天職はひとつ?

今週、新聞に掲載された記事の反応は、まだ続いている。
人々が新聞を読まれるタイミングを知るいいきっかけにもなっている。
新聞は、当日読まれるとは限らない。長い時間をかけて読まれる。
保存できるものだからこそ、時間あるときにゆっくり・・という
ことなのかもしれない。

メールをいただく方々からは、いずれも丁寧でありがたい文面を寄せて
いただいている。
これまで私が関わったことでの成長について、細かく書いてくださったり、
近況報告をしながら、過去の学びを思い出してくださったり、
とにかく心から感謝していただいていることが
手に取るように伝わり、メールを受け取りながら、胸が熱くなる。

十年ほどご無沙汰している方からも、記事をみつけたと
感激しながらメッセージをいただいた。
カラーの写真付きの新聞記事は何かと効果的なようだ。

いただいた一通のメール。
お礼の言葉の前後に、広報活動をやっての変化が書かれていた。(一部引用)
・客層が変わりました。(こだわりのお客様が増えました)
・地域の人に知ってもらうことができ、声をかけられるようになりました。
・前は、「まだあったのか」と言われたのが「懐かしいな~」の声に
 変わりました。
・社内の皆さんのモチベーションがあがりました。
・販促活動していないところからのご来店が増えました
・伝えることが苦手だった自分が、人前で話せるようになりました など

きっとご自身の取り組みの歴史をふりかえって、整理されたのだろう。
このようなメッセージに触れ、
本当にこの仕事、やってきてよかった。改めて今、そう思っている。
この広報アドバイザーという仕事は、もしかしたら天職のひとつ
かもしれない。と思うほどに、企業の皆さんが変化されることを
私自身、意気に感じ、歓びをもって取り組むことができた。

天職。
これは一人にひとつしか与えられていないだろうか?
そんなことはない。
できれば、複数の天職でもって、心の観覧車を回し続けたい。
チョット欲張りかもしれないが。
伝えることのお手伝いは、天職のひとつ。
これからも、自分の天職 磨いていこう。
人に感謝される仕事をやり貫く。やり続ける。さあ、今日も。


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みんなと一緒じゃなくていいよ。

私はみんなと一緒に。ということがあまり好きではない幼少期を
過ごしてきた。
みんなと違っていていい、自分だけ違ってもいい。
と、そんな感じだ。

世の中には、年齢に関係なく、
人に合わせることが苦手だったり、嫌だったり
とそんな人もいる。
そのときは、「ちょっと苦手だからできない。」
と耳打ちしてくれたらいい。
「じゃ、こうしようか。」「じゃ、どうしたい?」と聞くことができる。

みんなと一緒だと 力を合わせてできることがあり、
その喜びもひとしおであるが、
一緒がいやならいやで、違う方法をとればいい。

こうじゃないとダメ。
という物差しはもう捨て去りたい。

ダイバーシティ、インクルーシブというならば
何があってもいいじゃない。と言う気持ちになってくる。

それぞれにとって、快適な世界を。

最近、障害をもつ人たちとのふれあいのなかで、
嘘やごまかしのない、素直な心の大切さを
感じている。

我慢せず、自由に、自分らしく生きる。
自分も、そうありたい。
今日も、そうありたい。

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わくどき!掲載され、安堵と感謝。

ウクライナ情勢によって、どうなるやら?
と半月以上、やきもきしていたのが、新聞記事の掲載のこと。
3月半ば 新潟日報の投稿欄に掲載されてから、知り合いの記者から
「読みましたよ。良かったら、今尾さんを取材したいのですが・・・。」
とのメールがあった。経済の担当者だ。
彼が20代の時から知っている。今やベテラン記者。
コロナ禍ということもあり、メールとオンラインでの取材対応となり、
インタビュー風景の写真は、地元で仕込んだ3月後半。
モノクロで掲載となるか、カラーかわからないので、両方用意して送る。
新潟での17年間の仕事についてのふりかえり、新潟県人の広報について
変化してきたこと、中小企業へのアドバイス・・・など、いろいろ話した
けれど、どこをどう切り取り編集してくれるのか・・。

