ラストdayに思いを寄せる

本日3月26日は、わが人生でもっとも忘れることができ
ない日。
母の最期に間に合わなかった、駆けつけるまでの時間が
今もくっきりと浮かんでくる。
まさに、母の人生のピリオドとともに、自分の時計も
止まったような不思議な時間であった。

あれから4年となる。
早いといえば早く、止まったようであるといえば、そうで
あり・・・。
言えることは、それでも自分は生きているということ。
母と父のことを心に抱きながら、生き続けているということ。

時間が経つことで、癒されることもあるが、
新たな悲しみが湧いてくることもある。
それでも、こうして生きている。

今日は普段通り、いつものように、仕事に出る。
生きていることをかみしめ、今のところ心身ともに
元気でやれていることに改めて感謝をしながら
今日という1日を、しっかり生きる。

いつか、息絶えるのだろう。
そのときまで、一生懸命生きなくちゃね。

いろんな思いがこみ上げる朝であるけれど、
それでも、わたしは生きている。
だから、前に進む。

がんばれよ。
そんな言葉が聞こえてくる。

感謝の気持ちを込めて
母が生きた時間を思いながら、
今日も大切に、自分の役割を果たしたい。

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改めて「真・善・美」の調和を求めて。

「真・善・美」とはある意味懐かしい言葉でもある。
でも、今改めて心に染み入る・・・。

哲学の世界では、ギリシャ哲学の時代から、カントまで
そして今なお、現代に生きる私たちにも・・・。

人間の理想とは、この「真・善・美」の実現であるといわれて
きた。それを求めることが人間の価値であると。
この混迷の時代こそ、この考え方は改めて見直されるべきで
あると思う。とくに最近、そんなことを感じることが多い。

それは真か?良きことか?純粋で美しいか?
日頃接するさまざまな事象に対してそのような見方で接する。
自分に対して、自分以外に対して。
自分のことをまず見つめることが大切だ。

自分第一主義は、利益至上主義は、この真善美の価値とは
対極にありそうだ。

「真・善・美」とはバランスであり、調和。世界との向き
合い方。
周囲との関係が良好であり続けるためにも、この概念を
忘れずにいたい。
そして日々、少し迷うことがあったら、「真・善・美」を
唱えてみたい。

自分はそうであるか?それを目指しているか?

肯定できれば、間違いがない。

学生時代に聞きかじった言葉が、社会人として長く
生きているうちに役立っていると思うことがある。
自分なりの揺るがない価値をもつ、信念をもつ。
そして自分らしく、しなやかに生きる。

哲学なんて、何の役に立つ?
と言われた時代。今は昔。

「真・善・美」を見極める力を養う努力を続けたい。

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気力でGO!

久しぶりに千秋楽の相撲を見た。
ずいぶん知っている力士の名前も変わっており、
この世界での時代の変化も感じながら、それでも
高安が優勝決定戦に残ったことが何かしら嬉しく、
こんなに長い間がんばってきているんだから、
今度こそ、なんとか優勝してほしい!!とまるで
地元の市役所の人達と同じような気持ちで
その優勝決定戦を見守った。
絶対に勝つ!絶対に初優勝。
そんな気迫がモニター越しに伝わってきた。

一方、その決定戦に挑む大の里。
大関になっての初優勝を目指し、本場所も苦しい
ところから、千秋楽に向け気力でここまでやって
きた。

相撲は瞬間の力で決まる。
野球のように何回戦もないのだ。

結果は大の里に軍配。
高安は今回も残念ながら・・・であった。

その取り組みを見ると、気力と気迫が印象的であった。
絶対に勝ってやる。
その強い気持に体がしっかりついていっている。
途切れない気力、またその力が
心身一体になったときの底力は凄いのだ。
と改めて。
この瞬間に、最高の力を出し切るには、日々の稽古と
精神の鍛練か。

高安には、ぜひ次回こそ、がんばってほしい。
そして、ぜひ祝杯を持っていただきたい。
そして、
大の里には、能登の人に元気を与え続けてほしい。

それと、今回の相撲で感動したのは、ウクライナ出身の
青安錦の奮闘。
ここにも、圧倒的な気力を感じた。
戦争に巻き込まれてしまった母国を思いながら、
日本でがんばらねば!と他の力士とは違う覚悟で
がんばっておられるのではと思った。
そして、
スポーツで戦えることは幸せだとも思った。

気力。
自分ももっと鍛えなければ。
スポーツはそれぞれ、観るものに学びを与えてくれる。

ひとりで戦う。気力で戦う。
代わりはいない。

いい涙を流せるように、がんばるのみ!

