沿線で感じた別世界。

コロナも落ち着き、新しい日常が始まった4月。
コロナ禍で学んだ、リモートコミュニケーションは生かしつつも、対面での
コミュニケーションが復活。
たまたま先週訪れたモノづくり系の展示会場は、コロナ前の時代に戻ったような
賑わい、お祭り気分で、不思議な感覚に包まれた。
コンパニオンという言葉がまだあるのかどうかわからないが、ノベルティを配布
しアンケートを集めたり、企業の担当者に成り代わって滑らかな口調でプレゼン
をする女性たち、元気に接客対応をする企業の人々・・・。
デジタルとリアルの融合。やっぱり生コミュニケーションだ・・・。
なんだか皆さん、とても元気でやる気に満ちている。
東京で以前よく通っていた展示会を思い出した。展示会ビジネスもこのコロナで
本当に大変だったな・・・。久しぶりの熱狂を感じ、目的を果たしてすぐに会場を出た。
久しぶりで疲れたというのもあった。
名古屋港を前に深呼吸。
混雑している空間に慣れない自分がいた。
マスクの着脱も自分で判断でき、自由に行き来できる日常をありがたいと思った。
帰り道、ふたたび電車に乗って、名古屋駅方面に向かう。
行きには気づかなかったが、帰り道の途中駅で、入国管理局のビルが目に飛び込んだ。
「あ、ここだ」
先日、報道で信じられない光景を見たここで起きた事件のことが頭をよぎった。
スリランカの女性のことだ。
ああ、この建物のなかに、自由を許されない海外の人たちがいる・・・。
さっきまでの展示会の熱狂と全く違う世界。電車で10分ほどの距離なのに・・・。
とても苦しくなってきた。

自由に行き来できている自分たち。
一方、そうはならない、そうさせてもらえない海外の人たち・・。

名古屋駅に着いたら、また賑わいが戻り、多くのビジネスマンや
観光客でさっきの入管の風景が、別世界に見えてきた・・・。

自由であることを当たり前と思ってはいけない。
感謝して、生きなければ・・・。




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常に自分が主体的・能動的であること。

今、対話型AIに人々の関心が集まっている。
どんなことができる?どこまでできる?そんなにすごい?
知りたいことを入力すれば、瞬時に回答が出てくる。しかも
計算しつくされた情報が整理されて出てくる。
そのまま原稿にも使えそうな、まるで誰かがが書いたような
文章を、AIが見事に提示してくれるのだ。
検索すればすぐ必要な情報を見ることができるこの便利な時代に、
こちらのサービスの登場は自然のなりゆきで、歓迎されるのも
理解できる。

しかし、こんなにそれらしき文章をすらすら並べられては
困る、やってられない。
と危機感をもつ人も多いことと思う。
作家の仕事でも、このチャットGPTを使って賞をとる作家さんも
いたりすると、大変な複雑な気持ちになる。

どんどんツールは開発される。
人間はそのツールに使われてはいけない。
ツールを使うのは、あくまでも人間。私たちが主役。
こんなことがしたいから、このときに、このツールを使う。
とよく考えて手法を選択し、目的を達成するならば良い。
単に便利だからと、安易に利用するだけでは、考える力が
退化するだろう。

何でも流行るとそこにハマっていく人もいるが、
話題になっているから、便利だからといって、考えることもなく
利用することは賛成できない。
目的達成のために、その特性もよく理解した上で、効果的に
使うならば、良いと思う。
先日も企画をする仲間同士でこの会話になった。
「人手不足だし、アイデア出しぐらいは、このチャットを使って
それも参考にしながら自分たちで考え、まとめていくという使い方は
ありですね。もしかしたら自分たちだけでは思いつかない情報やアイデアが
出てくるかもしれないですしね。」
確かに、こういった使い方は適切だと思う。

自分の仕事は、AIと戦わない。
AIには絶対できないことをする。しよう。
改めて心に誓いながら、一方、相手をよく知り、時に活用したり
活用をすすめる場面もあって良いと思う。

