半世紀ぶり、母校のピアノ。

敬老の日に出演した、母校(小学校)での演奏会。
体育館が会場だ。
ステージの上から、会場にお集まりの傘寿をお迎えの方と、地元のお世話係の皆さんと
ともに、このピアノの音色とともにひと時を楽しむ。
ステージというのは、ちょっと上から目線で、お客様に申し訳ない感じではあるが、
まあ、よく見ていただくには、これがいい。

演奏の最初に、思わず「仰げば尊し」の触りを弾いてみる。
会場のみなさんも、私自身も、この小学校の出身であるから、卒業式を思い出す。
ああ、あれから半世紀経ったのだ・・・。
「ピアノがもう古くてね・・・」とお借りするとき、
学校の先生が言われていたが、確かに50年前に弾いたピアノかもしれない。
年季の入った音色である。
時代を越えて、多くの先生が、生徒が弾き、みんなで校歌をはじめ、各行事ごとに
歌を歌ってきたのだろう。

大きな古時計・・ではなく、大きな古ピアノ。
ピアノはじっとそこにいる。多くの人を送ってきたんだろうなあ・・・。


楽器には、人格が宿っていると思う。私にとっては、ピアノも生き物。
と思うと、なんとも愛おしく、ありがたい存在と思えてくる。
「調律はいいですよ。もったいないので」
と、普段の音のままで演奏したので、聴く人が聴けば、多少ピッチがおかし
いと思われたかもしれないが、お客様はご満足のご様子であったので、それはそれ。
使い古した音も悪くない。

またこのピアノに会いに行きたい。と思うと同時に、
実家にあるマイピアノのことも、さらに愛おしく思う。
この学校のピアノと同じぐらい、実家でのあれこれの出来事を見続けてきたのだから。

ピアノとともに生きる。改めて、弾いて歌える人生に歓びを感じ、感謝の念が湧いてくる。

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しみじみ、ありがたき1日を経て。

お世話になってきた方々へ送った26周年のお礼メール。
すでに連絡がとれなくなった方、もう会うことができない方も年々増えて
いるが、それでも多くの方が、お祝いメッセージの返信をくださる。

そのひとつひとつに、お礼を送る。久しぶりの対話だったりすることもある。
反応をいただくことで、その方ひとりひとりと自分がつながっていることを
再確認できる。ああ、この方とはいつからのおつきあいだ。ああ、この方には
こんなときに助けていただいた。ああ、この方にはこんなことを教えていただいた・・。
ああ、覚えていてもらっているなあ。ああ、応援してもらっているなあ。

派手なパーティーもいいかもしれないが、私にはこういったしみじみ、
じんわり静かな記念日がとても幸せだ。
そんな思いで、普段通りいつもどおり仕事をして1日が過ぎていく。

今日も、なんだかんだで忙しかったなあ。会議もいっぱいあったなあ。
と、日常の一日を過ごしながら、その合間に届くメッセージに心満たされた。

応援する。応援していただける。

この関係は生きる糧になる、とても重要な力だと思う。

しみじみとありがたい1日を積み重ねる。
毎日、毎日を。
そうやはり人生は、ミルフィーユ。

最近、起業された人が、私を目標にしてがんばりたい!と
メッセージを寄せてくれた。
そんな大した存在ではないのだけれど、
少しはその方の参考にもなれるように、自分の生きざまを
恥ずかしくないように、ととのえたい。

・・・・しみじみ、ありがたい1日を忘れずに。

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悔いなし26周年のスタートへ。

汗だくのステージ。敬老の日のお祝いコンサートということで、その寿ぎの気持ちを
ステージでいかに表現し、盛り上げるか。
40分のステージは大変盛り上がり、参加された皆様に大きな拍手と、有難いお言葉をいただいた。
とくに、父母と親しくしていただいた方も何名かおられ、しみじみ思い出を語ってくださり、母とのことを思い出して、思わず涙ぐまれる方もおられ・・・。
ああ、本当に、いい時間になったと安堵。
「歌も演出もいいけど、トークが素晴らしい!」「エネルギッシュですごい、どこから
パワーが湧いてくるんやとみんなで話していたところですわ」
とにかくいろんなお言葉をいただく。
そういえば、最近は、演奏だけでなくトークが喜ばれることが多い。
これまでラジオや、人前で話す経験が生きてきたのか。
演奏だけよりも、やはりトークがあるのは、聴きやすいらしい。

