3月26日。3年前の夕方以降の時間は今も時が止まったような感じだ。
母の危篤の報せに、急いで出かけても、間に合わなかった。
病院に到着するまでの長い時間・・・。
もうそのあとを思い出すのはやめよう。
元気だった母のことだけを思い出すことにしよう。
今日は母の人生、卒業の日。
今日は普段通り、東京出張に出かける。
その代わり、私なりの母への贈り物。
ふるさとご近所4000件への新聞折り込み。
ルーツとふるさとを思ってつくった新しいアルバムと、
出前コンサートの内容を入れたチラシ。
そこには、母の写真も入れた。
何名の方が、母の写真に気づくだろうか?
3年経っても、母の想いは受け継がれていると、
母は私とともに生きているということを、
伝えられたら、きっと母は喜ぶだろうと、
そんなちょっとふざけたアイデア。
いや、大真面目だ。
じっとしていると、たまらないから、いつもどおりに
動くことにする。
きっと空から笑って見てくれているだろう。
何年経っても感謝のみ・・・。ありがとう!
これからも、ずっと 同じ気持ちで。
母の卒業日に
ピアノで偲ぶ、母のいのち。
〇〇供養という言葉もあるが、なんとなく湿っぽくなる
ので、母に会う心の旅、空の演奏会とも言い換えようか。
明日26日は母の命日になるが、当日は出張も含め、バタバタ
するため、日曜ひとりでピアノに向かう。
そして、母との記憶をたどりながら、その時々にゆかりの曲を
奏でる。
ひとり鍵盤に向かいながら、母のさまざまなやりとりが思い浮かび、
涙があふれてきた。
心にふる雨のようだ。
ピアノをこうして弾けること自体が、母の人生、わたしに与えた
贈り物であったと思うと、ほんとうに、ほんとうにありがたい
ことだと思う。
ピアノがあるかぎり、声が出る限り、母のことを思い出す。
だから、続ける。それが一番の親孝行。
時間が経つとだんだん寂しくなるように感じるのも正直な
気持であるが、その寂しさや喪失感ともつきあいながら生きていく
のが、残りの人生なのだろう。
と、この3年でそんなことも学んだ。
母からのバトンを、どう私が次につなぐのか。
これは大きな宿題。
そんなことを思いながら、母が生きた最終ラウンドを
祈りを込めて、丁寧に生きたい。
桜が咲くと・・・
高知で開花宣言の報せ。これから全国で日本の春を愛でることができる。
ふるさとでも、すでに桜まつりの準備が進んでいる。
皆にとって、待ちに待った桜の季節。
一方、私にとっては桜が咲くと母の旅立ちを思い出す・・・そんな季節。
もうすぐで、まる3年。桜が満開のなか、見送った日のことがよみがえり、
夢かうつつかわからない気持ちにもなる。
桜は美しいけれど、年を重ねるとだんだんはかなさを感じるようになる。
子供のころは、入学の、進級の、合格のおめでたいシンボル。
そして。
大人になると、旅立ちのしるし。
写真は3年前に、まさに送った日、斎場横の小学校に咲いていた桜たち。
桜を見ると、毎年、旅立ちの日を思い出すだろうな~と思って
いたが、ほんとうにそうだ。
桜が咲くと思い出す。桜が咲くと、会いたくなる。
母と関わってくださった皆さんが、桜を通じて、母の存在を思いだして
くださったら、うれしい。
そう、桜は思い出のシンボル。
桜が咲くと・・・。
真なるマルチタレントのお方に。
久しぶりに尊敬するド・ロさま ゆかりの土地に足を運ぶ。
遠藤周作が、この海はポルトガルにつながっていると言い、自らの終の棲家にも
希望していたとされる、映画「沈黙」の舞台にもなった、長崎市のまさに最果ての地、外海である。
この地に明治時代、キリスト教が解禁されてから、フランスよりこの地に移り住み、生涯を長崎の人々、特に女性の自立(と信仰)について大きな導きをされたド・ロさま。下の写真の出津教会も、ド・ロさま自ら手掛けられた建築物であるが、建築のみならず、印刷・医療・教育にいたるまで、本当にマルチな才能を長崎の人たちのために発揮された。
マルチタレントとは、まさにこういう方のことを言う。
と、いつも、ド・ロさまゆかりのここに来ると、神様が与えた才能~ということ
について考えさせられる。
その下の写真は、ド・ロさまが母国から取り寄せられたオルガンと、時計。
いずれもいまだに現役である。一度、新潟の方たちを招いてここでコンサート
をした日々も懐かしい。
ド・ロさまは、今もここに眠っておられる。
豊かな才能を人々の幸せのため、世のために発揮された生き方は、本当に見習いたい。もちろん、才能がなくては何もできないが・・・。
さまざまなことに興味・関心をもち、アンテナを張って、教養を身に着け、実益に生かす。少しでもド・ロさまに近づけるように・・と、思うのは自由だと、赦していただけるだろう。
それにしても、出津教会を訪ねるときは、いつもこのような空。
青い空に教会の白がとても似合う。
真のマルチタレントはもしかしたら、空の色までコーディネイトしているのかも?
