花を持たせる仕事。

これまで、自分でいろんなことを思いついたり、新しいアイデアが
浮かんでくると、自分でやらなくちゃ!と思ってきた。
そして、企画からプロデュースまで、いくつものテーマについて
取り組んできた。
一方、現実では黒子であったり、アドバイスや支援をする立場の仕事も
多く、そこでは一歩踏みとどまったり、引っ込んだりすることも
大切だ。

そう、自分が主役ではなく、主役を育てる仕事。
その主役になった方たちが、自分の仕事を全うされ、成功という花束を
受け取れるようにするのが、わが仕事。
そう、花を持たせる仕事である。

やりたい仕事があっても、自分がやるのではなく、やる人を応援する。
それが人づくりにつながる。
ときに我慢や辛抱も必要であるが、それも仕事。
そして、主役を育てる仕事の方が、実はやりがいがあるのかもしれない。
少し時間はかかるけれど、それがこれからの使命のひとつ。
人づくりのためのタネをまいたり、育てたり・・・・。

人に花を持たせる仕事。
いい仕事だと思う。

もちろん仕事による。自分にしかできない仕事は、生涯自分がやればいい。

目の前の仕事、未来の仕事。これらを同時を見据えながら、自分が
求められることに応えていきたい。

さあ、今日は誰にどんな花を?

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恥ずかしくない生き方をするために。

学生時代は勉強することが仕事であった。というわりには
そんなに熱心に勉強していなかった。もともと、努力家ではなかった。
でも、受験勉強よりも知的好奇心をそそられる学術的テーマには
関心をもてたため、大学時代の勉強はそれなりに面白かった。

でも、社会人になるとしばらく学生時代の学びの時間は
過去の思い出となり、仕事をする上で必要なことを勉強した。
それはそれで役立ったし、今も学びながら歩んでいる。
そう、どのジャンルにせよ、勉強は生きていく上で必須である。

そして、仕事も落ち着いてきて、ある程度長年生きてくると、
生きることについて、世界について改めて問題意識も生まれ、
改めて人として学ぶべきことについて、もっと知りたい、考えたい
という意欲もわいてくる。

高齢化社会も一因かもしれないが、
近年、社会人向け講座を有する大学も増えてきている。
自分で学びたいプログラムを選び、楽しく学ぶ大人が増えている。

私の興味関心はいろいろあるが、
そのひとつはジャーナリズムと報道について。
世界を歩いて、日本で見ている世界と外から見る世界が違うという
ことを感じたり、世の中を正しく、自分なりに確かにみつめるために
正しい見方を身に付けることは大切と思い、このことに少しでも
触れたいと思うようになった。
広報の仕事をするなかで、メディアについて思うところが出てきた
という点も関係があるのだと思うが。

またジャーナリストという仕事、生き方に関心をもっているため、
あるべき報道人についても考えたいという動機もあっての今回の
学びである。

昨日、春の講座が終わった。ウクライナの今後、広島ビジョンのこと、
・・・自分だけでは知ることができなかった貴重な知識を得たり、
物事の見方を教えていただき、また少し世界観が広がったことをうれしく
思う反面、知ることで世界への危機意識も高まり、緊張を覚えている。

改めて世の中はしっかりみつめなくちゃいけない。と・・。
学ぶことで、早く気づいたり、身を守ったりすることもできるかも
しれない。
心豊かに生きるために学びたいが、それだけでなく、間違った方向に
いかないために学ぶことが求められる時代。


今回の講座で一番心に残った言葉は、恥ずかしくない生き方をしたい。
という講師の言葉。
一人の人として、こうありたい、こう世の中に関わりたいという自分が
ある以上、それに背く選択や行動をしないためにも、
恥ずかしい生き方をしないためにも、学びはやはり大切なのだ。

