もしも自分が認知症になったら?を体験する

VRとはバーチャル・リアリティ。三次元、360度の世界を
ゴーグルやヘッドホンを装着して、体験できる仮想現実。
すでに多くの方が、それを知っているし、さまざまな分野で体験されたことも
あるだろう。
聴覚・視覚を通じて、まるで本当に存在するかのような世界が目の前に現れる。
でも、触れることはできない。摩訶不思議な世界。
行けない場所に行ったような経験ができるため、観光名所の再現や、企業の
工場見学などさまざまな用途で活用されている技術だ。

ということは知っていたが、今回、たまたま先に書いた演奏に出かけた
「安らぎカフェ」の会場で、「VR認知症体験」というのをやっており、
カフェにやってきた年輩の方たちが説明を受け、体験をしていた。
私にも、演奏する前に、「やってみますか?」担当の先生に声をかけられ、
いったいどんなものなのか?という興味で、ゴーグルとヘッドホンを
装着して、見せていただいた。
短いものは2分、長いものは数分。
いずれも、見る人自身が、認知症になったときの自分をVRで体験できる
らしい。
最初はショートバージョンを試してみる。最初は何を見せられているのか。
会話と見える世界が違うことはわかったが、意図がわからず。
あとで聞くと、施設からのお迎えの車に乗った本人がその車を降りる時に
見える世界の再現であった。
車から一歩足を下ろして地面に足をつけるだけのことであるが、
自分は高所にいて、怖くて降りられないという世界。
高所にいないのに、いるように見えてしまうという症状があるそうで
それを体験させてくれたというわけだ。

次にロングバージョンを見せていただく。こちらは認知症の患者さんが、
知人の家を訪問し、いろいろ会話をするのであるが、本当はその部屋には
二人しかいないのに、何名かの人がいるかのように見える。
幻視の世界である。それをVRは再現している。
実際に聴こえてくる会話の人数や内容と、見えている世界がずれている。
この幻視も認知症の症状のひとつらしい。
短時間の体験であったが、ちょっと気分が悪くなりそうになった。
VRの技術のせいか、見えた世界の違和感からか・・・。

とにかく、認知症になるとこうなるんだ。ということは少しわかった。
そういえば、母が少しおかしくなってきた頃、「〇〇が見える」とか
何度か話していたことを思い出した。これは、そういうことだったの
かもしれない。

認知症の症状を家族や周囲が知っていると、本人への言葉のかけ方も
変わる。
知らなければ、「〇〇が見える」と言われたときに、
「そんなもの見えるわけない、おかしいんちゃう?」と言ってしまうだろう。
でも、知っていたら「そうなんだ。〇〇さんもいたんだ~。いたのかもしれ
ないね」と、会話も変わっていたかもしれないと、ちょっと反省。

VRが介護の世界でも活用されていることを知り、勉強になった。
高齢で元気な方はその世界をVRで経験することで、認知症にならないように
〇〇をしよう。と参考にしながら、日々の運動をがんばれるかもしれないが、
できれば、本人だけではなく家族や周囲の人こそが、この経験をしておく
と、より確かなサポートができるのではないかと思った次第。

認知症という言葉はすでに馴染みが深いつもりでいたけれど、
仮想体験をして、身が引き締まった。
加齢。油断していては、老化は避けられない。
毎日、毎時間、毎秒、人は生きながら老いていくけれど、
自分が自分として、元気にあり続けるために、仕事や運動、また小さくても
目標をもって前向きに生きることを忘れずに、やり続けたいと、改めて。

VRは楽しいツールというだけでなく、有用性の高いものであることも
学べる貴重な体験となった。

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ゴール前のダッシュと・・・。

何事もゴールが遠いときは、どこの道を走ったらいいとか?どんなペースで
走ればよいとか、手探りのことが多く、見えない不安もある。しかもひとりではなく
チームでやっていく場合には、役割分担、計画に沿ったそれぞれのタスクの進捗確認
も必要で、さらには関係者全員との共有ももちろん必要となる。
見える仕事、見えない仕事。物事を進めるには、俯瞰しながら、「うまく進められる
ように」そして、「かかわる人の気持ちが一体となるように」決め細やかな対応が
必要になる。