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30年前の奇跡と軌跡。

衝撃の事件。
30代前半のことだった。あのサリン事件。
毎日利用していた地下鉄の駅で起きた。
あの日から30年が経ったとの報道に接し、
あの朝のことを思い出した。

あの日に限り、わけありで地下鉄に乗らない
で車で出勤していた。
会社に着いて、電車が動かなくなって通勤
できていない人がいて、恐ろしい状況を知っ
た。

今から思えば、本当に不思議だ。
地上は静かであったのに、地下ではとんでも
ないことが起きていたのだ。
テロって日本であるのか?
と思ったあの事件。

ニアミスな人生は、このときからだったか
と思うほど。

あれから30年。
会社勤めも、東京暮らしも卒業して、
今にいたるが、本当にいろんなことが
あった。
30年といえば、今から思えば人生の半分。
あれから
ずいぶんと長い時間を無事に生きてきた。

人災の恐ろしさに加え、避けられない天災。
いつ、何が襲ってくるかわからない危険は
今も変わらない。
不確実な時代。

30年前よりも、社会は良い方向に向かっている
とは言い切れないのが、残念である。

30年前の傷を今も背負って生きている方々の
気持を思うと、たまらなくなる。
もし、自分だったらと思うと・・・。

人生はある瞬間で変わってしまうことがある。
そのことだけは、忘れないでいたい。
運もあるのかもしれない、努力ではどうしようも
ならないこともある。
人間はある意味、本当に非力であると思う。
でも、今やれることがある。楽しめることもある。
一瞬先が見えなくても、見える今を存分に生きよう。

30年前の自分から、今の自分へ。
毎日毎日少しづつ変化しながら、今日まできた。
ここまでの幸運に感謝して、
そのことを忘れず、謙虚に生きたい。
今の自分から未来の自分は・・・?

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おかげさまの出前コンサート。

ある組織の女性部の総会の中で、「ミニコンサート」の
ご用命をいただいた。
ミニとは?時間?会場???自分のサイズか?
ともあれ、会場には30名ほどの女性が集っておられ、
ありがたいことに皆様から歓迎いただいた。
そう、2年前に、一緒にこの場所で歌ったことがある。
覚えていてくださった方も何名もいらっしゃって、声を
かけていただいた。
久しぶりに会えること、元気なお顔を拝見できることは
とても良かった。

ミニとはいえ、約1時間、時事ネタを含めトークも多めに、
考えていたストーリーどおりにプログラムを進める。
事前にプログラムは配ばらない。
決められた曲を歌い、演奏してあと何曲で終わる。
と思って聴いている事が多く、それもなんだか・・と
思うのと、お客様の反応を見て、曲目も変えることも
あるため、配らない。まるでバラエティかドキュメン
タリーを楽しんでもらっているような感じで過ごして
もらえたら。MCの力が結構重要かもしれない、マイ
コンサート。
最後は自分がつくった、この組織の女性部の曲を全員
で合唱する。一緒に歌う時間はとても大切。
また、今から思うと、ステージがないコンサートも
とても良い。上からではなく、フラットな状態で。
さらに、会議室で行うコンサートは楽器も持ち込み、
テーブルの上に楽器を置いて、テーブルの下から動く
足も良く見え、こちらからもお客様の足が良く見える。
昨日はなぜか、何名かのお客様の足(靴下)がリズム
に乗って動いている様子が目に焼き付き今もそのつま
先を思い出す。(笑)

コンサートが終わると、「施設の文化祭に来てもらう
ことできますか?」「お寺でコンサートできますか?」
など声がかかる。
出前コンサートで次の相談。これは大歓迎。

母が生きた最後の日が近づいている。
三月は思いがあふれる季節。
今、姿は見えないが、きっとこういった取り組みを
喜んでいることと思う。
わたしができる おつとめは、この活動。

