私の春を、始める。

寒さが続くが、日ごとに春の訪れが近くなっているのを感じるこの頃。
もうそろそろ・・・外へ飛び出そう!ということで、
グラン・ルー開設25周年の事業(社会活動)としての第一弾をはじめる。
昨年末、NHKのドキュメンタリーで知った 在宅医療の現場に刺激を受けての
ひらめきをカタチにする。
外出できない方のもとへ、出かけるのではなく来てほしいと待って下さる方のところへ・・。
ということで、試みる。

具体的には、マーサの「とことん♡よりそいコンサート」。出前・出張型の
演奏活動だ。
コンサート会場へ行ける元気がある時代を経て、だんだん活動範囲が限られ、外出も
ままならない・・・そんなときがやってくる。
そのときに、ささやかな楽しみとして「音楽のギフト」をお届けできたら。
または、家族や親しい人同士の小さな集まりのひとつのお楽しみとして、思い出の
時間をともに過ごしていただけたら・・・。
在宅医療に奮闘される医療業界の皆さまのように、その人の命を身体面からサポート
することはできないが、内面から少しでもお手伝いできたらと思っている。
チラシもようやく整った。
ということで、私の春がはじまる。
試行錯誤を重ね、前に進む。
両親もきっと喜んでくれる、そして一緒についてくるかも?

マーサの「とことん・よりそいコンサート」のご案内はこちらです。

グラン・ルー おかげさまで25周年 感謝の事業 のお知らせ | La Grande Roue (mahsa.jp)

ご興味ある方はぜひお問い合わせください。

Contact | La Grande Roue (mahsa.jp)

25周年事業はここから、はじまります。(他のメニューもどうぞお楽しみに!)

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さすがの筆談コミュニケーション。

新幹線の中で仕事をする人も多い。
貴重な移動時間だ。
私もかつては、よく新幹線に乗ってすぐパソコンを開いて
忘れないうちに・・・と報告書を作成したりしていた。
しかし、揺れる社内での入力は体にも良くないので、
最近は、意識してやらないことにして、むしろ、休息、
睡眠の時間として活用している。

そんな時間にしたいのに、前の席で、かちゃかちゃと
キーボードを強くたたく音が続く。
おそらく、その人は東京に着くまでに早くやって、
会社にメールするのか何かしたいのだろう。と
想像できるほど、力が入った速いパンチングの音。
その音が鳴り響く。困ったなあ。うるさいなあ。
周囲の人は、イヤホンをして他の音を聴いているか
すでに眠っている人もいるが、こちらは眠れない。
私もイヤホンをしてみたが、それでも聞こえてくる。
ふと大きめの付箋メモがあったので、メッセージを書いて
ご本人にそっと渡そうかと思ったが、知らない人だ。
相手によっては事件に発展することもないとはいえず、
席を離れて、車掌さんを探す。
すると車掌さんではなく、警備の方をみつける。
「あの、すいません・・。車掌さんが見当たらないので
お伝えいただきたいんですけど・・・。〇両目の〇に
座っているものですが、前の方のキーボードの音が大きすぎて
困っているので、車掌さんに伝えていただけますか?」
というと、警備員さんは状況を察知してすぐ動いてくれた。
席に戻ってしばらくしたら、車掌さんがやってきてそっと
メモを渡してくれた。最初、驚いた。
「音があまりにも気になるようでしたら、他の席に変わって
いただいていいですよ」と、書いてあった。
口頭では言えないことは、筆談をするという接客マニュアルが
あるのだろうか?
そして、小さな声で
「移動される場合は、忘れ物だけは気を付けてくださいね」
と付け加えられた。
私は静かに頷き、おじぎをして、少し離れたところに空席があったのを
見つけ移動した。ああ、良かった。音も聞こえなくなった。

しばらくすると、車掌さんがまた通って、今度は声をかけてくれた。
「大丈夫ですか?問題なかったですか?」
「いやー、大変助かりました。ありがとうございます」
こちらも普通にお礼が言えた。

車内ではいろんなことが起きうる。トラブル、事件、事故も多い。
何か起きるかわからないことを想定し、安心安全な運行を目指し
がんばっておられる輸送関係の皆様さまには、頭が下がる。

