心の接着業。

ここ最近の仕事をふりかえると、組織の上下・横の関係についての相談対応も
増えている。
個々の力を強くすること、組織力をあげていくことが最終的には目的であるが、
そのために、個々の抱える課題をクリアしていかねばならない。
個々の面談を行うと、部下への悩み、上司への悩みが、いかに多いか・・という
ことに気づく。
たまに会う私に言うぐらいであるから、日々、心のなかに何らかのわだかまりや、
しこりを抱えたまま過ごしている人も少なからず・・・。しんどいと思う。

わかってくれない、伝わらない。と悩む人、特に悩んでいなかったが、ある日
突然、部下が爆発して、思わぬ行動に出て、そのとき気づき悩む人・・・。
上司が言っていることが全部暴力に聴こえ、真意をつかめないまま、ハラスメント
という事態に発展する・・・。

もっと理解しあおうと、もっと理解しようと、まずは自分から理解しようと
歩みださねば相手との関係はつくれないと思うのであるが・・・。

こんな少し、ぎくしゃくした人間関係のなか、面談をさせていただく。
ときに自分は、上司はこう思っていると思うよ、部下はこうしたいと思っている
のでは?と両者の通訳として、それぞれと接しながら、その「間」を接着しようと
動く。
そう、離れている、離れかけている、あきらめようとしている両者の関係を
よくする、「間」をつなぐ、心の接着剤。
この仕事には、寄り添いの姿勢が前提となる。
なかなか、くっついてくれないが、どちらかが相手に向かって進んでくれれば
改善につながる。

それにしても、もっとコミュニケーションをすれば・・と思うことがあるが、
黙々とパソコンに向かう日々、心の会話が途切れてしまうのだ。
改めて、生の言葉は大切だ。一歩踏み込んで、相手を理解する。しようとする。
この大切さを改めて伝え続けたい。根気がいる仕事だ。

今日もまた、接客業ではなく、接着業の1日がはじまる。

カテゴリー: Essay (Word) | 心の接着業。 はコメントを受け付けていません

尊敬する仕事・・・

何とか大丈夫と思っていたのに、台風の影響に遭遇するとは・・・。
昨夜、京都からの移動時、1本前の新幹線は無事出発したのに、
自分が予約した新幹線から、「運転見合わせ」とのアナウンス。
まじ?やめて~。疲れてもう早く帰りたい時間帯・・・。
でも、こういう経験もなくはないから、少し諦める。

静岡での大雨の影響とのこと。
いつ復旧するかわからないとの案内に、待ちながらいろんな代案
も考える。在来線?バス?泊まって明日始発?などなど・・・。
そうこうしていると、アナウンスが・・。

1時間以上遅れたが、やっと動き出すと聞いて、他の手段に変え
なくて良かったと思った。
その間、駅員さんも 車掌さんも彼らこそ、疲れるだろうに、
いやな顔、声もせず、しっかりと対応。列車遅れについて謝罪も
された。謝る必要はないのに・・・。
こういうときこそ、腰が低く本当に偉いと思う。

新幹線が動き出して、米原を過ぎたあたりのアナウンス・・・
「お客様が急病です。もしお医者さま 看護士さまがご乗車されて
いましたら、3号車までお願いします・・・」
すると、何名かがそちらに向かうのを見た。
え?お医者さんも看護士さんも乗っているんだ。
以前、飛行機でも同じことがあったけど、そのときはいなかった
ような・・・。

とにかく医者は人の命を救う仕事であるから、こういう時は
本当にありがたい。
自分は眠いから、とか今は勤務時間外だから・・ではできない仕事だ。
医者という仕事は、本当にすごいと思った次第。

非常時にも役立つ仕事は、本当に尊い。

今回の遅れ。まあ、日付をまたがず戻れて良かった。
日本の鉄道会社は素晴らしい。
そして。お医者さんはどこでも対応せねばならない
仕事、心から敬意を表する。

今日も、各地での被害が広がらないように・・・。
いざというときに、人のために働く人たちがいることを
忘れず、感謝して、迷惑をかけないように・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | 尊敬する仕事・・・ はコメントを受け付けていません