今回も深い洞察力をもち、揺れ動く世界の読み解き方を教えてくださり、
そして、恥ずかしい生き方をしないためのヒントを多くくださった
ブレないジャーナリスト、横村出さんの講義に、心から感謝したい。
いつも、こういう仕事をしなければと思わせていただいている。
講義の内容もであるが、その発信の姿勢こそが、ジャーリストであると
心から敬意を表している。
戦争の現場に出向き、命の危険を冒してまで、仕事をされてきた故の
強さを感じる。

自分にとって、恥ずかしくない生き方とは。

今日はそのことを改めて考えてみたい。

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ぐるり回って京で再会。

15年ほど前、初めて京都で出会ったその女性。
当時、彼女は20代前半だったのでは。
まさか、その後、こんなにも長い間、そしていろんなところで
会える関係になるとは思いもよらなかった。
京都、ニセコ、東京、京都、山口、オンライン、京都・・・。
彼女と会った町を思い浮かべる。
オンラインはコロナ禍での再会のこと。

彼女が転勤したり、転職すればその先に足を運び。
また私が動けば彼女もはるばる足を運んでくれたり・・・と
何も縛りもないのに、こんなに長く続いてきた関係。
ザビエルの歌を歌うからといえば、地元の岡山から、
はるばる山口のザビエル教会まで来てくれたことは、今も忘れない
感動物語。
突然現れることもあり、なんだかいつもドラマみたいだ。

エステの仕事を長くがんばってきた彼女は、いつしか介護福祉士になった。
全国各地にとどまらず、世界にも冒険に出ていた自由奔放な彼女が
故郷に戻り、お母さまの最期をしっかり自分で看取ったとのこと。
今もふるさとに住み、地元のお年寄りのお世話をしている。

コロナも落ち着き、久しぶりに京都で再会。
彼女と知り合った京都で、また会えるとは感慨深い。

お互い、両親を送った経験を経て、少し大人になったというか、
感謝の気持ちを抱きながら、心のなかに棲む親とともに過ごす
感じも少し似ている。

年はかなり離れているけれども、大切な心の妹のひとり。
「安楽死できたらいいね。」
と、こんな話題も、自然にできるのが、とてもいい。

「京都ってこんなんでしたっけ?」
「今度、またどこかで会いましょう」
別れるときは、どこで別れても出口までついてきてくれる。
送ってくれるのだ。

京都で出会った妹と、ぐるり回って京都で三たび。
次は、岐阜で?津山で?
会えない時間が長くても、一生かけてのつきあいだから、
と気長に再会を待てる。

変わらない関係。京都は私にこんな素敵な出会いも
授けてくれている。


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95歳からの年金

超高齢化社会を自分事として実感する一コマに遭遇した。

各金融機関では、さまざまな年金商品を取り扱って
いる。年金なんて・・・と思っていたのに、気が付けば
受給年齢まで、そんなに遠くないところに来てしまっている。


先輩たちが、「もう年金もらってもらう年になった」
と言われても、まったく他人事、遠い未来の話と思って
いたのに、最近では少し身近な話題と感じられるように
なってきた。
もちろん、年金暮らしをしたいと思っているわけでもないし、
生涯現役で生きたいという気持ちは変わらず。

そんななか、ある商品を紹介された。
なんと95歳から受給できる年金。というもの。
これからはじめて・・・の話であるから、35年余り
先の話。
そのためにこれから・・・という話である。

驚いた。
この業界では、常に安心な未来を提供するための
商品として、10年、20年後の話は常識の範囲であるが
95歳とは驚いた。

こういった商品に興味をもって、運用される方もいるのだ。
もちろんお金は寝かせておくよりは、うまく運用した方が
良いのは理解しているが、自分が95歳の時のことは、
正直、想像したくないとも思った。

老いていく自分を見据え、その日に備えるというのも
少し勇気がいることでもある。
いつまでも、この延長でいたいと思っているが、さすがに
35年後の自分がこのままでいられるとは・・・。

