まさに「パラレル」

平和の祭典。そしてパラリンピック。
それ自体はいい。もちろん。
でも、今か?なんで今?
障がいをもつ人のことを、思うならば、余計になぜ今?
国際会議も今やオンラインで行う時代に、なぜわざわざ挨拶のために来日?
子どもたちの観戦こそ、感染ではと思えてならないけれど?
オリンピックに続き、負のレガシーが心配だけど?
でも、強行されている「平和の祭典」。
まったく意味不明。(私にとっては)

コロナで医療がひっ迫している。
もう医療機関もパンクしそうだと悲鳴を上げているのに、
今、いるか?そのイベント。

さらに世界に目を向ければ、
アフガニスタンがえらいことになっている。
カブール空港での騒動を見ると、日本人や関係者は無事
空港にたどり着いて、飛行機に乗れるのだろうか?と心配になる。

難民があふれ出している。
その受け入れで、各国はてんやわんや、
コロナ対策に加えて、そんな事態にある世界。

一方、コロナ急拡大しても、世界の運動会は続行。
パラレルすぎる。

これらにかける費用があったら、全部コロナ対策に、難民に、使った方が
世界を救うことになる。

パラレルすぎる。同じ地球上で起きていることなのに、まったく別次元。
交わり合って、助け合ったり、支え合ったりすればよいと思うが、
あれはあれ、これはこれ。
どんなメダルをとることよりも、
アフガンの女性、人権を守ることの方が価値がある。
と、想えてならない。
平和とは、平和ボケにはわからないことかもしれない・・・。
交わらないパラレルワールド。
今、この平和の祭りが、遠い国で開催されていたなら、
もっと違う感覚で受けとめているかもしれないが。

とにかくすべてのことが、無事に、安心安全に、平和に結ばれることを
今日も願う。

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911に向け、ジャーナリストから再び学ぶ。

「真のジャーナリスト」という職業が好きだ。
真実を伝える仕事。自らが現地に赴き、綿密な取材を重ね、世界に知らせるべきことをきちんと伝える。ときに、命を懸けて・・ということもある。
もちろん、自己責任が伴う、大変重い仕事だ。
真実を、言葉や文字で伝える人もいれば、写真で伝える人もいる。

一方、マスコミは権力の監視をするのが、もともとの役割。
世の中の流れをしっかり見据え、正しき方向に向かっているかを冷静に見極めるのがお仕事。
でも、残念ながら、現代のとくに日本社会には、尊敬できるマスコミ人というのは少ない。
むしろ、組織から独立し、まさにジャーナリズムの精神をもって世界に出ている人を、心から尊敬する。

東京を離れる直前に知り、それ以来、ずっと国際報道について学んでいる講座があり、今もその講師の講義を受講している。
講師は、尊敬するジャーナリストのひとり。横村出さん。偶然にも新潟出身の方だ。もともと新聞記者であるため、文章表現はもちろんパーフェクトでよどみがいが、語り口も静かではあるが、信念を語る表情がとても魅力的。
この方を見て、真のジャーナリストとは何かを考えさせられるようになった。

ロシアでの記者キャリアが長く、この周辺での取材経験も豊富なこの横村氏から、「地政学的なモノの見方」も学んだ。世界とはこのように動いているのだ。これまで意識しなかった切り口を知った。世界をより俯瞰してみる必要があると思うようにもなった。

さて、今回受講中の講義は、あの同時多発テロから20年ということでの激動の世の中を見るという講義。なんというタイミング。まさに、アフガニスタンが今、激動の中にある。横村氏は、20年前のこのテロ後にアフガニスタンに取材に出向かれており、そのときの様子を生々しく、伝え、これまで知らされていなかた真実にも言及された。同行されたプロカメラマンの現地の写真も見せていただき、無残な現場の様子を垣間見た。平和な日本とは真逆な世界・・・。
その20年前と、今。何が変わり、変わらないのか。

