手足が三本ないだけ・・・と言える強さ。

あるニュース番組で、不慮の事故で、大けがをして、両足と片腕を切断せざるを
得なかった青年のことを知った。
事故は10年前のことだそうで、その当時は、ショックでいかに死ぬかということ
ばかり考えていたそうだ。
今日眠って明日になったら死んでいたらどんなにいいかと・・。
もし、自分がその立場になったら、もちろんそう思うだろうと思った。

でも、その彼は、入院中学生時代の友達が見舞いに来てくれて、
けがのことは何も触れず、普段通りに接してくれたことで、
「自分は何も変わっていないんだ」と、いう気持ちになり、
前向きに生きていくきっかけを得た。

そして、懸命のリハビリを重ね、最新の義足を使って、社会復帰を果たした。
なんと、今はひとり暮らしをされているのだという。
趣味は料理だそうだ。
自宅に帰ったら、靴や靴下を脱ぐように義足を脱いで、車いすに乗って
料理をする。義足が靴や靴下とは・・・なるほど。

彼は会社勤めをされているが、なんと障がい者雇用ではなく、一般の雇用枠
で働いている。上司も何も気遣いなく、普通に接しているとのこと。
普通に働き、なんでも挑戦したいとのこと。
この生き方を見て、そしてこの方の清々しい笑顔を見て、なんと素晴らしいと
思った。

さらに、別の話題。最近、ニューヨークで開催された「障がい者の芸術祭」の
ことを知った。そこに左手が不自由なアーチストが、右手でキーボードを弾き、
左でボタン操作をしながら、懸命に歌を歌っている様を見て、全身がふるえた。
自分に障害があったら、きっとこうするだろうと、強く思ったのだ。

このアーチストはインタビューで、障害が「創造の原点」になっていると
話していた。そこからはじまる。障害は自分の一部。障害があることが
自分の個性でもあり、そこから伝えたいメッセージも生まれてくる。
単に演奏が上手いとか、そんなことよりも、何を伝えるか?という点で
障がい者の演奏、表現は人々の心をうつのだと確信した。

手足が三本ないだけのこと、左手が使えないだけのこと。
いや、そんな状況であっても、やろうと思ったら、働いたり、表現したり、
いっぱいコミュニケーションをして、充実した人生を生きることができるのだ。
彼らの笑顔が印象的であった。

自分は五体満足が普通と思い、胡坐をかいていないだろうか。
と、そんなことを思った。
五本の指が動きづらいのは、病気でもけがでもなく、単なる練習不足。
もっとやればもっとうまくなる!
あるものをもっと活用する。指があるなら、もっと練習しなくちゃ。

と、改めて反省とともに背筋が伸びた次第。

世の中には、不自由な身体でありながら、努力している人がたくさん
いる。
見習いたい。そして、障がいをもつ人たちとの創造を、もっと広げて
いきたい。

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五つ星の表情を撮る人。

今日は写真の話題。
先日5月8日に開催された岐阜新聞でのミニコンサートに駆けつけて
くださったアマチュアカメラマン。お忙しい仕事の合間に本当に「駆け付けて」
来てくださった。
「マーサさんの写真をまた撮りたいと思って・・」。
以前も演奏風景を撮っていただき、大変気に入っていたため、
今回も楽しみにしていた。
但し、会場が感染対策上、透明シートが設置され、近づいたり、
決まった場所からしか撮れない・・・など。なかなか自由に動けない環境であった。

しかし、そんな環境とは無縁に、素晴らしいショットがたくさん!
自分の写真を見るのは勇気がいる。あ、こんな顔している。ああ、しわくちゃ。
マスク生活でフェイスライン、大丈夫か?などなど・・。
皺や造形そのものはモデルの問題であって、カメラマンの腕には関係ない。
・・・とそんな中に、きらっと光るものもある。
とても自然な表情であったり、真剣にやっていることが伝わる情熱の瞬間であったり、
今にも写真から音が飛び出してきそうな写真がたくさん!
激写といっても良いほど、いろんな表情を次々と抑えてくださって、短いコンサート
時間、ずっと私という被写体に集中していただいたことがわかる。