片付け、荷造り、出発。

夜中に知人からメールが入っていた。
季節の挨拶と、近況報告。

「只今、僕は引っ越し準備の真っ最中です。結構やったのになかなか終わらないなぁ、
と思っていたら、よーく考えれば二人分の荷物を一人でやってる訳ですから、そう簡単
には終わらない。ま、コツコツやります。」
とある。余韻の残る、そしてその姿がそのまま浮かんでくるメッセージ。

彼は、まもなく東京から山口の実家へ引っ越しする。
高齢のお母さんのこともあって、いろんなことのタイミングが重なって・・・。
そして、ともに暮らしてきた弟さんが亡くなって・・・。

だから、荷造りは二人分・・。
先日久しぶりに会って会食したときは、弟さんのことも
自分なりに整理できたように、元気であったが、
家に戻れば、やはり思い出しておられただろう。
そして、今回の引っ越し。荷造りとなれば、弟さんの荷物も一緒に
整理。それをしながら、いろんな思い出に包まれているだろう。


3年前。両親がいなくなった後、実家のモノをいろいろ整理した。
勢いで、思い切って処分もした。
そのときは、気持ちも勢いで・・・。そんな自分がいた。

そして、今は、ああ、あれは捨てなくてよかったな・・と
思うときも時にはある。
でも、あの整理は、一つの区切りになり、いない空間での
新たな出発ともなった。

彼は地元に帰り、弟さんの分まで親孝行されるのだろう。
兄弟で演劇の世界での夢を見て、がんばっておられた。
弟さんの分まで、
東京を離れてでも、
頑張り続けてほしい。

きっと今回の弟さんとのこと、東京との別れは、
これからの彼の人生にとって、
大きな力に、新たな世界への扉になるだろう。
なってほしいと心から願っている。

またいつか、一緒にステージに。
彼の演技に私の演奏を付けて・・・。

今は、腰に気を付けて、荷造りをがんばってほしい。

東京からの引っ越し。
これもまた、懐かしく・・・。
引っ越しは、人生の転換点。
よき節目になるように、彼の無事を祈っている。

カテゴリー: Essay (Word) | 片付け、荷造り、出発。 はコメントを受け付けていません

心寄せる時間。

企業で働く人たちとのコミュニケーションの時間。
実は、この機会が多く、またとても大切な時間である。
経営者と、管理職と、現場で働く人と・・・。
ひとりひとりと会話することで、普段聞けないような
思いや悩みに接することもある。
聞かせてもらうことがある。

時々、自身の思いが上司や部下に伝わっていない、
理解されていないことへの悩みを聞くと、
それぞれが日々どんな思いで奮闘しているのかと想像するだけで
本人の気持ちもよく理解でき、時々込みあげてくるものがある。
それぞれの人生観のなかで、それぞれががんばっている。
でも、通じ合えていないという現実。
日々、しんどいだろうなと想像する。
それを乗り越えていただくための面談でもある。

本人が考えていること、悩みをしっかり聴き、心を寄せる。
それは間違っていないこと、理解できることであると伝えつつ、
その上で、こうしたら、もっと伝わるのではないかなと
客観的な目線での気づきを伝える。
それが行動の見直しや、関係づくりに役立てばよいと思っているが、
そんなに一気に好転することばかりではない。
一歩一歩だ。

とにかくサポート&フォロー。
頑張る人たちを見守りながら、時に進むべき道へ導くお手伝い。
と書きながらも、そんなに簡単なことではない。
今も、書きながら多くの顔が浮かんでくる。
今日も一人一人が、元気にスタートしてくれていたらいいな。
いやいや、ではなく、やらされているのではなく、自ら喜んで
受け入れ、お互いに成長できる・・・そんな環境であったらいいなと。

心寄せる。
まずはそこからしかできないけれど、なんとか、
仕事を通じて、会社生活を通じて、それぞれが自身の人生を
より素敵なものにしてもらえたらと思っている。

代わって生きることができないのが人生。
自分の人生、自分で生きるしかなない。
自分から変わらなければ、自分からやらなければ、
何も変わらない。
どうせなら、つまらない人生より、成長できる人生の方が
生きがいがあるよね?