人生備えあれば憂いなしであるが、
備えることは、老いを認めることでもあると実感。

保険、年金・・・。もちろん備えは必要。

95歳の自分。
地球はこのままだろうか。

と思うと・・・。そっちへの備えが優先なような気もしている。
地球があってこその、わが身。
未来は明るくありたいものであることに、変わりない。

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季節感をもった生き方。

20年ほど前、まだ自分が「若い人」と仕事の諸先輩からそういわれて
いた頃。ある企業の幹部の方(当時50代)が、言われたことを思い出す。
「もう、おれたちはそろそろ人生の秋を迎えるわけ。だから、その季節を
どう生きて、冬に向かうかを考えなくちゃいけないんだ」

その方は仕事だけでなく、趣味や地域活動も大変活発で、特にダンスが
得意な方だったと、今改めて思い出す。人脈も広かった。

人生を四季になぞらえ、当時の50代は秋と・・。
気候の温暖化により、自然の四季のスピードは年々早まっているが、
人生の四季は高齢化で遅くなっているのかもしれない。

今の自分は季節でいえば、確かに真っ赤な太陽の夏まっさかり。ではないが、
どっぷり秋ではない。
また、秋というと、紅葉、落葉のイメージでなんとも寂しい感じがするが
豊潤な実り、収穫の季節と思うと気分も高揚する。

上に書いた先輩は今、どんな季節をお過ごしなのかと急に懐かしくなり
つつ、今もずっと秋のままお元気ならばよいなと思う。

そう、自分もそろそろ実りの秋にふさわしい生き方をしなければならない。
何を伝え、残すか。
このことについて、しっかり自分と向き合うこと。

改めて諸先輩に教えてもらったこと、いただいた言葉を時に思い出し、
感謝しながら、秋を深めたいところ。

良く思い出すのに、会いたい先輩たちに、
だんだん会えなくなることは、大変寂しい。
人間にも、冬の次にまた春が巡ってきたらいいのだけれど・・・。

一巡しかない、人生という四季を大切に、心豊かに生きたい。

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質問がとびかう。

今年も、株主総会が行われる季節となった。
ある上場企業の総会に参加をしてみた。
その企業はV字回復をされ業績も好調であるため、スムーズに決議が進み、
短時間で終わると思っていたが、企業側の報告を受けた後の質問時間
が意外にも長かった。手を挙げる人が途切れなかったのだ。

同じ企業の総会へは、コロナ禍にも出向いたことがあったが、
そのときは、人数制限もあり、会場も自社内。
今回は登壇者はマスクなしのコロナ前と同じ状態。
会場も大勢が参加できるようにとコロナ前と同じく、ホテルでの
開催となったため、何百人もの株主が駆けつけた。

業績が良くても質問がたくさん出るのだ。
むしろ、新しいことを手掛けると、そのことへの質問も出る。
この企業のことをもっと知りたいという気持ちになるのだろう。
さらにもっと業績をあげてほしい、株価をあげてほしいと
株主の期待も高まり、挙手される方が続く。
気が付けば総会開始から1時間半以上経過しても、質問は
続く。

遠方から来られた方、あらかじめホームページで最新の企業情報を
勉強してこられた方、日頃からその企業の店舗を利用していての
感想意見をどうしても言いたい!と思いを持ってこられている方。
一人の顧客としてのご意見・質問をされる方から、いかにも投資家らしい
専門的な質問をされる方まで、幅広い。
質問を聞いていると、株主の属性も見えてくる。
他の株主も、長時間にわたる質疑をしっかり聞かれたり、メモを
とられている方もおられ、熱心な株主が多い企業だと感心もする。

質問はあらかじめ考えてこられた方から、その場で浮かんだことを
お話しになる方までいろいろ。
話し慣れているビジネス経験がおありの方から、こういう場に慣れて
いない方まで・・・。初参加の方が多かったのは、コロナも落ち着いて
きたからか、業績も良くさらに次の話を聞きたいと思われたからか・・。