そんなこんなで、来年のご担当の方から
「来年も、出演いただけますか?」
となんと、一年後のオファーもいただく。
この担当の方は、これで来年の企画も決まったと安心なご様子でもあり、
私も次回の予約までいただくとは、うれしいかぎり。

このステージでは、「人生はグラン・ルー」がテーマ。その説明もしながら、
しっかりそのオリジナル曲も演奏させていただき、皆さんに楽しんでいただけた。
そう、人生は生きている限り、観覧車のように!楽しく回りましょう!
演奏中、会場の皆さんが、にこにこ、くるくる一緒に回っているような気がして、
そして父も母も一緒いそこにいるような気がして・・・。
これまでの人生の時間が走馬灯のように、ぐるぐる回っているような気もして・・。

このように、おかげさまで25周年最終日が終わった。

余韻に包まれながら、グラン・ルーは今日から26年目をはじめます。
まだまだやれることがある。と確かな実感を胸に、新たな出会いと学びを
求めて・・・。

すべての皆様に心からの感謝を。
そして、人生の先輩の皆様へ、長寿を祝して・・・。
ずっと健康で、1日も長く、人生を楽しんでいただきたい!心から願いを込めて。

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25周年ファイナルの仕事は。

明日9月17日でグラン・ルー創設26周年を数える。ということは、
今日が25周年の最終日。
それなりにいろんなことをやった、やれた1年であったかなと思う。
そして、ふるさとを意識しての活動が少し増えたかなと。
おかげさまでのグラン・ルー四半世紀も無事に終えることができそうだ。

ふりかえれば、最近はお祝いの場に出演させていただく機会が増えた。
9月に入ってからのこの半月で、企業や組織の周年行事へ、そして、本日も、
ふるさとでの傘寿のお祝いの場へ出演させていただく。
そうか「お祝いアーチスト」というのもいいなあ。と急に自分の新たな顔を思い
つき、なんだかうれしくなる。

お祝いの場に呼んでもらえるというのは、お正月に傘を回しながら、駒を回す芸人
さんたちのようでハレの日感満載で、なんだか楽しい。
以前、自分のことを「コミュニケーション・クリエイター」というだけでは足りない
気持ちで「ハッピーコミュニケーション・クリエイター」と称したこともあった。
その考えは間違っていなかった。
しあわせを運ぶ、つくるそんな人でありたい。いいかえれば「愛の元気人」。

そんなわけで、25周年最終日の本日は、敬老の日。
まさしくお祝いアーチストでいこう!

18歳のときに出たふるさと。40年余り経った今、その間もずっとそこに暮らし
生きてきた人たちのことを思うと頭が下がる。
地域に根差し、地域と共に生きてきた人たち。
両親たちもそこに生きた。
地域を支えてきた人生の先輩たちに、感謝を込めて。
そして、両親たちが仲良くしてもらってきたことにも、心からの感謝を込めて。

わが母校の体育館のステージでそんなことができる幸せ。
お祝いアーチストは、人に喜んでいただく、楽しんでいただくだけでなく、
自分自身が本当に幸せ。なんと贅沢な仕事、生き方だろう。

そんなことを思う25周年ファイナルDAYの朝。
とびっきりのステージにしよう!