ときに笑ってもらい、泣いてもらい、ああ、よかった!
そんな時間をお届けできることは、私ができる親孝行。

コンサートが終わってからいただいた声より。
「ああ、心が洗われた。来てよかった。自分はいったい
何をやって
きたんだと思ったわ、ああ、本当にありがとう!」
「いろんなことを思い出して、泣けてきました。
初めて聴かせてもらったけど、本当に感動しました。」

おかげさまで・・の出前コンサート。
成人式、企業のイベント、女性部総会・・・。
いろいろあれど、
もっといろんな、新たな場づくりを進めていこう。

「ええことやっとるなあ~。」
「みのり愛、歌ってくれたなあ~」
母は、きっとそうやって口を開いて笑っていること
だろう。

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「また会えたね」の季節に。

暦がどんどん進んでいく。あっという間に新学期、新年度が
始まる。
そして、サクラの準備もそろそろ・・・。
実家に向かう途中の堤防に、毎年恒例の桜まつり用の提灯が
装着された。隣町の自治会の方たちのご尽力により、毎年
この境川の堤防に咲く桜を通行客も楽しませていただいて
いる。
なんと、ありがたいことか。
子どもの頃からずっと・・である。

そして、親が元気な頃には気が付かなかった父の名入り提灯。
4年前、母の葬儀のあと、その存在を知った。
「昌子さんのお父さんの提灯、吊るしてあったよ。お母さん
も空から見てるね~」。と知人から教えていただいた。

母亡きあと、父も花見をする元気はなく、結局その後、この
桜と提灯を見ることなく、逝ってしまった。
遺されたのは、提灯と私(と妹)。

それから、毎年この季節になると、この提灯を探すように
なった。
今年もあるかな。破れてないかな。どこにあるかな・・。
今年もすぐわかった。通り道にあって、わかりやすい
場所に。
本当にありがたい。

「おとうさん、今年もよかったね」
提灯に話しかける。
4年前のことが思い出されて、涙があふれた。
この提灯をみつけた人は、きっと父や母のことを
思い出してくださるだろう。

桜の花はいつしか、私にとっては悲しく存在である。
そして、春は寂しい季節になってしまった・・・。

もう4年か。
この季節になると、走馬灯のようにあの信じられない
1年のこと、
それまでのコロナ禍の介護のこと・・・が思い出さ
れる。
「おとうさーん、おかあさーん」
呼びながら、誰もいないまだ静かな、開花前の堤防
を歩いていく。

また会えたね。
・・・どこにいる?

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約束は守る。

子どもの頃、「指切りげんまん」をよくした記憶がある。
詳細はおぼろげであるが、「嘘ついたら、針千本飲~ます」
と言って、硬く指切りをした。よく考えなくても恐ろしい
ルールである。
実際、針を飲んだ人も、飲ませた人もいないとは思うが、
この節(言葉)が怖くて、約束は果たさないといけない、
破ってはいけないと子ども心ながら恐れながら、約束を
守るように実行していた。

これはやってはいけない。
こうしなければならない。

子どもの頃に教えられたさまざまなこと。
親によって、家庭によってその教えはさまざまであるが、
約束を守るという教えは、社会からの信頼を得るための
第一歩だったと思う。