大切なことは、あくまでも自分が主役。人間が主役。
ツールに使われる、踊らされることなく、
自分が考え、使う。主体性と能動性がここでも求められる。

人間にしかできないこと。ここを改めて考えながら
柔軟に、しなやかに生きていきたい!
このブログも、自分しか書けないことにこだわり続ける。

とはいえ、時間があるときにいろいろ試してみようとは思って
いる。主体的・能動的に生きるために・・・。

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若者が生み出す、アナログメッセージ。

京都の地下鉄車内で、みつけた広告。
実は先日京都新聞の記事を読んで、その発想と行動力に感動し、機会があったら現物を見たいと思っていた作品。
コロナで広告出稿が減った地下鉄の広告の現状を見て、なんとかせねば!と京都の学生さんたちが、京都市交通局に自分たちが広告を出稿して、車内広告を募集するという企画。
「まるたけえびすに・・・」のキャッチを見れば、すぐ京都の道の数え歌であると思い、
一目で京都をPRしつつ、さりげなくこの空間であなたも情報発信しませんか?と自然に
広告募集中のメッセージに目が流れる。
出稿主は大学の広告研究会。
広告を自ら学び、研究する学生さんたちが毎日利用する地下鉄のコロナ禍の厳しい状況を見て、広告をもって何かできないかと考え、具体化したコラボ企画。
学生さんたちが、どのように交通局に話を持ち込んだかは直接取材していないため、わからないが、素敵なプレゼンをされたことだろう。
このフレッシュな感性、勇気、行動力。
自腹を切っての出稿というところが、えらい!と思った次第。
この広告に続き、さまざまな京都の企業や団体の出稿が増え、昔の社内のようににぎわう日が戻るといい。
ただ、時代は手のひらの時代。
見ていると、立っているお客さんでも、上を見ず、下を見ている時間がほとんど。
スマホは、従来広告の存続にも大きな影響をもたらしているかもしれない。
でも、学生さんたちの発信力は素晴らしい。
ひとり、この広告をじっと見ながら、拍手を送っていた。
出ては消えていくデジタルの広告と、カタチになって心にメッセージを残すアナログ広告。
基本をもう一度みつめたい気持ちになる車内でのひとときであった。

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また来年、ここで会おうね。

花びらがすべて散った桜の木々。誰も、もう立ち止まって見上げることも
ないが、その緑色が目に優しい。
そして、季節が少し動いたことを感じる。
卒業、入学、入社・・新しいスタートを祝い、応援する春の儀式が
終わった。桜はやはり、日本の春の儀式のシンボルだ。

祭りも終わって、「さくらまつり」と書かれた提灯だけが、木々につながれたまま
ゆらゆらと揺れている。
もう今日あたり、この提灯は片付けられることだろう。
地域のみなさま、本当にお疲れ様です。毎年ありがとうございます!

次、この道を歩くときには、なくなっているはずだ。

父の名前が書かれた提灯に近寄り、立ち止まって、父の顔に触れるように
少しだけ撫でる。
人が通ったら、おかしな人と思われることだろう。

「今年も、桜終わったね。また来年会おうね。元気でね」と、言葉をかけ、
少し名残惜しく、そこを立ち去り、駅に向かう。

元気でね。は、自分に向けた言葉である。
来年、また父のこの提灯に出会えるように、この地が平和のままで、桜の
木も元気で、そして地域の皆さんも元気で、自分も元気なままでいられるように。
父との思い出をたどる、大切な場面、時間を大切に生きたい。
そんな願いを込めて。
生きていれば、すべてが動き続ける。

「お父さん、またね。桜の季節にここで会おうね。」

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中学2年の「ORIGINAL」

1枚の賞状が出てきた。
大人になってから賞状はあまりもらったことがないが、幼少の頃には何かあるたびに
「賞」をもらうことで、モチベーションが維持され、がんばることができたのかもしれない。
そんななかの1枚が、実家の本棚におきざりになっていた。
ずっと忘れ、目もくれなかったのが、突然目に入った。
「誰の賞状?いつの?へー?」という感じだ。

2年3組とあるから、中学生の頃の賞状。
タイトルは「ORIGINAL」。なんだろう?
よく見ると、夏休みの宿題の表彰だったようで、「銀賞」と書いてある。
なんでも、自分で作った曲を夏休みの宿題に出していたようだ。
そして、このタイトル「ORIGINAL」も、自分で付けたはずだ。

中学二年といえば、14~15歳か。
その頃からオリジナルだったんだ。

当時のわたしは、今の自分にしっかりつながっているのだと、その一枚を眺める。
人まねでなく、自分流。自分しかできないことを10代前半からそうしていたとは。
「よっしゃ~!」と、その頃の自分に思わずガッツポーズしたくなる。

きっと、暗記する勉強があまり好きでなかったり、人と比較されない道を行く
のが好きだったり・・ということだとは思うが、それにしても、中学二年に
作った曲は何だったんだろう?