新幹線に関するエピソードはいろいろあれど、筆談は初めて
であった。
状況に応じたコミュニケーションの手法、ツールの使い分け。
その細やかな配慮に感動し、感謝した朝。
もちろんトラブルはない方が良いけれど、それ以上に
いいサービスに出会えたことが、とても良かった。

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次の山を登り始める。

人生は山越えの時間。ともいえるかもしれない。
大山小山、自分に与えられたいくつもの山を乗り越えて、自分だけの人生を
進んでいく。いつまで続くのかな‥と時々思いながらも、前に進むほかない。

一度の人生は、大きなひとつの山を登るというよりも、
私の場合は、大小いくつもの山に向かう。そういうものだと、思っている。

たとえば、親との出会いと別れ。というひとつの大きな山。
これも気が付けば時間を経て、今日にいたっている。
振り返れば、人生最大の山だったかもしれない。
そして、さまざまな変化を感じながら、それを乗り越え、次の山に向かっている。

毎日という小さな山。
24時間の中にも、山はある。そう思うとちょっとエキサイティングな気持ちにも
なれる。

仕事においても、次々と課題をいただき、それぞれの山に登っている。
ひとつのプロジェクトが落ち着けば、次の山。
山のぼりは、ときに谷もあり、険しい道もあり、雨の日も晴れの日も・・・。

そのとき苦しくとも、前を向いて、上に向かって進んでいけば必ず
頂点に出会える。
そのときの爽快感、達成感は格別だ。


今、ひとつ大きな取り組みの着地が見えてきた。
心から安堵できる時も近い。
その喜びと同時に、次のターゲットに向かって歩みを早める。

気が付けば山越え。
人生は、そんなものかもしれない。
歯を食いしばることなく、自然体に進む。
足腰が強くないと登れないから、自分を鍛えることも忘れずに。

2月16日。まずは、今日という唯一の山を元気に楽しく越えたい。



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俯瞰してみる時間。

なんやら怪しい物体が空を飛ぶ時代になってきた。
いや、実は、もっと前から飛行していたのかも。きっと、そうだろう。
空には、実際目に見える境界線はないのだから、決めた見えないルールを
守らない人にとっては、お構いなしの世界になる。
恐ろしい。これでは世界の秩序は保たれない。
どうか、国際ルールを順守する真の友好なる関係でもって、世界の平和を
維持してほしいと願いたいが・・・。

さて、同じ見るでも、こちらはちゃんと見たいというお話。
日頃、物事に追われていると、目の前のことに夢中になって、
全体を見直したり、客観的に確認するということが後回しになることもある。

できたら、完成する前に、いい節目のところで、
第三者に見てもらったり、全体を見回して、抜けがないかは
しっかり確認したい。
いい仕上げをするには、俯瞰してみる時間が、とても重要なのだ。

人の世界まで盗み見することは言語道断であるが、
自分の担当世界は、しっかり俯瞰するように。

そのために役割分担があり、チームがある。
一人じゃ気づかないことを、教えてもらえることもある。

俯瞰。鳥の目をもつ。時にそのことを思い出したい。

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被災地に心寄せる、聖バレンタイン。

このたびのトルコの大地震の被害は、東日本大震災の記録を越え、まだこれからも
広がりそうで、心が痛い。
トルコ、シリアの被災地の皆様に心からお見舞い申し上げたい。
また国際的な緊張関係で支援が無事に届かない実情もあるようで、それも悩ましい。


ほんとうにいつ、どこで何が起きるのか。
天災、人災・・・。世界各地で起きているこの惨状を見て、明日は日本でも・・と
思い、備えなければならないが、できているだろうか?平和ボケが戻っていない
だろうか?
コロナが落ち着いて、ちょっと気持ちが解放されている今こそ、気を引き締めなければ
と思うけれど・・・。

「日常こそが奇跡」だと、東日本大震災後にその思いを表現されたという、詩人の長田弘さんという方がそんな言葉を記されているようであるが(まだ詩集は読めていないが)、
確かに当たり前であると思っていることが実は当たり前ではなく、それを失くして初めて
その有難さに気づく。

