わたしは「ちゃんぽん」である?

久しぶりに、心からおいしいと思うひとときを過ごした。
長崎で、ちゃんぽんをいただいたのだ。しかも、連日。
まずもって、連日で食べること自体が、自分でも珍しいが
今回は、寒さも相まって、皿うどんではなく、ちゃんぽん!
しかも野菜たっぷりのものが無性に食べたかった。

実は長崎には、行きつけ?のお店もある。そこに行って
ちゃんぽんを食べないと始まらない!というほどに、
あまたある長崎ちゃんぽんのお店でも、結局はそこに
行きつくのだ。

ちゃんぽんを食べ始めたとき、途中、そして食べ終わったとき。
何度も何度も、「ほんとうにおいしいなあ」と心の中でつぶやく。
幸せな気持ちになっていくのがわかる。
そして、スープ以外(スープは健康上、ほとんど飲まない)
残したどんぶりを前に、「ああ、もう死んでもいいわ」と
思う。
ちゃんぽんが最期の晩餐だったら・・・。きっと元気になって
また生き直すのだろうが。
まあ、それぐらいに満足できる食事である。

というほどに私は、「ちゃんぽん」が好きだ。
なぜだろうか?
それは、この「ちゃんぽん文化」の由来にあるのだろう。
ちゃんぽんは、長崎ならではの和洋中なんでもありの
ごちゃまぜ文化が食になったもの。
華僑の発案で生まれた長崎の代表食。ひとつの食品である
のに、さまざまな文化が混合、融合して、独特の味わいを
生み出している。
ここに、いたく感動しているのだ。
これしかない、これしか合わない。ではなく、なんでも合わせて
みる。この発想・行動力に共感する。

よく考えれば、自分自身がちゃんぽん人間だ。
ひとりの人間であるのに、いろんな要素が入り混じっている。
でも、ひとりの人間として、なんとかコミュニケーションクリエイター
として生きている。
コミュニケーション(ちゃんぽん)の名のもとに、
マーケティングあり、広報あり、文章作成あり、作詞作曲あり、演奏あり、
講演あり・・・・。なんでもありだ。

そんなわけで、長崎が心のふるさとである理由のひとつは、
ちゃんぽん文化と自分自身の共通点にある。

とにかく、ちゃんぽんはおいしい、
長崎でも、平戸でもおいしくいただける。
その土地土地の味わいが、また格別だ。

連日いただくなんて、異例のことであるが、
それだけ、コロナ禍で、長崎ちゃんぽんに飢えていたのだろう。
また、食べたくなってきた。
もしかしたら、前世からのソウルフードのひとつなのだろうか?

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平和新聞なるもの。

長崎という町は、私にとって発見や感動が尽きない、永遠の学び舎だ。
歴史的、文化的遺産も大変豊かで、和蘭華(日本・オランダ・中国)の
ちゃんぽん文化は世界でもここしかなく、唯一無二の味わいがある。
とくに中国文化のなごりは健在で、まさに今は春節(ランタンまつり)
の準備で町が盛り上がっている。今週末からスタートのようだ。
まるで、ここは日本ではないような不思議な感覚になる。
この祭りの中心のひとつは、唐人居住区跡。
江戸時代、鎖国政策のひとつとして長崎に住む中国人の居住区を決めた
エリアのことで、今も住宅街のなかに中国文化の名残が残っている。
たまたまそこを通りがかったら、1軒のパン屋の存在に気づく。
その店先に貼ってあった手書きの小さな新聞が目に飛び込んできて、
思わず足を止めた。手作りの新聞。フランスパンをはじめてつくったお店?
お店の歴史が書いてある。これは、子供たちの文字だ。
「平和新聞」と書いてあるところに、いたく感動した。
この新聞記事を読んで、そのお店に入ってみた。
「いい新聞が貼ってありますね。あれを読んで、入ってみました。」
「そうなんですね。近所の小学生たちが作ってくれたものです。」
お店の人が笑顔で親切に答えてくれる。まさにパンの種類も、懐かしい
昭和の匂い。とくにカステラサンドはルーツであろうか?
とにかく、その子供たちが新聞のおかげで、しっかりパンを購入。