今ある本番に向かって準備を進めているが、とにかく本番を成功させること。
=関わる人が全員笑顔であること、やってよかったと思ってもらえること。
このことを一番大切にしたいと思っている。

イベントにはいろんな目的があるが、とくに
企業の節目の、とくに社内向けのイベントの場合は、主役はそこで働く皆さん。
そのひとり一人が取り残されることなく、どの方のことも大切に。
配慮と工夫を重ねて、しっかり当日に向かいたい。
全体を見ながら、個々も大切に。

そのイベントを通じて、イベント後、会社がより一体感をもち、協力しあえる
ようになったら、イベントは成功。本番後の笑顔のことも忘れずに。

今、ダッシュしながら、そんなことも考えている・・・。

企業の大切なことに関われる幸せをかみしめながら・・・。

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セーヌ川に哀悼のブーケと、MERCI!

幼少の頃から、ずっと一方的にあこがれていた俳優、アラン・ドロンが
亡くなったとの報に接し、ああ、ついにこの日がやってきてしまった・・・。
覚悟していたが、やっぱり悲しい。

実は、パリオリンピック開催中も、何度も思い出していたし、
「サムライ」という映画も最近観たところであった。
どうして、こんなに美しいのだろう。カッコいいを越えて、美しいのだ。
ステージではなく、テレビドラマでもなく。やはり映画の人だ。

小学校時代に、夜9時以降は大人の世界。「日曜洋画劇場」など、子どもは
見るなとか言われていた頃、親が寝静まったあと、こっそり観た
「黒いチューリップ」というアランドロンの初期の主演映画を見て、
本当に映画に出てくるために生まれてきたような、美しい人だなあと
子どものころから感動。映画へのあこがれは、「ベニスに死す」に登場
したあの美少年と、アランドロンと、マストロヤンニ。このあたりから
私の想像力と世界へのあこがれは、大きく芽吹いたと記憶する。

アランドロンは、親と同世代であるから。大人になってからも、
何度ももういくつかな、元気かな。どうしているかな・・・とずっと気に
なっていた。
何年か前に、引退前のインタビューを見ながら、華麗でありながらも、
孤高の俳優人生を生きている姿に哀愁を感じたことも記憶に新しい。

フランスへのあこがれは、まぎれもなくアラン・ドロンが見せてくれた
世界からだ。

それは今も変わらない。

今回の訃報で、マルチェロ・マストロヤンニが亡くなったときのことを
思い出した。振り返れば、1996年12月19日のことだった。
私も、まだ会社員時代。有休か代休をとって小旅行。
あの日はパリに滞在していたが、ベルサイユに行ってパリ市内に戻ってくる
途中で、街角のニューススタンドで(ネットはまだない)訃報を知り、
ショックを受けた。
亡くなった、しかもなんと、パリの病院で亡くなったとのこと。
どこにいるんだろう?駆け付けたい気持ちになった。

あの、マストロヤンニが今パリで?ほんとうに?
思わず、町のフラワースタンドで小さいブーケを買って、セーヌ河に投げ、
祈りをささげたことを思い出す。

あれから28年・・・。アラン・ドロンも逝ったか・・・。

あの有名すぎるテレビコマーシャルの名セリフ。懐かしい人も多いことだ
ろう。
わが初恋の人はベートーベンであるが、その次はアランドロンだ。
(なんという贅沢な少女時代?)