いて当たり前、あって当たり前。
そんなことは何ひとつないのに、失ってから悔やみ、嘆く。それでは遅い。

だから、今この平穏無事な朝という瞬間に感謝し、このひと時を大切に丁寧に生きるのみ。
今日はバレンタイン。今年は、例年とはちょっと違う気持ちでいる。

奇跡なる今日に感謝して、周りに感謝して、そして今の世界情勢を鑑み、静かに祈り
を込め、丁寧に日常という時間を過ごしたい。

「日常」を元気に、無事に過ごせることが一番のギフト。
これ以上の幸せはない。周囲に感謝を込めて。

そして、改めて天災・人災の被災地の皆さまに心を寄せて
早く、日常が戻るようにと祈りをささげたい。

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マイファニーバレンタインを想い

バレンタインはすっかりショコラの祭典となった。
もちろん大切な人に贈る方も多いだろうが、年々、自分用の消費のための
イベントになりつつあるような・・・。
限定、初登場、ショコラティエ来日トークショー・・・。いろんな販促
の情報に接し、また会場での長蛇の列を見ると、「ま、やめとこか」と
萎えてしまう。今じゃなくていいかな・・・と思ってしまう。
と同時に、昔のバレンタインのワクワク感を思い出し、あの頃は良かった
とつい、昔を懐かしむ。
子どもの頃のバレンタインは、不二家のハートチョコが主役であった。
ピーナッツが入って、おいしかった、あの商品、復活したらいいのに・・・。
もうひとつ、チョコといえば、だれもが知る、あの「チロルチョコ」。
この商品のコミュニケーション力は今の時代も衰えず、素晴らしい。
最近、改めて気に入っている。いつか、オリジナルのチロルチョコにも
挑戦したいほど・・・。

そして、話は飛ぶが、バレンタインといえば・・・。
NYにて歌を少しだけレッスンを受けた先生に、教えてもらった「マイファに―
バレンタイン」。
ジャズの本場でその曲について学べたことはとても幸運だった。
マイルス・デイビスや、チャット・ベーカー等であまりに有名な曲であるが
私にとっては、その歌の先生の言葉が今も忘れられない。
「毎日がバレンタインですね」
そう、そのとおり。
毎年、この時期になると思い出す。

愛をささげる、告白のきっかけとして日本に上陸したバレンタイン。
いつしか業界のイベントになった。
でも、そのルーツを大切にし、心を大切にしたい。

愛を感謝を伝えることは、大切。
でも、この日に限らず、いつでも伝えたい。毎日伝えたい。

なんでも消費拡大に向く流れに乗る楽しさもあるが、
本質を忘れず、感謝を伝えたい。





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アフリカに学びはじめる。

現在放送されているもので、最も有意義なコンテンツとして毎回チェックして
いるのが、「こころの時代」という番組。週末の楽しみのひとつでもある。
これは思想・哲学・宗教面からこの混迷の時代に生きるヒントを与えて
くれるもので、毎回、さまざまな気づきや発見があり、自分の世界を広げて
くれる。
世の中の人がつまらないニュースを見るよりも、こういったコンテンツに
興味をもってくれたら、とおせっかいながら思える、時空を超えた普遍の
教材だ。

最近、「アフリカの思想」を知るというプログラムがあり、そこで知った
コンゴで活躍する医師、デニ ムクウェゲ氏。
性犯罪が多発し続けるこの国で、女性たちを救い、またその犯罪撲滅の
ために声を上げ闘っている活動家でもある。
生きる道を失った性犯罪の被害者である女性たちの心身に寄り添い、
被害を受けた人たちが、その経験に負けず生きるための支援をするとと
もに、国連で自らの経験を含めた力強いメッセージを世界に発信し、
ノーベル平和賞を受賞した経歴の持ち主だ。
とても情熱的な活動家。ノーベル賞を受賞されたときに、もっと関心を
持つべきだったと反省。

アフリカはもともと固有の風習・文化のなかで歴史を刻んできたが
欧州列国の世界進出・侵略により、多くの国々が植民地となり、
虐げられる歴史を刻んだ。
今思えば恐ろしいことばかりだ。もしかしたら、ロシアのウクライナ
侵略を一方的には避難できないかもしれない・・・。いや、できない。
それらの歴史から引き起こされた内紛、貧困、性犯罪といった、
SDGsが目指す社会の対局にある、生きづらい環境で闘っている一人が
このデニさんだ。

彼は来日した際に、大学での講演・授業を積極的に行い、若い人たちに
アフリカの現実にも目を向けることの大切さとともに、社会に問題があれば、
無関心であってはいけないということを力説していた点が心に響いた。