改めて自分の表情を見る、顔を見る。ああ、口が歪んでいる。
こっちの角度からの写真はダメだな、こっちはまあいいか。
と、自分がどう見られているか、見られると良いかの点検はとても大切だ。

今回の写真も五つ星。いろんな場面で使わせていただく。
いくつになっても、見られる仕事をしよう。
見られることに耐えられるように努力しなければ!
と、背筋も伸びる。

Tさん、ステキな写真を今回もありがとうございました!
それにしても、素晴らしい才能だ。
アマチュアかプロかではなく、「表情を撮る」すぐれたアーチストだと思う。
(ここには、一部をご紹介します)

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「ご丁寧に」の後悔。

母の遺品整理を久しぶりに再開。
あまり整理しすぎることへの寂しさも募るが、
進めていかねばならない仕事だ。
どれを残し、どれを捨てるか。なかなかむつかしい選択だ。

郵便のなかに、何度も登場するAさんの名前をみつけた。
そのハガキや封書を見ると、同窓会の案内らしきものが
ほとんどだ。小学校の同級生のようだ。
へえ、こんな方がいたんだ。
と、顔も何も知らないAさんのことを想像した。

こんなに長きにわたり、郵便物が来ている方ならば、やっぱり連絡して
おいた方がいいだろう。と思って、
その郵便物に記載されている住所の横にある電話番号に勇気をもって
かけてみた。
最初はご自宅へ。いきなり携帯だと詐欺と思われて出られないかも。
しかし、出られないので、今度は携帯に・・・。
でも出られないので、そりゃ不信に思われるだろう・・としばらく待つ。
すると先方からかかってきた。着信に反応されたのだ。

「すみません。今尾敏子の娘の昌子と申します。はじめまして・・」
と名乗り、「母宛にたくさんお便りいただいてありがとうございます。
実は・・・」と母のことを報告した。
すると、電話の向こうでAさんはちょっと驚き、「そうですか~。それはそれは。
とてもお元気な人でね。そうですか~」なんども「そうですか~」
と言われ、「本当にご愁傷様です。ご丁寧に教えていただき、あ
りがとうございました。」と言われ、ご挨拶をして、電話を切った。

82歳~83歳だろう。母と同い年。
小学校の同級生。まず話がしっかり通じて安堵する。
そして、「ご丁寧にありがとうございました」と言われたことが、
あとでだんだん気になってきた。

もしかしたら、言わない方がよかったかも?いちいち報告しなくても
良かったのかも。
Aさんも、体調がすぐれないとのことをおっしゃっていたので、
そんな報せをきいて、悪化されるかも・・・。
であれば、余計な情報お伝えしなくても良かったかも。

と、電話を切ってからのAさんの心中を思ったら、後悔の念が
沸いてきた。

知らない方がいいこともある。知らない方がいいときもある。

お世話になった方なので、きちんと報告しておかねばと思い、
その意のままに行動したが、
ときには、それが相手にとって良くない場合もあるかもしれない。

「母の分まで、どうぞお元気に長生きしてくださいね」
とお伝えしたが、本当にそういう気持ちで電話を切った。
うーん。それでも言わない方が良かっただろうか?

母に話しかけてみる。
「Aさんに電話しておいたよ。良かったかな」
写真の母は笑っている。

だんだんいろいろ考える年齢になる。
「ご丁寧に」・・・気を付けよう。

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「愚痴」は言いません。

「大変ですね~。いつでも愚痴ってくださいね。」
とやさしい言葉をくれる人がいた。
愚痴か~。
有難い限り。
聞いてもらえるのは時にうれしい。

でも、愚痴は言わない。言わないようにしたい。
なぜかというと、この二文字が好きではないから。
とても見た目に、そして音的にも美しくない
漢字だと昔から思っているから。