と、
心寄せながら、そんな問いかけを、伝わるようにしていきたい。

朝は、昨日会った人たちのことを、思い出す時間でもある。
今日も、どうぞお元気に!少しでもいいことがあるように。
心からエールを送りたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 心寄せる時間。 はコメントを受け付けていません

大切な人のいのち。

今日は心友のバースデー。同い年であるが、今日から12月までしばらく彼が
年上となる。
もう、なんど誕生日のお祝いを伝えてきただろう。
改めて今年もバースデーを迎えてもらえて、本当にうれしい。
大病を患って12年。本当によく頑張って生きてこられたと、わがことのように
うれしい。
後輩を育てることが、やりがいとのこと。まだまだがんばって、自らの使命を
果たしながら、充実した人生を重ねてほしい。

一方、この週末に、お世話になってきた方より、定年直後であるのに、病気が
みつかったとの連絡。発見されてからなかなか厳しいといわれている病気の
ようで、聴いて愕然とした。
しかし、ご本人が前向きで少し安心した。
頑張って治療をされるとのこと。まな板の鯉のつもりで!とその方らしい表現だ。
絶対、絶対に回復していただき、また再会したい。してほしい。
その気持ちを伝えたく、自分の過去のアルバムや長崎のものを送る。少しでも
栄養になれば。
入院中も、枕元で自分の新作のアルバムを聴きながら、休んでおられるとお聴き
して、少しでも音楽が役に立てばと・・・。ささやかなお見舞い。

60代といっても、まだまだ中年、壮年であると思っているが、人によっては
さまざまな体調の変化も現れる頃でもある。
自分の大切な人たちと、ずっと親しく、互いに励まし合いながら、できる限り
長く人生を生きたい。

と、改めて思う、心友のバースデーの朝。
人は我が身を振り返るときに、お世話になった方なしには生きられない
ことを実感する。
と同時に、いつまでも、誕生日のお祝いを伝えられるように、
そんなことも思う朝。

そのために、それぞれが今日という日を悔いなく生きること。
いつ幕を閉じようとも、今日という日を永遠に。
改めて、いのち、尊し。

カテゴリー: Essay (Word) | 大切な人のいのち。 はコメントを受け付けていません

ピアノとタイムトリップの幸福。

以前より大好きな博物館が浜松にある。浜松市楽器博物館。
楽器のミュージアムとして世界の楽器を種類多く集め、展示しているのは、世界でも他に類を見ないのではと思う、本格的な楽器ミュージアム。
さすが楽器製造の拠点である浜松ならではの文化遺産であるとそのコレクションと運営に頭が下がる。立派な音楽の街だ。うらやましい。

久しぶりに訪ね、鍵盤楽器の数々を目の当たりにして、十年ほど前に通ったとき以上に、
激しく感動した。ここ数年、ピアノがより身近な存在に戻ってきたせいかもしれない。

鍵盤楽器の歴史は約300年という。19世紀から宮廷音楽として、教会音楽として、サロンで、そしてホールで・・・。音楽が川上から川下へ・・・。天上の、貴族のための存在が、ベートーベン以後、一般にも鑑賞されるようになり、ピアノの形状も変わってきた。

