拡散する社会に、あえて目を向けず

どんな情報も画像も動画も、瞬間にして世界に向け、広く発信できる時代。何の予告もなく、一方的に匿名性をもって。。顔の見えない無責任性もつきまとう。
情報には蓄積されるものと、拡散されるものがあるが、最近はネット社会により、拡散が容易だ。その善悪を問わず、情報の質を問わず、クリックひとつで拡散できてしまう。
恐ろしいとしか言いようがない。と思っている。
ニュースといわれるものも、もともと存在していたマスメディアだけでなく、それらは今やニュース源としてミドルメディア、パーソナルメディアと言われるものに転用され、人々が目にするニュースは実は記者がきちんと取材したものではなく、あたかも・・・というものが多くなっており、またネット上で見つけた情報を記事にするマスコミもあり、ホンモノのネタをみつけるのも難しい時代だ。
そしてその結果、どこへ行っても同じような記事がころがっている。不気味な感じさえしてしまう。
テロに関するニュースは、もう見ないと決めた。その動画も、画像ももう見なくていいではないか。チャンネルを変えたり、ページをめくったり、閉じたり、クリックしたり・・。
見ない、聞かない、読まない方が冷静に考えられるときもある。自分の冷静な思考が妨げられないように。心の中がざわざわする今日、情報にのって自分自身が拡散していかないように、しっかり地に足を付けている必要がある。改めて、拡散社会は情報の生ごみ箱のようだ。恐ろしいとも思える。

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