だから、愚痴を言う人は、美しくない。
愚痴を言う人は、賢くない。というイメージだ。
行動は人を現す。

英語で愚痴に相当する言葉・・・どうやらcomplaintsが
近いようであるが、こちらの方が、
まだソフトでいいが、苦情とか不満
という意味でもあるようで、日本で言う「愚痴」
というのとは、また違う気もする。

まあ、いろんなことがある日々、
聞いてもらう存在も大切かもしれない。
ま、家族や親しい人に、日々の出来事を
いろいろさらけ出したり、相談できるのは
とてもいい。そのために身近な人がいてくれる。
「ま、いろいろあるけど、がんばってね」
と、前向きになるためのコミュニケーション
であれば、建設的で良い。
でも、私には「愚痴」という二文字からは、
前向きオーラは感じない。

一方、孤独であっても、ぐちゃぐちゃ言わずに
ひとりで静かに生きる人の方が美しいと感じる。
人のことをどうこうとネガティブなことばかり
話すよりも、自分と向き合い、作品づくりに精を出す、
勉強する、次のことに熱中する。
こっちの方が断然素敵だ。

とはいえ、愚痴を言いたくなることが多い
世の中かもしれない。
私も日々、いろんな話を聞かせていただいている。
考えようによれば、愚痴をいえる相手は
限られた人。と思えば、これもありがたいこと。
聞かせてもらえるということは、
心の叫びを教えてもらえるということ。
信頼されていなければ、愚痴は言われない。
と思いたい。
世の中には、そこまで考えず、誰彼にも言葉を発する
人もいるかもしれないが、そこは用心だ。

自分が発する言葉には責任がある。
気を付けて、心して。
でも、心許せる人がいたら、聞き合える人がいたらいい。
すっきりしてがんばればいい。
常に、前向きに。愚痴のままで終わらないように。

でもやっぱり、言いたくない。


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本音、本気のコミュニケーション。

仲間と進めている、とある案件。お客様の案件ではないため、
とくにこの日までにという期限はなく、当初は急いではいなかったが、
まあ3か月もあったらできるだろうと思っていた。
しかし、やはり日々生きているといろんなことが起きるため、
ついつい、そちらを優先。
気が付くと大した進捗もなく、時間だけが経っていき、さらに他のことが
優先され、3か月を越えて、このままいけば、何もなく半年経ってしまう・・。

さすがに、危機感をもった。
このままではいけない!とチームのメンバーに再度声をかけ、
改めて期限を決め直して、まずこの日までに全力投球しよう!と再稼働
することにした。
最近お会いした方も、仲間で仕事をしていることで、善意や協力体制は
疑いがないが、ビジネスライクにはなかなかことが進まないという現実に
直面されていたが、これは決して他人事ではない。

仲間であればあるほど 甘えが生じることがある。
それではいい仕事はできない。
ときに厳しく、言いづらいこともいいながら、でも前向きに進む。

本音のコミュニケーションは、ときとして信頼にひびが入ることもあるが
本気であれば、それは伝わるし、ときにぶつかりあうことも大切だ。
もちろん思いやり、誠意、配慮、助け合いが根底になければならない。


また、人と仕事をするときは、我慢と忍耐も必要。お互いさまのことだ。
お互いしっかりコミュニケーションして、腹におちて、再スタート。
「とにかく、まず5月末までにできることを全力でやりましょう!」
実は絶対の期限ありきではないが、期限を決め、計画を立て、
緊張感をもつことで、行動に勢いがつく。そして早くやり終える。

仲間だからこそ、本音をぶつけることもできるのかもしれないが、
仕事を一緒にする人は、基本みんな仲間だ。
表面上のやりとりでは、成功しない場合が多い。
パワーを要するけれども、ときに本音、ときに本気を見せる。
緩急のメリハリはもちろん大切。