平和新聞。これは、被爆経験を有する長崎だからこそ生まれた
新聞だろう。日々のさりげない話題、ニュースこそ、平和の証しだ。
世の新聞が発信する話題は、非日常のネタが多く、平和とはかけ離れた
悲惨で悲しい内容も少なくない・・。
そんななか、長崎の子供たちがつくる「平和新聞」は、ほんとうに
素晴らしい取り組み、教材であると実感した。
DX時代とは、無縁の手書きの手作り感満載の1枚の新聞。
子どもたちがお店を取材し、書き、お店に貼ってもらっている・・・。
平和を願う長崎のみなさんの想いを、この1枚からも感じる。
またお気に入りの店が増えた。

平和新聞は、長崎発の素晴らしいコミュニケーションツールだ。
平和を学ぶ。平和を意識する。
この町を訪ねると、改めて背筋が伸びる。

長崎の悲喜こもごもの豊かな歴史から、学ぶことはまだまだ多い。
世界の平和を願い、素晴らしいランタン祭りになりますように。

※以下の写真からは、
写り込んで新聞の中身は解読できないと思いますが、その存在感だけお伝えしたく・・・。


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受け継ぐしごと、人生。

いろんな企業、事業者さんとの出会いをいただいてきた。
自分で起業し、挑戦を続けている知人も多くいる。
長いおつきあいをしているなか、途中でやめたという人は
あまりいない。みなさん、それぞれ努力して続けている。
自分が選んだ道だから、と覚悟もあってのことだろう。
自分も同じ。自分が決めた道をなんとか進み続けている。
ゼロからの出発。受け継ぐものがない気軽さはある。

一方、先代からその事業を受け継ぎ、それを守りながら
次代に向かうため、どう進むべきかを模索している経営者に
出会うことも多い。
若い時には、家業をそのまま受け継ぐのが嫌で、外に出て修行。
その後、いろんないきさつで戻ってきて、事業を受け継ぐ。
気が付けば今後、どうして進んでいくのか?という帰路にいる。

コロナもあって、変化の激しいこの時代。これからどうしていくべきか?
は、受け継ぐ人側にとって、大きな課題である。
先代が培ってきたものを失うわけにはいかない。維持する、発展させる。
それが受け継ぐ人の使命となる。先が読めないだけに、多くの情報を
しっかり入手しながら、正しい判断をしていかねばならない。

あるカステラ工房。もう15年近くのつきあいになる。
ふとしたきっかけから、知り合いになり、常連になり、応援団の
ひとりとして、時に家族のようにかかわり、行く末を見守っている。
100年企業である。四代目となる。彼らはこの事業をどのように継承
していくのか。何を強みとするのか。
こちらは、職人の腕が命である、この生業。
とにかく無休で、丁寧に丁寧にモノづくりを進めてきた。
おいしいことがわかった人がリピーターとして、長年愛用し続けている。
いろんな試行錯誤はあったけれど、
宣伝広告もしない、多店舗展開もしない。
そこでしか買えないという、こだわり。
商品は、いつでもそこにあり、欲しいときに食べられる。
お客は何も考えず、続いていることが当たり前と思っている。
でも、ずっと作り続ける、提供し続けるということは至難の業。

あって当たり前。
このことを守り抜く。

頭が下がる。

今、四代目となる兄弟たちのことを応援しながら、
この事業の存続、承継のことと、彼らの人生のことも
気になっている。
どうなりたいか、どうありたいか。
変えていく勇気と覚悟ももちながら、守り抜いていくということ。
この両立はなかなかむつかしい。
時々話を聞きながら、
ずっと、この美味しさができる限り長く残っていけるようにと
心から応援する。

仕事と人生。
生まれて自由に道を選べる人と、
進まねばならない道がある人。
プラスマイナスそれぞれ両面あるけれど、
ここから進む、ここから創る。
この点では同じである。
やりがいは自分で創る。
そして、お客様が相手が喜ぶことをしたい。
ここも両者とも同じである。

