寺コンでふれあいの時間を。

本日はお寺でのコンサート。
永代経法要という、永代供養のお参りで檀家さんたちが集まられる。
春と秋の2回、開催されているそうだ。
亡き人を想い出し、その人の存在に感謝するひととき。
その法要のあとに行うコンサートということで、他の会場での演奏会と
少し違う気持ちで準備をする。

どんな方が、どんな気持ちでお寺に来られているか?
お参りのあとの音楽とは?
演奏する曲は?
トークの内容は?
衣装はどうする?

などなど、改めて先日下見に伺った会場のことを思いうかべながら
今日の仕上がりをイメージする。

選曲。
亡き人をしのぶ・・・にふさわしい曲。
思い起こせば、自分のオリジナル曲には大切な人を
テーマにした曲が何曲もある。
もう会えない人のことを思って 創った曲たち。
台湾の、京都の、新潟の、神戸の・・・そして両親の・・・・。
思えば、こんなにたくさん哀悼の曲を創っていたのだ。

今日はそんな目線から、お参りに来られる皆様の心に
寄り添う演奏をしたいと思う。

マーサのお寺での「ふれあいコンサート」。
心に棲む、大切な人との改めての再会、感謝、交流、愛の時間。

昨日、リハーサルをしていたら、涙があふれた。
会いたい人に、しばし会える時間になったら・・・。

貴重な機会をいただいたことに、心より感謝を込めて。

マーサのふれあいコンサート 詳細はこちら

https://www.mahsa.jp/%e3%80%809%e6%9c%8829%e6%97%a5%e5%88%9d%e3%81%ae%e5%af%ba%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%80%82%e7%a7%8b%e3%81%ae%e6%b3%95%e8%a6%81%e5%be%8c%e3%81%ab%e5%87%ba%e6%bc%94%e6%b1%ba%e5%ae%9a%e3%80%82/



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顔で勝負!

以前、ある選挙に立候補された方のポスターが横顔で、驚いた。
これでは、勝てない・・・。
お客様(有権者)と目を合わせないで、どうするんだろう?
顔は正面、笑顔が基本。
その方は、それが理由かどうかわからないが、いい結果には
ならなかった。

顔は大切だ。
メディアに露出するいろんな方、政治家、ジャーナリスト、歌手・・・。
人に何かを伝える仕事をする人は、顔、顔つきが大切。
ここでほとんどの印象は決まる。

パッと見て、印象に残る顔は、
笑顔が素敵な顔、人相の良い顔。
パッと見て、この人なら。と思う顔。
こういう顔に生まれついたら、運がいい。
でも、顔は造形より、表情なので、努力でカバーできる。

良い印象を残さないのは、怖い顔、もう見たくない顔、悪人の顔。
他の方にどうかはわからないが、私にとっての基準はそうだ。
今から思っても、こいつは怪しいと思った顔つきの人は、やっぱり悪人であった。
パッと見ればわかる。言葉には騙されないぞ。という感じだ。

美男美女ではなくても、愛すべき表情、人間らしさ、誠実さが
伝わってくるのが良い。
思わず人を微笑ませてしまう力。
政治家の人たちにも、そういう力は必要。
但し、腹黒いのに見た目だけ満面の笑みを演じるのは
すぐわかるのでご注意。

今回の2つの組織のリーダーが決まった。
パッと見て、まずまずいい人に見える。
よく見たら、じんわりと良さが伝わってくる。
その違いはあるけれど、まずまず、二度と見たくない顔ではない
点は良かった。

政治家は顔。顔つき。
いいも悪いも、強烈な印象を残す人が有名になる。

もちろん顔だけではない。
中身が大切である。

日本が変わるように。とんでもない方向にいかないように。
世界から信頼される国になれるように。

まずは、北陸や災害で困っておられる方に最優先で支援を
するような、そんな国であるように。
リーダーは、なることに意義があるのではない。
しっかり、しっかり世のための仕事をしてほしい。
もちろん、私も小さいながらも世の役に立つ仕事をしたいと
思っている。