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敬老の日に思いを寄せる。

もともとは、本日9月15日が敬老の日。
正直、これまで「敬老の日」について、深く考えたことがなかった。
もちろん、親がいた頃には、9月15日になると何かしらプレゼントを
したこともあったが、親が老人であることを認めたくない時期もあり、
なんとなく、あまりいいイメージをもっていなかったが、それは
若さゆえの理解不足であったかもしれない。

戦争で子どもを亡くし、意気消沈している親御さんを励ますという
意味あいもあって、戦後に兵庫県のある村で開催された老人会が
始まりであるという。
戦争がなかったら、この取り組みはなかったのかもしれない。
ちなみに当時は55歳以上が対象であったらしい。
(ここまでネット検索による情報より)

その後、このお年寄りを敬う、長寿をお祝いするという機会が
全国に広がり、今日にいたる。
市町村が主催となって、この日はその町に住む高齢者を祝う。
ただ、超高齢化社会になって、高齢者全員をお祝いすることが
難しいということで、現在、岐阜市の場合は80歳の方限定での
敬老会が開催される。
傘寿の方ということになる。
いわば、80歳の同窓会ということになる。

高齢者の数が増えてきたため、このように限定せざるを得ない
状況も納得。
でも、暑いと外出もしんどくて、また80歳になると移動手段も
難しくて、なかなか参加もしづらい。
という現実もあり、主催者の皆さんのご苦労もなかなか・・。

また、こういった地域の行事を取り仕切るのも高齢の方。
老々介護ではないが、老々行事になっているこのような行事。
地域の行事といえば、まつりもそうであるが、同じくこういった
イベントも今後のゆくえが気になる。

今回、この敬老会でコンサートを行う機会をいただいた。
本番は明日であるが、(敬老の日は今年は9月16日)
今日は準備。
地元のお世話係の皆さんが、会場づくりを行われる。
今回、集客・広報段階から少しかかわらせていただき、
とにかくお世話係をされている方には、頭が下がる。
皆さん、地元のために尽力されているボランティアである。

「マーサさんの演奏を楽しみにしています」
「今年は昨年の倍ぐらい、集まってこられます。」
と期待と安堵と・・・。
との有難い言葉を胸に、精一杯のお祝いステージを
担わせていただこうと思っている。

「おまえがやったらいいのになあ」
その昔、敬老会の参加対象年齢が絞られていなかった頃、
母が会に行っては、そんなことをこぼしていた。
やっと、実現した敬老会での演奏。

母校の体育館のステージで、ピアノで。
今日はまずリハーサル。
お世話係の皆さんとともに、明日に備える。

敬老の日。
人生の先輩、それぞれの人生に寄り添い、
一緒に楽しい、きらめきのひとときを過ごせたらと
思う。
80歳の方とは、昭和19年1月から20年4月生まれの
方を指すとのこと。
同窓会。いろんな思いが沸き上がる。

元気に生きなくちゃね。
そんな思いにあふれるフィナーレを目指して。

敬老。お年寄りを大切に。人を大切に。
敬老の日に限らず。毎日のことだ。

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みんなで創ったステージの力

もう1週間が経った。ある企業の40周年記念パーティー。半年かけて、プロジェクトチームを作り、社員さんと一緒に準備をしてきた。どきどきわくわくの本番が無事終わった。
どんなイベントも終わった瞬間から、過去の思い出になっていくが、張りつめていた分、
余韻は消えず、今なお、すべての瞬間が頭の中で繰り返される。
また本番までのすべての取り組みも走馬灯のように、頭のなかでくるくる回る・・・。

今回はステージの看板下に、巨大な寄せ書きを取り付けた。
どうやって掲示するか、会場のスタッフの皆さんにお手数をおかけした。
イメージどおり、この寄せ書きがメインビジュアルとなって、会を盛り上げてくれた。
会社の食堂で皆さんが、お昼時間に交代で書かれた記念すべき寄せ書き。

今回は、その前に立って演奏をさせていただいた。
これまで、いろんなステージに立ったけれど、スタインウェイのグランドピアノのある
豪華なステージも経験してきたが、それらのステージとはまた違い、「みんなで創った」
ステージになってなんともいえない、あたたかみを感じた。

こんな素敵な寄せ書きの前で歌うなんて、なんと光栄なこと。
みなさんは、この状態の私を見ながら、演奏やトークを聴いてくださったのだ。
拍手も歓声もうれしかった・・・。