講義を通じ、世界をちゃんと見ることの必要性について今回も学んでいる。

横村さんいわく、戦場での取材経験から学ぶ「取材のポイント」は3つ。
まずは現場を見る(データをとる、エビデンスを集める)、そして相対化する(客観視する)そして、主観で考える~自分ならどうするか~。

取材には客観と主観の両方が大切である。ということ。
そしてそのために、現場を見るということ。
今、行かねばならぬ。見なければ、伝えねばならぬ。
この使命感こそが、ジャーナリズムスピリットであろう。

もちろん、戦場に限らず、もしかしたら他の取材先であっても、同じことかもしれない。
現場を見る知る、相対化する、自分ならどうする?
全ての仕事に生かせるはずだ。

今、20年前のNYのことを思い出し、20年間の世界の動きをふりかえり、
社会は前進しているのか、本当にいい方向にいっているのか・・・
と自分なりに見つめ直す。
世界を多く見てきたジャーナリストから、学ぶことはやはり多く、いつも衝撃亭かつ、新鮮だ。
コロナの影響で、講師の熱い話を直接聴けないことは残念であるが、オンラインであることでのメリットも大きい。

真のジャーナリスト。受信者ではなく、発信者として生きるということ。

形は違えど、自分の根底にその想いはあるから、余計に共感、尊敬する。
9月11日に向けて、これを機会に、世界を見つめ直してみたい。

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永遠のAIR MAIL

母の持ち物整理は続く。
まだまだ終わらない。いつまでかかるかと思うと、しんどいため、
この件だけは、終わりを考えず、気が向いたとき、気が向くだけ
進めるようにする。

先日、少し気になって、これまで注視したことのなかった
本棚を見ていた。すると本と本の間に、絵ハガキの束が出てきた。
何十枚もの絵ハガキ。
よく見ると、私が海外から親に出したものだった。
おもには30代、40代のもの・・・のようだ。

「こんなものまで、とってあったんだ~」
旅先での様子や、誕生日などのメッセージ、また会社員をやめる前後の
ことなど、書いてある内容もそれぞれであり、
また写真も、パリからソウル、香港、NY・・。
これら1枚1枚の絵ハガキを、どこで買ったのかなど、その1枚だけを見るだけでも、私自身の青春時代をたどるいい証拠品だ。

そして、何よりそこに書いてある文章。どうも一方的であり、
とにかく自分は元気で飛び回っている。ということだけは伝わるが
親はこれを受け取り、どんな気持ちでいたのか・・・。

メールを使わない時代から、その後も、両親には常に1枚の絵ハガキ。
こんなことをしていたんだ。
なんともいえぬ、いい人生の記念品が発掘できた気分。
1枚1枚を読み返しながら、自分がその頃、親に対してどんな感情をもっていたのかも透けてくる。

とんがっていた時代。強がっていたかもしれない時代。
遠くに行けばいくほど、ふるさとの親のことが気になっていた時代・・。

親への1枚を通し、自分のその当時の心中を思い出す。

永遠のポストカード。とても素敵だ。
電子メールよりも、感動的だ。
このエアメールから、今、自分の軌跡と世界を辿り直したい。
もちろん、親へのキモチとともに・・・。

これらは、新たな、私の宝物に加わった。

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コロナで逝った喜劇王の名言

憧れの職業のひとつ。
「コメディアン」。
この職業を名乗れる人は、世界でも数少ないはず。
カッコイイ。
お笑いを提供できる人は、そのプロは、人間の全ての感情をわかっていないとできない。真の賢さと優しさがないと、出来ない仕事だと思う。
「笑い」のおかげで、どんな苦しみを背負った人であっても、
しばし、であっても、幸せな気持ちになったり、気が楽になることができる。
人々に幸せを届ける・・・とても、素晴らしい仕事だ。

日本のコメディアン。このコロナで突然亡くなってしまわれた志村けんさん。
まさか、の衝撃を日本中に与えた。
そして、言い方が不謹慎かもしれないが、その死も含め、
コメディアン的であり、ドラマチックであった。
そんな人生。だからこそ、
惜しまれ、忘れがたき存在。永遠のヒーローだ。
私にとっても、小学生の頃からの興味の対象であり、これからも大好きで
心から尊敬できる人。