中学時代の自分はどこか面白い。
この2年生には残っていた賞状から、オリジナルの曲をつくったようであるが、
1年か3年かには、ベートーベンの本のスクラップから、我流「ベートーベン物語」
を作っていたから、いずれにせよ、面白い。
暑い夏に、当時岐阜公園の中にあった県立図書館に通って、ベートーベンの本を毎日
探してはメモをとったり、コピーをとったり、見た目一人前のことをしていたことは
覚えている。(冷房の入った図書館に行きたかっただけかもしれないが)

オリジナルに生きたい。
親とよくケンカになった「10人中いたら9人がすることをすればいい」の反対を
身をもって示したかった、思春期の意地だったのかもしれない。

40年以上の自分は、今につながっている。
このまま、ずーっと「ORIGINAL」でいこうと心に決める。

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日本はポイント立国なり。

もう20年ほど前のことだったか、当時お世話になっていた女性が
「本当にポイントカードがたまって・・・。もう財布に入らないから
ポイントカード用に別のケースを作ったわ」と分厚いケースを
見せてくれたことがあり、そんなに?と驚いたことがある。
今は、そのカード自体も、かなりスマホのなかに収まっているため、
複数のポイントカードを持ち歩くことは以前よりは、減ったかも
しれないが、それでも今なお、ポイントカードはほとんどの小売り店
サービス業で健在である。

リピーター獲得には、デジタルアナログ関係なく普遍の販促手段?
よく考えたら、このポイントは、海外では見かけたことがない。
販促といえば、クーポン。これはアメリカ生まれだったと思うが、
そのとき安くなる。この簡単さが受けているのだろう。

一方、ポイントは根気がいる。真面目なお客さんでないと貯まらない。
日本人は真面目な民族。だからポイントは向いている。コツコツ
ためるのが好き、努力の人なのだ。
だから、マイナポイントはしっかり日本人の心をつかんだ販促?
と勝手に思っている。
そこで、このポイントカードは、いつから身のまわりにあったのかと
わが人生をふりかえる。
あ!わかった!夏休みのラジオ体操の出欠カードだ!!

毎日ラジオ体操に行くと押してもらったスタンプ。毎日増えて
いくのがうれしく、がんばって通った。そして全部ハンコが
並んだら、皆勤賞として何か景品や賞状をもらった記憶がある。
私たちは、小学校時代に、ポイントをためる楽しみを、努力する喜び
を学び、体得してきたのだ。
と、大げさに思えるかもしれないが、ラジオ体操の出欠表は健康
づくりのポイントカード、夏休みのお楽しみのためのポイントカード
だったのだ。

今日、どこの店に行っても、「◌ポイントお持ちですか?」「ポイントカード
お持ちですか?」と尋ねられて、ちょっと鬱陶しいときもあるが、
それだけ日本人はポイント生活が好き、性に合っているのだ。

ところで、最近急速に増えている外国人観光客・・・。
彼らがコンビニやファーストフード店に行って、レジに立っても
「◌ポイントお持ちですか?」と聞いているのだろうか?
「WHATS?」と、聞き返す人もいるかも?
と、ポイントを巡り、いろんな想像が働いたため、楽しく書いてみた。

販促と国民性の関係はなかなか面白いものだ。

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「掛け持ち」アーチストやります!