顔は、心の窓。
心を磨けば、いい笑顔になれるかな。

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ライバルか仲間か?を越えて。

ITの進化は目覚ましい。と、日々思ってはいたが、最近はとくにそれを実感する機会が
多い。ときに戸惑いも・・。
ある新人研修を兼ねてのプロジェクトミーティング。
役割分担をして原稿作成を依頼する。
「できました~。」
「早いね。」
「はい、生成AIにさくさくって手伝ってもらいました~」
という会話。

さらに、ちょっと時間がたりなくて、しばらく誰も手を付けずにそのままになって
いた仕事。
あるきっかけでメンバーのひとりが、すぐその懸案になっていた件の原稿を送ってくる。
「えらい、早いですね。」
「ちょっと生成AIに書かせてみました。普段から◌◌に関することは
学習させているので、それなりにできてますね。」
確かに、本当に取材して書いた文章のように見える。完成度は予想外に高い。
「これなら、これからもそんなに手間とらずできますね」
忙しいからできない。は、もう言い訳にしかならない。

一方、お客さんとの面談で、パソコンを開けて議事録をとりながら
人の話を聞くというケース。
メモをとることがメインになってしまい、目を見て会話できず、しっかりお客さんに
言葉を返すことができず、それでいいのか?営業になるのか?
そこで、「レコーダー買いました。これがあれば、メモもあとの書き起こしもいらない
です」。という話。見せられたのはカード式の薄いレコーダー。
これなら、目立たずメモがとれる。録音した音声がそのままテキストに変換される。
実際、会議の議事録は大変面倒。
最近はこの手のツールを使う企業、役所も増えつつある。

進化するITツールを使って、DXを進める。
ということが、本当に日常の流れになりつつある。
時代についていけないと言っている場合ではない。
とくに、クリエイティブな仕事をしている人間は、パソコンには負けない、負ける
ことはないと過信していたかもしれないが、
文章もイラストも、それなりに作れてしまう。
コピーライターの仕事は?デザイナーの仕事は?作曲家の仕事はどうなる?

便利であるけれど、仕事をとられてしまう可能性もある。かもしれない。・
困った。
で終わらずに、その現状を踏まえて、さらに自分しかできないことを
生み出す力が必要であり、そこに無限の可能性を感じる。

自分しかできないこと、人間だからこそできること。
考えさせられることが、増えている。

人間は、どこへ向かっていくのだろう。大いなる疑問でもある。

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まもなく初「寺コン」。

やっと涼しくなった。お彼岸は確かに季節の変わり目であった。
これから、どんどん過ごしやすくなることを期待したい。
怒涛の9月も、なんとか最終ラウンドに。
今月は5回のステージ出演機会をいただいた。
そして、29日が最終となる。

なんと、お寺の本堂でのコンサート、名付けて「寺コン」。
よくお声がけをいただいたと感謝している。
出会いは、昨年10月の岐阜でのコンサートでのご縁から。
両親の旅立ちにお経をあげてくださったお寺さんからのご縁でも
ある。
永代経とは浄土真宗でいうところの永代供養だそう。

年に二度、この永代経の法要があるそうで、秋の法要にはお経のあと
に様々な取り組みをされる。おまいりにこられる檀家さんに喜んで
いただけたらとの試みで毎年、お寺さんが工夫されて様々な企画
を実施。昨年は終活に関するイベントであったとのこと。
音楽イベントは初の試みとのこと、私も宗教関連でのイベントでの
演奏は何度か経験があるが、お寺を会場にしたコンサートは初であり、
この機会の意味も含め、どんな内容にしようかと考える。

永代供養とは、亡くなった家族や大切な人への祈りの時間。
その方への思い出を辿る時間、心の対話のひとときでもあるだろう。
そこに寄り添い、心があたたかくなる、そんな機会にしたい。