さて、その志村さんの半生をカンタンにまとめた番組があり、生前のインタビューの一部を拝見。
生い立ちも含め、共感するところも多かったが、自分からお笑いの道を選んで
突き進んだというところからは、大きく異なる。
さて、その素晴らしきパフォーマンスの裏には、たえまない努力があった。
でも、一重にお笑いで人を喜ばせたいという思いがあったから、苦労も楽しかったとのこと、このこと自体、素晴らしい。天職を全うされた。

そして、極めつけのことば。
「お客さんを笑わせようとは思わない。自分が一生懸命やっているところを見て、お客さんが笑ってくれたらうれしいな。という気持ちでやってきました。
そしてドーンと笑ってくれたら、やった!ととてもうれしい。」
そうそう、笑わせよう。なんて、力づくはよくない。笑うのはお客様だ。
なんて、素敵な、謙虚な、そして自然体な・・。
この生き様に、静かな感動を覚える。

他の仕事でもそうだ。
お客さんに買わせうとしてはダメだ。
従業員に働かせようとしてもダメだ。
子どもたちに勉強させようとしてもダメだ。
強要は、強制は良くない。

自分からそうなってくれるように、自分から動いてくれるように
そうなるように努力すること。
一生懸命、そして真の意味で、「計算づく」で。

コメディアン。素敵な職業だ。
これから、そのスペシャリストになることはできないが、
でも、私自身も、笑いを大切に、
コミュニケーションをクリエイトしていきたい。

改めて。笑いの英雄。志村さんの存在に心からの感謝と敬意を捧げたい。

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ドキドキ新たな挑戦、発信。

かれこれ、17年ほど広報アドバイザーとして、中小企業の支援をさせて
いただいている組織(公益財団法人にいがた産業創造機構 通称NICO)。
ここの職員さんたちと県内の企業さんへのサポートをともにしてきた。関わってきた企業さんは1500社ほどになるのではないか・・と
もう数えきれないほどに、多くの社長さん、従業員さんに出会い、さまざまな交流と応援を続けてきた。
コロナでなかなか、勉強会や相談会もままならず、当初の予定も計画通り進まないなか、リモートを活用しながら実施することにも、少しずつお互いが慣れてきた。
そんななか、今年度担当の職員さんから連絡。彼女とはその時、まだ対面を果たしておらず、4か月ほどリモートで業務を行ってきた。会っていないのに、親しみを感じられる若手で、やる気に満ちているのも伝わり、今回も素敵なパートナーに出会えた。

「もっと企業さんにサービスを利用していただくために、アドバイザー紹介を
動画を使ってやってみたいと思いますが、ご協力いただけますか?」
との相談。もちろん、なんでもトライ!が基本であるため、深く考えずに、即OK。

彼女とは、ずっとメールと電話と、ZOOMでやりとり。その延長線でのPR動画作成。オンライン相談会の後、ZOOMを使って、一分間の自己紹介をする私を、録画。それを職員さんたちが編集。ということになった。
原稿はなし、アドリブで1分話す。撮り直しもなく、ま、これでやってみてあとでまた気づいたら変えればいい。と軽い気持ちでお任せする。
いろんな見せ方を工夫され、基本的にはお任せ。
とにかく敷居を低くして、ご利用のきっかけになるものにしよう。
というのが狙い。
正直、自分が演奏している姿より、話している姿が映る方が苦手である。
横顔に強い?その方がなぜか、好きではある。
以前も、地方のテレビのインタビューに少し出たときも、自分の話す顔、言葉が恥ずかしく、自分は実はそういうものには向いていない。と思っていた。