犯罪があるとしたら、その加害者は当然、責められるべきであるが、
犯罪はどこでも誰にも起こる可能性はある。特定の加害者を非難するだけでは
世の中は変わらない。何の解決にもならない。

さらに物事に「無関心」であること。これでは犯罪がなくならない。
戦争が終わらない原因のひとつはこれ。だから無関心も加害者なのだ。
無関心であってはいけない。声を出す、行動を起こすことこそが平和な
社会のために大切だ。

と、熱く語っておられたことが強く深く心に刻まれる。

無関心。自分には関係ないわ。言うと面倒くさい。言わない方がいい。
見ないふり。責任はとりたくない・・。
と、そんな風潮が今の世の中にあると思う。
昔よりも、情報化社会のなかで、より人間間の距離は、溝は広がっていると
思う。
これでは、いけない。

この尊敬する活動家は言い、また自ら動く。

欧米的価値観に惑わされることなく、世界を広く観ながら、
より確かな道を探し続けよう。

ちなみに、デニさんは日本の「利他の心」が大好きだそうだ。
ああ、同じだ。良かった。

人はだれかのために役に立つために、生まれてきた。
このことが根本にあるから、行動できるのだとのこと。

ここも深く共感する。

その背中を見習って、さあ、自分は何を活動するのか?

さあ、自分は何でもってお役に立てるのか。

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小学3年生の「雨にぬれても」

あのバート・バカラックさんが亡くなったとの報に接し、あの名曲が久しぶりに
頭の中で流れ始めた。
Raindrops Keep Fallin’ on My Head」~日本語タイトルは「雨にぬれても」。
結局、その曲が有名になった映画「明日に向かって撃て」は、観る機会を逃して
いるが、私にとっては忘れられない名曲だ。
実は、この曲は小学3年の頃、毎日のように電子オルガンで弾き続けていた。
そのせいか、今も当時のアレンジされたイントロからすべて思い出すことができる
し、鍵盤の前に座ればそのまま指が動き出す。
それぐらいしっかりインプットされている。
当時、電子オルガンのコンクールに出ているため、特訓を受けた曲。
三度のごはん以上に、この曲を弾いていた日々もあったことを思い出す。

年月を経て、街角やテレビコマーシャルでこの曲を耳にしたとき、その曲自体を
やっと味わうことができた。
なんといういい曲なんだろう♪
♪雨にぬれても、自分は平気さ~。♪
前向きで、軽快で、気持ちが明るくなってくる。

雨が降っていても、傘をさすのがあまり好きではなく、
そのまま歩いていきたくなってしまう、そんな習性は、
この曲が幼いころに体に染みついたからだろうか。

雨がタイトルに付く名曲は数々あり、雨の位置づけもいろいろあれど、
この曲は人にやさしく、癒しと元気を与えてくれる希望の名曲だ。

長年名前を聴く機会がなかったが、94年の生涯であったとのこと。
本当に長く、ご活躍されたんだな~。
としみじみとした気持ちに。

この曲との出会いがなかったら、音楽を本格的にやっていなかった
かもしれない。
コンクールという緊張の場に立たせてくれた曲。
おかげさまで鍛えられた。
いやはや、懐かしき昭和40年代、宝の思い出。

世界の人に多くの感動を与えてくれたバカラックさん、どうぞ
安らかにお眠りください。ありがとうございました!

これからも、この名曲を口ずさみ、
雨にぬれる日があっても、心は晴れ!
夢と希望を胸に生きていこう!

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公共空間と音と癒しと・・・。

駅ピアノなるテレビ番組がくりかえし放送されている。はじまった当初は
海外の空港や駅に置いてあるピアノを旅人たちが思い思いの曲をそれぞれ
演奏していくというものであったが、今や国内各地でもその拠点は広がって
いるようだ。
演奏しているとときに、通行客や待合人から拍手が沸き起こる・・。
その光景はちょっとしたドラマ。に見えた。

そして、実際、パリの東駅だったか。そこの待合室でテレビ番組と同じように
少し古びたアップライトのピアノがおいてあったときは、思わず弾こうかと
思い、でも、やめた。
旅に疲れて眠りたい人もいるかもしれないし、音楽が嫌な人もいるかもと
思ったからだ。
公共の場所は、コンサート会場とは違うし、演奏を聴くために集まってきた
人ではないので・・・ととっさに思った。