ということもあり、「秋のふれあいコンサート」。
会えないと思っているあの人に、また会える。
祈りの時間と同じように、音楽もそんな心の交流、旅をさせてくれる。

今回の企画、ありがたいことに、檀家さん以外も歓迎とのこと。
ぜひよろしければ、お寺でのコンサート、お出かけいただけたら・・。

会場は新幹線岐阜羽島駅に近い、名鉄竹鼻線 竹鼻駅のすぐ前 円覚寺にて。
14時~15時。参加無料。予約不要。
主催いただくお寺さんに感謝して、素敵な秋の時間にしたい。
会場の詳細はこちら。
円覚寺 | 羽島市観光協会 (hashimakanko.jp)

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「いざ」は、「今」。

自分の命が終わったあとのこと。
周囲に迷惑をかけないために、事前に考え、用意しておく、伝えておくことは
大切。
いわゆる、終活のことだ。

最近、人に自分のしまい方について尋ねられ、まだまだ遠いことだと
思っていたが、今から自分事として考えておかねば、伝えておかねばと思った
次第。

散骨がいいと思っている。有名人でもないし、子孫もなく、決まった場所に
いなくていい。
誰かが自分のことで、ずっと縛られたり、制約を受けることは避けたい。
思い出したい方がおられたら、どこにいても思い出せる・・・ということで
十分。それが理想。

土に還る、海に還る。
イメージは後者。
できたら、好きだった町の川に、少しづつ、気が向いたときに、可能なときに
撒いてもらえたら、と勝手にイメージしているが、まあ、どうなることか。

そんなことよりも、どんな形になっても、
良い思い出がたくさんあれば、人はいつも、思い出してくれる。
そう信じて、先のありようばかり、考えることはしない。

いざは、今。
今を、今日をしっかり生きる。
いい思い出の瞬間をたくさん。

今日が最後かも、「いざ」は将来ではなく、今日であるかも。
そんな気持ちで、今日も1日、良かったといえる日にしたい。

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気持ち良い国になることを。

ノーサイド。この言葉を最近、再び聞く。
ラグビーはしないけれども、試合終了時に用いられる言葉らしい。
ある情報によると、敵味方関係なく、試合が終われば和合、融合するということらしい。
右も左もない。という意味にも理解できるが、どちらに偏ることなく、目標に向かって
考えが違っていても、お互い一緒にがんばろうという意味にも理解できる。
これしかない。ではない。お互い正々堂々とやろう。という意味かな・・といろいろ
考える。
とにかく嘘偽りがなく、誠実な、強いリーダーが組織(ときに国)を引っ張る。みんなを
まとめあげていくそんなことを期待したい。
裏も表もない。これもノーサイドのうち。

保身にまみれた人は言語道断。
しっかり議論して、より良き方向に、組織がより強くなるように、
期待したい。

気持よい国。そんな国はあるのか?
だんだんおかしくなっている世界ではあるが、
日本には、ぜひ世界を代表する、気持ちよい国になってほしい。

ノーサイド。これがどこまで響き、実践されるのか。
しっかり見守りたい。

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柳ケ瀬での出会いからうまれた1枚。

激しかった雨がやみ、蒸し暑い三連休の中日の午後。展覧会の最終日に何とか駆け込み、間に合った。
岐阜新聞本社ロビーコンサートでの演奏風景を描いていただいた作品が
柳ケ瀬のギャラリーで展示されていたのだ。
写真の作品がそれである。タイトルは「奏(かなで)」。素敵な名前。なんだか、見ているだけで音色が聴こえてきそうな、さらに場の一体感、調和をも感じる1枚。

作家さんは、この柳ケ瀬商店街にある八百屋さんの店主、村瀬さん。実はまだ絵を習い始めて2年目とのことであるが、視点といい緻密な描写といい、配色といい、お見事な出来栄え。私の演奏を見ながら、どんな構図でどう描こうかと考え、制作に着手。すでに半年ほど前に出来上がっており、しばらくお店に飾ってあったが、今回はお仲間たちとの展覧会に出展ということで、外でのお披露目は初。