一体になる。チームワーク。
言葉でいうのはたやすいが、苦楽をともにしてこそ、
ホンモノになる。

今回もいい勉強をさせていただいている。
一緒にがんばっていただける仲間がいることに
感謝をしながら。

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ステージが変わっても。

現役時代、組織の頂点に立ち、大きな仕事を、人を動かしてきた
人たちも、いつしか定年になり、その肩書きなしの人となる。
もともと、肩書はなかったと思えば良いが、いつまでもその肩書きが
ないと生きられない人もいるし、それにこだわらずまったく新しい
生き方をはじめる方もおられる。

コロナ禍に定年となって、念願の起業をされた方がいる。
なかなかコロナで人に会えず、営業もできず、足踏み状態。
また、組織にいたときとは違って、いろんな方に気を遣い
人間関係を大切にしながら・・・と、昔とは勝手の違う道を
歩まれている。
もしかしたら、こんなはずじゃなかったと思うこともあるかも
しれない。

組織のなかで、関係を広げ仕事をしていくのと、
フリーになって、仲間と新たな仕事をつくっていくのは
違う苦労があることも、やってみてわかってくる。
肩書きなしで、どこまで自分らしく、仕事をやり切ることができるか。

最近、定年された先輩たちと話していて思うのは、
人生のステージは、死ぬまで変わっていくということ。
だからそのステージごとに衣装も、演目も
環境、相手に合わせて変えていかねばならないということ。

もちろん、その根底には、新しいステージに立つ自分の
コンセプトが必要だ。

豊かな経験だけでは、前に進まない。
新しいステージに立つ、自分の姿をイメージして、磨き、アピールすること。

ステージが変わっても、目を輝かせ、自分らしくいきいきと活動するために。
やっぱりコンセプトだろうか。
自分は何がしたい?何をすべき?

私自身も、これからの自分について、自らを問い続けたい。


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たまにはCANヅメになる。

出張や外出が多い暮らしではあるが、たまに、この日は
1日内勤しよう!と決めたら、外出せずに1日パソコンに
向かっている日もある。決めないと時間は作れず、また
その本業に向かうまでに、雑用がつきもの・・。
やっとこもり始めても、パソコンの前ではさまざまなことが
起き続ける。ひとつひとつと格闘を続ける。
気が付けば12時間以上、いや14時間?途中、ちょっと抜
けて何か他の用事をしたり、コーヒーを飲んだりしたとしても
気が付けば、時計が何周?窓の外はすっかり闇。
とにかく1日中でひとり格闘している。
ひとりといっても、電話会議にはじまり(ZOOMより
電話がてっとりばやいというケースも多い)引き続きZOOM
で打ち合わせ・・・その後はメールでやりとりしながら
考えもの、書き物を進める。

やはり外出すると、気持ちが切り替わってしまうので、
集中して何かをするときは心決めて、こもるに限る。
気持を切り替えないということも、時に必要だ。

カンヅメ。なぜそう呼ぶのだろう。ふと考える。
そして、カンヅメといえばポルトガル。
と、ふとオイルサーディンなどを思いうかべ、
カンヅメとは?と考える。
カンヅメとは、まさにCANの中に何かを詰めたもの。密封したもの。
転じて、一定の空間に長いこと人を押し込む状態。
カンヅメにされる・・というのは受動的であり、
自分からカンヅメになるのは、大変積極的だ。
そう、自分からカンヅメになって、おいしくなるように
努力する日。
そう、CAN=仕事部屋のなかで、あれこれ格闘する。
すいすい順調なことばかりではなく、ときにネットの環境が
悪くなって、対応に追われたり、うまくデータが送れなくて
慌てたり・・・。
どうやら、このカンヅメはイワシくんのように、缶の中で
じっとしていない「動くカンヅメ」だ。