半月も連絡がないと、このまま掲載されずに‥というケースも多いが、
今回はぜひとも掲載になってほしい。新潟で広報の仕事をしてきて
新聞記事で締める。というのはとても自然で、かつ最適な結びとなる。

掲載される前日の夕方以降、急になんども記者から連絡が入りはじめる。
記事になるときは、記者が書いた文章をデスクがチェックし、いろいろ
確認や細かな修正が入る。
ああ、これはいくな~と久しぶりの緊張感。
さまざまな細かい情報の確認だ。間違ったデータは掲載してはいけない。
ネットであればすぐ直せるが、新聞の場合は、刷ったら最後だ。

さて、どきどきワクワクの朝。
7時すぎ、まず一緒に仕事をしてきた公務員の方から
新聞記事を見たと、その記事の写メとともにメッセージが届いた。
メールされた画像で恐る恐る自分の写真を確認する。
まずは写真が気になる。そして内容確認。ああ、ここを書いてくれたんだ。
ああ、だから電話でここを確認したんだ・・。限られた枠で、わかりやすく
まとめられた記事を読んで安堵する。

お久しぶりの方から、いつも応援してくださる方・・・。昨日は夜の21時すぎるまで、
記事を見たとの連絡が続く。
どちらさまも、これで終わりという感じではなく、これからもお願いしたいという
メッセージだ。新聞で会えたのが嬉しいという声もあり、こちらも嬉しくなる。

自分のインタビュー記事。久しぶりだ。
今回、新潟で広報の仕事をして、いい節目となった。
記者も知り合ってから十数年の間、文章力に磨きがかかった感がある。

みんな成長したこの歳月。
改めて、新潟のみなさんに、心から感謝とエールを!

※掲載は4月19日 新潟日報 朝刊 経済面です。

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本番があるとがんばれる。

半年ほどかけて、仲間たちと一緒に取り組んできた小さなプロジェクト。
自分たちの会社のテーマソングを一緒につくって、一緒に演奏し、大切な人たちに
聴いてもらう。という小さな取り組み。
障がいがあるからできないとか、できるとかそんな思い込みは投げ捨てて、
まさに一緒にダイバーシティ、いやインクルーシブな体験を生み出したかった。
そしてできあがった曲。
来週のお披露目に向かって、最後の練習を行った。
どんどんうまくなって、自分たちのものになってきている。
約20名の想いを受け取りながら、こちらで作詞作曲しながら、ひとつの作品にできたことも
歓びであるが、何よりもみなさんが楽しんで演奏している様、このプロジェクトで
社会性が養われていることがが嬉しい。
一緒に何かを作り出す喜びは、やった人しかわからない貴重な経験だ。
口笛あり、ハーモニカあり、行進あり。
何よりうれしいのは手話もありということ。
自分が作った歌詞が、手話で表現されるなんて、感激だ。
最初誰も想像しなかったことができるようになったことが、嬉しい。

さあ、本番。コロナで何名のオーディエンスにおいでいただけるか
わからないが、親御さんや施設の方がおいでになるとのこと。
最高の本番にしたい。
知らないうちに、こんな小さな夢も叶いつつある。
本番というメリハリは、人を大きく成長させてくれる。