88歳の人生。どんな終わり方をしたのだろう。
本当に一度は会ってみたかった方である。

今はパリにいないが、心のブーケを私のセーヌに投げ入れる。

映画は永遠だ。これからも永遠の存在を愛し続けたい。
人はいつか逝く・・・。悲しいけれど。
たくさんの感動に感謝を込めて、祈りをささげる。

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折り込みチラシからプチ親孝行?

このチラシはグラン・ルー25周年を迎えた昨年、考案した新サービスのご案内。
地元の人に知っていただきたいと母の命日に、地元エリアに新聞折り込みをした
のが約5か月前。その日にいただいた1本の電話。
「今朝の新聞に入っていたチラシを見てお電話したんですけど、私がボランティア
でやっている『安らぎカフェ』というのがあるんですが、そこに来て演奏してもら
えますか?」とのこと。折り込みチラシに反応があったことに、驚き歓び、もちろ
ん「やります!」と即答。後で、母もそのカフェに顔を出していたことを知る。
そして、昨日8月17日、その安らぎカフェでのコンサートを行った。
37度を超える酷暑のなか、認知症予防も兼ねてのイベント(カフェ)であるとは
いえ、集まってくる方は高齢の方であるから、心配。
認知症よりも熱中症が気になるが・・・。
と、私の心配をよそに、20名を超える人たちが集まってくださった。
約1時間、持ち込んだ楽器で弾き歌いながら、地元、旅先、季節、親の思い出・・
さまざまな話題でのトークと演奏を楽しんでいただいた。
「マーサのコンサート」という告知だけで、本名は明かされていなかったが?
それでも皆さん、集まってくださった。
コンサートの前後には、父や母の知り合い、二人が亡くなっていることをご存じ
なかった方、いろんな方に声をかけていただいた。
「ほんとうに、お母さんはいい人やった、口は悪いけど、優しい人やった」
「うちのお父さん、もうなくなったんやけど、お宅のお父さんと親友だった、
本当によくしてもらった」「まさこちゃん、小さいころから、よくがんばって
けど、今日もまた会えて本当によかった、お母さんも喜んでみえるわ」
などなど、父母との再会を喜ぶかのように、私のコンサートを楽しんでいただけ、
心から今回、新聞折り込みをやってみてよかったと思った。
1枚のチラシから、親が仲良くしていただいた人達と出会え、そして話ができる。
そのカフェに両親がにこにこ座っているような気がした。
また、他のカフェ出演のお声もかかり、親孝行の旅はまだまだ続きそうだ。

とにかく、この酷暑のなかおいでいただいた方はもちろん、この場に呼んで
くださった、チラシに反応いただいた主催者に心から感謝したい。
地域でのこのような取り組みは、多くのボランティアの方、福祉関係者の皆様の
協力で成り立っている。この地道な活動に心から敬意を表したい。
これからも、小さな親孝行の旅を続けられたらいい。まだまだ走れる!
参加された皆さんの健康長寿を心から願って・・・。

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「おひとつ、どうぞ」。の夏。

大阪のおばちゃんは、常に飴をバッグやポケットに忍ばせ、
会う人に「飴ちゃんでも・・・」と渡す習性があるとか。
そんな大阪のおばちゃんには、実際にはあまり会ったことが
ないが、そういうイメージは確かにある。大阪のおばちゃん
という親しみやすさ、人情・・が伝わる微笑ましい表現。
私は、大阪ではなく、岐阜のおばちゃん?ではなく、岐阜の
おねえちゃんであり続けたいが、ドラえもんと呼ばれること
が時々ある。何かしら、何でも?いつも持っている?という
感じ?いや、持ってはいないのだけれど。
ただ、その日に会う人に、何かしら・・・という気持ちは
常にある。これは遺伝なのか、習性なのか。
硬くなりそうな会議の前に、ちょっとキャンディを配ったり、
私なりのアイスブレーク。
そう、ここのところは、もう製造販売中止となった、チェルシー
を配ると喜ばれているが。