これからも、ご縁をいただいた企業、そこで頑張る人たちを
自分ができることで、応援し続けたい。
せっかく出会ったのだから。ずっと存在してほしいから。
そして、彼らのしごとだけでなく、人生が輝くものであってほしいから。

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支えられて、はじめてでできる。

昨日1月16日は、今年初めての岐阜新聞本社ロビーでのコンサート。
おかげさまでもう数年続いている。
両親がいなくなっても続けられるかと真剣に悩んだ瞬間もあったが、
その後も、多くのお客様にお出かけいただき、毎回、笑顔で
「ありがとう!楽しかった!!」の声をいただき、ああ今回もやって
良かった、次もがんばろう!と毎回続けることができている。
そして、続けることで力もついてきたかもしれない。

常連さんも多いため、飽きない工夫をすることも自分の勉強にも
なっている。
このコンサート。小さなイベントではあるが、これをひとつやる
にも多くの方の協力、応援があって成り立っている。
まず会場。そして新聞を使ってのPR。これは主催者である岐阜新聞社さん
に感謝である。
自分で主催するライブの場合は、会場探しもPRもすべて自分が
動かねばならない。

そして、会場には毎回、音響機材を持ち込んでいるが、そのお運びを
おじさんが毎回手伝ってくれる。
車に乗らない私にとって大変ありがたい存在。
父に代わる運搬係は、今は、父の弟であるおじさん。
演奏が終われば、機材の梱包をして、また持ち帰ってもらう。
そんな流れもいつのまにか、当たり前のようになっているが、
本当に本当にありがたい。
そして、声をかけあって会場まで足を運んでくださるお客様・・・。
いずれにしても、皆さんのおかげで、このコンサートは成り立っている。

自分ひとりでできることは何もない。
何かをする。という時には、必ずだれかのお世話になっている。
そのことを忘れてはいけない。
そして、このコンサートもみんなで創っているということを
忘れてはいけない。
空間、お客様があって、はじめて演奏を聴いていただけるのだから。
どれが欠けても演奏会は成立しない。

支えられている。
今年もおかげさまで、演奏活動も本格稼働。
さらにパワーアップ、レベルアップをして、
ひとりでも多くの方に元気と愛をお伝えしたい。


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1日何時間あれば?

仕事で知り合った、同い年の知人と久しぶりに再会。
四半世紀以上のつきあいになる。30代前半からお互いの成長?を
見守っているいい関係だ。

年のせいか、会話は健康の話題になった。
そして、睡眠の話題にも移っていく。
1日7時間ほど健康には寝るのが良いそうだ。
その人も6時間は毎日睡眠をとっているとのこと。
しっかり睡眠をとることが、健康のための最善の方法であることは理解している。
しかし、現実睡眠に6~7時間確保しようとすると、
自分の場合、今の生活のリズムとはかなり変わってくる。

ということで、時間のやりくりをもっと工夫せねばと改めて思い直す。
全力疾走で駆け抜けてきたこれまでの日々。
特に社会人になってからは、ずっとこのペース、もしかしたら加速しているかも。

「絶対寝てくださいね!」
仲間のこの忠告は、同い年だけに記憶に残る。
今も、耳元でささやかれている感じ。

とはいえ、毎日6~7時間を確保するには、毎日のプログラムの刷新を検討
していかねばならない。

やることをもっと減らす。
これが一番かもしれないが、
一方、自分にはまだやりたいこと、1日30時間あれば、もっとしたい
こともある。

元気で生き続けるために、時間のやりくりは、避けて通れない道。
毎日のプログラムも検討、改編していこう。
もちろん、ナポレオン?のように、睡眠時間が少なくてもちゃんと
生きた人もいるが。(健康長寿ではなかっただろうが・・・)

1日24時間。これは平等に与えられた人生の条件。
とにかく無駄なく、有効に過ごし
「今日も良かった!」という日を積み重ねたい。



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火で幼き日を思い出す。

1月14日、地域によっては15日の場合もあるそうであるが、
旧正月の火祭りとして、今も残っている伝統行事、左義長。
たまたま戻った実家の近くの神社境内で行われていた。
地元の人たちのお世話により、毎年行われている。
やり方は地域それぞれ違うようであるが、もう40年あまり
忘れていた、今思えば、大変懐かしいお正月の締めの行事。
時間になると集められた枯れ木に着火され、地元の人たちが
もってきたしめ縄などが焚き上げられていく。