社会人になって長い時間を生きてきたが、今となっても
約束を守る、果たす人間でありたい。
嘘をつかず、実直に。とは思っている。

もしも、約束を果たせないような、困難があれば
約束をした相手に早めに素直に、きちんと伝えるべき。
うやむやに、なんとなく、約束を破ることだけは
してはいけない。

小さな約束であっても、ひとつひとつちゃんと果たしていく。

そして、無理なことは約束しない。安請け合いをしない。
そして、
一番大切なのは、自分との約束。
毎日自分と小さな約束を交わすのもいい。

ときに自分に縛りをかけることで、ほどよい緊張感と
謙虚さと、新たな意志が生まれてくる。



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永遠に語り継ぐ、伝え続ける。

長崎の原爆資料館の隣りにある、長崎原爆被爆者追悼祈念館。
とても静粛な気持ちになる、祈りの空間。
こちらには、被爆され亡くなった方々の名簿が納められている。
そこで、週末、被爆体験を朗読で読み続ける活動をされている
ボランティアの皆さんがおられることは、以前もここに書いた。
おかげで、そこから長崎への理解も深まり、そして平和への
願いもより一層強いものになった。
2月に開催した長崎コンサートでも、この活動のことをお伝え
させていただいたが、このような地道な口コミ活動が必要だと
ずっと思っている。
長崎に行ったらなるべく寄りたいと思っているが、たまたま
週末と重なり、こちらを訪ねると看板が立っていた。
あ、今日もやっておられるんだ。と一歩中に入ると、ボラン
ティアの方たちが、
「体験談聞いていかれませんか?ほんの2,3分です」
と言いながら、来訪者に声をかけられる。
「はい、聴かせていただきます」と椅子に座ると、他の
来訪者の方も着席される。
そこからボランティアの方は、被爆者から寄せられた体験談
のひとつを読まれた。この記念館に保存されている貴重な
体験談。
兄弟姉妹が被ばくして次々と亡くなり、そしてその悲しみの
なか、焼け跡で遭遇した死体があまりに惨い状態で・・・でも
自分の家族とは思わず、そのまま移動してしまい・・・。
あとでその場所から、自分の妹であったことを知り、長年
懺悔の気持ちで生きてこられた・・という話が、その情景が
目に浮かぶような語り口調で読まれる。
涙なしには聴けない・・・。

被爆者の方々から寄せられた体験談を人々に読み聞かせながら、
絶対に戦争の原爆の恐ろしさをリアルに伝え、平和の大切さを
伝え続けておられる方々。

この方たちの取り組みに、改めて頭が下がる。

朗読の合間には、被爆爆心地周辺の当時と今の写真を見せながら
被害の様子なども説明される。以前伺ったときは
なかったけれど、今回はスライドも用意されており、伝えることへの
工夫をされ続けていることを感じる。

ここで朗読された内容が、今もよりリアルなものとして浮かび
上がる。そして目の前の世界の愚かなる戦闘の報道にため息が出る。
知らない人が多い、多すぎるから過ちは続く・・・。

この永遠の会の取り組みは、
昨年ノーベル平和賞を受賞された被団協の活動とも重なる、
本当に心うたれる地道な活動。

写真の右下に見える黒い本には、皆さんが朗読されている被爆体験が納められている。
外に持ち出すことができない、ここだけで閲覧でき、ここだけで聴くことができる。

この永遠の会の取り組みに、心から敬意を表し、そして応援していかねばと改めて
思う。
週末、長崎に行かれる機会があったら、ぜひこちらに立ち寄ってみていただけたら。

戦後80年。実際に体験された人たちは残り少なく、その方たちが遺されたメッセージを
受け取り、伝える努力をしなければ。
長崎や広島を訪ねるときだけではなく、日頃からその思いを忘れずにいないと・・・。

読み、語り続ける。
この発信には、心からの平和への願いが籠っている。

被爆体験記の朗読「永遠の会」 – 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

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メディアの役割改めて。


重箱の隅をつついて何になる。
そう思うことが多い。

いのちを守るジャーナリストとのおつきあい、
そこからの学びのおかげで、伝える仕事とは
本当に心して行うべき、与えられた仕事だと
思うようにしているし、自分が尊敬する方たちは
自身の命を削って、世の中がよくなるために
取材をし、表現をしている。

一方、いつまでもつまらないことを何度も
繰り返し報道する日本のメディア。
全部がそうだとは言いたくないけれど、
何のために、何度も言い続けているのだろう。
大衆が喜ぶため、何かを悪者にすることが正義
のように、その先に何を目指したいのかがわからない
情報が多いと感じてしまう。

世の中をどっちの方向に向かわせたいのか、
どんな社会にしたいのか?の理念があって、
そこに向かうために役立つ情報こそ、受け取る
人にも意味がある。
より良い方向に向かうための情報、
そのために皆が「考える」きっかけになる情報
こそが必要だ。
ワイドショー的な、無責任な発言、情報は不要。

