見える世界が違うからこそ。

ある居酒屋での話。
手羽先やターザン焼きなる鶏料理を酒の肴に、久しぶりの再会を喜び、話がすすむ。
その方とは、仕事仲間というよりは、お世話になってきた人たちが共通しているという点で
仲良くしていただいている。そしていつも応援していただいているし、私も応援している。
あの東日本大震災で被災され、本当にご苦労されたが、持ち前のガッツとリーダーシップで
見事会社を立て直され、今やメディアにも多く取り上げられ、業績も上々という素晴らしい
活躍ぶり。そんな中、名古屋に珍しく出張ということでお会いする。
いろんな話がどんどん出てくる。
そして私も何年ぶりの再会ということも忘れて、話していた。

「今の日本は、情報化やコミュニケーションという点でおかしいと思うことが
多くて心配ですわ」
などの発言を言うと、
「そんなことないさ、ここにいる店の人も、ここに飲みに来ているビジネスマンもみんな
がんばってるさー、心配なことやおかしなことなんかないさ」
という答え。

また
「私はまだまだ自分のやるべきことができていないと思うんですよね。もっと自分を
追い込まなきゃと思っている」
と言えば
「そんなそんな、自分を追い込んではいかん。何かあったん?」
という具合に、発する言葉の意味の捉え方が少し微妙に異なるようで、何かが少し
ずれているような?そんな具合で会話がすすむ。
そんななか、ああそうか社会をどの視点でどう見ているかによって、世の中の見え方が
違ってくるのだということに改めて気づかされる。

私自身、世の中への危機意識や問題提起、あるいは自分を追い込むということは
悲観的でも否定的でもなく、むしろ良くしたい、よりよく生きたいという強い
気持ちから・・であるが、言葉尻だけをとらえると、人によってはそうでは
ないようだ。

社会をどの目から見るか。現実の現場から見る、俯瞰してみる、世界から
見る・・・。それにより見え方は違う。
でも、目指す方向、前向きに生きて行こうというスタンスは共通している。
だから、ずれている言葉を発しても理解しようとするし、違いも認めようとする。
「何かずれているようですよね?」
と、ストレートに言えるのがありがたい。

時には、世の中を違う見方で生きている人と会話するのは勉強になる。
それこそ、異なるものから得るものは多い。
違う角度で、視野で生きる人とのコミュニケーションはお互いに刺激になる。
2時間半も話し続けただろうか。
まさに無口ではなく、六口の人間が二人。十二の口が開いた開いた、という感じ。

ストレートに話しまくったせいか、もしかしたら親友ってこんな感じ?と
思った。
職場も違い、背景も違うが、とことん話せる遠慮が要らないという関係。
異なる人とのつきあいをこれからも、大切にしたい。

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