オンライン会議中に、電話の着信。
あとで気づき、折返しその方にお電話する。
母が元気な頃に大変お世話になった方で、農協の支店長さん。
いい人とは、こういう人を指すのだと自信を持って言える、そんな方だ。

なぜか、ずっと「マーサさん」と呼んでくださって、
思い起こせば、母の臨終の直前に、一番先に相談した方。
そして腕のいいカメラマンでもあり、実は私のサイトの中にその方が
撮影してくださった写真も何枚かある。
私のなかでは、信頼できる貴重な地元のキーパーソンだ。

「急ぎで相談です。今度支店で女性の集まりがあって、そのときに
マーサさんの演奏してもらえないかと思って。でも、その日は確か
岐阜新聞のコンサートの日ですよね。70名ぐらいは集まるんですけど」
との相談。その日に限って、しかも時間帯も昼の時間をご希望の
様子。でも、そこで諦めてはいけない。
「そうですね。でも、少し時間ずらしたら、両方できると思うので
岐阜新聞終わってから、そちらに移動して開始というのでもよろしければ
やらせていただきますよ!」
ということで、そのお話に乗らせていただくことに。

なんでも、その会では、母や地元の方のことを想ってつくった農協の
イメージソングも演奏させていただけるとのことなので、それは
なんとしても駆けつけなければと即決した次第。

母がわがテーマ曲のごとく喜んだ曲、そう、思えば葬儀の日に歌って送った
その曲を、他の皆さんと一緒に合唱できるならばそれはうれしい限り。
ということで、5月15日はアーチストのダブルヘッターとなる。

同じ会場でお客さんを入れ替えて1日2回というのはやったことがあるが、
違う会場で1日2回の演奏会とは、初体験。
1回目の出演のときに、どれだけスタミナを残して2回目に臨むか。
2会場ともフルパワーで臨むには。今回、いい学びの機会になりそうだ。

掛け持ちに挑戦。1日24時間、どれだけのことができるか。
とにかく自分にしかできないことを、やり続ける。
ありがたい声をかけていただけるのも、母のおかげだと思う。
新たなご縁がまた生まれることだろう。
人生、掛け持ちで楽しくなる。なんだかわくわくしてきた。

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心の地球儀を回す瞬間。

日々、目の前のことに追われていると、ついつい、前を見て動くことに
意識が集中し、俯瞰して全体を見ながら、今をみつめ、すべきことを考え
判断する・・といったことが、おろそかになることもある。

人間は、前に向いて生きる存在であるが、全体と調和して生きる存在でもある、
そして、大河の一滴としての自分がどうあるべきかを理解し、生きる存在である。
さらに、もっといえば、周囲の人が気持ちよく、幸せに生きるために何ができるか
を考え、生きる存在であったら良い。

1日はたった24時間しかなく、自分が課せられた役割を全うするために、その限られた
時間をどう過ごすか。
前を向いて追われるだけでなく、一呼吸おいて、俯瞰して自分の存在をみつめたい。
瞬間でいいから、毎日俯瞰する自分を持ちたい。

ある親しい知人は長年、毎日瞑想をされ、心を落ち着けておられる。
だからいつも穏やかで頼り甲斐もあり、話をするとその考えや言動に深さを感じる。
瞑想は俯瞰するのに、最適な方法かもしれない。

デジタル社会になり、情報が垂れ流しのなか、迷いながら生きている日々、その中を
泳いでいくだけでも精一杯という一面もあるが、
それでも、俯瞰する習慣は忘れずにいたい。

たとえば、心の地球儀をくるり回しながら、今日の自分は・・。
と思ってみるのも良いだろう。


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電卓ができた頃と今。

今、ちまたで大変話題になっている対話型AI。
学生たちは、勉強の道具のひとつとして、利用している人も多いようだ。
1日がかりで調べられていたことが、数分で答えが出るサービスであるので、
「とても便利」と言っていた。
勉強の世界に、「便利」は必要なのかも理解できなく、今どきの学生は
そんな感覚なのだと驚いた。

そのサービスを手掛けるベンチャー企業の代表はまだ30代後半。
メリットもあれば、深刻なデメリットもある。それを理解して活用すれば
いい。まるで、計算機が世の中に出た頃のように・・・。
とインタビューでそのようなことを応えており、今どきの経営者らしいとも
感じた。
一方、このAI活用に対しては、著名な実業家たちからも賛否の声が挙がっている。
今、むやみに普及を加速させるのではなく、それこそ、よく調べるべきだと。

電卓がなかった昔の頃をふと思い出した。
子どもの頃、そろばん学校へ通っていた友達もいた。
書道とそろばんはセットの習い事だった。
よみ・かき・そろばん・・そろばんは数える、計算力を養うということ。
この3つは生きていく上での基礎力として重視されていた。