久しぶりにこの炎を見て、何ともいえない力を感じた。
水も火も土も、人々の暮らしを守ってくれている大きな存在。
でも、それぞれが脅威でもある。
畏れながら、感謝しながら、生活のなかに取り入れていく。
火には神的な力がある。
炎とは情熱、パッションでもある。
火を見ると、生へのパワーが湧いてくる。

都会暮らしではなかなか接することがない、火祭り。
田舎暮らしの方が四季を、自然の変化を、そして見えない力を
感じ、調和しながら生きているのかもしれない。

都会では人間中心の暮らし。経済はまさにそうだ。
しかし、少しそこから距離をおくと、奢りなき人としての
本来の暮らしが見えてきたりする。

この炎を見ながら、本来の生き方を考えたり、また畏れることの
大切さを考えたり・・・。そんな正月の締めの時間。

こういった行事を大切にしながら生きている地元の皆さんに
頭が下がる。
継承されていくことの大切さを、今回も感じつつ・・。



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苦手もプラスに活かして生きる。

実は手先があまり器用ではない。
例えば、裁縫などは子供の頃からまったくダメである。
布施明の「積み木の部屋」に出てくるような?
そんないいものではないが、まあ、とにかくそうだ。
だから自分でなんでも作る人を尊敬している。

人にはそれぞれ得意なこと、苦手なこと、もの、人・・・がある。
得意なことを仕事にしたり、趣味に生かしたり・・そうできたら
とてもいいが、それでも苦手なことに向き合わねばならないことも
ときにはある。
嫌なことでも避けずに通らねばならないこともある。
好きなこと、好きなもの、好きな人だけで生きていくのは
なかなかむつかしい。

いろんな仕事をするなかで、やっぱり自分のここはダメだとか
向いてないな~と自己嫌悪になりそうになることも
ときにはあるが、
そんな自分とも向き合う時間は大切だ。
謙虚になったり、勉強になったり・・するからだ。

これから、年を重ねていくと、だんだん〇〇弱者と言われる
ようなことも出てくるかもしれないが、それを黙って待っているようでは
ダメだ。
だからどんどん挑戦すること、勉強すること。
苦手なことだったことが、実は食わず嫌いで、今になって克服できたりということ
もあるかもしれない。楽しい新たな発見があるかもしれない。
とにかく、もうあかん!できない。とは絶対思わない。
もちろん、無理は禁物。
とにかく逃げずに生きると、いいことがあるはずだ。
と、最近はそんな心境のなか、今のトンネルを前進中。
出口のないトンネルはない!

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瞬間が永遠になるギフト。

約二年ぶりの約束を果たせた。
両親がお世話になっていた施設での初演奏会。新春ふれあいコンサートの開催だ。
年明け、連休も明けた平日の午後、現在こちらで暮らしておられる利用者さんとスタッフ
たち約20名の皆さんとのひとときを過ごさせていただいた。
親たちがお世話になった感謝を伝えたいとずっと思っていたが、コロナが収束せず
なかなか実現しなかったが、やっとやっとの開催。
春を待ちわびる季節の曲たちのメドレーや、世界旅行をテーマに、ふるさとをうたったオリジナル曲など・・・。約50分の演奏とトーク。クイズや手拍子など
参加していただける要素も取り入れて構成した。
最初は、会場内も静かで反応もあまりなかったが、演奏がはじまると、皆さんがどんどん元気になっていかれることがわかった。
手拍子をする人、一緒に口ずさむ人・・・。私を見る目つきもどんどん変わった。
もちろん中には夢うつつの方もおられたが、終始ノリノリの方もいらっしゃって、明らかにホーム内の空気に変化を感じた。活気が生まれてきたのだ。
利用者さんもそしてスタッフさんも仕事の手を休めながら、利用者さんに寄り添いながら
一緒に楽しんでいただいた。