さて、季節は夏。今年も酷暑続き。
自分は室内での仕事時間も多く、冷房のおかげで快適に
過ごせているが、外で働く方、行き来が多い方は、本当に
大変だ。身近なところでは、配送会社の配達の方は、本当には
頭が下がる。重いものはなるべくネットで注文などしてしまうが、
暑い日でも、それを届けていただけること。有難い限り。
しかもちゃんとした配送会社であれば、指定時間どおりに
届けてくれる。最需要期でどうしても遅れるときでも、
指定時間に近い時間で、申し訳ない顔して、届けて
くれる。そんなとき、こちらが申し訳ない。ありがたいと
思う。
そんなことで、真夏の宅配の受け取り時には、
できる限り、ピノを用意しておく。
そして、ドア前に届けてくれるときに、
荷物を受け取るときに、そのお返しに、
一粒のアイスを渡す。
「暑い中、ありがとうね。これ、一口だけど、
よかったらどうぞ」
汗でつらそうな顔をしていた配達員さんの顔が瞬間で
ほころぶ。
「え?いいんですか?いただきますー」
それはそれは、大変喜んで受け取っていかれる。
きっとエレベーター乗っている間に、パクリと
いかれているだろう。
ゴミは自分持ちでごめんね。

暑い中、重いものを運んでくださる方は
私にとって、頼れる助っ人なのだから、
ささやかな感謝を込めて。

家人が、勝手にピノを食べ続けると、配る分が
なくなってしまうので、常に冷凍庫を監視?
とにかく、たった一粒でも、感謝を示したい。
これは、大阪のおばちゃんの気持ちに近い
かもしれない。
なごやのピノおばさん?とか呼ばれていないだろうな。
せめて、おねえちゃんと、呼ばれていたい。

早く、渡さなくてもいい季節が訪れるように。
今日もまだまだ厳しい夏。


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思わぬ初体験も楽しむ。

異常気象の影響、人的影響・・とにかく何が起きるかわからない
今日この頃。
電車ひとつ乗るにしても、緊張することが多い。
予報が出ていていなくても、電車に乗ってから、目的地に向かうまで
で事態が急変することもある。

昨日、たまたま乗っていた電車。
米原駅から大垣方面に向かっていたが、途中で、急に雷と大雨の
影響で途中で電車が止まっているため、遅れが出る見通し・・と
いうアナウンスが流れ、車内は少し緊張感に包まれた。
多くの乗客が下を向いて、スマホを見ているため、その瞬間、
JRのサイトを見始めていたかもしれない。
へ?電車が止まる?米原の手前で聞いていたら、新幹線に乗り換える
という手もあったが、もう過ぎてしまっている。
気が付くと、電車を黒い雲が包み、雷雨に襲われる、怖くなった。
ここで止まらないで~。
電車はそのままだんだん速度を落とし、ときに途中の関ケ原駅で長めの
停止、その後も速度を落としながら、大垣までなんとかたどり着いた。
まずは一安心。

しかし、その先は運転を見合わせ。まだ見通しが立っていないそうだ。
駅には大勢の乗客があふれていた。大きなスーツケースを持っている人、
お土産を持っている人・・・。どうしたらいいか、運転再開を待つしかない。