この下にある写真は、超越技巧ピアニストとしても名を馳せたリストが提携していた、ベーゼンドルファーのピアノ。観た目、超越技巧向きには見えない上品なつくりであるが、これでとてもマネできない難曲を演奏していたのかと思うと、興味も高まる。
それ以外にもドイツ以外に、フランス、イギリス各国で作られてきたピアノ(近代はピアノフォルテと呼ばれた)たちがずらり並ぶ超スペシャルな展示室。スクエアピアノから、家具調ピアノから・・・そしてオルガンまで・・。
ピアノは楽器であるが、弾くだけなく、魅せるモノであったのだと納得。
いやはや、美しい、見ているだけでも芸術品・・・。
展示された楽器のいくつかでは、その楽器で演奏された楽曲の録音されたものも少し
試聴できる。時代を感じる、少し古めかしい音、素朴な音・・・。
どのピアノもやっぱり弾きたくなる。どんな音?どんなタッチ?
しかし、残念ながら、こちらのミュージアムは、基本、楽器に触ってはいけない。
駅ピアノではないのだ。
衝動をおさえながら、せめて撮影を・・・。

ここに来ると、ベートーベンもシューベルトも、リストも、ガーシュインも・・・。
各時代の作曲家、演奏家、そしてピアノ製作者が集まってきているような、
そして19世紀の貴族たちから一般の聴衆まで、いろんなお客様も・・・。
と、音楽でタイムトリップできるのだ。
ここにいるだけで、さまざまな発想も湧いてくる。

浜松は、素晴らしい町だ。
小学校の頃、名古屋から初めて新幹線に乗って浜松にやってきて、ヤマハの本社に
伺い、偉い方たちの前で高級なエレクトーンを演奏した日のことがなぜか浮かんだ。
そういえば、そんなことがあった。
浜松は、子どものころから縁がある町だったのだ・・・。
鍵盤楽器を作る人がいて、曲をつくる人がいて、それを演奏する人がいて・・・。
手間がかかる仕事であるが、だからこその崇高な感動が生まれるのだ。

鍵盤楽器の存在に、その歴史を受け継いでこられた内外の先人たちに心から敬意を表し、これからも演奏することに誇りをもって、その楽しみを受け継ぎ、自分なりに伝えていきたい。

カテゴリー: Essay (Word) | ピアノとタイムトリップの幸福。 はコメントを受け付けていません

自分の言葉で語る力。

メディアでカマラ・ハリスを見ると、つい、「がんばって~!」と
エールを送りたくなる今日この頃。
ほんとうに、バイデンさんの決断には感謝だ。

おかげで、この1週間の間、ハリス氏の露出も増え、
彼女のプレジデンシャルなイメージをつかむこともでき、
明るい未来の兆しも見えてきた、
プレジデンシャル・・とは、大統領としてふさわしい姿。オーラ。
今回の演説を見て、民衆への登場感を見て、その空気は十分伝わって
きていると思う。

女性という点をとくに表現せず、普通にひとりの人として登場する
ところもとても良い。女なんかにつとまるか?というイメージにつながらず、
性別を超えたひとりの人としての見え方は大切で、それよりも、
ほどよい若さと力強さを感じるところが、私には心地よい。
じいさんたちの醜い応酬をもう見なくていいのがうれしい。
(この対決は人間の老いについて学ぶことが多いという点では
それなりの意味があったかもしれないが)

それよりも、ハリス氏の見た目の印象だけでなく、自分の言葉でしっかり
話している点について、とても安心した。
批判する人からは、「ワード・サラダ」的である、何が言いたいかわからない
という見方もあるそうであるが、スピーチ力はこれから磨かれるだろう。
確かにオバマ夫妻のようなスピーチ力には及んでいないかもしれないが、
これからだ。
現時点でも、十分一言一言、人に伝える力がある。
それは、自分の言葉だから。自分の内側から発している言葉だから。

どこかの国のリーダーのように、まったく伝わってこない虚ろな言葉
ではない。
すぐれたリーダーの要件は、スピーチ力だ。政治家とは言葉の仕事であるから。
魂が籠っていなければならない。