何百人もの前で、手を挙げて質問をするということは大変勇気がいる。
質問力も必要だ。簡潔にわかりやすく話せねばいけない。緊張する瞬間だ。
原稿を書いて臨めば良いが、そういう方は少ないと思う。
ある株主さんは声を震わせ、大変緊張されながらも、聞きたいことを
一生懸命に尋ねられ、議長や担当役員さんもそれにしっかり答えた。
その答えにうなづき、納得された様子。
自分で直接聞いてきた。という体験こそが、その株主さんにとって
重要であると改めて感じた。
さらに、この企業を応援しようと思うきっかけになる。
熱心な株主さんの質問を聞きながら、じゃ、自分も聞いてみようかと
思った方も多かったのではないか。
2時間弱の総会時間。
一緒にこの企業を応援しようという機運が静かに高まっていったのを
感じた。

質が高い株主が応援する企業。責任と期待が高まるなかの経営は
本当に大変であると思うが、応援されてこそ存在意義がある。

この季節。まだまだ総会が続く。
どちらの企業でも、自社を支える株主との充実したやりとりが
なされ、さらに信頼と期待を寄せられる関係づくりが育まれることを
期待する。

質問には勉強が必要。そして、答えには誠意とわかりやすさが必要。
今回の総会、なかなか聴きごたえがあり、学びも多かった。

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成功か、失敗か。

核兵器の廃絶を呼びかけ続けているサーロー節子さんが、「サミットは大失敗」
と発言されてたことに、胸がつぶれる思いがした。また同じ活動を一緒にされて
きたピースポートの畠山澄子さんが、ニュース番組でこの結果を涙ながらに悔しそうに
話されていたことに、心震えた。
被災地の方からも、残念、失望との声があがっているとの報道。

一方、ネットのニュースでは、いつもながらの軽いアンケート。
「あなたは今回のサミットは成功したと思いますか?」
その問いに、成功したという人は7割を超え、失敗したという人は20%に満たない。
報道の仕方により、反応は変わる。
何かイベントが仕組まれるたびに、いつも、そう思う。

また、ある政治家は報道番組でこのサミットをほめたたえていた。

成功と失敗。
ひとつの物事の両極である。

どこから見るか、何を軸にするかによって、評価は分かれる。
外交的に見れば、被爆経験の立場、核廃絶の立場から見れば・・・は違う。

いろんな思いを抱きつつ、この事態を冷静に見守る。
無事に終えられたことは良かった。
それ以外にも、このステージがあったことで成し遂げられたことは
あるので、良かったとは思う。

大切なことは、これからだ。
単なる国際交流イベントではないのだから。
これから、本当にどう平和な健全な社会を取り戻せるか。
地球全体がどう存続し続けることができるか。
今回のリーダーたちの議論がそこに活かされなければならない。

そして、
日本が本当に自らの経験をより良き方法で生かしているか、いけるか。
平和な社会を本当に実現できるか?
日本が世界から尊敬される国になれるかどうか。

そのためには、今回、成功と思えなかった人たちの声にも耳を傾け、
活かしていくことが大切かと思う。
それができれば、日本はまだ大丈夫か・・。

成功か、失敗か。は、これからの行動で決まると思う。
しっかり振り返りをして、失敗といわれる方の声もしっかり
拾い上げること。

NO MORE ヒロシマ
NO MORE ナガサキ
NO MORE ウクライナ
NO MORE ・・・・

ほんとうにこれからだ。






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360度で見る。

今、ビジネスの現場で360度カメラなるツールが活躍され始めている。
物事は、前から見るだけでなく、左右、後ろ、そして上からも下からも見ることにより
前から見るだけの世界とは違う、前からでは見えなかった世界に出会え、発見もあると
いうことで、それは大変有意義な手法。

そしてそれは、被写体に対する見方だけでなく、世の中の動き、事象についても、
常に心の360度カメラをもつことが大切であることにも気づかせてくれる。

広島サミットは閉会された。事故もなく、無事に終わったことは良かった。
ウクライナからの撃的なゲスト参加といったサプライズもあり、世界からも注目され、
一定の成果を得た。と各メディアは報じている。
そのことはある一面からは、間違いがないともいえるかもしれないが、
それを世界はどう見ているか?

