魂のピアニスト。

昨年、フジコ ヘミングさんがショパンが棲んだマジョルカ島をたどる
ドキュメンタリーを何度も見て、静かに、そして深く感動した。
ああこんな風に生きなければと大いに刺激を受け、
60歳からでも遅くない・・と思っていたが、そのお手本である
フジコさんの訃報を聴いたのが一昨日の朝。
このところ、偉大なる音楽家が続いて旅立ってしまわれ、まさか
フジコさんもですか?と思うほどに、しばらく信じられず・・・。

若き日から成功を収める、見た目華やかなピアニストとは違い、
それらとは次元を異にして、命を燃やして演奏していると感じられる
演奏家。
60歳からでも遅くない、ここからだと思わせてくれた人である。
もちろんレベルは違うけれど。

彼女が弾いたラ・カンパネラは見事だ。とてもじゃないが、指が咄嗟に
ジャンプできないため、いまだに弾くのは難しい。
自分流ならいかようにも・・であるが。
ピアノは寝食を忘れるほどにせねばならない。そうしないと弾けるように
ならない。すべては練習であると改めて反省しながら聴く。
もちろん、その難しいリストだけでなく、ショパンの音色も最高である。

フジコさんの演奏は、まだまだ研究が足りないけれども、私が感じるのは、
生きる悲しみが、情念が、弾く一音一音に含まれているということ。
弾くことは、生きることだったのではないかと思える人・・・。
そんな風になれたらいいな・・・。
技巧ではなく、魂を感じる演奏家。そして90歳を過ぎても、現役で
あり続けたこと。尊敬しかない。

どんなことでも、人に感動を与える仕事は、最も尊いことだ。
半歩でも、一歩でも近づきたい。まだ遅くない。

こんな気持ちにさせてくれる、偉大なる演奏家フジコ・ヘミング。
心からご冥福をお祈りします。

好きなピアノを思う存分演奏できたのは、
本当に幸せなことだったろうと思う。

さて、私はまだ生きねばならない。

フジコさんの年までは生きなくて良いが、生きている限り
感動を与えることを目指して、できることを続けたい。

素晴らしき魂の演奏家のメッセージは、命を越えて
永遠に、人びとの心に刻まれるこどだろう。
その存在に、心から拍手をおくりたい。

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究極のサービス業、公務員。

県庁や市役所、町役場で働く人は、地元出身の長男が多いと聞いたことが
ある。親の面倒をみる、後継ぎのため、遠くに出ることはゆるされず、
地元で就職。企業が少ない町であると、公務員を目指す人も多い。
音楽の世界で過ごした高校時代まで、そして大学に行っても公務員といえば
教員ぐらいのイメージしかなかったが、社会人になって、さらに
自分が行政関連の組織での仕事をさせていただくにあたり、公務員
という仕事を少し知ることになり、また職員さんたちと一緒に仕事を
する機会も増えて、その仕事の幅に驚きながら、自分なりに学ばせていただいた。
とくに新潟県での仕事では、二桁ではおさまらない数の職員さん
たちに出会い、交流をさせていただいた日々が、今となっては
大変懐かしい。県庁の職員さん、市役所の職員さん。いっぱい顔が浮かぶ。
なかには、市長になり今も活躍されている方もおられる。
一緒に地元企業の皆さんに、一緒に市民の皆さんにお役に立てるよう
ともに過ごした新潟時代は、企業さんとの出会い以外に、公務員の皆さん
との出会いと学びも、今から思えば大きな収穫であった。

と、そんなことを改めて強く思ったのが、岐阜市役所へ行ったときのこと。
自分が作った地元を題材にした曲をどうしたら、広めることができるか?
自分の音楽が地元でお役に立つことができるか?この私のわがままな
課題、相談に対して、最初紹介をいただいた窓口の方も、ちゃんと話をきいて
くださり、そしてお預かり。1週間以内にはその回答をいただき、次の窓口を
紹介いただき、その方もご親切にきちんと情報を整理してくださり、私のため
に資料を作成いただき、その詳細もご説明いただき、実務担当者をご紹介いただ
く。さらに、こんなことはできるか、できないか。という強引な?相談について
も、ちゃんと傾聴いただき、その担当につないでくださったり、お電話いただき
確認をしていただく。こんなに親身になってくださるとは・・・。
とても感動的な市役所訪問となった。ここまで考えてくれるんだ。
自分宛の資料が用意されていたことに、胸がいっぱいになった。
「ここまでしていただき、本当にありがとうございます。」
いただいた情報を足掛かりに、次の行動に進めることができそうだ。