それ以来、そういう場所をみつけても、弾かないことにしている。
ある仲間が渋谷駅に隣接するビルの中においてあるピアノを見て、
「マーサさん、あそこで弾いてくれたらいいのに」
と言ってくれたが、「いや。いいわ。」と笑って済ませた。

一方、実家のピアノ部屋は、もともと親が私がいつかレッスンをするために
帰ってくるだろうと思って、しつらえた大きな部屋である。
田んぼの前に建った家なので、多少の音は大丈夫としつつも、
一応、二重窓など対処はされている。
窓を開けて、開放感に浸って演奏することはできない。
雨戸を締めきって演奏する方がよりいいが、気分が下がるので、それはせず
窓を締めきって演奏している。それでも近隣への音漏れは気になる。

時々、隣のおばさまにお会いする。
挨拶の流れで
「ピアノの音、すいませんね。」
というと、
「いやいや、私にとっては癒しだわ。今日も息子が帰ってきていて
『お母さん、ピアノ?いい音がするね~』と一緒に聴いてたんよ。」
との言葉に安心する。
お隣さんは音楽が好きな方なのだ。良かった。

でも、そうではない場合もある。事件になることもある。
人前で演奏することを経験すると、聴きたい方にだけお届けしたい。
騒音になっては、絶対にいけない。

どんな音もその人によって、受け留め方が違うのだ。

そんな意味から、大勢の人が行きかうターミナル駅で、大きな音で
ピアノを弾いている場合は、その音が雑踏に消されることもあるし、
結局、自分のために弾いているのかなとも思うことが多い。
駅が町が自分の部屋になっている。私にはそう思える。
それはいいとも、そうでないとも、両面あると思っている。
これはもちろん人によって受け止め方は違うので、なんともいえない。

音は、望まなくても耳に入ってくる。
そこを忘れずに。

それにしても、親が遺してくれたピアノ部屋は
今となれば、ありがたい。
マンションではできないことができる。
いつの間にか、単なる空き家ではなく、ピアノスタジオになりつつある・・。

音コミュニケ―ション。迷惑にならず、快適に癒しになるように。

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「無の境地」と自由を得られるよう。

最近、ヴァイオリニストたちの演奏を聴きながら、音色とともに表情を観察する
ことが多い。目を閉じて、ときに苦しそうな顔、ときに至福の顔・・・・。
前を向いて演奏するため、その表情も音とともに、聴き手にインプットされるのだ。
演奏家がその曲に、自分の音にどう魂を傾けているのか・・がわかり、釘付けになる。

そして、その表情にはその人の生きざま、歴史が刻まれていることを思うと、
演奏家という仕事、生き方のすばらしさを感じ、深い感動をおぼえる。

韓国人の著名ヴァイオリニスト チョン・キョンファ。できれば、一度、生の演奏を
聴きたい演奏家のひとりであるが、たびたび拝聴する映像からでも、
突き抜けた才能を感じることができる。
12歳から単身でNYにわたり、勉強を重ねてきたという人生。
若いときは、一音でも間違える自分が許せなかったという。

でも、今は肉体の限界もあり、それは無理。
それよりも聴衆と瞬間の感動を分かち合うことが一番。それを大切にしたいという。
そして、演奏をしていると「無の境地」を感じるという。
無の境地。それは、自由だという。
それは、若いときは、感じなかったこと。
年を重ねて初めてわかってくることかもしれない。

若いときは、ある意味、不自由だったのかもしれない。自分もある意味そうだった。
でも、だからこそ、当時、がむしゃらに練習したのだろう。
だからこそ、上達した。
若い日々は、技術の時代。うまくなるための不自由な時代。受験生もある意味そうだ。

年を重ねて、自由を得る。
素晴らしい。
私も、技術的にはもうボロボロで、情けない限りであるが、
でも、チョンさんと同じく、聴き手(お客さま)とかけがえのない瞬間を分かり合うことの
すばらしさは理解できるし、
誰にも邪魔されない「無の境地(=自由)」の存在も、
なんとなく感じることができる時がある。

人は年を重ねると、肉体こそ不自由になるかもしれないが、
自分次第で、心の自由を得られるのだと、
彼女の深い音色と言葉をいただき、改めて思った次第。

素晴らしき人生。見習いたい。
おっと、私はまだまだ努力が足りなさすぎる。
ずっと絶え間なく努力した人こそ、真の自由を得られるのだと思う。
まだ、これからでも、間に合うかな。

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