と、バタバタしながら、カンヅメDAYを終え、
心新たに、外に出る日がはじまる。

ときに、カンヅメは大切だ。
集中と分散。緊張と解放。
この繰り返しで、仕事が仕上がっていく。

I CAN!
今日も夢が膨らむ 希望の1日になりますよう。

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コロナに負けず、感謝の100周年。

ずっと気になっていた店がある。
京都市内の老舗レストラン。〇〇亭とか、〇〇軒と言う名が付けば
歴史もあって、味は確かな洋食屋さんというイメージがある。
京都にはそんなお店がいくつかある。
私が探していたのは、一養軒と言う名のお店。
もう数年以上、足を運び入れておらず、その場所も不確かになってきた。
周囲が変化して小さな路地を入っていくその目印もわからなくなって、
何度通っても店が見つからず、とても気になっていた。
「あれ、あの店、どこへいってしまったんだろう?」
コロナの前に行っておけばよかった。後悔もしていた。
15年以上前、祇園祭りの頃にコンサートをやっていた木屋町のバーに
常連さんとして来られていたその洋食屋の店主。そこからのつながり。
しかしそのバーもママの高齢化ですでに閉店。常連さんたちと会うこと
はなくなった・・。
そして、この洋食屋さんでは、元上司が私の独立15周年だったか、
お祝いをしてくださった・・・。
断片的な、私の京都木屋町界隈の思い出が湧いてくる。
元上司が亡くなった今、どうしてもその洋食屋さんをみつけなければ
・・・とそんな気持ちになっていた。
四条河原町付近での仕事の合間に少し時間ができた。
「よし、もう一度探そう」
そう思い立って、四条木屋町を北へ進み、路地をのぞきながら
うろうろ。「おかしい、ないな~」今度は先斗町から回る。
途中で、お仕事前?の芸妓さんたちとすれ違う。ああ、京の町が戻った
とそのことにも、ちょっと興奮、さらに使命感が募る。
1本づつ路地をのぞく。違う店の前を通ったり、実は路地のつもり
がお店の玄関だったりするので、緊張しながらとある路地を進む。
すると、「一養軒」の懐かしい看板を発見。
「あった!あった!」
いろいろ張り紙がしてあるから、一応営業されているようだ。
「コロナのため、予約のみ・・・営業は9時まで・・・」と
書いてあるから、今も営業されているんだ。
窓があいていた。まだ営業時間前だ。
「ごめんください」勇気をもって中に声をかける・・・。
すると、
「あれ?あ!マーサさん?」
懐かしい店主がマスク姿で返事をしてくれて、迎え入れてくれた。
「ああ、やってはったんや、よかったよかった」

ああ。見つかって良かった。
ずっと気になっていた。
京都の赤い糸の大切な1本がここでつながっていた。
しばし、お話しをする。
不思議なものだ。ずいぶんとご無沙汰しているのに、
マスターは私との会話やその当時のことを全部覚えておられる。
客商売とはえらいもんだ。と、心から感心する。
店を見ると、100周年の文字が目に飛び込んでくる。
おそらくお祝いのお花にさしてあった名札が残してあるのだ。
「へえ、100周年ですか?何時ですか?」
「今年の2月です。おかげさまで・・・」
「いやー、知らなかったので、ごめんなさい」
このコロナの中、よく100周年までがんばって営業されてきたな~。
観光客も来ない、地元の人も時短や自粛で外食利用が激減したなかの
100周年・・・。
3代目のこのマスター。なんとご自身の代になってから50余年だそうだ。

時代が変わっても、変わらず会えた。
本当に本当にうれしい、再会。

今度は、元上司をしのんで、仲間たちと静かにグラスを傾けたい。
美味しい かにクリームコロッケをつまみに・・・。

京の100年レストラン。1日も長く、営業の灯をともし続けてほしい。



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やっぱり愛の元気人!

