悲しいかなアメリカのニュースで、メキシコとの国境地帯で難民の親子が
引き離され、隔離された幼い子供たちが、鉄柵の中で「DADDY DADDY」、
「おばちゃんの家に連れていって」などと泣き叫ぶ光景に触れ、
こんなことが現実にあるのかと目を疑う。
今改めて国とは、国境とは何か、自国第一主義とか何かについて、
考えさせられる。
子どもを泣かせてまで、罪のない親子を引き裂いてまで、
誰かの幸せがあるのか?と思ってしまう。
先日まで受講したジャーナリズムの講座では、ずっと世界との関係づくりについて
考えていた。
世の中がネット社会となって、いつでも誰でも自由に情報を受発信でき、交流できる時代
になった。
そうなると既成概念やこうであるとされてきた枠組、そしてもしかしたら、従来の国
という枠自体にこだわらず、もっと大きな考え方で行動することの方が時代にあっている
と思えてくる。
もちろん、たとえば貿易のように、現実のモノを動かそうとすると、
そこには物流機能が必要で国をまたぐ場合、現実の国と国の話になるため、
関税の問題も避けられず、どうぞご自由にというわけにはいかないが、
発想や思想、文化、文字、言葉、音楽といった精神的なものについては、
自由に発信できそうだ。もちろんこれも著作権など関わる場合は、
別であるが、商売でなく、人と人の交流、情報の受発信と言う場合には
もっと新しい価値観でやりとりしたいものだ。
時代はNATIONALISMから、INTERNATIONALISMへ、
GLOBALISMに、そして 今やTRANSNATIONALTISM に移った。
このトランスナショナルなモノの見方では、国同士という単位ではなく、
それを越え 人々が行きかう。国を越えて自由に発想し、言動する。
同じ国籍でなくても、相手のことが理解できる、痛みがわかる、人として
内外の人と交流できる、関係をつくることができる、「世界人」の時代。
今、世の中のさまざまな地域で、これとはま反対のナショナリズムが支持を
集めている部分もあるのは残念でならないが、
情報発信する仕事をする人たちは、せめてこの視座をもち、自立した生き方を
していかねばならない。
目を大きく見開き、耳を澄ましていこう。
世界、地球にとって本当に良いことを探すには、
トランスナショナルであることを忘れずに。