、わけがわからなくなってきている。

もうその価値観では、地球は成り立っていかない。
ということを途上国の皆さんが突き付けている。
それはそれとして、先進国とか途上国という分け方、区切りも違和感
がある。
人は何かと分けたがる。自分たちは違う。自分だけは・・・。
保身の極みである。
いかん。いかん。
協調、共創、共生。ほんとうにそうしていかねば。
一人一人からの意識、行動からしか始まらない。

飢餓に苦しんでいる人を助けようというポスターと
クリスマスツリーの下に湧く、賑やかな街の様子と
これから加速するであろう年末に向けての消費ラッシュ。

浮かれている場合ではない。
そんな気持ちになっているのは、私だけだろうか。

いろんな矛盾を越えて、ひとりでも多くの人が生きていてよかったと
なる社会に・・・。
分断が加速するこの世界、しっかり、みつめていかねば。と強く思う。

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やっぱり紙。記録。保存。

最近、デジタル終活について、スタッフと協議しはじめている。
もしも、自分に、スタッフに何かあったとき、自分の公式サイトや
そしてこのブログをどうするか?という話だ。
考えたくはないが、とくに今夏、公式サイトをリニューアルしてから
そんなことも考えるようになっている。まだ結論までは出ていないので
今、万一があると困るが・・。

自分がいなくなったときの、あとのデジタルコミュニケーション・・・。
スタッフからひとつの投げかけをいただく。
「ブログは、貴重で、宝ですから、必ず記録保続しておいた方がいいです。
そこから出版も考えられますしね」
そう、実は以前、一度全部保存して、紙にもプリントしたことがあった。
もう数年以上前のことだ。ものすごいボリュームだった。
実際、このエッセイブログから1冊の本も誕生した。
パソコンをしない、見ない方に、1冊のエッセイ本は大変喜ばれた。
付箋を付けて何度も見返す方もおられた。
同じ内容であっても、モニターで流して読んでいくのと、
手にとって文字をしっかり掴み読むとは、また違うのだ。

ということで、ブログの記録は今、新たな課題。
クラウドのなかにある・・・というこのふわふわな感じ、
何かあったらなくなってしまうんじゃないかという不安。
なくなってもいいのかもしれないが、いやいや、今なくなっては
困る情報が世の中には多数ある。

そういう意味では、残しておく。紙に残しておく。
このことは本当に大切だ。
拡散は以前よりしないことにしてきている。
それはそれでいい。良かったと思っている。これからも同じ。

でも、意味あるものは記録しておくに限る。
もっとも、私の書いたものがその価値があるかどうかは
わからないが、生きた軌跡としては意味があるのかもしれない。

生きた証をどうするのか?
亡くなれば、それもすべて人任せになるが、遺したいものだけ
遺しておくように。それ以外は処分、消去して・・・。

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「されコミ」を、今一度。

毎日、食事の回数より、コーヒーブレイクより多く、呼吸をするごとく
何らかの言葉を受発信しながら生きている。
言葉や文字を使う回数はコミュニケーションの量に匹敵する。
何かをするために誰かに何かを発し、また相手から投げられる言葉の
ボールを受け取り、返信している。

百発百中思ったとおりに受けとめられているか?
このことは、なかなかむつかしい。
家族や親しい人同士であっても、そうはいかない。
自分と相手は違うから、そう簡単にはいかないこともある。
ましてや忙しいビジネスタイムのなかでは、スピード優先。いろんなことが
同時進行となると、言葉や文字のボールの着地まで見守ることなく、次の
ボールを投げていることも多く、そこにコミュニケーションギャップが
生まれることも少なくない。

自分自身、コミュニケーションクリエイターと言いながら、自分の受発信も
まだまだ及第点にいかないことが多い。
自分の考える言葉の意味と、相手が受け取る意味は、同じ言葉であっても
違うことがある。
立場や環境、優先順位によって受け止め方が異なることも多い。
だから、言葉ひとこと発するときには、内容ももちろん、タイミングに
いたるまで、総点検してから送り届けなければならない。