この経験から、さらに前に進み、この連休はまた違うステージに立つ。
いろんなステージがある。コンサートだけでなく、人生そのものが。
愛と信頼でつくるステージには力がある。

※以下は、とても素敵な寄せ書きタペストリーの前での演奏の写真ですが、寄せ書きの内容には個人情報も含まれていますので、処理をさせていただいております点、ご了承いただき、想像しながら雰囲気を味わっていただけたら幸いです。

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新世界へのあくなき探求心を

カマラ・ハリスの堂々とした討論でのパフォーマンスを見て、
気持よくなった。
人は言葉以上に見た目でも心動かされる。
堂々としている存在感、笑顔、視線、声の伸び、話し方、そして
その内容。
ああ、私がアメリカ国民だったら・・と思わず思ってしまう。

このカマラ氏が大統領になったら、変わるアメリカを見たい。
感じたい、人々と話したいと思いはじめている。

コロナもあり、戦争もあり、世界に足を運ぶことは、控えて
いたこの数年。
世界を見ることを少し諦めかけていた。
しかし、このアメリカの動きで、世界が変わる。
ならば、新しい世界をこの目で見てみたい。
行かねば。という気持ちに
ほんとうに久しぶりに思えてきた。

25歳のとき、はじめて行ったNYのこと。
今も鮮明に覚えている。
なんだかわくわくして、自分のそれまで知っていた世界の
小ささに気づいたあの頃。
あれから、35年を経て、私はまだ探求心を持ち続けられるか。
狭い日本のなかだけにいては、自分はどうなる。

と、ハリス氏の演説を見ながら、自分にネジを巻いている自分。

彼女とは、同世代。
彼女ががんばるならば、自分もという人も多いのではないか。

リーダーが変わることで、国の勢いは変わる。
マイナスのことがあっても、みんなが選んだ結果であれば、
まずは良き方向に進み始めるはず。

なぜか、今、東の隣国に、夢と希望を抱き、自分に重ねようとして
いる。
一方、今自分がいる、この国のリーダー交代については・・・。。

わくわくする。ここが大切だ。
とにかく、新世界に目を向けたい。
自分でできること。自ら行動して、自ら変革できることをすること。
やっているスケールや、内容が違えど、挑戦しているカマラ氏は
私にとっては、今は希望の星のひとつ。
悔いなく、そして最後までかっこよくがんばってほしい。
そして、新しいアメリカを、 近いうちに見たい。
それを楽しみにしている。

こじんまりと生きるな。
大きく生きよう。そのために、もっと世界を見よ。
探求心を持ち続けることこそが、若さ。年齢は関係ない。

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アメージング・グレイスが流れた街へ。

9月11日。23年前の今日。(現地時間)
NYで起きたあの同時多発テロ。
もう思い出す人も少ないだろうか?
私の中では、この日がくると、世界の転換を感じ、自らの運命についても
考える。
一言では言い尽くせないさまざまな思いが沸き上がる。
そして、一緒に命拾いをした、同じ飛行機に乗り、アラスカに緊急着陸、
3日間一緒に滞在した仲間たちは、お元気だろうか?と懐かしく思い出す。

テロの1か月後、NYに向かい直した。
あの瓦礫、あのなんともいえない粉塵のにおい。
今起こっているウクライナやガザでの戦地とは比べものにならないかも
しれないが、私が実際に見聞した、テロの傷跡・・・。
今もしっかり頭に刻みこまれている。

一方、町のあちこちで、アメージンググレイスの曲が流れるのを聞いた。
神への祈り。絶対なるものへの崇拝。
アメリカがこの曲でひとつにまとまっているような感じを受けた。

