雨が降っても、心は晴れで。

昨日の投稿に続いて、雨の日のコンサートの話題。
足元が悪いなかのイベント開催は、何かと気がかり・・・。
「雨なので、お客さん来ないのでは・・」
主催者にそういうと、
「いや、雨だからコンサートに来ないというのはないと思います。
大丈夫ですよ!」

そして、本番の時間。控室から会場に出ていくと、
いつもどおりのお客様!席はだいたい埋まっている。
ああ、皆さん来ていただいたんだ。

「雨のなか、今回も集まっていただき、本当にありがとうございます・・・」
すると、一番前のお客さんが
「今尾さんの顔見たくて、来たわ」
とおっしゃり、会場も和む。

雨が降っても、足元が悪くても、出向いてくださることに
感激し、なぜかいつも以上に心を込めた演奏ができた。
リハーサルのときにうまくいかなかった曲も、まずまず。

終始お客様も笑顔、そしてときにしんみり、しみじみ・・。
最後は、鵜飼開きを祝して、鵜飼をテーマにつくった
「やがて・・・」でフィナーレ。

あたたかい拍手とともに、無事終了。
「足元に気を付けてお帰りください」
ひとりひとりを送る。
皆さん、帰り際に
「ありがとう。楽しかった」
「次も楽しみにしているね」
「しばらく来れなかったけど、今日は来たよ」
名前も知らない方も含め、みなさん声をかけてくださる。
これが顔見知り?
きっと町であっても、声をかけられるぐらいに、お顔はしっかり覚えた。

雨がほとんど上がっている。
朝、雨の中、衣装を持って傘をさして、実家まで出向き、発声練習をして・・・
長かった半日が気持ちよく終わり、次の仕事に向かう。

気持よく、笑顔で。
雨が降っても心は晴れで!
何でもこうやって終わりたい。そして次に進みたい。

帰ったらメッセージも届く。
「お疲れ様でした。今日はいつも以上に良かったよ。」
「今回は友達の母を連れていけなかったけど、今後は一緒にと
思っています」

そういえば、主催者のオーナーさんからも
「今日もしっかり聴かせてもらいました。次回も楽しみにしています。」
とのお言葉もありがたかった。

続けよう。これからも。
ふるさとに自分ができること。
音楽の力で、町に小さな灯をともし続けたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 雨が降っても、心は晴れで。 はコメントを受け付けていません

晴れても降っても。

本日は岐阜新聞でのロビーコンサート。
何を演奏するか‥などの準備はもちろんしっかりせねばならないが、
肝心のお客様のご来場のことは、とても気になる。
これは気候やお天気に影響されるからだ。
予め予約していただいたり、チケット購入いただくようなコンサート
であれば、天気が少々悪くても予定どおり来られることが多いが、
これは、新聞社の誠意で継続いただいている企画であり、
入場無料、コロナも落ち着いたので予約も不要という方式。
であるため、天気がよければ出かけようという気にもなるが、雨や雪が降れば…
また暑すぎてもいけないし、寒すぎてもいけない・・となかなかむつかしい。

と、実は毎回ドキドキしながら、やってきた。
おかげさまで、いろんな時があったけれど、
いつも多くのお客様に足を運んでいただいているが
本当に、その時間になってみないとわからない。
急にこれなくなることも多々ある。

こんな風にお天気に左右される仕事、活動は、本当に貴重である。
謙虚になれるし、ある意味、神任せ?にもなる。
天気ばかりは努力ではどうすることもできないからだ。

これまで、雨予報だったのに、降らなかったということも多かった。
今回もぜひ小さな奇跡がおきてほしい。
足元が悪い中、おいでいただけるお客様に心から感謝をして、
来てよかったと思っていただける 魂の演奏を!したい!
フジコさんには及ばないけれど・・。

予報通り、雨が続いて夜が明けた。
なんとか午前中には、やんでくれることを祈り、
でも、
降っても、止んでも、心は晴れ!で
演奏の場をいただいていることに、おいでいただけることに感謝して、
今日のプログラムをやり遂げたい。

「楽しみにしてまーす!」この声に応えたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 晴れても降っても。 はコメントを受け付けていません

