母がいなくなってから、母がとくに親しくしていた方との交流を深めている。
母にしてきたように、何か珍しい食べ物があれば、花があれば、
何かあげたいものがあればもっていき、前は一切しなかった世間話もするようになった。
母をよく知っている人と、可能な限り、つながっていたいのだ。
その方たちに、5年でも1年でも、1日でも元気に長生きしてほしいのだ。
その方たちが元気でいてくださると、母も生きているような気持ち、一緒にいるような
気持ちになる。
姿カタチは見えなくても、誰かを媒介として、永遠につながっていたいという気持ち。
不思議なことに、その相手であるおばさまたちも、本当によくしてくださる。
母の代わりに接してくださっているのだろう。
一方、母が歩いていた道、通った店、よく迎えにきていた駅・・・などに
出向くと、いろんな思い出がよみがえって、寂しさとなつかしさがこみあげる。
人を通じ、場所を通じ、ずっとつながっていたい。
そんな気持ちは、これからもずっと消えないのだろう。
大切な人とは、時空を超えて、永遠につながっていたい。
そんなことを思う、命日前のお彼岸。
「雨降ってきたよ」
と、母と仲良しだったおばちゃんとの会話のあと、傘を貸してくれた。
「ありがとう。今度また返しにくるわ」
また会えることで、母ともまた、つながれる。
「つながっていたい」気持ち
20年。ただただ、ありがたい。
お仕事には期限付きのものがある。
とくに雇用されている立場ではない場合、契約案件が多いため、当然更新の時期がある。
自動更新もおかげさまの仕事が多いが、状況によって改めて見直すタイミングもある。
この時期はそんな節目のシーズンでもあり、背筋も伸びる。
この四半世紀、その緊張を何度も繰り返して、今日にいたっている。
ある企業での担当者との会話・・。
「最初の契約は2003年でした。ということは20年。20年?
すごいですね~。へえ~」
そう、そうなんだ。もう20年もお世話になっているんだ・・・
よく長いおつきあいをいただけたものだ。
この20年は本当に短いようで長く、長いようで短く・・・。
いろんな出会いがあり、別れも・・・でも別れは少なく、
関係が続いている人がほとんどだ。20年もかかわっていれば、
当時現役で活躍が期待されていた人が、経営側になっている場合も
あり、あの人が立派になって~と思うこともしばしば。
契約の仕事は、折々で見直す点はあるにせよ、それでも継続ことが重要だ。
仕事は、一過性でなく、利益主義ではなく、
継続して関係しながら、成果が出るように努力することだ。
それにしても20年か~。改めてしみじみ。ただただ感謝のひとこと。
きっかけをいただいた方にも、心から感謝。
グラン・ルー25年の間には、いろんなドラマがあったが
この20年もなかなかのもの。思い出いっぱい、感謝でいっぱい。
もっとお役に立てるようにがんばりたい。
「涙しました・・」に涙。
このたび、グラン・ルー25周年事業のひとつとして、詞集
「人生は観覧車のように ~心のふるさと、愛する人たちへ~歌詞集」
を発刊した。
手のひらサイズのかわいらしい本である。
長らく応援している新潟の企業さんの発案「手のひらシリーズ」に共鳴共感し、
私も何か、この「手のひら」にメッセージを載せたいと思い、この25年の間に
つくった曲の歌詞をまとめることにした。
だから、詩集ではなく、「詞集」。
実は親が亡くなる前から考えていたが、そのあと二人とも旅立ってしまい
落ち着いて準備する時間がとれず、今になってしまったが、なんとか三回忌には間に合った。
限定500部、売り上げの半分はウクライナの人道支援に寄付。
というものであるが、一気にPRするのではなく、じわじわご案内をはじめている。
「配りたい人がいるから」とまとめて購入いただいた方もあれば、サイトのインフォメーションやチラシを見て、すぐ「ぜひ、味わわせてもらいますね」とネットから注文いただ
いた方、ウクライナにも寄付できるならばという方もおられ、ありがたい限り。