改めて、ド・ロさまに心より敬意と感謝を。
挑戦した日を思い出し・・・
10年になろうか。フランシスコ・サビエルへの想いを曲にした日から、
そう、もう10年の歳月が経つ。ポルトガルのリスボンで生まれた
「フランチェスコの夢」・・・。フランシスコザビエルという名前を直接
名づけるのが恥ずかしいというか、恐れ多いというか・・・。ということで
そんなタイトルにした。今思えば、最近リリースした信長の曲も
「NOBUNAGAの夢」というタイトル。偶然というか、必然というか・・・。
話を戻す。とにかく10年前につくったこのザビエル讃歌を、ザビエルゆかりの
地で演奏したいとの妄想が生まれ、大分で開催されたザビエルサミットに足を
運び、その勢いで、平戸市に乗り込んだ。それが9年前の3月末。
年度末になると、この無謀な冒険を思い出す。
よく行ったなあ、よくやったなあ。
本当に平戸で演奏できるとは思っていなかったが、ザビエルが背中を押して
くれたのだと、今もそう信じているわが挑戦、わが冒険。
そして、久しぶりに訪ねた、平戸のザビエル教会。
16世紀半ばに来日、平戸でも布教活動をしたザビエル。実在し、ここに来たのだと
実感が湧いてくる。
久しぶりにこの立像を見ながら、ザビエルの人生と冒険を久しぶりに思い描く。
彼がここにたどり着いた日は、どんな天気だっただろうか?
写真のような青空の下、ザビエルは新たな土地での布教に燃えていただろうか。
時を越えて、わが人生にとって大切な存在のひとり、ザビエル。
誰も思わない挑戦をする。冒険をする。
いくつになっても忘れないで!
と、久しぶりにザビエルに再び背中を押された気持ちになった。
新たな挑戦を続けよう!と。
悲しみを越えた優しさ
久しぶりに長崎の町を訪ねる。いい天気で清々しい。
一方、風が強く、見た目と違う厳しさも感じる。
宗教弾圧や原爆といった人類史上類を見ない苦難を背負って来た長崎。
この写真は16世紀に、キリスト教を厚く信仰する26名の方たちが殉死された西坂という場所である。殉教の地に立つということだけで、特別な感情になる。
そう、いつもここに来ると、為政者、権力者の非道を思い、ここで亡くなられ、聖人となった方々の思いを想像し、祈りを捧げる。
あってはいけないことが起きる。それを乗り越えて、先人たちは生きてきた。
この歴史から学ばなければならない。
長崎の街は 苦難を何度も乗り越えて来たからこその、優しさと強さがある。
だからここが大好きで、訪れるたびに新たな力がインスパイアされるのを実感する。
優しく、強い人になれるように、と長崎の空を見て思う春。
アンクルの存在。
父の弟が二人。おじさんである。
二人とも、まったく個性が異なっているが、
それでも父の弟だということで、親しみを
もって子ども時代から接してきた。
とくに親の最期においては、お二人にいろんな
意味でお世話になってきた。
兄弟愛とはこういうものかと思うこともあった。
そして、父がいなくなった後、この二人のおじさんは
役割分担を決めているわけではないけれど、
実家のゴミ出し、庭の手入れ・・といった役割分担を
もって、それぞれ日課のようにやってくださって
いる。
そして、一人のおじさんは、私のライブの機材搬入搬出
の手伝いをずっとしてくれている。
機材が必要な会場には、いつも一緒に運搬してくれる。
そのお礼は、毎回、喫茶店でのモーニング。
本当に毎回申し訳ないので、「悪いですね~毎回毎回」
と話すと、
「いいよ。自分の義務と思っているから」
と言われてぐっときた。
私の演奏機材を運ぶのが義務。ある意味、父の代役を
してくれているわけだ。
今、この二人のおじさんの健康が気になっている。
80歳に近づいてきている。気が付けば父の寿命に近づいている。
いつまでも、実家のことや、私のことで力仕事をお願いする
のもよろしくないかもしれない。
今はこの二人のおじさんがいつまでも元気にいてくれること
が大きな願いだ。
ふたりのアンクル。その名は、あきちゃんとかっちゃん。
父の記憶を共有できる、かけがえのない存在である。
ふっとあの日へ。
目まぐるしく、毎日を過ごしている。
忙しければ気もまぎれ、寂しさも薄らぐと思ったのか、
とにかくこの三年は意識的に動く。
立ち止まらないように、ふりかえらないように・・・。
しかし、この頃になると、やはり母との最期の時間のことを
思い出してしまう。
3年前の今ごろは母が緊急入院して、コロナのせいで、
もう面会もできず、それにもかかわらず、用事をつくっては
病院のナースステーションまで出向き、ご近所さんからの
寄せ書きを届けたり、様子を聴いたり・・・。
そんな風に過ごしていた。
実家のカレンダーは、母と一緒に眺めたカレンダーが
そのまま掲示されている。
あの日をいつでも思い出せるように、思い出を消さないように
カレンダーは2021のまま。
あと1週間で、母が逝ってしまう・・・。
三年前の今日はそんなことも知らずに、せっせと病院に
通っていた。
息をしていた母がいた時間。
ふっと忙しさの合間に、そんなことを思い出す。
あれから3年、ふらふらしながら立ち上がり、そして
歩き始め、今日へ・・・。
ふっと思い出す。母との最期の時間。
3月後半はそんな時間
毎年、思い出しながら桜の季節に向かうのだろう。
「普通」って何だ?