さあ、どうするか?ここから順調にいけば30~40分で帰ることができる
のに、この状態ではいつになるかわからない。

さて、他に変える方法はないか?バス?他の電車??大垣に住む友人?
人間、いざとなったら、いろいろ考えるものだ。
大垣から名古屋までの移動手段。
JR大垣駅の外に出てみる。タクシー待ちの人も並んでいる。
ふと、養老鉄道の改札が視界に入った。そうだ、大垣駅からこういった
ローカル線も走っているのだ、乗ったことはないが、知ってはいた。
桑名行き?三重県か~。?もしかして、桑名から名古屋へ行けるのでは?
最近、近鉄もよく利用するため、三重県と愛知県が直結した。
早速養老鉄道の駅員さんにたずねると、
「JRが止まったままなら、確かのその方法もありますね。いつ動くかわからない
ならば、こっちがいいかもですね。」
大垣から桑名までは、なんと十数駅ある。しかももう夜だから、景色は見えないが・・。
意を決して、その方法で帰ろうと決めて、切符を買う。ICカードも使えない
本当に昭和のローカル鉄道に、乗るとは思ってもいなかったが・・。
コトコト揺れる養老鉄道に乗って、降りたことがない桑名駅で、JRに乗り換え、
そして無事名古屋駅へ到着。大垣から3時間近くかかったけれど、とにかく無事に
戻ることができた。東海道線は運転再開はしたものの、かなり遅れている様子で
結果的に乗り換えて正解だった。

今回、思いもよらず、初めて乗った夜の養老鉄道。
もしかしたら、鉄道ファンにとっては魅力的な電車なのかもしれないが、
景色が見えず残念ではあったが いつもと違うルートで帰るのは、ちょっと
異国情緒を味わうような不思議な感覚に浸るひとときでもあった。

常に想像力を働かせ、普段と違うルートを選ぶことも時には必要。
そして、その選択は、次の行動の役に立つこともあるかもしれない。
経験は何でもしておくべき。
それにしても、ローカル線の存在は、こういうときこそ役立つとも実感。

今日は台風のため、新幹線が計画運休とのこと。
大勢の人が移動するこの時期に大変なことだ。
違う方法で、違う時間で、いろいろ考えている方も多いことだろう。
意外な抜け道が見つかるといい。

被害がないように。祈るのみ。

昨日は、JRでも、ローカル線でも大変親切な車掌さんや駅員さんに
出会えて、心うれしい一幕もあった。
米原から大垣駅に向かう途中、親切にしてくれた車掌さん。
別れ際にお礼を言ったら「お気をつけて」を声をかけられたことも、
なんだかうれしかった。
人びとが休んでいるときにも、働いているインフラに携わる皆様。
改めて、お疲れ様です。

そんなこんなで、何があっても、小さな出会いと新たな経験を
重ねて、毎日を楽しみたい。

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79年という歳月を。


空襲、原爆・・・そして・・・。
まだ生まれていなかった、79年前の今日。
日本は終戦という結果を受け入れることになった。
親たちも幼かったから、あまりその時の話を聞いたことは
なかったが、さまざまな資料、その後の報道から、本当に
大変な時代を生きてこられたのだと、先輩方の苦労を思うと
頭が下がる。
遺族という方たちも高齢になり、これから、どんどん生き証人は
減り続け、語り継がれていかねばこの戦争の傷跡は、歴史の教訓に
さえされなくなってしまう。
今日が何の日か?を知らない若者が増えているのだ・・・。

では、その戦争は終わったか。いや、終わっていない。
結局、日本は敗戦国のまま。
であるという見方もしている。
戦争というモンスターは、長い歳月を経ても、カタチを変えて
戦争に関わった国々同士の関係性を維持し続けるのだ。
負けた国はずっとそのまま・・・これからも変わらない。
もちろん終戦後の日本中の努力のおかげで、今の日本の成長はある。
がんばった、頑張らざるを得なかった・・・。
その成長の結果の部分しか、戦後生まれの自分たちは知らない。
先人たちの苦労を知らない。これでいいのか?

そして、戦うこと自体、何の得もない。
かけがえのない命が奪われ、大切な遺産が破壊され・・・
軍事産業が発展したところで、それは人の幸せにつながらないのだ。

今日、日本で、厳かに終戦の祈りをささげても、
世界では恐ろしい戦闘が続いている。

本当の意味で、終戦はしていない。ずっと繰り返されている。

ここのところ、自然災害の恐怖を感じているが、
人間同士の戦いの方がもっと恐ろしい。

と、そういうことをきちんと考える1日にしなければならない。

戦争は、絶対に!いけないことだ。
日本こそ、それを世界にしっかり伝える役割を果たすこと。
今日もそういう1日にすべきだと思う。

決して当たり前ではない、平和に感謝をする日にしよう。

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知る不安、知らない幸せと備え。

この1週間、楽しいはずの夏休みも、酷暑は覚悟の上であるとして、
台風に加えて、地震の不安。
そんな状況で、予定を変更した人もいるようで、影響を受けている観光地も
あり、なんとも気の毒な気持ちになる。