自分がモデルになった作品。正面からの顔(肖像画というほどでもない)は、20代の時、初のパリ訪問時にモンマルトルの広場で描いていただいたことがあったが、演奏風景は初めて。
立ってピアノを弾いて歌うという独特のスタイルをうまく表現いただいている。その時のマイクの配置で少し猫背気味なのも味わい。
絵の先生からは、「若いモデルさんですね~」と言われたそうであるが、
絵画制作とは、瞬間のいのちを感じ、拾い上げて表現する仕事。とすれば、とてもうれしいお言葉。
演奏中の瞬間とは、若々しい、パワフルなものであればよいといつも思っている。でも、自分ではそれがどう見えているかはわからない。
作品になって、はじめて見える化される。

この作品は、今後、自分がお預かりすることになる。
自分のコミュニケーションツールとして、自分が大切に活用させていただく。

ふるさとでの演奏、親の旅立ち後の出会いから生まれた1枚。
人生のお宝がまたひとつ。

絵のモデルになれるとは、光栄なこと。
八百屋の画家さんに、心から感謝しながら、秋のおとずれを待つ。



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いかなる犯罪もない世の中であれ。

死ぬまで犯罪には縁のない人生を送りたいと思っている。
人に傷つけられたり、そのことによって命の危険にさらされる
ことは、最も避けたいこと。
そうはならないように、と心がけていても、巻き込まれることがある
のが犯罪というもの。防ぎようのないこともある。

世の中にいろんな人が生きている以上、いろんな事情がある以上、
こちらから見たらありえないことでも、違う価値観で生きている人から
見たら、あるいは追い詰められている人からすれば、人のことなど
関係なく、自分が生きていくためには、何でもしてしまう。
自分の本能の赴くままに…やってはいけないことを行動してしまう。
という人もいる。

大地震のあと、避難所暮らしをしている間に、空き巣にやられたという
声を聞いて、驚いたことがある。
人が困っているときに、そんなことをする人がいるのか?と。
でも、いるようだ。
その人が生きていくためであれば、他人の人生はどうでもよい?

犯罪とは無縁に生きていきたいけれど、いろんな人がいるから、
やはり常に備えておかないといけない。
世の中は、人は信用できないということもある。
とは、思いたくもないのだけれど。
そういう厳しさも、自らが生きていくためには必要だ。

防犯ビジネスが活況。というのは決してよろしくないけれど、
改めてそれにまつわるサービスを調べると、多種多様で、驚く。

平和なときは気が付かず、関心もないけれど、
ひとたび被害にあうと、ニアミスすると、
真剣に情報を探すようになる。
天災と人災は、紙一重だ。
ただ、天災はまだあきらめがつくけれど、人災は・・・・。
人間不信になることもある。悲しい限り。

加害者には絶対ならない。
そして、被害者にもなりたくない。
人に迷惑をかけることだけはやめよう。

自分の身を守るのは自分。
昔の社会は良かった。
と改めて思う、今日この頃。

心豊かに、まっすぐに。
犯罪とは無関係な世の中でありたい、あってほしい。
そうなれるように・・。
生きづらい世の中になっているなあ。これ、実感。

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あたたかい人たち、心のふるさと。

新潟へ通う機会は減ったが、ひとたび訪れると、久しぶりに帰省したように
懐かしい店、人に会わなくちゃと限られた時間も、バッグも
お構いなしに、ついつい詰め込んでしまう。

仕事のミーティングの合間に、会わなくちゃいけない人に会う。
行かなくちゃいけない店に行く。
「お元気ですか?どうですか?どうしてみえるかなと思って寄りました」
以前、自分がやっていたラジオ番組に出ていただいたカフェのオーナー。
来店したことを喜んでくださって、忙しいなか店に出てきてくださった。
時間を経ても、つながっているということがいい。