クイックレスポンスも大切であるが、丁寧に言葉を届けること、また
気持ちよく受け取ってもらえるように、日ごろから関係づくりをしていく
ことも大切だ。
コミュニケーションなんか・・と思う人も多いかもしれないが
DXの時代であろうがなかろうが、人間は一人では生きられず、みんなで
助け合って生きていかねばならない存在であるから、もっともっと
コミュニケーションを大切にしなければと思う。
便利な時代だからこそ、大切にしなければならない。

少なくとも、自分が発する言葉や文字で相手が傷ついたり、不快に思う
ことがなく、伝えたいことが自然と伝わる。そうでありたい。
そうあるための意識づけを、改めて心したい。

忙しい日々であるけれど、心なくさず、時間に追われすぎず、落ち着いて。
一見簡単そうであるが、日々の対話を軽く見てはいけない。
いつも、相手の立場になってみて、相手に寄り添いながら。

いろいろあっても、されどコミュニケーション。
苦労があっても、ちゃんと伝わったときは、幸せだ。
手抜きをしないで、しっかり向き合う人こそ、相手に心から伝わるはず。
まだまだ修行中である。

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目指せ!「みんなのうた」

妄想するのは悪くない。
夢に向かって走り出すこともあれば、新しい自分に出会うこともある。
コンサートやライブで歌ったあと、何度か「みんなのうたに出たらいいのに。」
とか、「マーサさんの曲は『みんなのうた』の世界にぴったり」と言われたことがあり、
それはそれで嬉しく、そのたびに「よっしゃ!」と思ったものだ。

と、しばらくそんなことも忘れていたが、今週のコンサートで、初めて
わが演奏を聴いて下さった方が、即そんな感想をくださって、まだいけるんだ。
とうれしい勘違いをさせていただいた。

声はしっかり整えないと年齢とともに衰える。
そんな歌手たちを多く見ている。
声だけは、ピアノだけは老化してはならぬ!

だから「みんなのうた」を永遠に目指すということはとても
大切だ。
その夢の実現については、別途考えるとする。
とにかく、いくつになっても、夢を持ち、進み続けること。

「あなたのファンだからね!」
と話しかけてくださったお客様の顔も浮かぶ。
ああ、うれしい。
これからも妄想と行動を続けよう。

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「愛着」ある暮らし。

人生あと20年、25年。どこまで続くかわからないし、
いつまで今のままの自分でいられるのかも、未知数。
わからないけれども、こうでありたい、こうなりたい。
と思いをもって、想像をして日々生きている。
残された人生、楽しまなくちゃ。
では、何をする?
人によってその選択肢はさまざまであるが、
たとえば、いつか運転免許を返納する日が来るならば
それまでにいろんな車の運転を楽しんでみる?
今ならそんな新しい車を買ったり、新築の家を建てたり・・
とそんなことも不可能ではない。
でも・・・という答えが出てくる。
新しいものを手に入れたり、作るということは、古いものが
処分されるということ。
処分することにも、パワーが要る。
さらに、ずっと使っているものには、「愛着」が生まれる。
古くても大切に使うと、車も家も家族と同じ、人格を持つ
存在になる。時間をかけて利用するということは、
その道具が自分の暮らしの一部になるのだ。
モノではなく、相方になる、相棒になるのだ。

最近、「愛着」という言葉を改めて大切にしたいと思う。
モノだけでなく、生き物~ペットも然り~、家族も含め、
自分の周りの身近な存在。
長年連れ添うということは、愛着が生まれる、沁みつくもの
なのだろう。
ちなみに、長年使っていたケトル。その蓋が壊れ、半年以上
だましだまし使っていたが、もう使えないという状態に
なったため、泣く泣く新しいものに交換。
古くなっても、やっぱりこれがいいと使い続けた10年余り。

この古いやかんに、今朝別れを告げた。
「長い間、ありがとうございました」。
そう、こんなやかんひとつにも、愛着があった。
朝のくらしの相棒だった・・。
と、モノだけでなく、あらゆる存在との関わりを
大切にしたいと思う。

新たな消費を促される昨今。人生の残り時間のなかで、
何を大切にすべきか。ということについて、丁寧に考えて
みたい。
愛着があるもの、存在に囲まれた日々は、それだけで
幸せなのだと思いたい。