そしてこの週末、久しぶりにお会いした企業の会長さんとの会話のなかで、
ご紹介したら、
「今、その本ありますか?」
と言われ、たまたまバッグに1冊あったので、それをお渡ししたところ、その夜に
「・・・・・床にはいる前に、詩集を少し読みました。すっと頭に入ってきて、涙が
出ました。ありがとうございました」
とのメッセージが届いた。
このお客様は、私のオリジナル曲はお聞きになったことがないので、歌はご存知なく
歌詞から入ってくださった。今度、コンサートにも来てくださるとのこと。
音楽を聴いて涙される方はこれまでもおられたが、歌詞を読んで涙されたとは・・・。
紡いだ言葉に感動いただけるとは、涙が出るほどうれしかった。
言葉でも人の心を動かすことができる。
これからも、じわじわとお伝えしていきたい。
詳細はこちらをごらんください。
25周年感謝の記念出版 いよいよ完成!受付開始 | La Grande Roue (mahsa.jp)

働く人を守る、ともに育つ。
事業を継続するためには、従業員の力が不可欠だ。
製品を作ったり、お客様にサービスしたり、それができるための
各工程にかかわる人の力がなければ、どんな事業もなしえない。
社長がどんなにがんばっても、人の力がなければ、現場は動かない。
少子化、高齢化、コロナによるビジネスのありようの変化、
戦争の影響による物価の高騰。・・・・・さまざまな
要因で、働く環境も急激に変わってきている。
高度成長を目指した昭和のあの頃のように、作れば売れる、という時代ではない。
バブルの時代はもう戻らないし、あの時代はもしかしたら、幻想の時代
であったのかもしれない。競争環境も大きく変わった。
日本という国の進み方も、このままでよいという保証は何もなく、
不安、未確定な要素が多いなか、そのなかでどう希望を見出すかがポイントである。
さまざまな諸条件に耐えながら、いかに堅実に着実に事業を継続し、
長く存続できる力をもつか、まさに持続可能な仕事のやり方をみつけ、実行するか。
変わらなくては生き残っていけない、みんなで力を合わせ、知恵を出し合わないと
生き残れない。切実なる時代である。
働き方も変わった。個々の価値観を尊重しながら、あるべき方向に
一緒に進まなければならない。
働く人たちに負荷を与えすぎず、でも、がんばるときはがんばろう!
と前向きに一緒にがんばってくれる従業員を増やすこと。
そして感謝し、ねぎらい、ともにここで働いてよかったね!となるように
日々のコミュニケーションを欠かさないことがますます重要になってきたと
感じる今日この頃。
お客様のための企業ではあるが、その前に従業員があっての企業。
世の経営者は両者に目を向け、心を配りながら、あるべき方向に従業員とともに
進んでいかなければならない。
時代の変化に対応し、柔軟に見直すべきところは見直す。
これまでの常識が変わってもいい。
たとえば、これまで定休日がないと思われていたファストフード店やコンビニに
定休日ができても、それはそれでいい。
休まないお店の価値よりも、営業時間内に最高の商品とサービスを提供して
くれる価値が優先だ。
そして、働く人の働き甲斐を、客の立場からも応援していくべき時代ではないかと
思う。
「ありがとう。おいしかったよ」「また来るね」
こんな一言からも、従業員のモチベーションにつながることは多いはず。
働く力をみんなで育む。そんな社会、いいと思う。
応援は惜しみなく、悔いなきように。
コロナ禍では、残念なことが続いてきた。そして今もその余波は消えること
なく、いろんな企業の倒産、廃業を知り、心が痛む。
私がもう20年ほど愛用してきた練り製品の会社。京都の老舗企業だ。
いつもいつも、京都駅や周辺のお土産売り場で、そして市内の本店で数えきれない
ほど、購入していた。
この上なく大好きな味で、京都の練り物の代名詞はここ!と思っていたのだ。
この2~3か月の間、そういえば、売り場で商品をみつけることができず、
売り切れかなと思っていた。
先日は本店の前を通ったら、シャッターが閉まっていた。今日は休みかな?