今回応対いただいた方に、感謝とともに感動の気持ちも沸いてきた。
市役所をたずねてくる様々な人。その一人一人は違った用件である。
暮らしにかかわる、地域にかかわる実に多様な問題、課題、相談。
これに対して、親切に向き合う。
あ、地元の市役所もいいサービスしているなあ。
とうれしく思いながら、新潟の職員さんたちを懐かしく思い出したのだ。

公務員は、自然災害があったらすぐ駆けつけなければならない。
そういう意味で、本当の休日はないはず。
そんなことは、あまり知られていないが、公務員になるには、
それなりの覚悟が必要なのだ。

今回得た情報をもとに、新たな行動も起こす。
また紹介を受けたさらなる窓口にも足を運ぶ。
全部、動くのは自分。当然のこと。
動くから、開拓できる。動かねば何もない。

行政とのかかわり。うまく関係をもつことは、社会にも役立ち、
自分の成長にもつながる。

それにしてもいい課長さんたちに出会えた。
ご紹介いただいた地元の方に、心から感謝。
すべては、つながり。である。

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健康寿命と道・未知・みらい。

長年お世話になっている方から最近の健康状況について、報告が入った。
高速道路だって半世紀以上も使われれば、大修理が必要なように、
人間も70年、80年と生きれば確かに故障も増える。壊れない方が不思議だ。
身近な人の病は、本当に心が痛い。
神様、どうにかして!と無力な自分は祈るしかない。
そして、老いという現実について考えさせられる。

80代も元気に過ごしたいと思っても、健康でなければ、叶わぬ夢。
そんなことは、10年前には考えたことがなかったが、明らかに人生は後半を
まっしぐら・・・の日々。
決して後ろ向きでいるわけではないが、現実は現実である。

そんななか、最近、周囲で、「ロードマップ」についての話題も出る。
50代の経営者はこの連休に、これからの人生、会社のロードマップを考えようと
されており、またあるところでは、ひとつのプロジェクトについてロードマップを
描かねばと言われる方も。
ちゃんとしているなあ。そうだな。
ゴールを定め、そこに向かってどう進もうとしているのかの見える化はしておくのが
良い。とくに組織の運営を担う人には、必要だ。社員がメンバーが道に迷うことが
ないようにしておくのが大切な仕事。

では、私の場合のロードマップは?
わが人生、そんな風に生きてきたことはなかったなあ。と改めて。
道なき道を歩み続けて、化学反応の日々を過ごしてきた。
さて、この先もこのまま進むのか?思案のしどころ。

長生きをしたいわけではないので、長い道のりは描きづらい。
奇跡が起こるロードマップならば、描いて走ってみるのも良いかもしれない。

と、まとまらぬうちに、今日もはじまる。
まずは、今日という日を悔いのないように。
すべてはここからはじまる。

道は描いて走るのか。
道なき未知(みち)をすすんで、自分の道ができるのか。
マイウェイ。は後者だろうか。

とにかくお世話になってきた大好きな人たちと、
これからも少しでも長く、ともに刺激を与えながら、
笑顔で生きていきたい。






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請求書の重み。

毎月月末になると、どこの企業もしなければならない請求業務。
これを滞ることなく発行しないと、売り上げは立たない。
会社員時代には、請求をしてこそ、営業の仕事が終わると教えられた
こともあったが、確かに、請求こそ仕事をした証し、これがあって
はじめて入金となる。
毎月、今も何件かのお仕事に対して、請求書を発行させていただくが、
そのたびごとに、1か月自分が行った仕事をふりかえり、ああ今月も
お世話になったなあと、思いを巡らす。
そして内容を確認いただき、多くは原本を送付するが、そのときも
感謝の一言を添えて送る。
お客様からお金をいただくということは、ほんとうにありがたい。
日々仕事をしているときは、ただひたすらに前に進んでいるが、
この月末の請求業務は、立ち止まる大切な節目でもあるのだ。