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大きく一発より、一滴の感動を。

人生何をもって成功とするのかは、人それぞれ。
成功したいかどうか、も人それぞれ。
出世することが、経済的に豊かになることが成功であるならば、
まあ、それは目指さなくていいかなと思う。
一発大勝負。みたいなことも、興味はない。

地元で応援してくださる方たちは、冗談まじりももちろんあるが
「紅白出てね。楽しみにしてるよ」
と昔からよく言われた。
それは大きな成功のひとつになるだろう。
でも、そのために何をすべきかと思うと、自分がしたいことかどうか?
何かを犠牲にしないと成り立たない挑戦かもしれない。

そんなことではなく、今大切にしたいことは小さな感動をたくさん
届け続けること。
少人数でいい、一人の人でもいい。その人が喜んでくれる、涙を流してくれる。
喜んでくれる。生きててよかったといってくれる。
そんな場面にたくさん出会えたら、それが私にとっての幸せ、いきがいだ。

大きな一発を目指すよりも、
まさに持続可能な感動づくり。
関わった人がもうすでに数えきれないほどいる。
これからも、小さな出会いを重ね、一滴の感動をお届けし続けたい。

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ノーミス 集中!

急に指先がかじかむ季節になった。
2~3日前までとは、違う季節のようだ。
冬の演奏は要注意。手袋に身にカイロは必需品。
とにかく指が動かなくなるのだ。

その事態が昨日の演奏会で発生した。
え?もうこんな季節?
指先から季節のうつろいを感じるのだ。
寒い時に緊張すると、本当にフリーズ状態になる。

いつも間違えたことがないところで、指がひっかかり、
へんな音を鳴らす。
そのことがまた気になって、演奏に集中できない。
細かいミスを何度もした。
なんとか、ごまかしてそう見えないようには咄嗟に動いてみたが
分かる人には、わかるはず。焦る。
ノーミスを意識せず、自然にいけるもんだと思っていたが、
不測の事態になると、ひとつ間違えると、また他のミスが出る。

お客様には好評をいただき、ありがたい言葉をかけていただき
無事終わったコンサート。自分にとっては、合格点ではない。
帰り道はおひとり様反省会。
リハーサルではうまくいったのに・・・。あかんな~。
いろいろ凝り過ぎた。盛り込み過ぎた。
そして、弾きなれないの曲にミスが出た。ということはやはり練習不足
は厳禁。

などなど、がんばったけれど、まだまだ。
ああ、今日はうまくいったな~。
と思うときばかりではない。
幸いなのは、お客様はとても喜んでおられたということ。
早速来年の予約をして帰られたり、他のライブの開催を待ちわびている
お声をいただけたことは幸い。
30名以上の方に足を運んでいただけて、また今回は遠方からのゲストもあって
本当にありがたい。
だからこそ、ノーミスでいきたかった。

よし!もっとがんばる。もっとよくなる。
会場から多くのあたたかい拍手をいただいた。
これは、エールだとありがたく受けとめることにしよう。

ご来場いただきました皆さま、大変ありがとうございました!

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心に染み入るか。それが価値。

今日は岐阜新聞での、年内最後のコンサート。
今回は、はるばる他県からのご来訪もあるとのことで、
本当にありがたい。
キムタクにはまったく及ばないが、自分のコンサート目的で
わざわざ岐阜まで来ていただけるとは、嬉しい限り。
そんななか、一昨日行ったデイサービス施設でのご婦人の
発言が今も頭の中をぐるぐる回っている。
「高いコンサートに行っても感動しなかったのに、
今日は本当に心に沁みました。ほんとうにありがとう」
この言葉に私が感動した、本当に心に沁みる言葉をいただいた。

高いお金を払ってでも見に行く。それも価値である。
ビジネス的に見れば、そりゃ高いお金払ってでもきてくれる
お客さんがたくさんいることは成功かもしれない。
でも、高いお金が必要の背景にはいろいろある。
ひとりのコンサートにいろんな人の役割があって
それ自体が経済活動であるから、廻していくためには
その金額設定が必要。
そして、高くて良いのは当たり前。
食事でも同じこと。高くておいしいのは当たり前。
でも、その高いところに何度も行けるか行ききたいか
・・・は別の話。

まあ、私の庶民的な演奏と、高級レストランは比較にならないが
言いたいことは、金額よりも、大切なことは価値。
価値があったかどうか?