アンコールもいただきながら、拍手のなかでのフィナーレ。「また来てくださいね」
皆さんにそう言っていただき、別れを惜しんだ。
親たちがそこに座っていたかも。今もいるような?と、
なんともいえない感覚を抱きながら元気に演奏とトークを続け、
涙なしで終われたことは良かった。

その夜、介護士さんからメッセージをいただいた。
「ふれあいコンサート!ありがとうございました! ご利用者様の感動する心が、溢れる笑顔から感じられ マーサさんの透きとおるお声に 仕事しながらウルッと💧涙  素敵な時間をありがとうございました❢ 認知症〜明日には記憶は無くなっておられますが、、一瞬!の感動を大切にしてあげたいと 日々思います。。  心よりお礼申し上げたく・・」
この言葉に心が震えた。そう、明日には記憶がなくなる方もおられる。もしかしたら多くの方がそうだったかもしれない。
そのことを思うと、切なくもなるが、それでも一瞬一瞬の感動を大切に、今を生きていることの証しとして、そんなお手伝いができるならば、とも思った。
瞬間が永遠になるギフト。今年からの私のテーマのひとつは、これだ。

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いのち、命。大切に。

ロシアのウクライナ侵攻が終わらない。どころか過激になっている。
人殺しが常態化している。異常事態だ。
どちらの国からも犠牲者が止まらない。
いったい首謀者は人の命を何だと思っているのだろう。
亡くなった方々、そしてそのご遺族のことを思うと、たまらない気持ちだ。
この状態に慣れてはいけない。
命をこんなことで終わらせてはいけない。

出張の帰り際に入った、一本のメール。
その方の義理のお母様(もう90歳近い)が、インフルエンザで
施設から急きょ病院に搬送されたとのこと。もう食欲もないので・・・。
でも、延命はしない。見守る、看取るとのこと・・。
そうか、ひとりのおばあさんの命も・・永遠ではない、終わりが近づいて
しまったのか・・と。自分の親のときのことを重ね合わせ、ひとりの
人生のおわりについて考える。

その帰りに、駅の近くのビルの前。通った足元に白い花束がおいてあった。
あれ?誰かが花束を落としたのか?
いや違う。そういえば、ニュースで先週、飛び降り自殺があったと報道していた。
ここで亡くなったのだ・・・。若い方だったようだ。
思わず、立ち止まり手を合わせる。

以上はすべて、人の命の話。
いろんな終わり方がある。
いつか終わるのだから、それ自体はやむを得ない。
しかし、命を大切にしない、されない終わり方は無念すぎる。
人のことも、自分のことも、いのちを大切にしたい。

若い人が未来を悲観せず、希望をもって生きられる世の中にならないと。
いのちは、一番大切だ。

いのちは、亡くなってからその大切さに気づかされる・・・。

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新年らしく、新たなご縁も。

どんな1年にしよう?とわくわく新しい気持ちで進み始めた
2023年、もう10日が過ぎてしまった。
時の流れは速すぎる!

そして、すっかり平常モード。
昨年からとりかかっていることを再開したり、新しい
取り組みに着手したりしはじめてはいるが、まだ
新しい出会いは・・・。

そんな今日、新たな出会いにわくわく。
ZOOMでは昨年からお会いしていたが、対面では初めての
面談となる。
今年はどんな人たちと一緒に新たな挑戦ができるのだろう。

緊張も抱きつつ、未知数の期待も高まる。
やっぱり新年には、新しい出会いもいいものだ。

どんな話をしようか、どんな展開にしようか。
考えているだけでも、わくわくする新年の新たなご縁。
うさぎ年。一緒にリズミカルに挑戦できる仲間を増やす。
できる限り長く、苦楽をともにしても、やっぱりいいね!と
長い信頼のおつきあいができるように。

もちろんこれまでご縁をいただいてきた皆さんとも
新たな気持ちで、さらにいい関係づくりを。

一緒にぴょんぴょん。なんだかわくわくする。
うさぎ年らしく。軽快に。

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