「今日、公開しました~」
と、連絡が入り、おそるおそるクリックする。
ああ~。顔の皺、たるみ、口のゆがみ・・・・言い出したらキリがないほど、お恥ずかしい。でも、これが今の私。普段皆さんがごらんになっている私そのもの。
だから、これでまずは、これでいい。
「楽しい音楽も付きましたね~」
「はい、わくわくするようなものを選びました~」
一生懸命、こちらのアドバイス、リクエストにもこたえてくれた。

ZOOM上で、こんな風に離れていても、手軽に動画ができてしまう
世の中。
恥ずかしいとか言っている場合ではなく、どんなことにも挑戦していくことが
次につながる。
また、慣れることで、強くなる。
こんな試みからも、興味を持ってくれる人が一人でも二人でも増え、
ご利用につながれば、嬉しい限り。
文字だけでなく、画像だけでなく、さまざまなトライをしていこう。
以下は、お恥ずかしいそのPR動画である。
ここから、さらにさまざまなバージョンアップをしていければいい。
と、自分で納得。



https://www.nico.or.jp/koho/soudankai2021-2/

https://www.youtube.com/watch?v=aHS0dCXDzWE
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社長のキモチ、わかってね。

毎日、いろんな社長さんとのやりとりがある。
本当に多種多様な、さまざまなご相談をいただく。
聞ける人がいない。ということが多いのだと思う。
声をかけてくださる社長さんたちは、それぞれがんばる意欲満々、
積極的な方ばかりだ。

しかし、このコロナ禍は、深刻な内容も多い。
ときに、涙を浮かべる社長さんもおられる。
ときに、突然のメールが届く。
「先生、ボーナスが払えないですが、どうやって社員に伝えたら
らいいかわからないので、教えてください。」
思わず、手も目も止まった。
そうなんだ・・・。すぐ電話をする。
大変深刻な状況だ。時短営業のせいで、売り上げが減少し続けているとのこと。
「大変ですね。・・・・・・・・」と状況をききながら、社員やパートの皆さんの顔を思い浮かべ、
「まずは、日頃の感謝を伝え、今の状況をきちんと伝えて・・・・・。そして次は絶対払えるように みんなでがんばる。お客さんは待っていても来ないから
自分たちで知恵を出して・・・」
コロナでダメなんだ。という暗い話で終わるのではなく、前向きに終わるようにと伝え方をお伝えする。
「まずは店長に電話して、それから・・・」
伝えるタイミングも思うところを伝える。
一方、少しでも払えるのか、他、何か渡せるものがあるのかなども協議する。
休みをとってもらう、そのお店の利用券を渡す、何かないか・・と一緒に思案。
電話を切って、10分ほどすると、また電話。

社長夫妻で相談され、
その後、払えないといいながらも、わずかでも・・と気持ちを出されると
決断された。
その努力に、胸がいっぱいになる。どんな気持ちで・・・。

「皆さんにどう伝えたいか、まず書いてみて送ってください。見ますから」
と伝えてあったため、
しばらくすると、その文面が送られてくる。
こうしたら、もっと伝わるかな・・と思い、添削して戻す。
そして、さしあげる気持ちは、ひとりひとりに目を見て、言葉をかけて渡してくださいね。とも伝える。

と、このことはほんの一例。
毎日、いろんな社長さんの悩み、苦しみを聞かせていただき、
私なりにできることを、即行う。
口だけの人では、役に立たない。親身に真剣にサポートしないと
社長さんたちの真剣さを思うと、自然とそうなる。

社長って、本当に大変な仕事だ。
会社を背負う、社員の家族の生活がかかっている。
どんな重い仕事か・・・。
今、コロナで苦しんでいる経営者は、数多居られることだろう。
逃げ出したい人もいるだろう。そういう声も聴く。
それでも、逃げずに皆さん、がんばっておられる。
どうか、元気にいい判断、行動をして、会社を守っていただきたい。

組織で働く皆さんも大変と思う。それもよくわかる。
でも、
社長さんのキモチ、わかってくださいね。
給料は自然に振り込まれるものではない。
どんな思いで、やりくりされて、いただいているのか・・。
めげないで前を向き続ける、社長さんたちを心から応援し、
とことん寄りそっていこう!