おもしろうて、やがて・・・の夜がはじまる。

世間のゴールデンウィークも終わり、昨日5月11日は長良川の鵜飼開き。
昨年10月15日で閉幕してから、7か月ぶりに、観光地岐阜がにぎわう。

毎年、初日と最終日は近所住人の皆さんの見物も増える。
鵜飼い船に乗らなくても 長良橋の上から、左岸から多くの人が集まっている。
総がらみという六隻の鵜飼い船が並ぶクライマックスまでを、じっと待つ。
写真は、スマホで撮った長良橋から見えた鵜飼いの様子(上)と金華山と岐阜城、花火のクライマックス(下)。

初日は花火もあがって、大変ドラマチックな夜空と水面の祭典を楽しめる。

この幽玄なる世界を見続けながら、頭の中では鵜飼をテーマにつくった
「やがて・・・」が鳴り響いている。

ふるさと岐阜で一番好きな場所。
長良川を見下ろしながら、闇に光る岐阜城を見上げ、信長はどんな風に鵜飼いを見たの
だろうと改めて、想像を膨らませる。

時代の移ろいを感じながら、そして、自分のふるさとはここであると、改めて。

日本に世界に素晴らしい町は無数にあるけれど、この風景は、実に美しいと思う。
すっかり冷えた身体を忘れて、つい見入った。
この余韻を、明日のコンサートまでとっておきたい。https://www.mahsa.jp/5%e6%9c%8813%e6%97%a5%e5%b2%90%e9%98%9c%e6%96%b0%e8%81%9e%e3%83%ad%e3%83%93%e3%83%bc%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%83%88%e5%87%ba%e6%bc%94%e3%81%a7%e3%81%99/


それにしても、水面に映るかがり火は、本当に美しく、そして私には父と母の生きた証にも
見える。
鵜飼は、自分にとってレクイエムでもあるかも。
おもしろうて、おもしろうて、やがて・・・。

そして、ふるさとは遠くにいても、近くにいても思うもの。

カテゴリー: Essay (Word) | おもしろうて、やがて・・・の夜がはじまる。 はコメントを受け付けていません

じぶん中心の、他人ごと社会への憂慮。

ここしばらく、出張の荷物を減らしたく、またデスクワークの時間が
なさそうな出張にはパソコンを持参しないことにしている。
メールの確認や対応は、今のスマホで十分できるし、なんといっても
車中では、カチカチやりたくない。
若い時は、車内でもパソコンに向かっていて、今から思ったら
キーボードをたたく音は、きっとご近所様にご迷惑だったかも・・・。
最近・・耳をふさぎたくなる席に座ってしまい、席を移動することも
あるため、自分ではそうならないようにと、パソコンはたとえ持っていても
車内では開かないことにしている。
とにかくカチカチの音は、公害。駅ピアノ、町ピアノもときに公害と
思っているのと同じく、車内のパソコンの操作音も同じだ。
とくに睡眠をとりたい時には、大変困る。
また、音を出してスマホで動画を見ている人も時々いる。
お前の家じゃないんだぞ!と怒りを覚えることもある。
さらに、電車の中でのテレビ電話。大きな声で通話している外国人。
おまけに、大きな音楽を垂れ流しながら、窓を開けたまま大通りを走っていく
若者や、外国人・・・。
これらの光景は、この1日で見聴きした現場である。
全部、不快きわまりない場面であった。
みんな、自分中心。そして人のことは、他人事。だから気にならない。気にしない。
だから気を遣うこともない。

ネット社会の功罪か、公共という概念がなくなってきたような・・。
みんなの社会ではなく、わたしの世界になっている。

こんなことでは絶対にいけない。
と、長時間の車中で眠ることも、静かに考えることもできない1日を終えた。

と書きながら、自分も人のことを言えないのかもしれない・・。と
我が身も点検。

みんなが笑顔、快適な世の中になるように。改めて・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | じぶん中心の、他人ごと社会への憂慮。 はコメントを受け付けていません

