なぜ、広島が、長崎が原爆投下の対象になってしまったのか。
軍港や造船所などがあったことと、都市の規模が関係あるとも
言われているが・・。
広島の投下の影響、被害が、もし現代のように、ネット社会ですぐさま
アメリカに情報が入っていたら、2発目の長崎はなかったかも
しれない。
歴史には、さまざまな憶測がつきものであるが、起きてしまった
現実を塗り替えることができないことが、本当に本当に悔しい。
この時期になると、長崎の原爆で自ら被ばくしながらも、住民の治療に専念し、
自らの病と闘いながら、平和への祈りを捧げた永井隆博士のことが
頭に浮かぶ。もちろんお会いしたことはない。しかも恥ずかしいことに
3年程前に知ったばかりだ・・。
この方は、かの有名な「長崎の鐘」の歌のモデルになっている方だ。
今、氏が病に伏されてから、書かれた著作を少しづつ読み進めている。
そのなかに、「乙女峠」なる小説がある。
これは、明治の初頭、長崎の浦上より、全国各地に流刑された
隠れキリシタンのうち、津和野へ流された人たちの悲しい物語である。
実は、昨年初めて山口のザビエル教会に出向いた折、地元の人に
導かれ、観光地である津和野へ・・と立ち寄ったが、まさしく
そこは、この乙女峠が存在した場所そのものであり。長崎から
連行され、殉教した人たちの傷跡が今も残っている場所で
そこに足を踏み入れたとき、言葉をなくすほどのショックを受けた。
永井氏のその小説は、あの現場をまざまざと思いださせた。
永井氏は、津和野に出向いて取材したかのような詳細な
隠れキリシタンたちの悲惨な状況を描写している。
なんだか、この悲劇は原爆にも似ている・・。ともしかしたら
永井氏は感じていたのではないか。
被爆者と隠れキリシタンは、何か通じるものがある。
罪がないのに、権力や権力が生み出した敵から責苦を受けたと言う点だ。
原爆と弾圧。この両方の苦しみを、長崎の人だけが知っている。
そのダブルの苦悩を乗り越え、強く生きてきた彼ら・・の
根底には、やはり強い信仰心があったとしか言いようがないと考える。
永井氏があの小さな如己堂に横たわり、書き続けたこれらの文書を
読みながら、長崎の歴史を想像し、そして学ぶのである。
もうすぐ長崎に、広島に続く二発目の原爆が投下された日が
やってくる。