社長さんにも、社員さんにも、信頼をいただける
コミュニケーションクリエイターで、
みんなの力強きコンシェルジェ、つかえる助っ人!
でありたい。






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クラシックでいい人になる。

どんなに忙しくても、できれば毎日わずかな時間でも、ピアノに向かって
クラシックの曲を奏でる。
今は、この習慣を出来たら、取り戻したい。
現実には難しいけれど、そんな希望をもつぐらい、クラシック音楽は
私にとって、生きるのに必要な栄養だ。

毎日は無理であるが、実家に寄れるとき最近は、よくショパンを弾く。
時々つまっても、音が外れてうまく弾けなくても、とにかく弾き続ける。
楽譜を見ながら、これまで弾いたことのない曲を初見演奏してみる。
もちろんうまく弾けないが、発見がある。
そして、中学生時代から弾いていたワルツやノクターン、そして最後は
幻想即興曲で締め。昔の方が上手かったといつも思うが、それでも
真剣に鍵盤に向かうときは、無になれるひとときだ。

本当に、きれい。いいメロディを作ったな~。ショパンは凄いな・・と
しみじみ感心しながら、必死に楽譜どおりに指を動かす。
この指を動かす動作と、音を感じる聴覚。
ピアノ演奏は、指と耳で成り立つ。確かに脳にはいいはずだ。
うまく弾けないことを焦りつつも、耳に響くメロディが美しいと、
心がキレイになっていく感じがするのだ。
演奏活動をしない人でも、クラシックを聴いていると、脳みそがすっきりする。
最近、バッハを聴きながらお風呂に入るという知人もいる。

そう、クラシックは心身の疲れや汚れをとる浄化作用があり、
邪念を払い、きれいな心になることができる。
これまで、あまり考えてこなかったが、クラシックを純粋に演奏すると、
善行を積むようになるのでは・・・。と、最近そんな風にも感じる。
悪いことをしようという気持ちにはならない。
クラシック愛好家には、犯罪者は少ないのでは?と勝手に想像する。
(今のところ、そういうデータは手もとにないが、興味深い)

クラシックをきくと、美味しいお酒やパンが創れるという話はよく聴くが
人間こそ、いい人になれるのだと思う。

いい人。優しい人。心豊かな人。
もちろん人によって、好みのジャンルや作曲家はあるだろう。
好きな音楽で、ときに癒され、
心やさしく、おだやかに、そして今日ものびのびと・・・♪♪

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コミュニケーションしないコミュニケーション。

街のある店の前で、店員さん同士らしき、若者たちが話している。
その前を通ったら、聞こえてきたのが
「それ、やばくない?」
という言葉。
思わず、どっちのやばい?なんだろうと思ってしまった。
まったく会話に関係ない私が、ドキドキするそんな若者の会話。
やばいの意味は、昔とは違うのはもちろんわかっているが、
その言葉は、相手によって、取り方がいろいろなので、
思っているように受け止められるかどうかは別の話ということになる。

他にもこんな会話が身近にある。
「もう、いい!」
その「いい」は、グッドなのか、その反対なのか?わからない。
「どっちなの?どっちの『いい』なの?」
と思わず聞き返す。

緻密な、きめこまやかな、言葉の意味をきちんと確認するコミュニケーションは
さぞかし面倒。だから、どっちとも取れる言葉を多用し、言いっぱなして、
受け入れ側のいいように解釈する。聞き返すこともしない。だから、
伝えたいことが伝わる。とは限らないことが多い。
なんとなく、言葉を発しているだけ。

表現がうまくないかもしれないが、
点と点のコミュニケーションの時代があった。
ひとつひとつの言葉をきちんと確認しながら、理解されていることを感じながら会話を進める。この会話は内容も深まる。
言葉を考え、交換するという、きわめてインテリジェンスなコミュニケーション。交流することでお互いが高まる。大げさにいえば、人生が楽しくなる
そんなひとときにもなる。