台風は。まだ天気予報があるため、あらかじめの対応もとりやすい。
地震もある程度予知ができるかもしれないが、台風のように、見えづらい面も
あり長期スパンでもあるせいか、不安が先行する面もある。

つい最近も、東北で震災を経験され苦労された方から、南海トラフに関して、
この日がXDAYだから、気を付けるようにとの情報が入った。
正直、こういう情報はありがたくもあり、戸惑いも・・・。
そうかもしれないから、気を付けるに越したことはない。
でも、それを自分からその先、人には言わない方が良いとも思った。
受け手によっては、不安になってしまうこともあり、そこから広がる
と良くない面もあるとも思った・・。

今の世の中、こういった情報は広がりやすい。
だから、危険な一面もある。
情報は入ってきたものは、仕方ないが、出すときにはくれぐれも用心せねば。

一度知ってしまうと、それにとらわれる。
知らない方が幸せ。ということもある。

いつ起きるかわからない。わかったら苦労しない。
わからないからこそ、いろんな情報が錯そうするのだ。
でも、あまたある情報に惑わされず、冷静に。
もちろんいつその日が来ても良いように・・・
きっと知人は、そういう意味も込めて、危険性を教えてくれたのだろう。
その点からは、感謝である。

備えあれば憂いなし。
今日か明日か10年後かわからないけれども、心の安全のために
準備、備えをした上で、今日を楽しむ。
それがよさそうだ、

とはいいつつ、まだまだ備えてないな~。今のうちにやっておかねば。
と、ありがたい知人のアドバイスをかみしめる。
「もしも、地震がきたら、どこで待ち合わせる?」
東京に住んでいた頃、東北大震災の後以来、そんな会話をした昨日。
少しは進歩したかもしれない。
とにかく備えて、今日という1日を楽しむとしよう。

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歌のこころ、合唱の力が平和への道。

この時期は、戦争、終戦にまつわる話題に良く出会う。
まだまだ知らないことが多いということにも気づかされる。
長崎の「わかば唱歌隊」の存在は今朝の報道で、初めて知ったが、長崎で
被爆された音楽家が指導された合唱隊のことだそう。
その先生は、戦後はふるさと福島に戻り合唱の指導を通じて、
音楽を通じて平和の大切さを伝えてこられた・・。

音楽で平和を。

昨日、約40年ぶりにふるさと岐阜で開催された歌のコンサートに
足を運んだ。「てんぐじょう紙~こころ~」という企画。
地元の言葉で、テーマで。歌を愛する人たちが、合唱で、朗読で、
ソロで、アンサンブルで、いろんなスタイルでバラエティに富んだ
プログラムを約二時間。
ステージの上で歌を歌うということは、ハレの日のお祭り。
きらびやかな衣装に身を包み、出演者が入れ替わり、それぞれの
歌を披露する。

ああ、クラシックのコンサートってこういう感じだった。
とある種懐かしい気持もあり、また こちらも年を重ねたせいか、
歌の力について、いろいろ考える時間ともなった。

若い日の歌は、声の艶、はり、さらに若さ。そして技術。
年を重ねると、そこに経験が加わり、いい意味での成熟、そして
深みを感じ、意味がよくわかるようになる。
その歌の心がよく伝わるようになるのだ。