という目も忘れてはいけない。
そして、広島の人はどう思っているか忘れてはいけない。
被爆経験を持つ人たちにとって、納得できる内容であったかという点について。

本当に難しい問題であるが、セレモニーだけでは事態は解決しない。
すべては、これからである。
西と東。
世界はつながっていないのか。
どうして分けるのか?
敵と味方。
見方を変えられないか。

ロシアの人々にも目を向けたい。

私にとっては、そんなことを強く思うイベントであった。

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それでいいのかな。

なんとまあ、戦禍にあるウクライナの大統領が、来日されたとのこと。
テレビやネットで毎日見続けている世界で一番有名になってしまった
このリーダーが突然来日との報に日本だけでなく、世界中が驚いたのでは?
スターが来日したような感覚になってはいけないが、そんな騒がれ方だ。

それよりも、ゼレンスキーさんは被爆経験をもつ広島に降り立ち、
どんな気持ちでおられたことだろう。
高級ホテルにお泊りの昨夜は、どんなことを考えておられただろうか。
と勝手な想像をめぐらしてしまう。
平和に向けての強いメッセージを、この日本、広島から発信して、世界からの
協力をより一層得たいとのこと。その思いは理解できる。
でも、その協力が武器や戦車といった闘うための協力を取り付ける場に
なってしまうならば・・・と強い懸念もある。
強い団結が生まれれば、同時に・・・とも思ってしまうのだ。

被爆地で行われるという意義を改めて考えるならば、
間違っても広島の地で、敵と味方を線引きし、より戦争が過激になる方向の
議論は絶対にやめるべきであると思う。
サミットが本当に先進国の優れたリーダーたちの集まりであるならば、
ウクライナのトップを呼べるぐらいならば、もう一方のリーダーも招いて、
話し合いができるように導く。それができたら、このサミットは本当に
素晴らしいのに。どうせならば、そこまでしてほしい。

世界をより分断に向かわせるような議論の場でないことを心から祈る。
戦車や武器の供与の話になるのであれば、広島でやってはいけない。
絶対に。

近いうちに、何かが起きるかもしれない。
と、思ってしまう。

それでいいのかな。
そう思う人が、少なからずいてくれることを、切に願っている。




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成長に気づく瞬間。

人は短い時間の中で、変化、成長することがある。
最近、それを実感することがあった。

つねに人のことを気にかけ、上を横を、下を見ながら
調整型の仕事をしてきたように見えてきたその人。
もう長年のつきあいになる。
お互い20代の頃からのつきあい。
昔から、とてもまじめで、努力家。
人柄もやさしくて、本当に申し分ない。
そして、粘り強い。仕事が好きだからと、何事に対しても
さぼらず、地道に取り組む人。
嫌と言わないからか、仕事はどんどん増える。
忙しい日々を、送り続けている。

一方、決して声が大きいわけではなく、
自ら発信して、突き抜けていくタイプではないため、目立たない。
このままでいいのか、周囲は評価してくれているのかなと
心配な部分もあり・・。でも評価も意識せず、もくもくと仕事をする。
それがその人のいいところ。
そう、本当に、いわゆる「いい人」だと思っていた。

その人が、最近、急に変わった。
それに気づいたのは、公の前で話す場面に立ち会ったときである。
話し方が変わった。自信をもって堂々と話すようになり、
説得力が増してきた。
よどみがなくなったというか、安定感が増したというか、
とにかく話を聞いていて、安心して聞けるようになったのだ。
力強さも感じた。

何か起きたのか?
もしかしたら、ひとつは環境の変化かもしれない。
何十年ぶりかの転勤。昇進・・・と、仕事の環境も変わり、
仕事への意識も変わったのかもしれない。
無意識に変化したのかもしれない。

周りが変わるきっかけを与えたことで、自らのやる気に
火が付いたのかもしれない。
きっかけとは、変化のためにも重要である。

人はいくつになっても変わることができる。
やっぱり自分次第。
緊張感をもって新たな環境で、ぜひ花開いてほしい。

気にかけてきた人の成長を感じるときは、
とてもうれしい瞬間。

そして同時に、自分の背筋も伸びる。

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