もちろん、自分次第で、毎日が「本番」だ。

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「歯が立たない!」相手。

先日ラジオで流れてきたピアノ曲、ラ・カンパネラ。
ああ、懐かしく美しい響きだ。
ヨーロッパの市街にある教会のイメージが、鐘の音とともに広がる。

でも、めちゃくちゃ難しい曲で、昔はまともに弾けなかったな~。
勝手にアレンジして、だましだまし弾いてはいたが・・・。

と思いつつ、なんだか急に再挑戦してみたくなり、
楽譜を探して、40年ぶりに譜面を開く。
リストのエチュード(練習曲)の15番。憧れの曲のひとつであった。
超越技巧という名がつく曲があるほどに、リストのピアノ曲は本当に難しい。
手が2本、指が10本では追いつかないほどに、鍵盤の上を素早く大きく飛ばねばならない。
そう、ピアノを弾く人が指先のアスリートと思えるほどに。
しかも、その飛んだ先の鍵盤に的確に当たらないと、見当違いの音が出て台無しとなる。
とにかく難しい。

ちょっとだけ弾き始めて、ああ、こりゃダメだー!
メロディは知っているため、鼻歌はできるが、指が・・・。
その前に目が楽譜を追いかけるのも難しい。どこまで高音にいくの?と言う感じ。

なんだかベートーベンやショパンがかわいく思えてくる。
ということで、久しぶりのリストのカンパネラ。
歯が立たなかった。とても悔しい!
いつか絶対に弾けるようになってやる!と久しぶりに闘志がわいた。

コロナ前の冬。ワイマールで撮影したリストの家のピアノ。
こんな難しい曲を、リストは作るだけでなく、弾けたのかしらん。
このピアノでも弾いたのかな。
と写真を見ながら、想像する。

もはや人間技ではない。でも、弾けるピアニスト(フジコヘミングのように)
が存在するということは、人間ならできないことはないということだろう?

それにしても、久しぶりに歯が立たない状態、そのときの気持ちを味わった。
これは屈辱的そして、とても刺激的!
どんな分野でも、ときに歯が立たない相手に出会うことは、
成長のきっかけになるかもしれない。

できることばかりやっているようじゃ、成長がないということ?
弾けなかった言い訳をしてみる。

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自分の背景は何色が?

前日の投稿に登場した、同じハナミズキの木。実家にある大きな木。
今週ちょっと目を離したすきに、白い花を咲かせていてびっくりした。
でも、白っぽい曇り空では、そんなにきれいだとは思わなかった。(昨日の写真)

ところが、晴天になった週末。もう一度眺めてみると、青い空になんとよく
この白い花が映えていることか。
ああ、今日は美しい。清々しい。見事だ。とひとり感動する。

同じ花木なのに。
やはり、何事も背景が大切だ。
美術館に行って、せっかくいい作品であっても、その額縁の色合いで、その
作品自体が生きたり、そうでなかったりする。
惜しいな~と思うことも多い。
額縁も入れて作品の完成である。

どの世界で、どの環境で存在するとその作品自体がより魅力を発揮できるのか
は大変重要だ。
そう、色調のharmonyだ。

自分に置き換えてみる。
自分の背景は何色がいいだろう。
自分が身にまとうもの。また自分をとりまくさまざまな環境。
どんな色・どんな世界観だと一番自分が輝くのかを、花を見ながら
イメージしてみたい。

青空が似合う人、夜の雰囲気が似合う人いろいろあるだろう。
魅力的に存在し続けるためには、背景・環境との調和が大切だ。
と花を例にたとえながら・・。
と、そんな花見も進めたい春本番。
どなた様も素敵な日曜をお過ごしください。

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主人(あるじ)なくても、花は咲く。

キレイかどうかは別として、藤の花のアップをまず・・。
3日ぶりに実家に立ち寄ったら、なんと一気に庭の花たちが開花していた。
これだけでなく、ハナミズキやスイレン、また傍らにはタンポポも咲いていて、
あれ?こんなところに?という感じで、桜が散ったと思ったら、一気にそれ以外の花たちが
出番を待っていたかのように、登場した!