ところが今は・・・
読むものはアニメや動画に、書くことは入力に、そろばんは電卓に・・・。
もっと言えば、覚えるべきことはすぐ写真に撮る・・とそんな時代。

今、電卓がないと仕事が、生活が成り立たない。
反面、電卓の普及で、暗算ができなくなってきている。
また、パソコンがないと仕事ができなくなっている。
反面、パソコンで文字を打つ頃に慣れ、文字が書けなくなってきている。
漢字は忘れ、文字が昔のように、きれいに書けない。これは深刻な問題で
今、私自身、それを取り戻さねばと思っているところだ。

今度は、文章を作成することもITを活用・・・となれば、
当然考える力、文章力、構成力が低下する・・・。
忍耐強く調べることもしなくなり、持続力や持久力も低下するだろう。
と、AIの進化とともに、人間のゆくえを改めて危惧する。

「これらの道具を使いこなして、人間はもっと創造的に生きればよい、生きられる」
とそのCEOはインタビューで話していたが、文章を考えるという想像力が必要な
創造力をまず養わずに、そこで楽をして、次の創造性に向かうとは???よくわからない。

AIとこれからの暮らし、仕事について考えなければいけない。
人間にしかできないこと、道具ではできないこと。
それをしっかり自分の強みにしていかねばならない。

便利な道具。はそろそろ要らないのではと思う。
時間がかかることは悪いことではない。とも思う今日この頃。

このことは、少し長く生きないとわからないかもしれない。
すでに、毎日、何度も検索をして生きている自分が、ちょっと情けなくもあるが、
そこで終わらず、本を読む、文字を文章を書く、アートに触れる、演奏をする・・
とにかく、人間の能力を生かす活動をもっと強化しなければと思う。

AIが私の将来にどうかかわってくるのか?
具体的にしっかり考えていく時間がやってきている。
少し距離を置きつつ、俯瞰しながら、みつめ、必要な部分は取り入れながら・・・。

便利は不要。
と、一度、そこまで生活を見つめ直す時期でもある。
電卓の普及とともに、生きてきた自分の暮らしも改めてふりかえってみたい。

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自身と自信。

レッスンをさせていただき、応援してきた方が当選した。
夜遅くの報告メールを読んで、心から安堵。
ずっと彼女とその地元応援団が日々、地元で奮闘されている姿を
想像しながら、がんばれー!とエールを送り続けていたから。
演説の原稿を一緒につくり、練習した日々を思い出し、良かったと
胸をなでおろす。選挙戦追い込み時には原稿を見ず、自分の言葉で有権者に
語りかけておられたとのこと。
素晴らしい。予想どおりだ。
本番に強い方なので大丈夫とは思っていたが、本当に
良かった。これで地域に未来に向けての新しい風が吹くだろう。

振り返れば、先週もいろんなことがあった。
心に荒波が押し寄せることもあり、どう乗り切ろうかと思ったほどで
あった。
でも、それは津波ではなく、今も無事に生きていられている。
ちょっとやそっとの波や風は常に押し寄せ、吹いてくるのが人生。

そんなとき、上に書いた候補者の方のがんばり、またいろんな苦難を
乗り越えようとしている多くの仲間のことを想えば、自分も大丈夫。
絶対にやれると思えてくる。

自分を信じること。自分がやっていることは間違っていない。いや、
正しい。と信じること。
これまで歩んできた道が間違っていないと思えるなら、それでよし。
人はそれぞれ、背景が異なり、歩んできた道が違い、また向かうべきゴールも違う
ため、同じ現象を見てもとらえ方は違う。人によっては反対に見えることもあるのだ。
そこをわかってよ!といっても、難しいこともある。
人は人。自分は自分。

だから、自分が思う道を進めばいい。
そして、考えすぎず、気持ちが楽になるように進めばよい。
生きていれば、少々の考えの違い、価値観の違いに出会うだろう。
それも承知で、自分を信じて前に進めばよい。

ありがたいことに心配をしてくださったり、応援してくださる方が
自分の周りにいてくれる。
その気持ちに感謝して、自身を信じ、自信をもって。
ぶれずに前に進むとしよう。

見ている人は見ている。正義と愛を信じて、進むとしよう。

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