でも、定休日とも書いていないので、おかしいとは思っていた。
ネットニュースでちょっと調べたら、なんと、最近倒産されていたことがわかり、
言葉にならないショックを受けた。地元の新聞に掲載されていたわけだ。
へ?あのおいしいチーズ入りのかまぼこが、はもしんじょうが、もう食べられない
の?愛しい人が突然と姿を消えてしまったような、なんともいえない虚脱感と
いうかなんというか・・。
とにかくショック。昨日も京都駅で、前は新幹線改札内の三か所の売り場に
あったことを思い、今は他社製品があるのを見て、本当になくなってしまったのかと
改めて思い、悲しくなる。
練り製品の低価格化による競争の激化、原材料の高騰、コロナによる業務用需要の
低迷、観光客の減少・・・などなどさまざまな要因が重なっての悲しい結果になって
しまったようだ。
創業は明治2年というから、150年ほど営業を続けておられたわけだ。
老舗はつぶれないと過信していた。
いつでも絶対にあると思っていた。でも、なくなってしまった。
こんなことになるならば、もっともっと応援すべきだった。とひとりで消費できる
量はたかが知れてはいるが、なくなるぐらいなら、もっともっと購入し続けるべきだった。
コロナ禍では、昔よく通ったお好み焼きさんが閉店したこともあり、お店はずっとある
ものではないことを痛感したが、今回は毎月何度も愛用していただけに、ショック
は消えないままだ・・。
気に入ったものを生涯食べ続けることができる・・・これは奇跡なのだろう。
あって当たり前ではない。だから、目の前の大切なものをありがたく頂戴するとしよう。
ああ、それにしても悔やまれる。どれだけあのブランドの練り物に癒されてきたことか。
なんとか復活する日は来ないだろうか。
わが人生の記憶のなかで、食にまつわる、消えないエピソードはいくつかあるが、
この練り物もそんひとつになりそうだ。
応援したかったら、行動で示す。
口だけでなく、購入する、口コミする。
それをやってこそ本当の応援になる。
応援者がたくさんいるかどうか?
ここも生き残りの大切なポイントだ。
ああ、それにしても残念・・・。
これからもずっと思い出し、惜しみ続けることだろう。
町を支える人たちを大切に。
新聞が読まれなくなっている昨今。
とくに若い世代になればなるほど、である。
でも、地方の中高年が多く住む住宅街では、まだまだ新聞を購読するお宅は
少なくない。
最近、地元の新聞屋さんとのやりとりがあり、お店にもうかがうことがあり、
改めて、町の新聞屋さんの存在について、感じることがあった。
昔は、奨学生が朝早く自転車で新聞配達をする・・というイメージがあった。
今はちょっと違う印象だ。バイクで一斉に配達に出かける。
そういえば、各家庭に新聞を届けてくれるサービスは世界でも珍しい。
朝起きたら、すぐ新聞を読む。この習慣作りをはじめた人はすごいと思う。
そのサービス提供のため、毎日毎日、未明からの仕事。
そして日中も集金から、折り込みチラシの準備など他の業種とは違う
時間帯で忙しく動かれている。
今回伺った新聞屋さんたちは、店内がとてもきれいだ。
折り込み作業ができるように作業場もきれいに整っている。
中には新聞社の経営理念や、店主から従業員さんへのメッセージが掲示されていたり
働く人への共有にも心を配っておられる様子も伝わり、勉強になるなあと思わず、
きょろきょろしてしまった。
「以前、親が新聞とらせていただき、お世話になりました」
と、そんな話から会話が生まれる。
「ああ、そうなんですね~。それはそれは~」
新聞屋さんは地域に根ざす存在だ。
今、ネット社会になり、新聞はますます大変な状況に追い込まれているが、
新聞文化を大切に、楽しみに生きている人もいる。
私もそのひとりだ。
とくに岐阜は喫茶店文化がさかんであるため、新聞をゆっくり読みたい人が全国でも
多いのではと推察する。(今度、調べてみようと思う)
お店に寄ったついでに「今日の朝刊、まだありますか?」
昼を過ぎたのに、残っていた新聞を1部購入する。
そういえば、ここが扱う新聞は夕刊はもうないんだ・・・・・。
昔であれば、夕刊に向けての作業も忙しくなっている時間帯・・。
複雑な気持ちを抱えながら、
改めて、新聞屋さんにエールを送りたくなった。
専門店の生き残りが厳しくなっている昨今。
そんななか、頑張り続けているお店が、町を支えている。
忘れてはいけない。
地方では、学ぶことが多い。
懐かしく、愛おしく、絆を感じる。
町を支える存在に敬意を表し、感謝を込めて・・・。
そういえば、母は新聞を最後まで、占いを読むためと、
何かを包むため・・・に購読しており、それで喧嘩した
ことも今となれば、懐かしい思い出。地域への応援の
一環だったのかもしれない。
しなやかに勝負する春!