今年50歳を迎えるお仕事バリバリの
女性と初のZOOM面談となった。
実は、その方のお姉さまからのご紹介である。
家族からの口コミ、ご紹介というのはとても
心強い。本当に信頼されていなければ、
そのルートからの口コミはないと思うからだ。

会社員卒業後の自分の生き方を見据えて、
今から準備をし、うまく自分のやりたい道に
進んでいけるための応援だ。
彼女の現在のお仕事と、これからしていきたい
夢についてお聞きしながら、
自分のことも少し振り返りながら、話す。
35歳で脱サラ(卒サラ?)してきた自分と
50歳以降も会社員を続けながら、今後の
準備をしていこうとする彼女とは、
そのタイミングは少し違えど、
自分のやりたいことで、人のお役に立ちたい。
人を元気に、笑顔になってもらえるお手伝いが
したい・・・
との思いがある点では、共通している。

何時のタイミングまで組織でお世話になるか。
それは時代にも、適正にも、環境にもよるが、
組織で働きながら、いずれ自立を目指すため
準備を始めることは素晴らしいと思う。

ZOOMでの1時間面談。
画面から今にも飛び出してきそうな
手振り身振りと表情豊かな彼女に
真の元気人を感じた。
そして、
久しぶりに愛の元気人であり続けようと
思った。
これからのおつきあいが、とても楽しみだ。

夢を語れる人生、幸せだ。

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マルシェの原点から楽しく学ぶ。

コロナの影響は、人々の消費スタイルの変化にも及んだ。
テイクアウト、デリバリー、ネットをはじめとした通販の進化は
コロナのプラスの影響。
一方、対面販売、外食、密接かつ濃厚コミュニケーションを必要とする
サービスは大打撃。

苦難の約二年半を耐え、コロナ感染が少し収まり、
人が自由に往来し、少しつづ集まることができるようになって、
町に賑わいが戻り、笑顔があふれるようになった。
外出したいし、人と話したいし、一緒に食べたいし、交流したいし・・・。
長い我慢から、やっと解放されたこの5月。
マスクの上からでも笑顔がわかる。

そんななか、市場、市とよばれる場に足を運んでみる。
対面販売の原点である。
たとえば京都の錦市場。
今はまだインバウンドが戻っていないおかげで、ひと昔の
活気ある市場が復活した様相で、とてもうれしくなる。
あの狭い小路を歩きつつ、京の台所から学びをいただく。

たとえば、バナナの売り方。一山全部を籠に盛って売るだけでなく、
3本を1カゴに、モンキーバナナ4本を1籠に盛って100円などと
いった売り方もしている。おひとりさまには、また食べきりたい場合には
ちょうどいい。あ、気が利いているな。
ある店では、大きめの袋に入った(おそらく仕入れたままの)昆布飴を
そのまま400円とか500円とかで販売しているが、
別の乾物屋さんでは、同じ商品を少しだけ小分けにして100円、
その倍入っていたものを200円などと工夫しており、各店の売り方の
工夫、センスを感じた。
初めて買う時は味がわからないから、小さい方がいい。と言う方もおられる
だろう。
お客さんがどうしたら、買いやすいか。と同時に、
どうしたら、早く売れるか?
の両者の目線が大切だ。
あ、小売りってこういうことだ。と多くの発見をもらえる市場。
「あ、今焼いたばかりやしね~」
魚屋のおばさんの声がこだまして、この焼きたての言葉についつい
つられて、店を覗いてしまう。
魚屋さんは、生の魚だけでなく、加工品を多く売る。自家製、焼き立て
作り立てというのも、小売りのポイントだ。
「じゃ、ひとつもらっときますわ~」
気づいたら、お金を払っている。
「おおきに~」
の言葉がこだまする。それが小売り。それがマルシェ。
わくわくするのは、この空気感もあるのだろう。

インバウンドで混みあっていたときには、そんな細かな気づきも
目に入ってこなかった。積極的に足を運ぼうとしなかった。

ネットも、非接触もいいけれど、やはり人肌を感じる市、商店が
大好きだ。
そう、買いに行くだけでなく、コミュニケーションを楽しむ。
店とは、売買の場としての機能だけでなく、交流の場であり、
元気の交換の場である。
昭和の面影を残す商店や、さまざまな「市」がなくならないように
受け継ぎ、応援していかねば。と思う。

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