花もなく、枯葉が落ちていただけの冬は、本当に寂しい空き家状態であった。

同じ場所なのに、花が咲いてくれるだけで、敷地全体が生き返ったような感じになる。
毎朝水をくれて、草をむしってくれていた主人がなくとも、(今は周囲の皆さんのお世話
になっているが)そこに住人がいなくとも、樹木や花たちが、代わりに住んでくれて
いる感じだ。

少し華やかな気持ちになり、そして、やはり何かしら足りない気持ちになって・・。
そう、この写真のごとく、白い空に白い花のような・・・。
今日は青空を背景に見られるといい。
と、季節が移るたびに、こういった経験を重ねていくのだろう。


主人なくても、花が棲む家。
今となっては、大切な守り神になってくれているようだ。

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頭を使い続けるIN・OUTの暮らし

公務員、会社員など、おつとめを生業とされてきた方には、定年がある。
その日がひとつのゴールである。
仕事でおつきあいしてきた人の多くは、この節目で、いったん関係が
終わってしまうこともある。
「お世話になりました。」
この挨拶から何年かして、ふと、どうされているか?と思い、
連絡をとってみる。

突然のお久しぶりメールに、驚かれた様子の返事がすぐかえってくる。
その方は、親御さんの介護のためということで、62歳で定年された。
それから2年ほどのご無沙汰であった。
その返信によると、
お父様は、その直後に亡くなり、今はそのことで気落ちされているお母さまの
お世話をされつつ、パソコンの資格、漢字検定のための勉強、今は簿記の資格に
向けて勉強中、さらに地域のボランティアにも関わっておられるとのこと。
気ままな暮らしです。綴ってあるのが、その人らしい。
できるだけ頭を使って、地域との関わりともって活動しているとの近況をいただき、
やっぱり、元地方公務員!さすが!と思った次第。

その方以外にも、周囲には70代になっても
カラダを動かすために庭仕事をされたり、仲間とスポーツをされる方もおられるが、
さらに頭を使い続けようと、勉強したり地道に活動されている方も多い。

十数年前の現役中に、定年後のことをかなり計画的に準備されていた方が
いるが、その方は、その計画どおり今も頭も体もしっかり使って、
豊かな現役生活をおくられている。
こちらもさすが!である。

身体はもちろん、頭を使い続けること。
ひとつは学び、ひとつは社会へのお役立ちだろうか。
まさにINとOUTの両者が、心身ともに元気に生きる秘訣だろう。

60歳を節目とした、新たな生き方を、模索するなか、
いいお手本に出会うことは大切だと思う。
尊敬できる人が周囲に多くいてくださることが、本当に幸せだ。

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恥ずかしいから、勉強しよう!

いやはや、勉強不足は恥ずかしい。
いい歳になればなるほど、そのことを実感。

たとえば、どんなことでもコミュニケーションが
ちゃんとできれば、うまくいく。
ということを常々、思っているけれど、
これは、もしかしたら世の中が健全であってのことかもしれない。

健全でなければ、コミュニケーションは成り立たないのかもしれない。
その人それぞれの歴史や背景がわかっていないと、
そのコミュニケーション自体、うまくいかないし、
人間はそんな善良でわかりやすい人ばかりではなく、
利害関係が優先される世界も多いため、(自分の周りは無関係であってほしいが)
一方的に友好関係を求めても、相手によって、なかなか解決は難しいのかも。

今回のおぞましき戦争。
志ある人々の勇気と行動によって、きっと解決策があるだろうと
思っているが、それはなかなか難しいということに気づくことがあった。

「この本を読んだら、世界観が変わりますよ」
と専門家から教えられて言われて開いた、ロシアの勇気あるジャーナリスト、
アンナ ポリトコフトスカヤの「プーチニズム」という著作。

確かに、一部を読んだだけで、
この世の中は、カンタンには変わらない。
ということがすぐ想像できた。
これは、約20年前に出版された本であるが、
今のロシアをすぐイメージできる内容だ。
読んでいて気分が悪くなってきた。
チェチェンで起きた殺戮と
このウクライナの惨事は同じということがわかってくる。