あれから23年。ほんとうに世界は分断されてしまった。
そして世界のリーダーも大きく変わってしまった。

そんななか、わたしにとっては新たな光と希望。

カマラ・ハリスがリーダーになることへの期待。
それにより、世界はさらに変わる。と信じる。

公開討論会での姿を見て、私の頭でアメージンググレイスが流れた。

ひとつになろう。
多様性を認めながら、助け合って生きよう。

テロという言葉が世の中から消えるように。

と、心から祈る911。
あの瓦礫を、あの混沌を、そしてあの歌を忘れずに・・・。
ニューヨークに心寄せる。
世界の、皆の憧れで い続けてほしい。

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改めて、敬老を考える。

以前は9月15日が敬老の日であった。改めて、記念日の日にちが曜日で
決められるようになったのは、とても残念。
連休を増やすための施策であったと思うが、それ以上に、記念日には由来や
その日である意味があるため、日にちが変わると、祝意も変化してしまう、
とは思っている。

ということで、今年の敬老の日は9月16日である。
その日に、地元の体育館で、満80歳の方を迎えてのお祝いセレモニー。
そこでコンサートをさせていただく。
ここのところ、お祝いコンサートの機会は増えている。
そのことはとてもうれしい。
いろんなお祝いの場。ちょっとハレの日。
嬉しいときに、大切なときに、音楽でその場を盛り上げることが
できるのはとても誇らしい気持である。

今回のお客様は80歳の方たち。どんな方たちだろう?
戦後すぐに生まれた方たち。ギリギリ戦争を知らない、
でも、その傷跡は知っている・・・。
復興もはるか遠い・・・そんな混迷の時代に生まれ、育ってきた
方たち。
お元気な方は、まだまだ自立した生活をされている。
健康の差は、人それぞれであるため、一言では括れないけれど、
間違いなく、自分が子どもの頃に知っている80歳と、今の80歳は
全く異なる。
この日だからお会いできる人がいるため、心を込めてしっかり
務めを果たそう。
と思う反面、この日に会えない人もたくさんいる。
行きたくても行けない人もいる。

また、とくに敬老という姿勢は、この日に限らず、いつでも心がけて
おきたい。
敬老とは、人生の先を見せていただくことでもあると思う。
他人事ではなく、いずれ自分ごと。
どんな風に年を重ねることが幸せであるかを考える機会でもある。
そして、人生を長くがんばって生き続けてきたすべての方が
尊い。
諦めず、苦労をしながらも 生き続けてこられたこと自体が尊敬である。

と、敬老の日イベントが迫ってきて、そんなことを考える。
超高齢化社会、いつまで、このようなイベントが開催されるのかも
しれないが、やる以上は喜んでいただけるように。

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じんわり余韻・・・。

なんとか、今年でもっともハードな1週間を超えることができた。
連日の出張を伴うため、もし台風で新幹線が止まってしまったら・・という
不安も含め、自身の体調も含め、そして仕事の内容についても、ひとつひとつ
毎日毎日を重ねていくことに留意しながら指折り毎日を過ごした。

4日出張が続くからといって、1日にかけるエネルギーを25%づつに減らしては
いけない。毎日を100%以上で回さねばならない。
エネルギーを自身の中に蓄積するスピードと、放出される速さ。このバランスは
なかなかむつかしいが、自分でもいつ蓄積しているのかわからないが、
おかげさまで、連日それぞれ元気にフルパワーで取り組むことができ、
すべての工程を無事クリアすることができた。

やっている最中は疲れない。無我夢中である。
ひとたび電車に乗ると、すぐ睡魔に襲われる。
この瞬間に充電しているのだろう。

そして、ひとつひとつの仕事に対して、お礼や感謝のメッセージをいただくことで
疲れはふっとび、歓びに変わる。
ああ、やって良かったという幸福な気持ちになる。

人は好きなことをやっていると、疲れないのではないか。
そういう意味でも、自分の仕事は、しあわせだと思う。
もちろん、そのプロセスで小さな苦労はあっても、必ずゴールに向かうと思えば
パワーがみなぎってくるもの。知恵も沸き、工夫もできる。

そして、全力出し切ったあとは、少し一服する。
そんなときには、好きないつものこれ(写真)をいただき、じんわり余韻を味わう。

さあ、今日からまた元気に新たな山を登り始めるとしよう!

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