歌とは、心を伝えるものだ。
改めてそのことを確認。
そして。歌こそ、平和に直結するコミュニケーションツールである
とも改めて実感。

こんな厳しい時代こそ、悲しいときこそ、歌う、一緒に歌う。
そのことで、元気も出てきて、生きる歓びにも触れることができる。

歌は心。そして歌は伝える、伝わる、伝えあうもの。
そして、プロとはそれが導ける人。
自己満足の演奏ではなく、相手の心に沁み込む演奏ができる
これこそが、プロであるとも改めて。

一方、オリンピックがやっと終わった。
パリらしい祝祭であったと評されているようだ。
(私は開会式の「愛の讃歌」に感動したが)

さて、この豪華なオリンピック。平和への貢献は?
今こそ、貢献してほしかったが?

音楽は、歌は、お金をかけずとも、平和な世界につながる。
人と人がつながれる。
有名人がではなく、また点数を競わなくても、
普通の人が、楽しく歌う。歌いあう。
それだけで、平和の輪は生まれる。

この時期に、久しぶりに歌のコンサートを鑑賞しながら、
改めて 歌の力について、感じながら考える貴重な機会を
得た。

歌は心だ。
心を伝えること。

自分が歌うときも、そこをこれまで以上に大切にしたい。

歌のあとの拍手も心。今も余韻が残っている・・・。

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マイスタイルは、最期まで。


子どもの頃から、本当にマイノリティで・・・。
こればっかりは。という感じで、このおかげで、どれほど親に反抗して
きたか・・・。
「十人中、九人やることをやっていればよい」という父親の教えは、
私に反面教師としか映らず、
「一人一人違うのに なんで?おかしいやん」と言っては怒られた。
いわゆる、「親に口答えをする」扱いづらい娘だっただろう。
まあ、その先もいろいろあるが、今となっては、父の笑った笑顔を
思い出し、その頃を懐かしく思い出す。

世間が当たり前と思うことに対して、とにかくまずは疑う。
哲学に興味をもったのも、まずは疑うという目線が自分に合って
いたのかもしれない。

世間が当たり前と思うこと・・いろいろあるが、たとえば、健康診断。
人間ドックも然り。
あれは、病気を探すための検査。と思ってきた。
健康長寿であるために、その検査は重要という見方はわかる。
身体の状態をいち早く知って、メンテナンスすべきはして、元気に
長生きしましょう!というのはわかる。
でも、その検査自体が苦痛であれば、無理しなくてもよい。
これまでいろんな検査をやってきたが、なんで、こんな痛い苦しい思いを
して・・・と複雑な気持ちで帰ることが多かった
もちろん、経営者の方や一家の大黒柱の方など、多くの人に影響を与える
方は、もちろん検査もメンテナンスも必要だ。
でも、私のような場合は・・・。

病気は知らなくていい。
余命・・・といわれてもいい。
毎日悔いない人生を生きれば、それでいい。
と、やはり思ってしまう。

最近、腰の調子が気になって、医者にすすめられ、MRIをやってみた。
久しぶりだ。10年以上前に、頭の検査をやって、懲りたことをそのとき
思い出した。あの苦痛を忘れていたのだ。ああ、あれか~。やめとけば
よかった・・・。
あの何とも言えない苦痛。不自由さ。これこそ、自分はすでに違う世界に
逝ってしまったのではないかと思える時間であった。
苦痛の一言。

結果は思っていたとおりのことで、それを見える化していただいたこと。
まあ、あの苦痛の時間がなくても、検査したから・・といって、得たことは
あまりなかった。

やはり、これからも検査はしない。を改めて。
検査しましょう!が主流の世の中の動きに、やっぱり逆らっている。

明日のことよりも、今日の自分をまず・・・。
明日地震が来るかもしれない。今かもしれない。
と思うと、ますますそんな気持ちになる。

マイスタイルを最後まで貫くことが一番!
妥協せず、悔いなく生きたい。そして逝きたい。

もちろんスタイルを変えたいと思ったら、変えればよい。
それ自体も、マイスタイルだから。



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