だからそれらには触れない。

自分から意味がある、と思う情報を選び取ること。
発信する側より、受け取る側がしっかりする必要が
ある今日。

メディア。
間に立っていて、意味のある存在であってほしい。
世の中の役に立つ存在として何ができるか。
どんな仕事でも同じだ。
考えて行動したい。

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子連れで喫茶での学び。


地元の仲間と久しぶりに会う用事ができて、 
よく利用する喫茶店で待ち合わせすることに。
そこは電車の駅前で、かつ駐車場も大きくて、自動車
利用者にも使い勝手良く、待ち合わせには最適。
ただ、人気店であるため、待たされることも多いため
早めに行って席をとろうと、約束時間より少し早めに
店内に入る。すると携帯にメッセージ。
「子ども連れてきたので、キッズルームというところに
入っています。そちらにお願いします」
とのこと。そう、彼はもしかしたら、子ども連れていく
かもしれないので と言っていたので、納得。
でも、その「キッズルーム」には入ったことがなかった
ので、ちょっとドキドキしながら、案内されるままに
その部屋に向かう。
すると、店舗の3分の1を割いたほどの大きな特別
空間、そこがキッズルーム。
この店にこんな大きな個室があったとは。
店のスタッフに案内され、靴を脱いで入室する。

客席は5テーブルほど。テーブルはお子様にも
ちょうど良いローテーブル。椅子はお子様用の小さな椅子に
大人の椅子といろんなサイズの椅子が並んでいる。
メニューではお子様ランチが強調。もちろん普段のメニュー
も用意されているので、大人はいつもどおりドリンクでも
食事でも選べる。
「時間は90分となっておりますので」
と、先に言われる。つい長居する人がいるのだろう。

ということで、友人はすでにその席に座っており、
お子様(2歳男の子)は、近くにある本棚の本を移動して
遊んでいた。
「すみません。今日は子連れで!嫁さんが下の子の世話
しないといけないので」
彼が父親であることを、知ってはいたが、今回のお子様への
お世話ぶりを見て、自然にいいパパでもあるんだと実感。

乗り物好きの父親はすでにその子を連れて飛行機に乗って
あちこち連れていっているようで、二人旅を楽しんでいる
とか。お子様を自由に遊ばせながら、自然に世話をして
いる姿を見て、とても微笑ましくなった。
もちろんイクメンとして、育休もしっかりとって子育ても
されている。今どきの父親である。

キッズルームは客席の奥にお子様の遊びスペースが設け
られており、ちょっとした遊園地のようである。
モニターには子どもが好きなアニメが流れ、それを見ながら
子どもはしばし止まりながら、室内を走ったり、ごろごろ
したり、とにかく楽しそう。絵本を読んでいる子もいる。
遊び場の様子がわかるように、大きな鏡が付いており、
親御さんは、その鏡を見ながらお子さんが無事遊んでいるか
どうか見ながら、安心しながら大人同士のおしゃべりを楽しむ。

お料理ができれば、席に座って、ぱくぱくとお子様ランチ
を元気に食べる。フォークを使えなくても、手づかみで
食べる。パスタを手づかみにして食べる姿を見て、私に
とっては珍しいので、面白がってずっと観察。
「もうそろそろ時間です」一昔前のカラオケボックスの
ごとく、終了時間が知らされて、帰りの準備に。
あっという間の90分である。

正直、子どもさんがいると、大人の会話はとぎれとぎれに
なるため、深刻かつ真剣な話題はちょっと難しいかもしれ
ないが、まあ普段の会話であれば、何ら問題なく、
いい時間を過ごさせてもらった。

今、仕事で子ども向けのサービスについて考える機会も
あり、すでにある店舗でのお子様向けサービスの充実には
限界もあるが、店舗開発の段階から、しっかりお子様用の
遊び場を設置することは、今後、ますます大きな差別化ポイ
ントになるとも改めて認識するきっかけをいただいた。

親も子も安心して、楽しめる場所。
ちょっとだけ非日常の場を、その喫茶店はしっかり体現している。
だから、いつも混んでいる。
喫茶利用。大人の利用。大人と子供の利用。家族での利用。友達との
利用。この店には、多くの層に楽しんでもらえる用意がある。

子連れで喫茶。
車に子どもを乗せての来店。
パパと僕の、土曜の午後。

なんだか幸せな世界が見えた。
あまり接したことがなかった世界だけに、私にはとても新鮮で楽しい
ひとときでもあった。

ストレスなく、大人も子どもも健やかに過ごせる店、街がこれから
もっと増えるといい。
そういう意味では、ふるさと岐阜は時代に合った町なのかもしれない。

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