隠された、誰も言わなかった世界。
閉ざされた社会では正しい情報は少ない。
だから本当に解決は難しい。

だから言わねばならぬと、現実を伝える行動をとり続けた彼女は
当局に何度も狙われ、そして殺された・・・。
いかに、自分がロシアと言う国を、
世界を知らないか恥ずかしくなってきた。
世界は、そんなに容易に変わらない。
一見友好的な、コミュニケーションでは、何も解決されない。

権威主義がはびこる閉ざされた社会。
外からはなかなか解決がむつかしい。

できるとしたら、本当に身内から・・であるが、これこそ、まさに
命がけの恐ろしい世界だ。
見守るしかないとは、本当にやるせないが。

平和な日本にいたら、わからない現実がある。
もっともっと勉強しないと、
もっとも知らないから言えることもあるが、
でも、もっと知ることで、もっといい知恵が沸いてくるはず。

いい歳して、知らないことが多いことに気づくことが多い。

恥ずかしいから勉強しよう。
これも、学びのひとつの動機になるだろうか。

もっと広く深く社会を、世界を理解し、
正しい道筋を考え、少しでも自分にできる行動を
とることができたら・・・。

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非難と制裁よりも、仲介と対話を。

この戦争は一体なんだろう?
結局、だんだんと、なんだか当事者以外は、どこかしら他人事のような。
報道も、毎日しつこいぐらい流されていたコロナの感染状況に代わって
最近はウクライナ情勢がトップニュース。
映像のなかの戦争が日常化している・・。
そして各国の非難の話、制裁の話ばかり・・・。

もう惨い現地の様子は見たくない。
早く終わらせるにはどうしたらいいのか?
どうしたら、ウクライナの人を救えるのか?
どうしたら、この狂気を止められるのか?
なんだか結局はさまざまな人たちの
コミュニケーションのすれ違いから、溝が生まれ。
この悲劇が始まったように思えてならない。

コミュニケーションのズレ、間違った情報の伝達。
また考えの違う者同士が、お互いに理解しようとしない。・
対話をしないから、この状況が生まれているように思えてならない。
嘘とわかっていても、立場を貫く。こんな生き方は本当に幸せだろうか?
とも思える。

非難の声をあげ、制裁を強める各国のリーダーたちも、
そうじゃなくて、自分が当事者に直談判していって、
世の中はこうなっている!と
面と向かって言えないものだろうか?
ただ武器を与えて、がんばれ!という応援は本当の応援だろうか?

親しい知人が、今こそ、国際軍が必要。
ウクライナを救わねばと言っているが、本当にそのとおりだ。
どうしたら、救えるか。どうしたら終わらせることができるか?
の答えは、避難と制裁・・だけではないと思えてならない。

今の私には、自己満足かもしれないちっぽけな額の寄付や
祈ることぐらいしかできず、一緒に泣くことぐらいしかできず、
ふがいない。声を上げる人もいる。それはそれでいい。
それぞれができることをやればいい。
でも、世界を本当に動かせるのは政治の力
あるいは、宗教の力。
そのリーダーは今こそ真の役割を果たすべきではないか。
説得しにいけるリーダーこそが、真のリーダーだ。
「ウラジミル、本当に本当にこれでいいのかな?」
と言える人、いないのか?

日常に置き換えても
相手への非難や制裁だけでは、誰もハッピーにならない。
それどころかそのつけが、自分に、毒のように回ってくる。

今回の戦争。
日本も他人事ではない。

とにかく、涙でインタビューに応じる人たちの姿を見てしまうと
たまらない毎日。このことに慣れてはいけない。

いろんな哀しみを抱きながら、今日もはじまる。
せめて、自分ができること。
しっかりやろう。
そして、人の痛みが分かる人、寄り沿える人に。
コミュニケーションを大切に。






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