出会いが、化学反応が楽しみ。

普段、公私含めておつきあいさせていただいているのは、
30代から80代といった、わりと幅広い年代層。
年上の方とのやりとりは、少しづつ減っていく一方、
同年代、年下の皆さんとのやりとりは増えている。
学生さんとのかかわりも最近、少し持たせていただき、
よく言われるZ世代と言われる人々との出会い、交流も
新鮮に感じることも多い。
そして、今日は新卒の社会人の皆さんに出会う予定。
一緒に意見交換したり、研修に参加したり・・。
いやはや、どんな人たちに出会えるのかと、ドキドキする。

自分がどう感じるかも大切であるが、
若い方から見て、自分はどうか?がポイントである。
せっかく出会えるのだから、なんでもいいから、
いい影響、良き印象を残しながら、新たな出会いが
いい化学反応になれば・・・。

生まれた時代が少し違っても、共感でき、共創できる
関係にはなれると思う。
そんなことも、つい期待してしまう。

元気で気合の入った若者とコミュニケーションができる。
今日も新鮮な1日!
そんな希望を抱き、新潟へ出発!

カテゴリー: Essay (Word) | 出会いが、化学反応が楽しみ。 はコメントを受け付けていません

どんな顔して話してる?

コロナからのギフトのひとつは、オンラインミーティング。
いわゆる「リモート」。
これだけは本当に、「コロナ様に感謝」と言いたいぐらい、
新発想の仕事の仕方を教えてくれた。
選択肢が広がった。

これで生産性を上げることができたという企業も多い。
そして、今もオンラインは日常のなかにすっかり定着している。
他の仕事をしていても、すぐそのまま どこかの誰かとミーティングが
できる。
本当に便利。
さて、そのミーティングの場合、自分の身なりを見直すことは習慣化されている
だろうか?
自分の場合は、一応、鏡を見てからパソコンに向かうようにしているが、
会社などにいると、すぐに鏡が見られるだろうか?
なんとなく、パソコん作業をしていて、そのまま駆け込むという場合も多いのでは?

今のこんなビジネスライフを考えて、おしゃれなグッズを考えた仲間がいる。
インテリアミラー。
https://storio.store/products/mirror

デスクの上に常に置いておき、会議の前にさっと自身の姿を確認してから、スイッチオン!
形もユニークで、癒しにもなる。
パソコンに向かう時間が長くなった今、少しでもデスク回りや、自分自身の仕事空間を
楽しくできたら。。という発想とのことで、この曲木を使ったやさしいフォルムもさすが!

ということで、リモート会議の前にも、自分の顔や身なりを1分見直す習慣があると、
印象もさらに良くなる。

もちろん、リアルなミーティング、面談の方がもっと相手に表情や気持ちがダイレクトに
伝えられて良いけれど。
対面のときも、鏡を見てから、面談に、会議に臨みたい。

と、昨日、終始笑顔で面談いただいた社長さんにお会いしたため、きっと事前に鏡を
見ておられるのだろうと想像。

どんな顔して話している?
見られていることを忘れずに!

カテゴリー: Essay (Word) | どんな顔して話してる? はコメントを受け付けていません

わかっているだろう。の間違い。

コミュニケーション・クリエイターというショルダーネームを返上
せねばと思うことは、正直多い。
日常生活での、コミュニケーションの取り方には、反省が多い。

とくに親しい、身近な人、長年交流している人に対しては、
配慮も言葉も足りない。とあとで気づき、つい反省。

これぐらいわかっているだろう、わかっているはず。
ついつい、自分と同じと思い込んで、言葉を省略したり、
言葉足らずのまま投げかけたり・・・。
そんなことは、日常茶飯事。
仕事でも、いつもやりとりしている関係だと、言葉が足りない
あまり、しまった!ということもある。
このことで、かえって丁寧な説明が必要となり、時間を要して
しまうこともある。要するに生産性が低下するのだ。
一回で通じるように、意識したい。

改めて、「それぐらいわかっているだろう」は過信、誤りのもと。
であると、心したい。

会社での上司と部下の関係でも同じだ。
わかっているだろう?ではなく、
わからないかもしれない。

と思って、初めて出会う人に話しかけるように、言葉を選んで
丁寧に伝えるように心がけたい。

人様に言う前に、自分がそれをしっかりせねば。
何事も足元からである。

コミュニケーションの難しさは、一生続くだろうが
日々、勉強。伝われば お互いハッピーになれるはず!