自分の言葉で語れる。
そして、それが伝わり、聴く人が元気になる、安心する。賛同する。
自分の言葉は、そのまま強みにもなる。

これからしばらく選挙戦の間は、私はスピーチ力の勉強をさせていただく
つもりだ。

カマラ・ハリスが、アメリカの常識を取り戻してくれるように、
心から期待している。


カテゴリー: Essay (Word) | 自分の言葉で語る力。 はコメントを受け付けていません

誰かに会える町、心のふるさと。

今回の出張は、新幹線ではなく、新潟空港から新潟駅へ入る。
新潟駅から、今度は新幹線で長岡方面に向かう。
新潟の町にやってくると、なぜか、いつも誰かに会いそうな
気がする。
新潟駅でも、長岡駅でも、燕三条駅でも・・・。もしかしたら
新幹線車内でも・・・。

これが京都駅、名古屋駅となるとそんな感覚にはならない
のであるが、新潟の駅や、東京駅の上越新幹線ホームは別だ。

今回も、 新潟駅から新幹線に乗り込んで、席に座ったら・・・。
たまたま前に座った方に、
「シート倒していいですか?」
と言われて、顔を上げると、お互いにびっくり!
「あれ?へ?どうして?」
約10年ぶりの再会だ。以前お世話になっていたとある新潟の経営者で
一緒に取組んだプロジェクトの仲間でもある。
そういえば、ずいぶんご無沙汰していたと、瞬間に思い出す。
「どこへ行くの?何しているの?」
という会話も生まれ、久しぶりなので、名刺も渡す。
「また、連絡ちょうだい」
と言われ、同じ駅に電車を降り。手を振って別れる。

と、そんなことが時々あるのが新潟だ。
確かに大都会ではないし、出張されるビジネスパーソンとの
交流もあったため、動く人とは出会う可能性がある。

そんなわけで、誰かに会いそうな町、にいがた。はいつもなんだか
知り合いがいるということあけで、心のふるさとに戻ったような
気持になる。
そして、実際滞在中も、いろんな企業さんや知人に時間がある限り、
当初の予定以外にも、面談をするようにする。
新潟時間を最大限有効に使いたいのだ。

写真は滞在先で撮った、新潟駅朝の風景。
夜明け前、朝焼けの様子だ。
ああ、これこれ、誰かに会える、そして、この景色に会えるのも
にいがたなのだ。

十数年前、台湾の仲間を新潟にお連れしたとき、
新潟の空は大きい!と感激されたことをふと思い出す。
そう、新潟はいつも、人だけでなく、この景色にも出会えるのが
うれしい。
わが、心のふるさとは、いつも変わらず・・ありがたい。
今回もいろんな人に会い、あたたかさに触れることができた。
また、近いうちに会いに戻ってくる!


カテゴリー: Essay (Word) | 誰かに会える町、心のふるさと。 はコメントを受け付けていません

わくわくする国、しない国。

このところアメリカのリーダー選出について
毎日のようにその動向をチェックするのが楽しみだ。
なんだか、応援したくなる、好きなNYの、SFの、シカゴの・・・
いろんな町が浮かんでくる。

心から明るい未来に向かう、アメリカになってほしい。
そういう意味では、ぜひともハリスさんに勝利してもらいたい。
彼女の戦いっぷりがとても楽しみである。
メディアはよくも悪くも、メディアであり、その背景、意図や介入も
あるし、フェイクもあり、なんでもありの悲しいご時世ではあるが、
正しい報道がなされ、人々が正しい選択をすることを願う。
本当の正義に勝利してほしいと思うのだ。
パフォーマンスや関わる人々のスピーチ、支援者たちの熱狂・・・。
ここは、アメリカだな~と思う。
ぜひ、まともな国をつくってほしい、みんなの国をつくってほしい。
民主主義は、こういうものだと示してほしい。
と、なぜかわくわくする、隣国の動き。

に比して、わが国のリーダー選びは、まったくわくわくしない。
残念ながら、突き抜けた、開かれたパワーを感じないのだ。
何かがどこか裏でつながっている、結局は自分たちのため、自分のため?
と思ってしまうのは、何なのか?
期待できないと思ってしまっていること自体が情けないが・・・。