そこで、思うが、もし企業に雇用されている従業員の皆さんも
毎月、請求書を会社に発行しなければ給料が出ない。というしくみ
になったら?と思う。
現実的にはそんな面倒で誰にとっても仕事が増えることは実現しないが、
毎月、自動的に給料が支払われるのが当たり前ではない。という気持ち
になることはとても大切だと思うのだ。
今月も仕事をさせていただいて、ありがたかったなあ。と
そんな気持ちになる瞬間があっても良いと思うのだ。
ましてや、今は現金手渡しではなく、振込。決まった日に口座に
お給料が振り込まれる。それが当たり前の時代になってしまった。

もし毎月、全員が請求書を発行することになったら、
それぞれがお金を稼ぐことに今以上に真剣に向き合ったり、現状を顧みたり
・・・いろんな効果もあるかもと思ったり・・・。
もちろん雇用とは、最初に条件を決めて契約するのだから、
こんな事務手続きは不要であるが、請求するという発想を従業員も
持つと、会社も変わるのでは?と思った次第。

いやいや、社員さんにはそんなことに時間をとられることなく
自らに与えられた業務に時間を割いて
いただきたいし、総務経理の仕事をこれ以上増やすのもよろしくない。
ただ、請求書というのは、一つのビジネスの締めである。という認識は
働く人すべてにおいて重要なのではと思ったりする。

4月もありがたく、請求書を発行させていただき、カレンダーも5月に。
ああ、今月も始まったという気持ちになる。
月初から月末まで。四半世紀以上、このサイクルを続けられていることに
幸せを感じ、お世話になっているすべての企業様に心から感謝したい。
使っていただき、ありがとうございます!

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改めて異業種に学ぶ。

筋肉の衰えを軽減し、強いカラダをつくる。
健康的な生活を維持するために、一番大切なことである。
許容量を超えて、体を酷使すると、疲労がたまって、支障が出る。
ちょっとしたサインを無視せず、メンテナンスする。
そんなことも怠りがちであるが、さすがに、それではいけないと
思い立ち、久しぶりにリハビリに行く。
数年前まで、通っていた東京の整形外科のリハビリサービスは大変
良かったが、その後、いい出会いがなかった。

と思ったら、最近できた近所のクリニックで良き出会いを得た。
理学療法士という仕事は大したもんだ。
大変教え方の上手い先生に出会った。

カラダのメカニズムがわかっている。
それを、わかりやすく教えてくれる。
説明力も、コミュニケーション力もなかなかである。
ついつい、その教え方に感心しているうちに、時間が過ぎる。
あと何回か通いながら、足の筋肉の調子を整える。
毎回、療法士の方も交代されるそうであるから、それぞれの対応が
楽しみでもある。
やり方を伝えて、自宅でもできるように導く。
これはビジネスの研修でも同じだ。
やり方を伝えて、自分一人でもできるように導く。

聴いているときはわかる。
でも、ひとりになったらできなくなる。

とそんなことも日常茶飯事。
一人でもやれるようになるには、教えてもらう側にも
努力が必要だ。

実行に導く伝えることの難しさを学ぶ。
異業種に出会い、学ぶ。
この連休はそんな機会も含め、普段と違うインプットを
楽しみたい。

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観てよかった、観ない方がよかった。

子供の頃から、日曜ロードショーとか、水曜名画劇場(タイトルが正しかったか?)
などが、映画世界への入り口であり、大人の世界への憧れであった。
世界、歴史、人間関係、愛、生と死、神と人間・・・・。さまざまなテーマから
現実を越えた大きな世界を学ぶいい教材でもあり、エンターテイメント。
自分にとってはテーマ音楽も楽しみのひとつ。
時々、親の目を盗んで夜更かしをしてみたアラン・ドロン、オードリー・ヘップバーン
の映画などは、今もくっきりその名場面を思い出すことができることに強く胸に刻ま
れている。

映画は、フィクション。今どきの表現でいけば、フェイクであるが、それが実話に
基づいているものもあり、それでも映画ならではの脚色、演出、スケールも表現力も
元ネタとはかなり違う描写になっていることが多い。また、誇張もなければ、
映画にする意味もないため、現実とは違うな・・という点はあってしかるべき。