選挙の季節が到来?街角に掲示板が設置された。そこに候補者ポスターが
掲示されるのも間もなくだ。
この掲示版という方法は、このデジタル社会でも尚、健在。
世界各地で普遍なる伝達手段なのだろう。サイズの違いはあれど、街頭
でのアピールは各国共通のようだ。
この看板は、かなり効果がある。歩けば目に付く。通り過ぎるときに目に
入るだけでなく、立ち止まってじっと見る。だからここに掲示するポスターは
とても重要。キャッチフレーズとともに、写真がポイントである。まず印象だ。
その掲示板にまもなく登場しようとしている人へのレッスンが本格的に始まった。
プレゼンテーションについての実践だ。
大きな組織に属さず、地元の人のつながりで乗り切ろうとする、ソフトな戦略。
お金や著名な存在をつかってではなく、地道に地元からじわじわ盛り上げていく作戦。
あるべき姿を実践しようとしている仲間たち。
その演説の内容、話し方、見え方・・・。お伝えできることは、惜しみなくお伝えする。
私ができることは、聴く相手の立場に立つこと。
こうしたら、伝わる、伝わらない。このやりとりを大切にするレッスン。
1時間のつもりがついつい熱が入って2時間になる。こんなことがしばらく続く。
春は勝負の時期だ。
相手がいる勝負には、それなりの作戦が必要である。
応援者をいかに増やすか。いかに心をつかむか。
クリーンにつなぐ。ここがポイント。
しなやかで、強くて、そしてやさしい。
ひとりひとりに耳を真剣に傾けることができる。
そんな存在なら、みんな求めてくれるのでは?
応援するときは、他人事ではない。自分だったらと思って本気でかかわる。
しなやかに挑戦し、笑顔で勝ってほしい。
先生になっていたら?
現役の大学生たちに、広報やコミュニケーション力を実践的に学んでいただく
講座を、今年度も行った。といっても、ひとりで連続講座を行うのではなく、
企画制作の仕事をしている女性チームでのリレー講座で、私の担当は最終回。
留学生と日本人学生の混合チームの学生さんたち(理工学部)が自発的に、
一緒に考え、モノを作り上げるという共修プログラム。
成果物も大切であるが、何か月かかけて仲間と一緒に作り上げていくプロセスが
大変重要だ。
ミッションは、これから留学を考えている外国人に向けて、自分たちが学ぶ大学の魅力を
アピールするための広報ツールを考え、カタチにすること。結果的に留学生を増やす
きっかけになれば・・・。
クラスも学年も、国籍も言葉も違う学生同士が、限られた時間のなかで、自分たち
自らコミュニケーションしながら、計画をたてて、作りたいものを具現化していく。
昨年度も本プログラムに参加させていただいたが、毎年学生が変わるため、そのチーム
の雰囲気、空気も変わり、なかなか新鮮だ。
講義の前に、学生たちが自分たちが作ったツールについて、協力いただいた先生たちに
プレゼンする報告会様子も観察しながら、彼らのプレゼンテーションぶりを把握しながら、
午後担当の講座を行う。テーマは、自分たちで作ったツールをどう対外的に発信するか?