音楽仲間とも久しぶりに会う。
メールでのやりとりや、東京での演奏会に出かけたり、つながりは
ずっとあるけれど、やはり久しぶりに話すのが良い。
共通する価値観をもつ人との時間は、とてもとても有意義だ。

久しぶりに会った企業の社長。
本当に久しぶりだったので、仕事の話以前に、とりとめのない近況報告。
あっという間に時間が経つ。
「あ、こんな時間。仕事の話しなきゃいけないのに、すみません」
昼前には、「定食屋に行きましょうか。」炊き立ての新米を出してくれる店
に案内される。その人なりの、最高のおもてなしだ。
普段と少し違う時間が、ゆっくりと流れる。

毎週のように東京から新潟に通っていたときは、野菜はいつも新潟のお店で
買って帰った。東京に住んでいるのに、豊かな食生活をおくっていた。

パソコンと野菜が入ったスーツケースは重かった。
地下鉄神楽坂の階段を必死に持ってあがった日々が蘇る。
新潟産の野菜も果物にも、再会できてうれしくなる。
丸なす、十全なす、食用菊のかきのもと・・・。

新潟はいつの間にか、心のふるさとになっていた。
あたたかい人たち。純朴な人たち。美味しいもの。

土産物売り場に行けば、いろんな企業さんの顔が浮かぶ。
ああ、がんばっておられるなあ。こんな商品も出されたのだ・・・。
20年前、新潟の新参者であったのが、今は心のふるさとと
自信をもっていえるほどに、やっぱり新潟LOVE。

新潟と他の町をつなごう。つなぎたい。
少し遠くなった今、新潟とのかかわりを持ち続けるために、
そんな妄想をしはじめている。

心のふるさとは、これからが、美味しい季節。お米の注文が
殺到していると、魚沼の仲間からうれしい悲鳴のメールも
届く。
がんばって!

やわらかい笑顔がたくさん浮かぶ。

実りの秋を、心豊かな時間を。新潟は、
妹も弟もいっぱいいる、わすれられない
わが心のふるさと。

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「もう、慣れました」

新潟で十数年前から仕事を一緒にさせていただいた方と
久しぶりに会う。
今はその当時と違った仕事をされている。
地元のまちづくりに尽力されている。
自分が歩んできた道をふりかえり、経験を活かして
最後は地元のお役に立つ。これがいいのだそうだ。

その方は病で寝たきりの奥様のお世話をされている。
周囲の協力を得ながら、
もう何年も介護をしながら、仕事も続けておられる。
最初の頃は、夜中に何度も起きて対応しなければならず
睡眠不足になり、仕事時間に眠くなることもあったそう。
そんなとき、その状況を知っている職場の人たちが
そっと机の前に衝立をおいてくれたことが、うれしかった
とのこと。
周囲の素晴らしい配慮、思いやり。

とにかく夫婦一緒にいる。そばにいる。
娘と一緒に助け合って、奥様のお世話をする。
時に涙を浮かべながら、奥様の元気だったころから
現在までの写真を見せてくださることに心動かされる。

ヘルパーさんが泊まりに来てくれる日ができて、
熟睡ができるようになった。
みなさんのおかげ。

泊まりがないときは、ご自身が夜中に起きてお世話
される。
「夜中に起きて、大変ですね」
「最初はそうだったけれど、もう慣れました。
慣れたら、どうってことないですね。」

その言葉もじんとしみた。
そう、実家に毎日通う生活を続けていた3年前のときのことを
思い出す。自分ができることを、やっていた。
しんどいよりも、そういうもんだとやっていた。
慣れたら、できるのだ。

そのしんどさよりも、奥様への愛。

その方の思いが、奥様に伝わって、一日でも長く一緒に
暮らせるように、心から応援したいと思った。

慣れればできる。なんてことはない。
大切なことは、
今できることを、すること。

慣れることで、人はさらに強くなるのかもしれない。

夫婦愛、家族愛、職場愛・・・。

大好きな人のために、大好きな人とともに、生きられる今を
大切にしなければと改めて。

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