その映画、様々なジャンルがあり、人により嗜好も異なる。
また観る目的に応じて、視聴する作品を選ぶ。
ストレス解消して、リラックスしたいとき、とにかく笑いたいとき、スケールを楽しみたい
とき、歴史を学びたいとき、好きな人物の半生を見てみたいとき・・・。
今はAmazonだけでなく、他の企業の映画配信(配給ではなく)のサービスをしているため
自宅で、いつでも好きな状態で鑑賞できるのは、ありがたい。

そんななか、好きな歴史上の人物の作品を観ることは好きだ。
先日は信長をテーマにした作品を2つほど観たが、これは良かった。自分が思い描いていた
信長像の延長にあり、自然にその世界に入っていけた。
一方、ナポレオンをテーマにした作品もみつけたので、少し観てみた。
実はナポレオンも、ザビエル、ベートーベンと同じぐらい興味関心のある人物で、
20代、30代にはゆかりの場所を訪ねたこともあり、私にとっては身近な存在。
美術館ではナポレオンの肖像画を何度も観たり、実際に使用した家具を見たり、妻ジョセフィーヌのためにつくった城に出向き、その庭、建物、調度品を見ながら、在りし日のナポレオンを想像していた。ベートーベンがつくった「皇帝」を聴くと、ナポレオンが馬に乗って
行進している姿が浮かんだ・・。などなど、自分なりのナポレオン像があったのだが、映画を
観たとたん、「あれ?こんな感じ?」と思う点が次々と出てきて、また時に戦の現場の惨い描写に目を覆い、観続けることができなくなった。
ナポレオンの印象が変わってしまうのが、嫌だったのかもしれない。

ということで、映画はかなりのインパクトをもって、観客にメッセージを伝えるメディア。
五感に訴えてくる。そして、良くも悪くも、強く伝えることができる。

あとで観て良かったと思うか、観ない方が良かったと思うか。
もし、大切にしたい人物像がある場合は、そのあたりも覚悟しながら、映画鑑賞をするのが
良いのかもしれない。

誰かがつくったイメージよりも、自分でつくったイメージのままで良い場合もある。

と、改めて映画の力を感じている。もちろん可能性も感じている。
でも、ナポレオンの作品は、自分にとっては、観ない方が良かった・・。


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「自分らしく」を探し続ける道。

先日、仕事で接点がある人と、はじめて個人的な話をする時間があった。
普段は、目の前にある仕事の話しかしないので、どんな人なのか、どんな背景をもって
いるかなど知る由もなかったが、知っておくとおつきあいもしやすいため、
声をかけてみた。
その人は、自分のことをぽつりぽつりと話しはじめ、いろいろお聞きしているうちに、「自分も本当は今尾さんみたいな生き方をしたい人なんですよね」という言葉が出てきた。
「でも、今は家族もあるし・・・」と、ほんとうはやりたいこと、生きたい道があったけれどそれではない道を選び、生きていると言われた。
話を聞きながら、その人は自分らしく生きられているのかな。と気になってきた。
もしかして、ずっと我慢や妥協を続けている・・・のではないだろうか?とも思った。

結果的には、どの道も自分が選んだ道なので、どの道を歩んでも自分の道であるが、
その道が自分らしく進める道であれば、良いと思う。
そのためには、家族や同居人と話し合ったり、お互い理解、協力をすることも大切だ。

自分はこう生きたい。こんな人生にしたい。

小さくても夢や、思いをなくさずに、どうしたら自分がやりたいこと、
進みたいことができるのか。を持ち続けたい。
ひとりで生きると、自由があって、どんなことも、周囲に遠慮なくできそうに思うけれど、
家族や同居人がいれば、ちょっと不自由もつきまとうが、別の良さもある。
あれもこれも、は難しい。
それとどう折り合いをつけるのか。
諦めず、折り合いをつけ続けるのが、生きること。

「わたしは、自分らしく生きているだろうか?」
と改めて自に問う。
今は、大きく頷ける。
子供の頃は、そうではない面もあったが、それは親の世話になっていた時代だから
当然のことだ。
「大人になったら、好きなようにしろ」
と何度も言われた時代。その時代こそが、自分らしさを考えさせてくれたのかもしれない。
もっとおしゃれがしたい、もっと〇〇へ行きたい・・・。
それができるために、がんばってきた18歳以降の人生・・・。