広報&コミュニケーションを学び、実践する。初対面の学生さん10名との時間。
あっという間の2時間ほどのレクチャー&ワークショップとなったが、学生たちがチームワークを発揮しながら、一緒に準備をして、皆でプレゼンする姿を見て、若い人に関わり、彼ら彼女たちに何かを伝える仕事は、やっぱり面白いと思った次第。
やっぱり、先生という仕事が好きだったんだ。
講義を終えての安堵感と、人の成長に関わる瞬間に立ちあえることの幸せを感じた次第。
学生さんたちのよき思い出の切れ端になれば、とてもうれしい。
あ、あんなこと言ってたな。あんな風にプレゼンしたな・・・。どこかできっと思い出すこともあるだろう。
40年前は、ピアノの先生でなければ、学校の先生になるしか親を納得させられないと
思い込んでいたが、いわゆる勉強嫌いの私は、結果的に教員免許はとったものの、
採用試験に一度トライしただけで、他の道に進んでしまった。その結果、現在がある。
もちろん、ビジネスパーソン向けの勉強会は、多数担当してきたが、
学生さんと向き合う時間は、これまた格別だ。
学生さんは、利害関係なく、自らの夢に向かって純粋に学ぶ。学ぶことが仕事。
そんな彼ら彼女らに接していると、自分の学生時代を思い出す。
そして、
学校の先生になっていたら?今の人生とは違う展開になっていただろう。
と、教育実習に行ったときの生徒たちは、どうしているだろう。
そんなことも頭をよぎった。
懐かしく新鮮な時間をいただいたこの機会に感謝。
未来を生きる若者たちに心からエールを送りたい。
そして大人も輝き続けないと!と思った次第。
「思い出」の媒体づくり
昨日の岐阜新聞コンサートでは、コロナ前のように、お客様も多くおいでいただき
おかげさまで盛況に行うことができた。
マスクを外していたお客様はおられなかったが。
311をはじめ、忘れられない出来事や、別れが多いこの3月。
ひとり一人、それぞれの人生の大切なあのときを思い出し、
次に進むきっかけになれば・・。
そんな思いで、春にちなんださまざまな名曲とともに、
オリジナルのレクイエムレパートリーを演奏させていただいた。
「ANNEソロジー」「人生ななつ星」「レクイエム11」などなど・・。
会えない人のことを静かに思い出し、そして私もがんばるから見守っていてね。
そんな気持ちを添えながら・・・。
演奏後、初めておいでになったお客様が
「あのときのこと、思い出して、泣けてきました~」
と直接声をかけていただいたり。
「いろんなことがよみがえって、感無量。涙があふれてきました」
などメッセージを寄せていただいた。
音楽は大切な人、輝いていた時代を思い出す、思い出の「媒体」。
この媒体は、絵画も、写真も、旅、店も含まれる。
大切な人と別れても、失くしても、その媒体を通じて、記憶がよみがえり、
タイムトリップしたり、心の再会ができたりするのだ。
その媒体づくりを大切にしたい。
コミュニケーションクリエイターの使命とは、思い出の媒体づくりも
含まれるのだ。
最近、そんなことを思うようになった。
過去とのコミュニケーション。それは媒体があれば可能。
永遠のコミュニケーション。これも可能。
人生は現実の時計では過去には戻れないが、
この媒体があれば、何度もあの頃に戻ることができる。
今回の演奏を終えて、そんなことを考えた。
多くのご来場、誠にありがとうございました。
同じく12年、の記念日。
50歳で脱サラされ、作家として活動開始・・・。私が35歳で脱サラしてからは、
起業家の先輩として、またひとりで仕事をするクリエイターとして、
同じくマーケッター出身として、本当にお世話になった野村正樹さん。
「相互マネージャーやな」と、お互いに仕事を作りあっていた。
一緒に講演したこと、本を作ったことも、今となってはすべて宝の思い出。
東日本大震災の翌々日に亡くなって、12年が経つ。13回忌。
今日は命日になる。
震災といえば、同時に野村さんのことを思い出す。
野村さんは最期に、あの震災をどう感じられただろう。
震災がなかったら、寿命も変わっていたかもしれない・・と勝手に想像する。
震災に続いて、旅立ってしまった野村さん。
何か次の時代、これからの世の中を予知されていたかもしれない。
これからデジタル社会になるのを心配されていたことが、今も強く印象に残っている。
野村さんは、とにかくたくさんの執筆をされた。
書きながら、広報活動も熱心であった。
勉強会やさまざまな会合では、自分のミニ広報誌を必ず配っておられた。
「人生は営業だ!」と言われていたが、本当に自ら実践されていた。
とにかく尊敬し、共感できた。愉快な人生の先輩であった。
「お~い、いまお~」
野村さんにはそう呼ばれても、何も違和感なかったのが不思議だ。
震災の日、自宅に帰ったら本棚から野村さんの本が大量に落ちていた。
「おれの本、ここやで~」
その翌々日に亡くなられたのは、何かのメッセージだったのか・・
今思い出しても、不思議である。
などなど、野村さんとの思い出はつきない。
そして、野村さんのために作った曲「人生ななつ星」。
鉄道マニアでもあり、そのジャンルの執筆も多かった野村さん。
今日は野村さんのことを久しぶりに思い出しながら、
コンサートでもこの曲を歌うとしよう。
忘れてはいけない大切な記念日。
この方の存在が、自分の独立を後押ししてくださったのだから。
野村さーん。よく書き、しゃべり、飲みましたね~。
何年たっても、ありがたい存在。感謝を込めて。
大切な方の命日が増えてくるのが、何とも言えないが・・・。