価値があると思えば、また機会をいただける。
聴いてよかった、会えてよかった、また聴きたい・・・。
この積み重ねが、力にもなっていくのだろう。

これまでの無料コンサートでは、
「今後はお金を払って聴ける機会呼んでね。
なんだか無料ではあまりに申し訳ないので・・・」
と言ってくださって、せめてといってCDを買ってくださった
お客様もおられた。

価値があるかどうか。
そのことを自分の行動の指針としたい。
すべてのことに対して。
相手に向かう仕事、活動はすべて相手が決める。
自分に価値があるかどうか。

少しはお役に。の気持ちにさらに、
自分に価値があるかどうか?
と、少しハードルを上げていこう。

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いなくても親孝行!

あるご縁から、地元のデイサービス施設でのコンサートを依頼いただく。
その施設の利用の皆さん、十数名に向けたもの。
タイトルは、管理者の方と相談して「Mahsaのふれあいコンサート」
と名付けたが、ありがたいことに会場もそのようにしつらえていただき、
初対面の方が多いなか、あたたかい雰囲気ですんなりと本番に入ることができた。

施設での演奏は、父がお世話になった施設での演奏から2年ぶり。
コロナもあって、なかなか実現できなかった。
待っていてくださる方もおられたため、昭和の曲も入れながら
一緒に歌える曲も含め10曲ほどレパートリーを用意。手拍子あり、合唱あり、
ちょっと歌声喫茶の雰囲気もあったが、とにかくみなさんよく聴き、よく
ノッてくださった。
とくに自分のオリジナル曲への反応が高く、驚いた。知らない曲なのに
みなさん、すっと入ってくださった。
30分ほどの予定であったが、気が付けば45分もしゃべり、演奏していた。

「ひと・文様」という曲が終わったら、ひとりの利用者さんが、
「素晴らしい。心から感動しました。こんなに心がふるえたことはこれまでの
人生でなかった。高いコンサートに行っても感動しないけど、今日は違う。
こんな人生の終わりかけの私に、本当に、本当にありがとうございました
・・・」と、皆さんの前で発言され、会場もじんわり。
みなさんが、本当に感動しておられることがよくわかった。
演奏が終了してあとも、余韻は消えず、利用者さんからも、施設のスタッフの
みなさんからも歓びの声を多数いただいた。
そのなかで、ある男性の方がスマホをもって近づいてこられた。
「わしは、子供のときから音楽がダメで、これまで歌なんかどうでもいいと
思って生きてきたけれど、今日は、あの歌を聴いて、この絵が浮かんだ。」
といって、スマホの中に入っているラクダに乗って砂漠を歩く人の写真を
取り出し、見せてくださった。あの歌とは、「月の砂漠」だ。
「こんな風に歌を聴いて、絵が出てきたのは初めてや。感動した。」
と力強く言ってくださった。
スタッフによると、この方は現役時代は著名な学者さんだったらしい。

そのあとも、皆さんとしばしお茶をいただきながら懇談。
しっかり会場ではチャリティに協力いただいたわがCDも早速流していただいた・・・。

本当にいいふれあいができた。皆さん、コンサートが終わったら、若返った
そんな感じすらした。そして会場全体があたたかい笑顔であふれていた。
ああ、いいコンサートができた。
キーボード持ち込みで、演奏のインパクトは出せないのが残念であったが、
それでも、感動してくださる方がたくさんおられた・・ということは楽器は
あまり関係ない。
可能な環境でベストを尽くす。ただ、それだけ。

母がお世話になった方も何名か参加されており
「おかあさん、本当にいい人やった。
おかあさん、喜んでみえるわ。よかった、よかった。
今日は良かった・・」
何度も同じ言葉を繰り返しておられたのが心に沁みた。

伝わることが幸せだ。
さらに、磨きをかけよう。
いなくても親孝行。いや、ずっといる。

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