いずれにしても、偽りやごまかしのない、美しい心で、強い意志で
国を、世界を動かすリーダーが選ばれることを、心から願う。

若者たちがわくわくする世の中になるように。
それにしても、オバマ夫妻のスピーチは、あいかわらず、素晴らしく、
心に響く。



カテゴリー: Essay (Word) | わくわくする国、しない国。 はコメントを受け付けていません

もしも自分が認知症になったら?を体験する

VRとはバーチャル・リアリティ。三次元、360度の世界を
ゴーグルやヘッドホンを装着して、体験できる仮想現実。
すでに多くの方が、それを知っているし、さまざまな分野で体験されたことも
あるだろう。
聴覚・視覚を通じて、まるで本当に存在するかのような世界が目の前に現れる。
でも、触れることはできない。摩訶不思議な世界。
行けない場所に行ったような経験ができるため、観光名所の再現や、企業の
工場見学などさまざまな用途で活用されている技術だ。

ということは知っていたが、今回、たまたま先に書いた演奏に出かけた
「安らぎカフェ」の会場で、「VR認知症体験」というのをやっており、
カフェにやってきた年輩の方たちが説明を受け、体験をしていた。
私にも、演奏する前に、「やってみますか?」担当の先生に声をかけられ、
いったいどんなものなのか?という興味で、ゴーグルとヘッドホンを
装着して、見せていただいた。
短いものは2分、長いものは数分。
いずれも、見る人自身が、認知症になったときの自分をVRで体験できる
らしい。
最初はショートバージョンを試してみる。最初は何を見せられているのか。
会話と見える世界が違うことはわかったが、意図がわからず。
あとで聞くと、施設からのお迎えの車に乗った本人がその車を降りる時に
見える世界の再現であった。
車から一歩足を下ろして地面に足をつけるだけのことであるが、
自分は高所にいて、怖くて降りられないという世界。
高所にいないのに、いるように見えてしまうという症状があるそうで
それを体験させてくれたというわけだ。

次にロングバージョンを見せていただく。こちらは認知症の患者さんが、
知人の家を訪問し、いろいろ会話をするのであるが、本当はその部屋には
二人しかいないのに、何名かの人がいるかのように見える。
幻視の世界である。それをVRは再現している。
実際に聴こえてくる会話の人数や内容と、見えている世界がずれている。
この幻視も認知症の症状のひとつらしい。
短時間の体験であったが、ちょっと気分が悪くなりそうになった。
VRの技術のせいか、見えた世界の違和感からか・・・。

とにかく、認知症になるとこうなるんだ。ということは少しわかった。
そういえば、母が少しおかしくなってきた頃、「〇〇が見える」とか
何度か話していたことを思い出した。これは、そういうことだったの
かもしれない。

認知症の症状を家族や周囲が知っていると、本人への言葉のかけ方も
変わる。
知らなければ、「〇〇が見える」と言われたときに、
「そんなもの見えるわけない、おかしいんちゃう?」と言ってしまうだろう。
でも、知っていたら「そうなんだ。〇〇さんもいたんだ~。いたのかもしれ
ないね」と、会話も変わっていたかもしれないと、ちょっと反省。

VRが介護の世界でも活用されていることを知り、勉強になった。
高齢で元気な方はその世界をVRで経験することで、認知症にならないように
〇〇をしよう。と参考にしながら、日々の運動をがんばれるかもしれないが、
できれば、本人だけではなく家族や周囲の人こそが、この経験をしておく
と、より確かなサポートができるのではないかと思った次第。

認知症という言葉はすでに馴染みが深いつもりでいたけれど、
仮想体験をして、身が引き締まった。
加齢。油断していては、老化は避けられない。
毎日、毎時間、毎秒、人は生きながら老いていくけれど、
自分が自分として、元気にあり続けるために、仕事や運動、また小さくても
目標をもって前向きに生きることを忘れずに、やり続けたいと、改めて。

VRは楽しいツールというだけでなく、有用性の高いものであることも
学べる貴重な体験となった。

カテゴリー: Essay (Word) | もしも自分が認知症になったら?を体験する はコメントを受け付けていません