今日までをふりかえると、自分らしさ・・そこにこだわり、そこだけを選び、
そのために生きてきた人生だったかもしれない。
人によって、何が「らしさ」なのかは異なるが、
私の場合は、今の日々の生き方そのものが、自分らしい、そうありたいと生きている。
だから、今、とても幸せだ。そして、周囲に感謝している。
周囲の理解や応援なしでは、自分らしく生きることは、難しい。
そして、平和であるからこその、自分らしさでもある。

自分らしくは、人は与えない。自分がつくること。
自分が意識し、そちらに向かうよう努力すること。

「まあ、いいか。」
と妥協した時点で、らしさは崩れてしまうような気がするから、
そこは気を抜かず、「自分らしさ」を希求し続けよう。

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楽しそうなオーバーツーリスト。

京都はますます外国人観光客でごった返している。
今週は3度京都出張があったが、曜日は関係なく、外国人グループを
多く見かける。最近はとくに欧米からの訪問者が多いように感じる。
爆買いを楽しむのではなく、異国のKYOTOにいる時間を楽しんで
いる、大人の旅行者という感じで安心する。

新幹線の構内も、通路も、在来線もバスも外国人であふれている。
大きなスーツケースを引っ張りながら、大きなリュックを背負い
ながら・・・。昔は若いバックパッカーのような旅人が多かったが
今は、大人のグループも多い。
錦市場の狭い路地は、連日、昔の大晦日のような混雑ぶり。
ほんとうに、ほんとうに京都は外国人観光客で溢れかえっている。
そのため最近は、混んだバスに乗るのを避けて、地下鉄に乗るのも
あきらめて、四条から京都駅まで歩くようにしている・・・。

京都駅。回転寿司屋の前に大勢の外国人観光客が列をつくっている。
おそらくSNSで話題になってしまっているのだろう。いつも、並んで
いる。安いのと珍しいのが人気なのかもしれないが、コロナの時とは
ガラリと違う店頭・店内。
同じく、席の改札にほど近い洋風居酒屋。そこでお客さんを待っている間に、
その店に来ている旅行客の様子を観察。
夕方17時前。まだ日本人のビジネス客はいないが、ツーリストでいっぱい。
自分がローマの駅近くの店にでもいるのでは?と思う感覚にもなる。
その店はバールのような雰囲気なので、もしかしたら伏見稲荷に行った
帰りに寄ってくるのかもしれない。
気軽に入れる店が旅行客は好きだ。しかもそんな高価な食事は求めない。
みんな、ビールジョッキ片手に大変幸せそう。
隣のテーブルにいる私にもサインを送ってくる。
一緒に飲まない?そんなメッセージを感じる。
京都にいながら、外国にいる気分になれる、ちょっとこちらが海外時間を
懐かしむ束の間・・・。
ひとり居酒屋で外国人観光客を眺めていると、新たなヒントも生まるかも。
本当に幸せそうで、こちらも楽しくなる。

一方、連休もはじまり、今日から京都はさらにオーバーツーリズムに悩まされる
週末となる。
ほんとうに何とかして!と思うボリュームであるが、それでも一人一人の
顔を見ていると、皆さん幸せそうなのが、印象的。

念願のKYOTO旅行を楽しんでいるのだ。
為替の影響とオーバーツーリズム。どこまで人が増えるのだろう。

ちょっとだけ、コロナのときの静けさが懐かしくもある。

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傾聴する経営者。

いろんな経営者にお会いしてきた。メディアに登場する著名人だけが社長ではない。
世界には、大企業から中小企業まで、会社の数だけ社長が存在する。
創業者、二代目、三代目、そしてサラリーマン社長・・。いろんな背景がある。
自分で創業した社長さんには共通する強さ、情熱を感じることが多いが、そうでなくても
ひとたび会社を背負えば、責任は重く、社長という仕事は実に大変だ。
会社の目標は経営の安定。企業の成長。それを果たすために、社長は従業員が意欲を
もって働き、同じベクトルで前進し続けることができるよう、幹部と連携しながら、
組織を支えなければならない。

自らの想いをいかに伝え続けるか、理解者を増やし、行動してもらえるか。
伝えることを重視する社長さんには多く出会ってきた。
いかに伝えるか。発信する方に注意が向く。