昔から、そして今も、いつも気になっている日本語がある。
それは「普通」の二文字だ。
いかにも、日本的な言葉かも?
英語でいうと、ordinary 。
この「普通」という言葉は日常生活によく登場する。
まず、高校などで「普通科」というクラスがあるが、一体何?
その言葉どおりでいくと?普通?平凡?ありきたり?と解釈
してはいけないだろうが、普通って?と思っていた。
私は幸いにして、「音楽科」であったので、専門性があり
何をやるのかわかりやすく、また個性的でもあり、その名称も気に入っていた。
普通科では、確かに成績がいい人もいるが、でも、しょせん「普通やんか?」
という感じで、ピンとこないし、ぱっとしない印象。
総合科とでも言った方がまだわかるのに・・。誰が、いつ名付けたのだろう?
電車を見てもいつも思っている。「普通」の二文字。
なんで普通なんだろう?各駅停車の方がわかりやすいし、
この場合なら英語もSTOPS AT EACH STATIONでわかりやすい。
普通となっていると、英語にしづらいのでは?
またアンケートや小学時代の時の通信簿でも、
「良い・普通・悪い」とか、「良い・普通・がんばろう」。
と、とにかく普通という二文字が、多用されている。
よくもなく悪くもなく、なのか、良くもあり、悪くもあり・・なのか
本当にはっきりしないこの「普通」という言葉。
ニュアンスで理解する言葉なのかもしれないが。
かなり昔になるが、
「普通のサラリーマンになりたい」
「普通のお嫁さんになりたい」
という言葉も聞いたことがあるが、その普通とは?
多くのみんながしている、どこでもいつでも多くのみんなが
していることをするのが、普通?なのだろうか?
平凡という意味だろうか。それは安心の印なのだろうか?
「普通」とは・・・。普遍に通じる。と
自分なりに良い解釈をしてみようとする。
そうか、普通というのは本当はとても深い意味なのかもしれない。
でも、そんな風に考えて使われているだろうか?
と、日々の生活で「普通」という言葉に出会うと、ついつい
考えてしまうこの半世紀余り。
普通とは、「並」に近い?(この並みもわかりづらいが・・)
いずれにせよ、
なぜ各駅停車が普通であるか・・の答えにはなっていない。
さりげなく、なにげなく使われている言葉のなかで、時々意味が
わからないものもある。
言葉とは所詮、そんなものなのかもしれない。
普通の人々、普通の暮らしのなかでは・・・。
この一見、無表情であるけれど、とても受け皿の広そうな二文字。
普通・・・日本人には相性が良い言葉なのであろう。
普通の対極にある二文字。希少、特別、異常・・・。個人的には
こちらの方に興味があるが。
学生時代にタイムトリップ
春といえば、終わりとはじまり、別れと出会いが交差する
季節でもある。日本ならではの年度末カレンダーがあるせいか。
卒業と入学・・・。
どちらにせよ、胸を膨らませて次に進む人口が日本中にあふれる
この季節。
先日、京都のある中学校の前を通ったら、その日は卒業式の当日だった。
正式には卒業証書授与式である。
大きな書で書かれたその看板の前を通った時、懐かしい気持があふれた。
最近、学生時代の恥ずかしい、懐かしい思い出に触れる機会が続いている。
たとえば、高校生のとき。仲良しの友達と出かけた高山への小旅行。
10代のころから旅が好きだったのだ。
高山の少し先にいくと、飛騨古川という城下町もあるが、そこにも立ち寄った。
たまたま、先日NHKの昔の番組の再放送でその古川のことを取り上げており、
まさに40年前訪ねた和ろうそくのお店、職人のおじいさんが映っていた。
あ、この人に会ったことがある。店先でろうそくを作りながら、解説されていた。
ふと、わが高校生時代のことを思い出した。
普通列車に乗って、時間をかけて出かけた楽しい旅。
また教育実習に来られた先生と、最近再会。当日の私のおてんばぶり?のエピソードを
お聞きし、背^ラー服姿のピアノ漬けの高校生である今尾昌子を思い出した。
春はそんな思い出にも多く出会う季節。自分が卒業したころ、入学したころ、引っ越した
頃・・・。
今は学生時代に比べると、3月末だからと格別な思いや変化はないが、
それでも、日本中が東西南北移動するこの風景を見ながら、
人が動くことで、新たな化学反応がこれから起きることへの期待感を抱く。
学生時代。まだ将来は見えていなかった。
迷いのまま、出発した。
そんなこと自体も、今は懐かしい。
学生時代。何十年も会っていない同級生は元気だろうか?