カテゴリー: Essay (Word) | わかっているだろう。の間違い。 はコメントを受け付けていません

アンダンテ、アダージョへ。

若い日は運動神経も優れており、迅速に動くことができる。
もちろん、今もその延長線にいるつもりであるが。
ピアノ演奏も、指がよく動くと速さで勝負。なんていう
若きピアニストもいて、そんなに速く弾かないで
もう少し音色を和声を味わったらいいのに・・・ということもある。

技術優先の時代。もちろん練習を重ねることで、コロコロと
指が動く。このことはピアニストの必要要件。
毎日何時間も弾いていた頃はよく本当に指がよく動いた。
一方、十数年もピアノから離れ、30年以上クラシックから
離れていた身としては、以前動いていたはずの指が鍵盤の
上を滑り、泳いでいるような状況で本当に、悔しくはがゆい思い。
この瞬間は、さすがに自分の人生を少し後悔する。
自分が一度、離れた時間がこのような結果になっている。
この悔しさをばねにして、なんとか昔のように、指が動く
ようにしたい。
一方、速いテンポで弾けば、それなりに聴こえるので、ごまかしが
効く。それでは本当に弾いたということにならない。
指は空回り、鍵盤の上を滑っているだけ。いかんなあ。と
毎度反省。

そんななか、フジコヘミングさんのラ・カンパネラを改めて
聴く。
あ、そんなに速くなくていいんだ。ゆっくりやればいいのだ。

自分が聴いたフジコさんが奏でるそのリストの名曲は、ゆったり
したテンポ。ほんとうにヨーロッパの旧市街にある協会の鐘が
静かに鳴り続けているような情景から始まる。クライマックスは
もちろん激しくなっていくが・・。
そうか、もっともっとゆっくりやれば弾けるかも。
ということで、とにかくゆっくり譜面を凝視しながら、弾いてみる。

なぜ、そんなに♯がいっぱい付く嬰ト短調(Gis moll)にしなければ
ならなかったのか?おかげで余計に難しい。
これが単にAマイナーであれば、もっと簡単なのに。
でも、この半音違うだけで、黒鍵続きの音色が美しいのだな。
響きが深くなるのだな・・・。なるほど、でも、難しすぎる~。
といろんなことを思いながら、格闘しながら、ゆっくり譜面と向き合う。
ひとつひとつ音を確認しながら、鍵盤に指をあてていく。
すると、こういう和音なんだ、なるほど。こういうことか。
と弾きながらの発見や味わいも出てくる。

ゆっくり、味わう。
なんでもそうかもしれない。

音楽だけでなく、食もコミュニケーションも。
ゆっくり、しみじみと、深さも楽しむ。

フジコさんはこんなことも教えてくれた。
ゆっくり弾くと、心が現れる。
それが、年を重ねてからの演奏のあるべき姿かも。

そして、ゆっくり味わうことで、創り手(作曲者)リストの心も透けてくる。

そんなこんなで、速く弾けないおかげで、そして
フジコさんのおかげで、学びと楽しみが増えた。

写真はワイマールにあったリストの家のピアノたち。懐かしい。

カテゴリー: Essay (Word) | アンダンテ、アダージョへ。 はコメントを受け付けていません

最高の表現者、崇高な仕事。

指揮者といえば、先日亡くなった小澤征爾さんがあまりにも
有名だ。日本が、世界が誇る名コンダクター。
指揮者という仕事は、特徴、個性の異なる楽器、演奏者をまとめて
ひとつの交響曲を、一つの世界として体現させるという偉業。
目にこそ見えない、いや、本当は見えるのであるが、
無言のコミュニケーション力が発揮される仕事。
そのタクトの一振り一振りで楽団の音はいかようにも変わる。
魔法のような仕事でもある。