一方、今は線と線。ときには面と面。
どう理解されてもいいようなあいまいな意味の言葉を投げて、
それを連呼するだけ。
「やば」「すごい」「まじ」「チョー〇〇」
感じるところが違っていてもいい、大味な言葉を多用する。

言葉の力が劣化してきている。
言葉を紡ぐとか、重ねるとか、会話を深めたり、考えたり・・・。

もっともっときめこまやかに言葉を交換し、知る喜びを楽しみたい。
今、
スマホに向かい、ネット検索で容易に物事を浅く知ることで満足してしまい、
自分で考え、しっかり人とコミュニケーションをすることから逃げている。
そんな傾向もあるように思える。
このことは、とても危険だ。
コミュニケーションの本質を、今こそ、問い、大切にしたい。
言葉の力。人間に残された大切な力であることを忘れずに。

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なにごとも、「自分ごと」の精神で。

他人事で仕事していると、頭と心が一体にならず、いい結果も生まれない。
一応、手を動かしてはいるが、どこかで傍観者になっており、そして最後、
自分とは関係がないということになる。
そして、結果は芳しくない。そのタスクだけでなく、組織もまとまらない・・
と、そんなことはないだろうか?

チームや組織で仕事をするときには、自分の分担とは異なっていても、
協力しあって、周囲を見ながら、チームで心をひとつにして、全員が自分のことだと思って、一緒に取り組みたい。そうすることで、そのプロセスも含め、良い成果が生まれると思う。

自分以外の人に、問題がふりかかった場合、自分だったらと思って接すると、見えないことが見えたり、ミスにも気づくことができる。
また、声をかけたり、ちょっと手をさしのべることができる。
その結果、、どんなにその人の力になれるだろう。
自分ごと・・と思っていると、協力的になれたり、やさしくなれたりして、相手にパワーを与えることも可能だ。

組織で仕事する場合、仲間の仕事も、どこまでを自分ごととしてとらえることができるだろうか?
一緒に仕事に取り組むという以上、チーム全体が自分ごとであるように心がけたい。
みんながその感覚をもつことにより、忌憚なき意見も出てくるし、いいアイデアや意見も沸いてくる。

評論家のような姿勢では、解決しないことが多い。

やる以上は、自分ごととして、とらえ、向かいたい。

と最近、とくにそう思う。
自分自身にも、改めて。

自分ごとの精神は、真の寄りそいにつながると信じている。

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まさか、もあたりまえもなし。

今日から休み明け、仕事再開の方も多いようだ。
この数日で、コロナはさらに感染拡大、そして豪雨の被害も著しく、今なお
各地での被害は続いている。
聞くところによると、九州など被災地の物流機能は大混乱のようで、
今日からさらに活動再開の事業所が増えるとなると、さらなる問題も
起きそうだ。
現場で働く方には、大変な状況であり、頭が下がる。
何もないときは、システムにのっとり、データ管理をすればよいが
ひとたび、その機能がストップすると、AIも、ITも使えず、またたくまに
アナログでの対応を強いられる。最後は、結局、人の力に頼ることになる。

また、コロナもこの期間、身近なところでの感染も広がっている可能性がある。
ワクチン接種をしていても、感染する可能性もあり、もう安心!という
状況はない。
自分が感染したら・・・という前提で、周囲への気遣いとサポートを
自分事として対応していきたい。

加えて地震。昨日は、自分にも感じる地震が起きた。(それで済んでよかったが)
コロナに、猛暑に、雨に、地震・・・。
まさに異常気象を越え、天変地異、パンデミックといった、
まさかの事態が総結集の夏。

当たり前もなければ、まさかもない。

いつでも、どこでも、誰にでも 何がふりかかってもおかしくない。
受け入れ、対応する力こそ必要。
そして、もし、何かあっても、あわてず冷静でいること。
さらに、もし、わが命にかかわることがあっても、決して悔いがないように
今という瞬間を重ねるのみ。

物理的ソーシャルディスタンスをとりながら、心を寄せて。
今日の皆さまの、ご無事を心から祈りつつ・・・。

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