同次元では解決しないこと

親がおかげさまでとても元気で、今だに電話でも、顔を見ても親子喧嘩をする。まあ、一種のスポーツかレクリエーションという感覚かもしれないが。昔は親という圧力になかなか勝つことができなかったが、今はこちらは理屈で返すのと、鍛えられたおかげで口で負かしてしまう・・こともあるが後味は良くない。激しい言葉と言葉は次第にエスカレートして、その過程は決して爽快ではない。そしてあとで、大いに反省をする。ああ言い返したらダメなんだ。もう年寄りなんだからいじめたたらダメだ・・と。「ああ、そうなんだ~へえ~。それで~。そうだね。でね・・・」とやんわり、やさしく対応すれば、ケンカにならず素直に聞いてもらえるということに気づく。と、親子喧嘩はまあいい、根っこがつながっているから根本的にはなんとか着地できるはず。しかし、国と国はそうはいかない。これは自国を守るための外交である。共存共栄であるが、まずは自国を防衛し、発展させるためにいかに他国とつきあうかということだ。だから、よっぽど考えてコミュニケーションしないと解決なんてしない。目には目を、歯には歯を。では仲良くはできない。
自分が理解できない難しい相手であればあるほど、同じ次元でやりあっても何も通じないはずだ。今回の一連の事件のことについて「もしも」と考えてみる。もしネットがなかったら・・よかった。そして、誰も騒がなかったら、自分が自分が~と言わなかったら、どうなっていただろうか?同じ土俵に乗っていいのは、同じベースがある、同じ条件で向かい合える相手の場合。そうでない場合は、同じではないステージで粛々と・・・ということも必要なはずだ。また表層的なパフォーマンスは感動を生まない。
ネット社会はいろんなものを同質化し、人間の感覚を狂わす事もある。

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