そんななか、会った瞬間から、傾聴する社長さんに出会った。
とにかく人の話をよく聞かれる。
あまり自分の言葉を、会話の途中で挟まない。
それは一対一になればまた違うのかもしれないが、三人いれば、まずは聞き役になる。
その姿勢は謙虚であり。表情は穏やかだ。

攻める、自ら発信する経営者が多いなか、とにかく聴く、場の空気を感じながら
それでいて存在感を現す。
そんな珍しい経営者である。
とにかく終始笑顔である。リップサービスもない。
信頼できる人という印象も強くなる。

こういった人に向き合うときは、目でしっかり会話する。
そうすると相手も応えてくださる。
言葉を多く発するだけが、コミュニケーションではない。
そんなことを改めて教えられる。

弥勒菩薩みたいな社長。
社員はそんな風に私に教えてくれた。納得する。
私もそう思った。なんだか超越的なオーラを感じたのだ。
言葉が少なくても、すとんと落ちる。心に響く。
であれば、言葉は少なくても効果はてきめんだ。

静かな社長、穏やかな社長。
新潟で出会った多くの経営者のなかには、そういったタイプの方もいた。
でも、みなさん静かに燃える炎を秘めておられた。

今回出会った経営者にも何か静かな力を感じた。
これからのおつきあいが楽しみだ。

聴く社長。
これも大切な経営者の要件かもしれない。
春は、いろんな出会いをいただく季節だ。

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AIとの付き合い方。

生成AIという言葉を聞き始めたとき、その日本語は何?と思ったが、
もう耳になじんできた。
そして、ネット検索すれば、すぐにそのAIくんが活躍してくれる。
たとえば、自分のことも、さもよく熟知しているかのように紹介
文を表示してくれる。へえ、今尾昌子さんて、そういう人なんだ。
すごいと思いながら、ちょっと後ずさりも・・・。

先日あるニュースキャスターがAIを使い、自分が話すニュースが
日本語ではなく中国語、フランス語で普通に自然に話されている実験
結果を見て、「ちょっと怖い感じがします」とコメントされていたが、
言葉だけでなく、話す表情も自然っぽくなっているので、確かに
怖くもあり、気持ち悪くもあった。

そう、気持ち悪い。心地悪いのだ。
と、こうやって毎日書いているブログも、AIは日々学習しているから、
記憶され、どこかで表現されてしまうのかもしれない。
恐ろしい。別にいいけれど。
自分の信念は見ている人が見ている、わかる人にわかる。であるから
フェイクなマーサが流れても、わかる人はわかると信じたい。

さて、執筆、作曲、演奏・・・。これらのクリエイティブな仕事は、
このAIの進化により、これから人間と競争になるとも言われている。
情報力、学習が瞬時にアウトプットにつながる。
便利この上ない、脳作業の外注である。

便利の渦に引き込まれていくと、人間はだんだん考えなくなる。
それは大変危険だ。
簡単に翻訳ツールがあるけれど、自分でどうだったか?と調べたり
考えたり、想像するプロセスが人間が行う学習。
AIが量と時間で勝負ならば、人間は考える、感情を不可できるところが
特徴だ。
AIには情熱はない。

と、日々、AIのことを考えると、これからの人間社会の行く末を
案じてしまう部分もあるが、活用すべきところは大いに使えば
いい。でも、「よく考えて」というのが前提になる。

AIにふりまわされて、人間がフェイクな情報に踊らされ、
間違った方向に進んだり、平和が脅かされることは断じて
避けなければならない。
そのための規定、ルールは当然必要なこと。

今、AIの企業が日本に進出している。
日本は国際的な著作権の保護に後れを取っている。
だから、自由にいろんな実験ができる市場。
規定が厳しいEUとは違うのだ。
進出されることを手放しで喜んでいる場合ではない。

いろんな意味で人が人として生きていくために、
人間社会、ひとりひとりの暮らしを守るために
情報は活用されなければならない。

便利だからいい。という時代はとっくに終わっている。
下を向いてスマホを見る人たちを電車のなかで眺めながら、
みんな、上を向いて、前を向いて!と
思わず言いたくなる。

AIを自分はどうとらえ、生かす、生かさないのか。
そして、自分はどう生きるのか。
人間が学習を止めたら、終わりだ。

前にも書いたが、AIもいいけれど
AI(アイ・愛・あい)のコミュニケーションを大切に
したい。改めて!

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