さて、その小澤さん以外にも、学生時代から大好きで、あこがれて
いた指揮者が何名かいる。演奏会に行くのも勉強のうちと、よく出かけて
いた若かりし頃。
京都に住んでいた頃は、よく京響の演奏会には足を運んでいたし、
海外に行った際には、運がよければカーネギーホールも、リンカーン
センターもオペラ座も、それ以外も足を運んでいたが、ここんところ、
ご無沙汰していた・・・。
そんななか、井上道義さんのN響公演の放送を知り、久しぶりに若い日に
大好きだったこの指揮者の指揮を拝見する。
ああ、なんと今なおエネルギッシュで、自由で、抑揚のある指揮だろう。
しかし、自分がご無沙汰している間に、年月は経ち、井上さんは
病との闘いも経験され、そして今年いっぱいで、引退されること
を知り、ショックをうける。


指揮者という仕事は生涯現役だと思い込んでいた。
そういう仕事、生き方そのもの、人生そのものが指揮者という
仕事なんだと勝手に想像していたが、そうではないようだ。
いつまでも、だらだらやっているとは見えたくない。との意志も
おありのようで、(ネット情報によると・・・であるが)
なんとも井上さんらしいなあと納得もする。12月30日が最終公演。

お店の閉店とはまったく違う話であるが、ぜひ、引退されるまで
にあの素晴らしい指揮による、演奏を聴きに行かねばとスイッチが
入る。
この井上さんと同じ時代を生きておられる指揮者でもうひとり大好きな
方がいる。小林研太郎さん。炎の指揮者と言われていたっけ。
第九の合唱で一度お世話になったことがあったような記憶が・・・。
もう何十年も前の話だ。
一流の指揮者とは!というのを肌身で感じさせていただいた一人。
小林さんも80歳を過ぎておられるようだ。
急がねば!

指揮者という仕事は、本当に創造的な仕事である。
両手だけではない、全身で表情で人々を動かす仕事。
そしてそれは、感動に向かっているという点が最高である。

お元気なうちに、現役のうちに、若い日に体験した感動をもう一度
感じたい。
画面越しに伝わるショスタコーヴィッチを聴きながら、抑えられない
何かが久しぶりに動いた。



カテゴリー: Essay (Word) | 最高の表現者、崇高な仕事。 はコメントを受け付けていません

時々ドラえもん?季節外れのサンタさん?

「もう一人暮らしやし、ご飯も炊かんわ、面倒くさいし」。ふと、知り合いの
おばさんの顔が浮かんだ。
義理のおじさんの後妻さん・・ということで、実際の血縁はないが、それを
越えて、子供の頃から応援していただいてきた。
コンサートにはおじさんと夫婦そろって参加いただいたり、最初のCDリリース
のときには、お祝いまでいただき・・・。
今はおじさんもなくなり、おばさん一人、暮らしておられる。

子供のいない夫婦であったから、相方がいなくなる寂しさはいかに・・と思うた
め、時々声をかけてきたが、ふとおばさんがご飯を炊かない・・と言われたことが
浮かんで、新潟の新之助というお米のパックご飯を店頭でみつけ、思わず買った。

それから、カレーやスープやみそ汁やお菓子や・・・。小さなダンボールに入るだけ
すぐに食べられそうな食品を詰め、手紙を添えて、送った。
なぜか、そうしなくちゃ。と思ったから。
「明日夕方、ちょっとだけ、食べ物届きます。」と事前に一言メール。
返事がないので、倒れていないか心配になるが、到着の返事を待つ。
翌日荷物の指定時間になった。するとすぐメール。
「今、届きました。バラエティな美味しいもの、いただきます。ありがとう!」
絵文字入りでメッセージが入り、ほっとした。

時々、誰かのドラえもんか、季節外れのサンタさん?
気になる人に、気になるときに、心を届ける。
「お元気ですか?」

気になっている人には、できることをしたい。
理由はいらない、できるときに、できる人が、したい人が、したい人を。

この連休、被災地へボランティアに出向かれている方がおられることを
思うと頭が下がる。
それに比べたら、恥ずかしいぐらいのささやかなことであるが、
自分は自分なりに、できることを。

カテゴリー: Essay (Word) | 時々ドラえもん?季節外れのサンタさん? はコメントを受け付けていません